プロローグ
「ほら、朱雀。目を開けて」
この世に生まれ落ちて最初に耳にした、優しい声。
ふわりと綿毛が頬にくっつくみたいな、優しい声。
重たい瞼を開けると覗き込んでいたのは1匹の大きな蛇。口を大きく開けてニンマリと笑う姿に、きゅっと喉が鳴った。
「こら、ルプ、怯えているでしょう。やめなさい」
朱雀に向いたより少しだけ棘のある声に、きゅっと喉が鳴った。
「玄武、お前の声にも怯えてるぞ」
「あなたのせいよ」
『玄武』そう呼ばれた神は、意地悪そうな顔をしてから朱雀を抱き上げた。目が合うと、花が綻ぶような笑顔を向けられて心の奥が温かくなる。
「朱雀、貴方の名前は朱雀よ。私と対極の火を司る、温かい子」
なんのことを言っているのかは分からないけれど、その時から朱雀は朱雀で、目の前にいる神が玄武なんだって事を知った。
きらり、目の前で揺れる綺麗な翠色が印象的の綺麗な神は玄武様。納得して瞼を閉じた。
「玄武!!」
神殿の長い廊下。その先に輝くとんぼ玉を見つけて朱雀は駆け出した。
「わっ!こぉら、朱雀!走らないって言ったでしょ!」
朱雀よりもずっと大きい玄武の足にしがみついた。ふわりと花の香りに包まれる。その温かさにくふくふと笑って見上げると顔は怒っているのに、声色が優しすぎて全然怖くない。
あの日、朱雀を抱き上げてくれた日から玄武は母のように接してくれていた。
「ねえねえ、玄武。今日はどこに行くの?」
玄武は毎日忙しそうにしている。新年が訪れれば挨拶回りと言って各地の神殿に足を運び、厄災が起きれば誰よりも先に現場へと駆けつけていた。
その全てに朱雀を連れて行ってくれたことは無い。
「まだいいのよ、朱雀は自由でいていいの」
一度だけ連れて行ってくれと我儘を言った。すると玄武は苦笑いしながら首を振った。
あの時の寂しそうな笑顔が忘れられなくて、それ以来連れて行ってくれと我儘を言うことは無くなった。
代わりに、喜んでくれるならと書物を読むようになり神力の鍛錬に励むようになった。
いい結果を出すと、玄武は自分のことの様に喜んでくれたから。
「朱雀!貴方炎が扱えるようになったって聞いたわ!頑張ったのね!」
玄武はよく朱雀のことを『太陽のような子』と言う。けれど朱雀からすれば太陽は玄武の事だと思った。玄武は朱雀の両脇に手を入れて持ち上げると、くるりと回って、それからぎゅうと抱きしめてくれた。途端花畑みたいな香りに包まれて体がぽかぽかする。
やっぱり、玄武は太陽みたいだった。
「玄武、あのね、僕すごい頑張ったよ!玄武に褒めて欲しくてね、いっぱい本も読んで、いっぱい鍛錬した!」
嬉しい気持ちを伝えたくて、朱雀もぎゅうと玄武に抱きしめ返した。くふくふと玄武が嬉しそうに笑う傍らにはいつもルプがいる。
大きく口を開けて目尻をふにゃりと下げると、朱雀の頬に擦り寄って玄武の肩に戻った。意地悪ばかりだったルプも、今では朱雀の事を優しい目で見守ってくれている。生まれてすぐは怖かったルプも兄弟子のような、もう一人の親のような、そんな存在になっていた。
「ルプ様も、朱雀様のことご自身の子供のように見て居られますよね」
先日、お世話してくれる『使用人』という存在にそう言われた。彼らは神なのか人なのかも分からない。紹介された時に家族というものを持たない存在だと言われた。そんな彼らに「親のようだ」と言われたことが嬉しくて、衝撃的で、その時朱雀はくふくふと笑うことしかできなかった。
「ルプもね、見てくれたんだよ。僕がお庭を燃やしちゃいそうになった時は水を出して助けてくれたんだ!」
「あ!それは玄武に言わないようにって約束しただろ!!」
朱雀が庭を燃やしたことを洩らすと、玄武の肩に乗っていたルプが焦りを隠さずに声を上げた。
玄武の大切なお庭。そこには玄武が丹精込めて育てた花が敷き詰められている。牡丹に、芍薬、鈴蘭とか。
その一部を燃やしかけたのは、数日前のこと。
その日も朱雀は神力の鍛錬をしていた。あと少しという所で詰まっていた手前焦りもあり、力が爆発して炎が燃え上がってしまったのだ。燃え上がる炎に恐怖で制御が効かなくなってしまっているのを、指導役だったルプが治めてくれた。
「玄武には内緒な。そんなに花も燃えてねえから、絶対にバレないよう気をつけろよ」
それは初めての秘密だった。
玄武は滅多に怒らないけれど、大切なものを壊されたら悲しくなってしまうからと朱雀も力いっぱい頷いたのを覚えている。
玄武が泣いてしまうかもと心配になり顔を上げると、そこに居たのはにっこりと笑いながらルプを鷲掴みする玄武だった。
「朱雀、ルプ、そこに座りなさい。ちゃんと教えてもらいましょう」
朱雀は反射で正座した。
いつもは蛇の姿をしているルプも、人の姿になり正座している。顔は真っ青で、少しだけ震えるルプの姿に朱雀はこれが『怒られる』ことなんだと知った。
「げ、玄武、あの、あのね」
「言い訳は聞きません。といっても、朱雀は怒られるという経験をしてませんからね、説明も何もありませんから……ルプ、きちんと説明なさい」
朱雀が口を開くと途端に冷たい声が響く。玄武が一言、二言と言葉数を増やす毎に部屋の温度も一度、二度と下がっている気がした。
「ルプ。いつもの大きな口は何のためにあるのかしら?……さっさと説明なさい」
ぐっと冷たい声を出す玄武の目はまん丸だったものからルプみたいな目になっていた。細くて、冷たくて、初めて見た意地悪なルプと同じで、怖い目。
あの時みたいに、きゅっと喉が鳴った。
「あ、う、、」
ぽろり涙が一つ頬を伝った。顎の先から零れ落ちる頃には箍が外れたようにボロボロと涙が頬を濡らしていた。
朱雀の中は優しい玄武を裏切ってしまったという感情でいっぱいだった。
「ごめ、なさい。玄武、ごめんなさい。僕、僕」
目の前にいる玄武の顔も、隣で背中を摩ってくれるルプの顔もまともに判別できないほど視界がぐちゃぐちゃになる。
怒らないで欲しい。悲しまないで欲しい。けれど発端が自分だから何も言えない。自分が話すことで、また玄武を悲しませるかもしれない。
ボロボロと止まらない涙を袖で強引に拭うと頬がヒリついた。頬を擦ったのは腕に付けていたブレスレットの紐だった。
玄武と揃いのとんぼ玉がついたブレスレット。朱雀の色という朱のとんぼ玉が付いたそれが目に入り、涙腺を刺激した。
「朱雀」
さっきまでよりずっと優しい声で呼ばれた。けれど、顔を上げるのが怖かった。玄武に嫌われてしまったかもしれないと思うと耐えきれず、朱雀はその場から逃げ出した。
翼を広げ、いっぱいの力を込めた。
それは、初めて朱雀が飛べた瞬間だった。
「朱雀!!」
飛ぶことのできない玄武は天高く飛んでいく朱雀を見て、複雑な気持ちを抱いていた。
未だ自分は怒っているはずなのに、それよりも我が子同様に育ててきた朱雀が、大きな翼を広げて飛んでいる事実が嬉しくてたまらない。
「……ルプ」
同じように嬉しそうな顔をした半神に声をかける。意図せず声が低くなったのは八つ当たりであるが、咎められはしないだろう。発端はお前たちなのだから。
「迎えに行こうか、我らの子を」
「帰ってきたら、ちゃんと話してもらいますからね」
「ああ、いくらでも。あの子の成長を目の前で見ていたこと、自慢してやるよ」
図星をつかれ一つ舌打ちをした。
玄武は自分が育てている花が燃えたことよりも、朱雀の晴れ姿を見られなかったことの方がずっと悲しかった。
それも他の神の前ならまだ良かったものの、自分の半神の前でのみ見せたその姿。許せるはずがなかった。
この蛇を食い殺して自分の中に神力と、朱雀に関する全ての記憶を吸収してやろうかと思うほどに。
そんなことをしても寝て起きれば忌々しい蛇は自分の隣に存在してしまうのだが。
あれほどまでに怒っていた全てが、八つ当たりである。そんなこと、今もなお翼を広げて逃げる朱雀には知る由もない。
親の心子知らず、である。
「う、うぅ、玄武が怒ってた。どうしよう……」
体の水分が無くなるのではないかというくらいボロボロと涙を流しながら朱雀は目的もなく飛んだ。いくつ山を越え、いくつ川を越え、今自分がどこに居るかすら把握できないほど遠く。
眼下には緑もなくなり、一面砂だらけになっていた。
それが砂漠であることも、自身が治めるはずの南の地であることも朱雀は知らずに飛び続けた。
砂漠を抜けて海に差し掛かった頃、朱雀は感じたことのない神気を感じてピタリと止まった。玄武のように優しくもなく、青龍のように流れるものでも、白虎のように力強いものでもない。
知らない神気。どこか触れたことのあるような、でも知らない。こんなに禍々しい神気。
ここに居てはいけない。玄武の元に逃げなければ、あの優しい神の元に帰れない。そう直感で感じ踵を返すも、それは朱雀の目の前でニヤリと口角を上げていた。
「こんなクソみたいな神気でも、やはり神なんだな」
知らないはずなのに、知っているそれに『先代の朱雀』なんだろうと直感で感じた。先代の存在なんて聞いたことないが、なんとなくわかる。
目の前にいるこれは、自分と同じものだということが。
「お前が生まれたせいで、俺の力は日に日になくなっていった……代替わりだぁ?!知らねぇよ!!俺はまだ暴れ足りてねぇんだ……なあ、お前まだ扱えてねえんだろ??寄越せよ、それ」
発展途上の細い首にゴツゴツと鍛え抜かれた手が伸びる。逃げないといけないと思うのに体が震えて、翼すら動かせない。息が吸えなくなる。
足から力が抜けて、尻もちをついた。あっという間に縮む距離。手のひらが目の前に迫る。
「助けてっ……玄武っ……」
恐怖で掠れる声に、目の前のそれはニヤリと笑った。
「はっ、あんな鈍足追いつけるわけねえだろ」
黒い、ただ黒いそれが目の前に広がった。
逃げ出すために一歩踏み出すも黒一色の地面に震え、翼に力を込めた。上へ、ずっとずっと上へ飛べば、きっと光差す空が見えると信じて翼を動かす。動かして、動かして、動かして、はっと気づいてしまう。
ああ、無理だと。
途端に思考も、視界も、意識も、全てが真っ黒に染まる。
玄武と揃いのとんぼ玉だけが、朱く輝いている。けれど、それを見ても朱雀の心はもう動かなかった。
「朱雀!!」
凛と、声が響く。
綿毛が頬を撫でるような優しい、知らない声。