39話 水商売すら上手く行かない【元妻】
岡谷 光彦たちが、軽井沢で高級ホテルに泊まって休暇を過ごしている、一方その頃……。
岡谷の元妻、長野 ミサエはというと。
ミサエは、ネットカフェに居た。
「うぅ……」
むくりと、ミサエが体を起こす。
すぐさま感じるのは、強烈な寒さだ。
「さむぃ……」
ここのネットカフェは冷房がガンガン効いている。
そんな中でミサエは、無料貸し出しの毛布を何重にも重ねて、それを使って寒さをしのいでいた。
「最悪……」
彼女が泊まっているのは、ネットカフェのフラットシートスペース。
横になることは出来るが、しかし体を丸めないと眠れない。
高級ベッドがないと眠れない、といって岡谷に高いベッドを買わせたことがあった……。
しかしミサエは、こうしてフラットシートで、寝るしかない。
なぜなら、金がないからだ。
「…………シャワー浴びよ」
ミサエはふらふらと部屋のドアを横にスライドする。
そこには、同じように閲覧スペースがいくつも並んでいる。
個室もあるが、しかしそちらのほうが値段が高いため、フラットシートを使わざるをえない。
正直セキュリティも万全とは言えない。
屋根がないし、壁も薄く、隣の人の声が普通に聞こえる。
「…………」
彼女が向かうのは、シャワールームだ。
最近のネットカフェでは、どこも無料でシャワーが使える。
タオルの貸し出し、アメニティもそこそこ充実しているので、金のないミサエは重宝している。
そのとき、前から幸せそうなカップルが、歩いてくる。
「どれよむー?」
「デジマスのコミカライズ、ちょー面白いんだぜ」
「へえー! あたしも読むー!」
「じゃあ一緒に読もっか」
カップルから発せられる幸せなオーラを感じると、ミサエの心に黒い感情が去来する。
チッ、と舌打ちすると、ミサエは女の脇を通り抜ける。
ドンッ! とわざと肩をぶつけて、舌打ちして通る。
「やだ、なにあのオバサン……」
「やめとこ。ネカフェ難民だよ。関わらない方が良い……」
カッ……! とミサエのあたまに血が上る。
ネカフェ難民。それは、一番言われたくない言葉だった。
「ちょっとあんたぁ……! 誰がネカフェ難民ですってぇえ……!」
ミサエは声を荒らげて、カップル達にくってかかる。
カップル達はびくっと、怯えるも、すぐに蔑んだ目をこちらに向けてくる。
「どーみてもネカフェ難民でしょ、オバサン」
「その服何日着てるんですかぁ。正直ぃ、においますよぉ」
女性であるミサエにとって、匂いを指摘されることは屈辱以外の何者でもなかった。
「う、う、うるさぁい! 名誉毀損よぉ! うったえてやるぅううううう!」
ぎゃあぎゃあとがなり立てた、そのときだった。
「お客さん」
「あぁ!? なによぉ!」
そこへ、騒ぎを聞きつけた店員が、ミサエ達のもとへやってきたのだ。
「何かありましたか?」
「このオバサンが勝手につっかかってきて、騒ぎ出したんですぅ。迷惑なんですけどぉ?」
「ハァ……!? なによそれぇ! あんた達が馬鹿にしてきたんでしょぉお!」
確かに馬鹿にしたことは事実。
しかし騒ぎを大きくしたのはミサエであった。
「お客さん、悪いけど、出てってもらえますか?」
さぁ……とミサエの顔色が青白くなる。
「な、なんでよっ! 金は払ってるでしょぉ!」
「あなたもうこれで、何度目ですか、注意されるの?」
店員がミサエに蔑んだ目を向ける。
そう、この騒ぎは、一度や二度じゃないのだ。
ミサエは今、自分以外の、幸せな人間が全て妬ましくて仕方ない状態だ。
ネカフェに来るカップルや子連れを見て、突っかかること数度。
それが原因で注意されることが何度もあった。
「もうでていってください」
「そ、それは困るわ! だって……」
泊めてくれる人も、頼れるものも……そして何より、お金も、彼女にはない。
「良いから、出て行ってください。警察呼びますよ?」
ミサエの脳裏に、かつてのトラウマが蘇る。
一度、捕まった事のあるミサエは、もう二度と、あの屈辱を思い出したくない。
父親から、烈火のごとく怒られ、母親から、さげすみの目を向けられた……。
あんな思いを、もうしたくないのだ……。
「わ、わかったわよ! 出て行けば良いんでしょぉお!」
★
深夜。
ネカフェを追い出されたミサエは、次のネカフェへと向かう。
だが……。
「なんでよぉ! どうしてどこも入れてくれないのよぉ!」
彼女は現在、公園のベンチに腰を下ろしている。
【なぜか知らないが】周囲のネカフェから、ミサエは出禁を食らっていた。
ミサエが各地のネカフェでトラブルを起こし、そのたびに追い出されている情報が、拡散されていたのである。
「いやよ……ホームレスなんて……!」
だがビジネスホテルに泊まるにしても、金が要る。
だが……今の彼女には、金がほとんどない。
「くそっ!」
ミサエは苛つきながら、電話をかける。
『はいデリヘル【すーとぱらだいす】です』
……もちろんミサエがデリヘルを利用するのではない。
彼女が、働いているのだ。
「ちょっと店長!」
『ああ、ミサミサちゃん。どうしたの?』
電話の向こうに居るのは、このデリヘルの店長だ。
ミサミサとはミサエの源氏名である。
「最近ぜんっぜんお客さん来ないじゃない! どうなってるのよぉ!」
一般の飲食店やコンビニですらバイトできない彼女が、最終的に頼ったのは、デリバリーヘルスで働くことだった。
最初は、結構指名が入った。
腐っても、ミサエはなかなかの美女。
しかも、比較的若い。
そういうこともあって、指名が最初のうちは入っていたのだが……。
『ごめんねー、ミサミサに指名ないんだよ』
「ど、どうしてよぉ!」
『んー。こう言っちゃ悪いけど、ミサミサ、ちょーっとお客さんからの印象、よくないんだよねぇ』
店長の言い方は、マイルドではあるものの、しかしどこか非難するニュアンスが含まれていた。
『お客さんから、かなーり、クレームが来るって言うか』
「なんでよ! ちゃんと【抜いて】やってるでしょぉ!?」
『あのねー、うちは客商売なんだよ? もっと愛想良くしないと。ミサミサ、すっごい嫌そうに相手してるでしょー?』
どきっ、とミサエの心臓が体に嫌な跳ね方をする。
『お金もらってるのにさ、その態度はよくないよー』
「な、な、なによ! こっちは好きでもなんでもない、キモいおやじどもに、体を貸してやってるって言うのに! 感謝の一つもありやしないのよ!?」
ミサエは、かつて岡谷という、大手出版社の社員の妻であったという、自負があった。
そんなプライドが、いつまでも残っているからか、客相手に愛想笑いのひとつもせず……。
結果、客はどんどんと、ミサエから離れていったのだ。
『あのねぇ~……長野さん』
店長のトーンが、低くなる。
『あんた、クビ』
「なっ!? く、クビですってぇ!」
『うん。クビ。おつかれっしたー』
だが、ミサエは慌てて電話越しに言う。
「なんで!? どうして私がクビなのよぉ!」
『うん。あんた……仕事を、働くことに対して……舐めすぎ』
店長がため息交じりに言う。
『いい? 仕事って言うのは、労働に対する対価なんだ。労働ってのは、だれかがやりたくない仕事を、金をもらって、やる行為なんだよ』
「そんなことくらい知ってるわ!? バカにしてるの!?」
『いや、長野さんはわかってないよ。働いて金をもらうって事は、大変なことなんだよ。あんたが雑なプレイをして、得た金はね、あんたが忌避するオジサンたちが、汗水垂らしてかせいだ金なんだ』
店長は冷たく言う。
『あんたの仕事は雑すぎる。というか……金の価値ってものをわかってない。働かなくても金が入ってきた状況に今までいたんじゃないの?』
「だ、だまれぇ! え、えらそうにぃ! 若造の分際でぇ! 私を誰だと思ってるの!?」
『世間知らずの、年増のババア』
一瞬で、あたまが沸騰した。
世間知らずであることも、そして、もう若くないことも、彼女は自覚している。
そして、一番言われたくない言葉だった……。
「だ、だまれぇええええ!」
だが……叫んでも、店長は冷静に返す。
『だってそうじゃん。29……ああもう30になったんだっけ。その年でその態度、もう一生性格変わらないだろうし。唯一のアドバンテージ失ったんじゃ、風俗でも働いてけないよ』
「うるさいうるさいいいいいいい!」
『そんじゃねオバサン』
ぶつんっ……!
公園でひとり、うつむいて震える。
「私は、世間知らずじゃない! 年増なんかじゃない! 私は……私は!」
だが……彼女の脳裏にフラッシュバックする。
それは、バイトの面接のときに、言われた言葉……。
『え、29? いやもうちょっと若い子募集してるんだよねぇ』
『ちょっと舐めすぎだよあんた。正直、今まで見てきたなかで一番態度悪かったね』
『あなたみたいな社交性のないひとを、うちで雇うわけには行きませんね……』
……そう、ミサエは同じ言葉で、面接を弾かれ続けた。
「働く事って……仕事を見つけることってこんなに……大変だったの……」
かつて、岡谷、元夫は、ラノベ作家だった。
ミサエは岡谷を馬鹿にしていた。
ガキの読み物を、バカみたいに、夜中まで一生懸命、夫は書いていた。
寝る間も惜しんで、書いたり消したりして、体調を崩しかけながらも書いていた。
バカじゃん、とミサエは思った。
こんなくだらない本に、そこまで力を入れる必要あるのかと。
そしてあれだけ頑張っても、岡谷の本は売れなかった。
打ち切りを、編集者から言い渡されたとき……。
岡谷はその場で崩れ落ちて、涙を流していた。
……それを見て、ミサエは。
『え、きもちわる……』
夫が泣いてる理由が、まるでわからなかった。
どうせ打ち切りになるのなら、テキトーに文章を書いてぽいっと投げれば良いのに、とさえ思っていた。。
彼女は、何もわかっていなかったのだ。
働くことの大変さも、彼が流した汗と涙の理由も……。
と、そのときである。
「もしもーし、こんばんはー」
深夜の公園で騒いでいたからか、警察官が、ミサエに声をかけてきたのだ。
ミサエは、すっかりトラウマになっていた。
また、捕まるのではないかと。
「な、何もしてない! 何もしてないからぁああああああああ!」
ミサエは急いで、その場から逃げる。
警察から怯えて逃げるなんてまるで、犯罪者ではないか。
そのことが、屈辱でしかたなかった。
「くそっ! ちくしょぉおおおおおお!」