5話 会社をクビになって、ヘッドハンティングされる
俺が所属している会社は、【タカナワ】という大きな出版社だ。
そこの【TAKANAWAブックス】が、俺の所属するレーベル。
主にライトノベルを扱っており、近年では映画アニメにもなり、社会現象を起こした【デジタルマスターズ】を出している。
デジマスの作者にして超人気作家である、【カミマツ】、アーツ・マジック・オンライン(AMO)の作者・天才【白馬 王子】を抱える。
ラノベ業界でもトップのレーベルに所属している……のだが。
「岡谷くん、悪いけど、TAKANAWAブックスのレーベルを辞めて欲しいの」
……僕の前に居るのは、編集長。
十二兼さん。
34歳で、編集長の座まで上り詰めた、ベテラン女性編集者だ。
黒髪をポニーテールにしている。
鋭い目つきと眼鏡が、彼女にクールな印象を与える。
「辞めて欲しいって……どうして急にそうなるんですか?」
朝出勤してすぐ、俺は編集長である十二兼さんに呼び出しを食らった。
小会議室で、こうして向かい合っている。
「簡単よ。あなたが、不倫してるってウワサが、編集部に流れているの」
「はぁ……!? お、俺が不倫!? どうしてそうなるんですか!」
根も葉もないウワサだった。
というか、不倫されたの俺なんだけど!
「落ち着きなさい。あなた確か結婚してたわね。うちのレーベルの子の、恋人と不倫してたんでしょ?」
「違います! 誰ですか、そんなデタラメいったのは!?」
「木曽川くんよ」
……全て、合点がいった。
木曽川。俺の妻ミサエの、不倫相手。
あいつは……自己保身に走ったんだ。
自分が、同じ職場の男の妻と不倫していた、となれば、職場に居づらくなる。
だからやつは、先手を打ったのだ。
……タイミングの悪いことに、俺は昨日朝帰りだ。
入れ違いに木曽川は出勤し、そのまま十二兼さんに、デマを吹き込んだのだろう。
「あいつが嘘をついてるって、どうして思わないんですか?」
「思わないわ。木曽川くんは嘘を言うような子じゃないもの」
「…………」
俺は悲しかった。
俺が不倫するようなやつ、と思われていたことがではない。
……俺の言葉より、木曽川の言葉の方を信用していることが……悲しかった。
……確かに、木曽川は十二兼さんと仲が良かったからな。
長くこの編集部に勤めて、たくさん貢献してきた無愛想な部下よりも、若くてもコミュニケーション上手な部下のほうが……上はいいと判断したのだろう。
「……潮時か」
「え?」
「いや……なんでもありません。わかりました。俺、辞めます。この会社」
十二兼さんは目を丸くする。
「か、会社を辞める……?」
「はい。ちょうどいいでしょう? 出て行って欲しいって言ったのはあなたですよ?」
「い、いや……TAKANAWAブックスのレーベルを出て行けばいいだけで、別に会社を辞めるまではしなくていいのよ?」
「構いません。辞めます。失礼します」
……弁解なんてしなかった。
アホらしくて。
木曽川も、十二兼さん……いや、十二兼も、結局俺を下に見ているんだ。
「チクショウ……」
会議室を出てため息をつく。
廊下を歩いていると、観葉植物がおいてあった。
「くそっ!」
腹立たしくて、俺は鉢植えを蹴る。
どさっ、と倒れた鉢植えを……誰かが、元に戻す。
「こらこら、植物が可哀想じゃないか」
「上松、副編集長……」
そこにいたのは、柔和な笑みを浮かべる、眼鏡の男だ。
上松 庄司。
うちのレーベルの、副編集長……つまり二番目に偉い人だ。
誰に対しても物腰柔らかく、また困っていると気さくに話しかけてくる、とてもいい人である。
「やぁ。岡谷くん。少し話さないかい?」
★
俺たちは会社の屋上へとやってきていた。
俺は副編集長に、全てを打ち明けた。
「そっか……なるほど。道理でおかしな話だと思ったんだよ」
副編集長はため息をつく。
「真面目な君が不倫なんてするわけがない。って、ぼくも十二兼くんに言ったのだけどね。無視されちゃった。こんなオジサンの言うことは聞いてくれないんだろうね」
副編集長は苦笑しながら言う。
彼の方が十二兼より年上なのに、あいつより地位が下。
十二兼は常々、上松さんを馬鹿にしていた。
「……副編集長は、俺が不倫してないって、信じてくれるんですか?」
「もちろん。君はそういう人間じゃない。見ていればわかる」
彼は微笑むと、俺の肩を叩く。
「いつも遅くまで残って、誰よりもたくさん働いて、うちに貢献してくれている。君はずっと誰にどう思われようと、このTAKANAWAブックスを支えてくれていた。そんな真面目な君が不倫するわけがない」
「…………」
十二兼と違って、この人はちゃんと、俺という個人を見てくれていた。
「……うれしい、です」
ぽたぽた……と涙が落ちる。
ちゃんと……わかってくれる、認めてくれる人が、いたんだ。
「ぼくの方から、レーベル移籍を取りやめるように、上にかけあおうか?」
「……いえ、会社、やめるって言いました」
「や、やめるのかい?」
「……はい。もう、ここに居たくなくて」
木曽川とも、十二兼とも、顔を合わせたくなかった。
同じ会社に居ることすら、嫌だった。
「そうか……ねえ、岡谷くん。もしよければなんだけど……」
副編集長が真面目な顔で言う。
「ぼくと一緒に、新しいレーベル、立ち上げない?」
「あ、新しいレーベルの、立ち上げ……?」
「うん。近々ここ辞めて、新しいライトノベルのレーベルをはじめようと思ってるんだ」
「こ、この時期に……新規レーベルを?」
無謀すぎる……。
ラノベは飽和状態だ。
新規レーベルを立ち上げても、うまくいく保証はどこにもない。
……というか、潰れる可能性の方が高い。
「大きな出版社だと、できない事って多いからさ。たとえば、なろうとかで低ポイントの作品って、あまりここじゃ出してもらえないだろ?」
なろうとは、小説家になろうのこと。
あそこはポイント評価というものが存在する。
高いポイントだとそれだけ評価が高い=売れる、ということで、人気作品には多くのレーベルが打診をしている。
そして、低ポイントの作品には、なかなか声が掛からない。
うちは特にそうだ。
「ポイントが低くても面白い作品はある。それが日の目を見ずに消えてくのが、ぼくは嫌なんだ。でもここじゃ出すのが難しい。そこで……ぼくは新しいレーベルを作って、埋もれた才能の活躍の場を用意してあげたいんだ」
……副編集長の理念に、俺は感動した。
必ずしも、表で派手に輝いているものだけが、いいものじゃない。
ちゃんと、見えないけれど、頑張っているものだってあるんだ。
……俺は、自分と、そういう作品群とを、重ねていた。
「それにここのやり方にも不満があってね。土日出勤は当然、朝帰りは当たり前なんて、おかしいだろう? ぼくらは会社員なんだよ? 朝起きて、夜に帰るのが当然だと思わないかい?」
……あかりに、家を出る前にも指摘された。
そうだよ、おかしいよな……。
「ぼくは作家も、そして、編集も、笑っていられるようなレーベルが作りたいんだ」
すっ……と副編集長が手を差し伸べてくる。
「君にも協力して欲しい。一緒にこないかい?」
……俺は、TAKANAWAを辞めた。
それは、ここの編集長・十二兼や、社員である木曽川に不満を覚えただけではない。
やり方や、働き方にだって、不満はあった。
……俺は、十二兼よりも、俺のことをわかってくれる、上松 副編集長に、ついていきたい。
「是非、お願いします」
俺は副編集長……いや、上松さんの手を取る。
こうして俺は、会社を辞めたその日のうちに、再就職が決定したのだった。
★
岡谷 光彦が、上松 副編集長と新しいレーベルを立ち上げることになった。
編集長の十二兼 利恵は、そのことをあとで耳にする。
「ふん。まあ良いわ。あんなやつ、うちのお荷物だったもの。処分できてせいせいするわ」
十二兼編集長は、知らない。
実は、このレーベルを陰から支えていたのが、岡谷であることを。
岡谷がいなくなったあと……。
十二兼は、全てを知ることになる。
岡谷の重要性と真の実力。
そして、不倫していたのが、木曽川だったと……。
彼女は全ての間違いに気づき、木曽川とともに、岡谷に泣いて土下座しに行くまで、そう時間は掛からない。