エピローグ 夢と現のあわいに立つ者
安倍晴明と陽明
翌朝。
鬼の里、大広間。
朝餉の膳が並べられ、香ばしい湯気が漂う。
陽明は無言で座に着いたが、視線は俯いたままだった。
「たくさん食べて元気になってくださいね」
千佳がやさしく言葉を添える。
その声に、ふと心を衝かれた。
陽明は唇を震わせ、躊躇した末に口を開いた。
「……千佳様。どうか……お願いがあります」
「?」
「名を……呼んでいただけませんか。
“陽明”と……
今では誰も呼んでくれぬ名なのです。だから……
たまにでいいので」
一瞬驚いたように目を見開き、千佳は微笑んだ。
「……わかりました。陽明さん」
その声が膳よりも温かく、胸に沁みる。
喉の奥が詰まり、陽明は俯いて肩を震わせた。
「……ありがとう御座います。
あなたのためなら……私の力は幾らでも。
必ず、あなたを護ります」
「ありがとう御座います」
千佳の微笑みは、陽明にとって救いそのものだった。
そのやりとりを横で見ていた大河が、ふっと鼻を鳴らす。
「そんなに名を呼んでほしいなら、呼んでやるよ――晴明」
嫌味混じりの声に、陽明の眉がぴくりと動く。
しばし沈黙ののち、苛立ちを抑えきれず吐き捨てる。
「…………あなたには頼みませんよ。クソ鬼がッ」
大広間に一瞬の静寂。バチッと火花が見えた護衛達。
千佳は「もう……」と笑いながら二人を見比べた。
その微笑み一つで、場が不思議と和らいだ。
触れることさえ叶わぬと知りながら、
気づけばその背を追ってしまう。
決して手に入れられないとわかっているのに、
こんなにも心は焦がれてしまう。
もし願いがひとつ叶うなら――
せめて轍を照らす月明かりのように
あなたを守ることを許してほしい
只それだけ…………




