夢と現のあわいにに立つ者
陽明の正体と想い。
新緑が芽吹く鬼の里。
広大な屋敷の一角――
朝の大広間には、まだ湯気の立つ味噌汁と炊き立ての白米、焼き魚、小鉢、漬物が並んでいた。
千佳は袖を捲り、若手護衛たちと一緒に台所から膳を運んでいる。
常磐、紫苑、烈火、浅葱――鬼藤家の将来を背負う精鋭たちが、今は犬ころのような顔で千佳のあとをついて回っていた。
「千佳様、お茶をお持ちします!」
「お椀はこちらに置きます!」
「いや俺がやります!」
「僕も!」
わちゃわちゃと賑やかに取り合う姿は、とても武門の後継とは思えない。
大河は腕を組んでその光景を睨みつけた。
「……なんだ、あの腑抜けた顔は」
その一言に常磐が耳まで赤くし、紫苑はそっぽを向き、烈火は気まずそうに頭を掻き、浅葱はへらっと笑ってごまかす。
そこへ、脇で見ていた縁が片眼鏡をくいと上げた。
「総領……あの日からですね」
「あの日?」と大河が眉をひそめる。
縁は小さく頷き、視線を千佳へ向けた。
婚礼のあと千佳は炊事も掃除も嫌がらずやっていた。本来なら女主人の仕事ではないが侍女が止めても喜んで手伝っていた。
彼女は朝早くから起き出して朝食を用意すると忍びや侍女や古株の護衛たちにまで「一緒にどうぞ」と微笑みかけ、当然のように皆を大広間の膳へ招いていた。
――家族みたいに。
千佳の境遇は知っている者も多く最初は皆同情だったのだろう。だが変わらない笑顔と同じ人として扱ってくれる無邪気さに側近も護衛も忍びも、皆が自然と千佳に心を許し始めた。
鬼の総領の番であるからではなく、ただ一人の女としての温かさに。
炊き立ての湯気の向こうで、千佳は笑った。
「いただきます」
その声に合わせ、広い大広間に「いただきます」が重なり合う。
どこかぎこちなくも、確かに家族のような響きだった。
大河はその光景を見据え、ふっと鼻を鳴らした。
「……お前ら、武門の誇りはどこへやった」
しかし心の奥底で、彼もまた同じ思いを抱いていた。
――こんな朝が、ずっと続けばいい。
朝餉の支度に千佳が立つと、すぐさま後ろから四つの影が続いた。
「千佳様、こちらのお椀は僕が並べます!」
「いや、重いですから俺が!」
「千佳様は座っててください、危ないです!」
「じゃあ俺は漬物を盛り付ける!」
常磐、紫苑、烈火、浅葱――若手護衛たちが、犬のように千佳の後をついて回る。
彼らの手が重なり合い、茶碗はずれ、漬物の皿は倒れかけ、味噌汁の椀はぐらつく。
「ちょっと烈火! 力任せに持つな!」
「浅葱、摘まみ食いするな!」
「紫苑、そんな無表情で千佳様に箸を差し出すな!」
「常磐! 鬼の形相で皿を守るな!」
大広間は、まるで祭りの前の控室のように騒がしい。
千佳は思わず口元に笑みを浮かべた。
「……みなさん、本当に仲が良くて可愛いですね」
その言葉に、四人は同時に真っ赤になり、犬ころのようにしどろもどろになった。
大広間に大河が姿を現す。
若手護衛たちは慌てて背筋を伸ばすが、千佳に「ありがとう」と声を掛けられた途端、またもや尻尾を振るような顔になってしまう。
大河の眉間に深い皺が寄る。
「……縁こいつら、全員総入れ替えだ」
「そ、総領! お待ちください!」
「千佳様のお役に立てるのは我らの喜びで!」
わたわたと頭を下げる四人。
その様子を見ながら、側で控えていた縁がふっと肩を震わせた。
「……くくっ……これは、見ものですな」
「……縁、笑うな」
「いや……鬼藤大河が、番をめぐってヤキモチとは……」
「……殺すぞ」
縁の口元からは、それでも笑みが消えない。
千佳の微笑みひとつで、護衛も側近も忍びも巻き込まれ、鬼藤家に温かな朝が訪れる――。
大河が苛立ちを隠そうとして隠せない姿は、縁にとって何より新鮮で、滑稽で、そして愛おしい光景だった。
騒がしい大広間の朝ごはん。
護衛四人がわたわたと千佳を取り囲み、漬物をひっくり返しそうになったところで、襖がすっと開いた。
「おやおや……これはずいぶんと賑やかですね」
飄々とした声。
陽明が、紫の羽織を軽くまといながら姿を見せた。
その余裕の笑みが場の空気を一瞬でさらっていく。
「……朝っぱらから何の用だ、狐」
大河の低い声が飛ぶ。
「まあまあ。睦月さんから伺いましてね、千佳様は甘いものをお好きだとか」
とぼけたように肩をすくめ、陽明は包みを差し出した。
「ちょうど京都の一条に新しくフランス菓子店ができまして。評判のマカロンを、ぜひ」
「マカロン……!」
千佳の茶色の瞳がぱっと輝いた。
小さな両手で箱を受け取ると、目をキラキラさせて蓋をのぞき込む。
「わあ……きれい……宝石みたい」
その瞬間、大河は深くため息をついた。
胸の奥で、ぐつぐつと嫉妬が煮立つ。
(くそっ、そんな目をされたら、駄目とは言えん。……可愛すぎるだろ)
陽明はそんな大河の心中を知ってか知らずか、にこにこと微笑んでいる。
「ふふ。気に入っていただけたなら、また仕入れて参りましょう」
護衛四人は口を揃えて「狐め……!」と唸り、縁は片眼鏡の奥で肩を震わせていた。
鬼の総領、大河。
その横顔は険しくも、どうしようもなく惚れ抜いてしまった男の顔をしていた。




