始まりの夜
第一章 恋千夜廻り 第1話始まりの夜(千佳目線)
お正月のヘアセットの来客も落ち着いてバレンタイン間近で賑わう2月初め。
「いい就職先を紹介してあげるよ」――そう言って笑っていた、美容室のオーナーと博雅さん。
新田博雅さんはオーナーのお友達で信じてしまった。
だっていつも優しくて美容師になる夢を応援してくれて…支えてくれると思ったから。
繁華街のビルに着いたとき、胸の奥がざわついた。
でも、「面接だから大丈夫」と笑顔で言われて、扉を開いた。
――重い鍵の音。
振り返ったときには、もう出口は塞がれていた。
「今日からここで働いてもらう」
耳に入った言葉の意味が、頭で理解できなかった。
抵抗すれば殴られ、泣いても無視された。
“借金”という紙を突きつけられ、サインを強要される。
その日、私の自由は終わり。地獄の日々
私は店で客の玩具にされた。
支配人に名前を呼ばれ、震える足で支度をした。
扉の向こうに待つのは知らない男。
ドアノブを握るだけで、吐き気が込み上げる。
中へ入った瞬間、値踏みするような視線。
笑みを浮かべながら伸びてきた手。
声を殺して祈るしかなかった。
「……どうか、早く終わって」
乱暴に抱かれ、何度も繰り返される。
終わったあとの部屋の静けさが、一層惨めだった。
涙は出なかった。泣けば心が壊れてしまうから。
ただ、心の奥で叫び続けていた。
そんな地獄の中でひと月も過ぎた3月の初めの夜。
また名前を呼ばれ、部屋に向かった。
いつもと「同じだ」と思っていた。
でも、そこにいたのは――
黒いスーツに身を包んだ、背の高い黒髪の男性。
芸能人かと思うような整った顔立ち。
鋭い眼差し。
それでいて、どこか哀しげな影を宿していた。
空気が違った。冷たい視線じゃない。何かを探すように、ただ私を見ていた。
「……座れ」
促されて腰を下ろす。覚悟していたのに、彼は抱こうとしない。
ただ低く言った。
「話がしたい」
その言葉に胸がほどけていく。
“話すだけ”――それだけで、どれほど救われるか。
彼は尋ねてきた。
「名前は?俺は鬼藤大河」
「…大河さん?えっと千佳です」
名前を呼んで自己紹介すると優しく微笑む。
それから色々聞かれた。
「普段は何をしている?」
「好きな食べ物は?」
「友達は?」
でも返す言葉はどれも悲しいものばかりだった。
虐待された幼少期。夢を奪われた日々。友達なんていないこと。
けれど彼は最後にこう言った。
「……色々知れて、楽しい」
楽しい? どうして……?
そんな私を「楽しい」と言ってくれる人がいる。
胸の奥が熱くなった。
「ありがとうございます……優しいんですね」
そう笑った自分の顔は、きっと不格好だった。
帰り際、彼は言った。
「明日、昼に飯を食いに行こう。……何が食いたい?」
戸惑いながら答えた。
「……鯖味噌が食べたいです」
高級な料理じゃなく、ただの鯖味噌。
それが私にとって、夢のご馳走だった。
彼は一瞬、何かを噛みしめるように目を細めた。
次には小さく頷いて。
「わかった。明日な」
部屋を出ていく背中を見送りながら、胸の奥が久しぶりに温かい気がした。
千佳と大河の目線を交互で物語が進みます。