鬼哭の契
想いは風に揺れて………
湿った石牢に、冷たい鎖の音が響く。
千佳は片腕を鎖に繋がれ、破かれたワンピースの裾が無惨に垂れ下がっていた。
人の形をした妖猫の男たちがニヤつき、爪を立てるように白い肌へと伸ばしたその瞬間――
「――――――ッ」
轟く気配と共に空気が裂ける。
大河の刀が一閃、石牢の闇を切り裂いた。
首が飛び、鮮血が壁を赤く染める。
悲鳴を上げる暇もなく、男たちの体は石床に崩れ落ちた。
血煙の中に現れた大河の姿は、鬼の総領そのもの。
無言で、ただ殺気と怒りだけを纏い歩み寄る。
「何故…何故こんなただの人の子に……貴き鬼の血筋を穢すなど!」
「これは…誤解だ! 狗の姫が全て――」
必死に口にした言い訳。命乞い。
だが、大河の眼は揺らがない。
「…………黙れ」
刃が唸り、狗の姫の首が飛んだ。
続いて妖猫の長が声を上げるより早く、その胴が斜めに裂かれる。
血の雨が舞い、石牢の空気は死の静寂に支配された。
大河は振り返り、鎖に繋がれた千佳のもとへ膝をついた。
「……千佳」
その声に、涙を浮かべながら千佳が首を振る。
ぼろぼろの衣を隠すように抱きしめると、大河は一息で鎖を断ち切った。
軽すぎる体。
その温もりを抱き上げると、胸の奥で嗚咽がせり上がる。
「……すまなかった」
地上へ。光のある場所へ。
血に濡れた石牢を背に、大河はただ千佳を抱き締めたまま、強く歩みを進め
夜の風が、血と煙の匂いを攫っていく。
千佳は大河の腕に抱き上げられたまま、冷えた頬に風を受けていた。
石牢から解き放たれたはずの胸の奥は、なお重く沈んでいる。
震える唇が、ようやく言葉を紡いだ。
「……どうして」
大河は歩みを止める。
腕に抱いた少女の声は、か細く、けれど深く胸を抉った。
「どうして……私はいつも、あなたの側に……きれいなままで居られないの?」
その声は過去と今を重ねた魂の叫びーーーー
千年前も、そして現在も。
己の意思とは無関係に、辱めと血に塗れてしまう運命。
涙に濡れた瞳が、まっすぐに大河を見上げる。
自分を責めながら、同時に「それでも傍にいたい」と叫ぶように。
大河はただ、唇を強く噛みしめる。
腕の中の少女をさらに抱き寄せ、誰にも奪わせぬと誓うかのように。
「……千佳」
声が掠れる。
だが、言葉は続かない。
この魂に刻まれた宿命を拭える言葉を、今の大河はまだ持っていなかった。
ただ一つ、胸の奥で烈しく燃え立つ。
――もう二度と、この手を離さない。
――もう二度と、奪わせない。
夜空を仰ぐ大河の眼に、血の赤ではなく誓いの炎が灯っていた。
夜の風が琵琶湖の水面を渡り、鬼の里の庭を静かに揺らしていた。
大河の屋敷。
月明かりに照らされた石畳の上に、陽明はひとり立っていた。
狗の姫の隠れ家から一足先に大河と千佳と共に撤退したあと…
先ほど耳にしたあの言葉が、今も胸の奥で反響している。
どうして……どうして私はいつも、あなたの側にきれいなままで居られないの?
――あの声は、刃だった。
優しくもあり、痛ましくもあり。
そして、己自身に突きつけられた問いのようで。
(……母上。あなたもそうだったのでしょうね。)
かつて葛の葉が、自らを犠牲にしてまで夫と息子をを護ろうとした姿。
そして、残された自分を「陽の光」と呼びながら消えていった母の微笑み。
千佳の涙は、その面影を呼び覚ます。
自分の大切な者が、いつも傷つき、穢され、それでも愛する者のために祈り続けてしまう。
――そんな残酷な循環を、まだ終わらせられずにいる。
庭の片隅、秋草に手を触れながら陽明は小さく目を伏せた。
「……泣かないで。」
掠れる声が夜に溶ける。
大河の番である千佳を、己が手に入れることは決してない。
それでも。
「たとえ手に入らなくても……護りますから。」
細く長い吐息が白く月明かりに溶けた。
揺れる庭木が応えるようにざわめく。
陽明は目を閉じた。
あの少女の涙を、もう二度と見たくはないと。
それが、自分に残された唯一の生きる意味だと知っていた。




