揺らぐポニーテール
私の在籍する高等学校の体育館、その舞台裏下手袖に何があるか知っているだろうか。
有史以来人類の多くがその未開の地に終ぞ到達出来ずに儚い命を散らしたことは世間的にもよく知られる事実であるが、実は、私はその空間を思うがままに開拓した数少ない逸材である。原住民族たる放送部の有象無象を蹴散らし、収納された彼らの備品を壁際ぎりぎりに追いやり、私の過ごしやすい空間に改造したのだ――まずは本校舎二階の会議室から折り畳み式の長机を持ってくる。そして放送部の所有物である棚に淡水魚用の餌ケースを配置、更にはブラシを始めとした手入れ用具を壁に掛け、最後に長机の上に大きな水槽を設置した。
いよいよ準備は佳境に入る。簡易な酸素ポンプを水槽の中に入れ、コードを手近なコンセントに繋ぐ。これまた家から慎重に輸送した地域の小さな淡水魚(主にメダカ)、川底の砂、見栄えのする小岩を水槽の底面に敷き詰めていく。最後に、自転車で十分の自宅からえっさほいさとわざわざ運んで来た高田川の水を入れ、酸素ポンプを稼働させた。ぶくぶくと規則的に水槽内に泡が立ち上る。ようやく完成した。反撃しにやって来た放送部の部長さんはくすぐり地獄で撃退してやったのでしばらくは安心である。
「……これが水槽部の在り方。俺はやり遂げたんだ。そうだ……この部活の在り方は、絶対に揺らがん」
放課後の体育館舞台裏下手袖、私は右腕を突き上げて勝利の雄叫びを上げた。大声で万歳三唱を繰り返していると、バレーボールをしている女子たちが不審な目で此方を睨むのが見えたが気にしない。どうせ今日も我が『水槽部』を訪ねてくる酔狂な輩はいるまい――そう思っていたのだが、旗はしっかりと立ってしまったようである。
「――学籍番号3524、平田透真。毎日学校に来ないのならば、生徒会権限として、あなたには二週間の停学を命じます」
そこには舞台裏下手袖に直接通じる引戸をがらがら乱暴に開けて、私に立ち向かった大いなる痴れ者がいた。低めの身長に理知的な顔立ち、その頭部は一糸乱れぬポニーテールで結わえられていて、何やら只ならない雰囲気を醸し出している。
但し私はその女性――否、女子を校内で見かけたことがある。それも一度や二度ではない。彼女は昨年からこの混沌たる高校の生徒会長を務める川口さんだった。
「生徒会に、生徒に停学を命じる権利なんかない筈ですけど」
「敬語は止めて下さい。同級生でしょう」
川口さんはふんと胸を張ってそう宣った。
投げられた言葉がこれほど美しい軌道で戻っていくところを他に見たことがなかった。
「そうそう。平田くん、三年生では一週間ぶり十回目の登校お疲れさまです。春からずっとこの調子ですよね。まあ、放課後に登校する生徒なんて私初めて見ましたけど」
「そりゃそうでしょうね。放課後に登校したって出席扱いにはならないから」
「このままでは出席単位が足りません! 退学になってしまいますよ!」
川口さんは今日、わざわざそれを私に忠告しに来てくれたらしい。いくら平和な放課後であろうとも、学校ではいつトラブルが起きるかも判らない。更に噂によれば、生徒会は次の秋に開催される文化祭の計画を日進月歩進めているという。別に暇ではないだろうに、物好きな会長さんである。
川口さんはぴょこぴょこと跳ねるような動きで短い階段を登り(入り口と空間とに高低差がある)、近くに洋椅子が転がっていることに気付くと如何にも不服げに座り込んだ。むすっとした表情で、完成した水槽を前に恍惚の感情を漏らす私を終始見つめていた。それがずっと続くので、流石の私も気になってくる。曲がりなりにも彼女は整った顔をしているので、幾分か男子の本能が邪魔をしたのも確かである。
「……何だ。じっと見て」
「平田くんが毎日学校に来ることを認めるまで、私、帰りませんから」
「はあ。生徒会室に?」
「家に」
帰れよ。
覚悟を見せるためのハッタリ、若しくは口をついた出任せだろうが、流石に暴挙も甚だしかった。会長こそ停学にされてしまう。
「お仕事も大変だろうけどさ、俺なんか放っておけ。会長には関係無いだろう」
「関係ありますよ。生徒の会の長たる私です、あなたも私の所有物。管理する義務があるのです」
何処か論理や摂理や倫理がおかしい気もしたが、私は最早彼女を気にすることを止めていた。相手にするだけ無駄だと悟ったのだ。
たまにこういう、意地でも自分の決定した事柄を貫き通す狂人のような人間に出くわすことがある。そういう人間に限って異常なほどハキハキとしていたり、成績がトップクラスだったり、友達の輪が半径十キロに及んだりするものだ。私は殆ど真逆の人生を歩んできたから、とにかく川口さんのような人に耐性が無い。眩しすぎるのだ。会話をしているだけで無理やり生気を与えられ、生かされている――そんな妙な気持ちになってくる。大きなお世話で、ありがた迷惑というものだった。
「誰にも迷惑はかけん。誰の気にもかからん。今日だってやっとここに設備を完成させたんだ。毎日放課後にこの舞台裏で揺れる水草を眺める……そんな生活で、悪いか?」
「悪いですね。とりあえず、健康には悪そう」
「…………」
そろそろ私の堪忍袋の緒が切れそうだった。私はより一層の決意を持って川口さんを無視することにした。ただひたすら目の前の水槽に思いを馳せていると、まるで心が洗濯されるようで、白昼夢を見ている心地になってきた。春の気候が穏やかで、何もかもが優しく暖かく、背中を通り抜けるそよ風も良い塩梅で私の傷を癒やしてくれる。そして視界の片隅ではぴょこぴょこと可愛らしく揺れるポニーテールが――。
「……何してる」
「淡水魚用の餌を見てます。美味しそうだなって」
「お前、淡水魚の素質あるよ……」
「光栄です」
私も大分適当な会話をしている自覚があるが、そもそも川口さんには自覚すらあるのかどうか怪しかった。また無視出来ない。ペースを奪い切れないことに私は業を煮やした。
「水槽部、ですか。確か去年の冬頃に、私が廃部にしましたね。余りにも活動が薄っぺらいという理由で」
それは確かに事実だった。当時の水槽部には私の他に三人の先輩方がいたが、彼らの水槽にかける情熱は紙のように薄かった。むしろ本物の熱意を携えて部活に加わった私を疎ましくすら思っていたのだろう。彼らは放課後に埃っぽい舞台裏下手袖へ集まって菓子を食べ、世間話をし、そして帰っていくだけだった。真面目に水槽のディスプレイを考案したり、他校との交流を図ろうとしていたのは私だけだ。
そして、水槽部は遂に廃部が確定する。
当時の生徒会の判断だった。通知書には『活動規模と少数の人員、及び精神的かつ肉体的な成長の見込めない活動による廃部処分』と綴られていたが、しかし、本質は違っている。それは先生や保護者への体面を確保するための口実であり、真実はこうだった。
「生徒間の不純異性交遊の発覚――でしたよね」
「……何が言いたい」
「あの先輩方も水槽の中のお魚さんだったら、不純異性交遊しても、退学になんかならずに済んだよなあって話ですよ」
川口さんは未だに中身の見えるプラケースの餌を手に取って眺めていた。私とは一切目が合わない。彼女が何を考えているか、私にはまるで解らない。
「揺れたんです」
「何が」
川口さんのボリューミーなポニーテールがそよ風にぴょこぴょこ揺れていた。
「間違えました。揺らいだんです」
「だから、何が」
「水槽が」
「――――」
「噛みました。水槽部が」
私はその時何を言われたのか全くもって理解不能だった。会長の言葉を理解したいと感じてしまったことは癪だったが、私はすぐ横に鎮座する、先程組み立てたばかりの水槽に目をやった。酸素ポンプから排出される泡が、ぽこぽこと一定のリズムで少し汚い高田川の水を昇っていく。二匹のメダカが連れ立って水草の森を回遊する。その三◯センチはあろうかという水草が十本ほど、渋い赤色をした岩を背景に揺蕩う。
私が敬愛して已まない、優しい優しい、水の光景。
水槽の中身は揺蕩って揺蕩って、揺れていた。
「平田くんは、迷ってるんでしょう」
「知ったようなことを言うな」
川口さんはまた跳ねるように座っていた洋椅子から飛び降りて、私の前を横切った。向かう先はさっき彼女が弄っていたものとはまた別の棚である。その鮮やか、かつ軽やかな足取りは彼女の後頭部にくっついたポニーテールの存在感を際立たせる。揺れる、揺れる。左右に上下に揺れて、気のせいか右に一回転して、長い長い時間その髪を見ていたような気がして、私は慌てて視線を水槽に戻した。気にする必要はないのに、何故気になるのか。
「人付き合いが嫌になったから、学校来たくないんですよね。きっと。友達も出来ないんですよね。だから水槽部を作り直しても、部員なんて集まらない。そう思ってる」
「……何で知ってる」
「それくらい調査済みです、会長ですから」
じゃりっ、と。
その音に驚いて振り返ると、川口さんは淡水魚用の餌の蓋を開け、その粒をどばどばと己の口内にぶち撒けていた。私は途轍もなく驚愕した。
「な、何してんだお前!」
「う。うげー。マズぅ……」
これにはほとほと呆れ返ってしまった。仕方なく携行用のティッシュを舌打ちと共に投げて渡してやると、川口さんは「かたじけないです」と侍のようなことを言って、上品さの欠片も無い音で残骸を吐き出す。何故このような狂人が生徒会長に就任出来たのか、私にはとうとう解らなくなってしまった。
「お魚さんの気持ちを理解しようと思って……」
「お前はミミズ食ったらモグラの気持ちが理解出来るとでも思ってるのか」
「思ってます」
「思ってんのかよ!」
やがて口周りを手入れし終わった川口さんはまた此方に戻ってきて、先程の洋椅子に腰掛けた。今度は背もたれを抱くようにして、真っ直ぐに私の目を見て喋るのだ。瞬間、目が合う――彼女の瞳は熱さも眩しさも親しみ易さも近寄り難さも、総じて太陽そのものである。
「私が友達になってあげましょうか」
川口さんは体ごと首を傾げるという奇妙な仕草で、私にそう問いかけた。重力に逆らえない柔らかな髪が耳からつるつる零れ落ちていき、最終的にぶらぶらと宙吊りになった。柱時計の振り子のように正確な間隔で、それは揺れていた。
「揺れてますよね」
「……誰が」
「平田くんが」
私は首を振った。それは或いは揺らしたと表現しても良いのかもしれなかったが、ともかく否定した。きちんと否定しておかなければ、この頑固で冒険心溢れていてとても優しい会長は、この女の子は、本当に何時までもこの舞台裏下手袖から出ていってくれないような気がしたからである。そして恐らく私も帰してくれまい。確信があったのだ。
こんなに良い人だから会長になれたのだろうかと、私は密かに納得してしまった。
「何なら、そうですね。水槽部再興のお手伝いくらいしますよ」
「いいって別に」
「私が水槽部に入ってあげても良いですよ」
「…………」
「揺れてます」
「揺れてない」
ただ確実に、物理的に揺れているのは川口さんのポニーテールだけだった。
私はこの時、筆舌に尽くし難い動揺に支配されていたのだ。心が動いて、揺れていた。動悸は激しく脈を打ち、違う、いや違わない、いける、いけない、いけ、いっちゃ駄目だ。あらゆる意見が脳内に現れた二人の私に分裂して対立、紛争に発展し、戦局はまた、揺らいでいた。
「……ちょっと」
「え?」
心中で多大なる攻防を繰り広げていた私は無意識に、自然と唐突に立ち上がり、川口さんの細い手首を掴んでいた。しっかり掴んだ。彼女の温かい肌をこの手でしっかりと掴み取ると、やっと揺れが収まった気がした。
否、やはり揺れは止まらない。
私の体は緊張に打ち震えてしまっていた。同学年の女子の腕を掴んだことなど、この十七年間の人生で初めてのことだったのである。私は川口さんが元の場所に戻していた淡水魚用の餌を手に取り、彼女の前に勢いよく差し出した。まるで感情の発露を悟られたくないかのように。
「ほら」
「え? これ、さっき私が吐いたやつですけど」
「受け取れ」
「は? もっかい吐けと? キモっ」
「違ぇよ、俺にサド趣味は無い。……あの、ほら。餌のやり方、教えるから。……やってみろよ」
私の苦し紛れに捻り出した言葉にぴくんと、川口さんのポニーテールが跳ね上がったような気がした。揺れたのではなく、ただぴくんと、ちょっと驚いたように動いただけだ。私は川口さんに押し付けるようにプラケースを渡すと、恐る恐る水槽の前に移動する彼女の側に立った。
春なのに、何だか頬が熱かった。
太陽。
「そう……ゆっくりだ。振り掛けるのは、一、二回で良い。あんまりあげすぎると、健康に悪い」
「……お魚さんの健康より、自分の健康を心配したらどうです」
「…………」
「揺れてますね」
「ああ。水草がな」
そう気持ち得意気に言ってやると、川口さんはぷっと軽く吹き出したあと、大きな声で笑った。始めに感じた威圧感など、今や何処にも見当たらない。私の目の前にいるのは、ただのお節介な女子高生だけだった。
しかしその拍子に、プラケースから勢い良くつぶつぶの餌が大量に流れ落ちていった。二人揃って「あっ」と絶望的な感情が漏れて、それからは本当に大騒ぎも良いところだった。
とある春の放課後の夕方、私の在籍する高等学校の体育館舞台裏下手袖は騒がしく賑やかに面白おかしく、揺れに揺れていた。
陽光が水面を鮮やかに照らしている。