33話 前の職場に戻ってお願いと土下座されたけどもう遅い【元編集長】
俺は前の職場の編集長から、呼び出しをくらった。
ほどなくして、待ち合わせ場所の、駅前のファミレスへと到着。
奥の席へと向かうと……。
「十二兼……さん……?」
そこにいたのは、見るも無惨な姿の、女編集長がいた。
「岡谷くん……」
かつての彼女は、できる女然とした、ぴしっとした格好だった。
だが……今はどうだろう。
目には大きな隈、髪の毛も肌もボロボロ。
見るからに寝不足で、体調不良なのか、ふらふらしていた。
「ごめんなさいね、足を運んでもらって……」
「いえ……大丈夫ですけど」
彼女はふらふらと立ち上がると……。
その場で、膝を着いて、頭を下げてきた。
「お願いします、岡谷くん! うちにまた戻って、私の下で働いてください!」
……突然のことに、この人は何をしているのだろうか、と戸惑う。
だが……俺は気づく。
彼女が……土下座しているのだ。
「私が間違っていたわ! どうか……どうか……! うちに戻ってきてください……!」
★
大勢が見ているなかで、十二兼が土下座してきた。
「……なんだどうした?」「……いきなり土下座とか、どういうこと……?」
ギャラリーがこちらに注目している。
まずい、店側に迷惑が掛かってしまう。
「十二兼さん、顔を上げてください」
「顔上げたら戻ってきてくれる!?」
「なんでそうなるんですか……」
彼女が血走った目で俺を見ている。
正直、マズい。
正常な思考力があれば、こんな大勢の前で、土下座することも、大声を出すことも、社会人として間違っていることに気づけるのだろうに。
「とにかく、一旦冷静になってください」
「しかし……!」
「冷静に、店に、迷惑が掛かってます。座ってください」
うぐ……と十二兼は口ごもる。
大人しく、彼女が椅子に戻った。
俺が言うこと、だいたい聞いてくれなかった彼女が……珍しい。
「それで、どういうことなんですか? 戻ってこいとは?」
「……言葉通りよ。岡谷くん、今うちが、のっぴきならない状況にあること、知ってる?」
「ええ。多少は」
俺が元いた大手出版社タカナワは、現在、前社長の不祥事が発端となって、倒産の危機に立たされているらしい。
「倒産の兆し……じゃないわ。このままだと本当に破滅しちゃう……」
「そんなに、急を要する状況なんですか」
「ええ……」
はぁ……と深くため息をついて、十二兼がうつむく。
「カミマツをはじめ、白馬、黒姫……それに、開田先生も、みんなうちから離れていったわ。アニメ化作品の出版権も、余所にとられちゃったし……」
カミマツ先生のデジマスや僕心は、SR文庫で、文庫版としてリブートする予定だ。
王子やそのほかの先生もまた、別のレーベルで出るみたいだな。
「もう……うちの出版社は、ボロボロよ。そのうえ、有能な人は辞めちゃうし……ビルも、追い出されて……今はもう、雑居ビルにすし詰め状態よ」
前の出版社が入っていたビルは、今度SR文庫がそこに入ることになっている。
「タカナワが苦境の今……救世主たりえるのは岡谷くん、あなただけなのよ」
「買い被りすぎです」
「いいえ、あなたがいなくなって、私はあなたがどれだけ優秀だったのか、気づかされたわ。うちのレーベルを水面下で支えていたのは岡谷くん、あなただってことを」
十二兼は、テーブルにごんっ! と頭を付けて言う。
「お願い岡谷くん、戻ってきて」
……なるほど。
ようするに、俺に戻ってきて、レーベルを立て直して欲しいと言ってるのだろう。
だが……。
「すみません、お断りします」
「なっ……!? ど、どうしてぇっ?」
目をぎょろりと剥いて叫ぶ十二兼。
「俺は、もうSR文庫の人間です」
「で、でも……でもぉ~……うちのほうが大きな出版社よぉ? 社会的な地位は、信頼は、うちに居た方が大きいわよぉ」
……この人は、今更何を言っているのだろうか?
「会社の大きさなんて関係ありません。俺は、上松さんがいるから、今の職場を離れたくないだけです」
クビになった俺に、一緒に働かないかと手を差し伸べてくれたのはあの人だけだった。
俺は、上松さんを裏切れない。
「社会的な地位って言いますけど、今、タカナワにどれだけの地位が残ってるんでしょうね」
「ぐ、そ、それはぁ~……」
さっき自分で、出版社の経営がピンチだと言ったばかりではないか。
俺でなくても、今のタカナワに戻りたいやつなど、いないだろう。
「俺は上松さんとSR文庫とともに、この先もずっと働くつもりです。なので残念ですけど、十二兼さんの誘いはお断りします。失礼します」
「ま、待ってぇ……!」
がしっ、と十二兼が俺の腕をつかむ。
「あなたは捨てるのぉ!? この私が、元上司が! こんなに困ってるのに! こんなにも頼んでるっていうのに!?」
「そもそも……俺を捨てたのは、あなたじゃないですか」
「そ、それはぁ……」
「俺なんかよりも、優秀な人はたくさん居るでしょ? だいいち、そっちには木曽川がいるじゃないですか」
木曽川、俺の妻ミサエと浮気していた、最低野郎の名前だ。
「俺より木曽川のほうがいいんですよね? そう言ってたじゃないですか」
確かに、十二兼は、俺をクビにするときに、木曽川を引き合いに出してこき下ろしてきた。
だが……彼女の顔には、憤怒の表情が浮かぶ。
「あんな使えないクズ! もうとっくの昔にクビになったわよ!」
「は? クビ……ですか?」
「上からのお達しがもしなかったとしても、私がクビにしてやってたわよ!」
だん! とテーブルを殴りつけ、忌々しげに言う。
「仕事はできない! 取引先は怒らせる! 極めつけに……わ、私というものがありながら、浮気してやがったのよ、あいつぅ!」
ああ、またか。
あいつ、同じようなこと、ほかでもやってたんだな。
学習しないヤツだ。
「あんなクズよりあなたの方が何万倍もマシだった! お願い岡谷くん! 戻ってきて!」
……何を本当に、今更言ってるのだろうか。
「十二兼さん……覚えてますか? 俺をクビにした理由?」
「え……? え、っとぉ……」
……どうやらこの女、俺をクビにした理由を忘れてしまっているようだ。
部下に、本当に興味ないんだな、こいつ。
「あなたはこう言いました。俺が、木曽川の恋人と浮気してたって」
「あっ……!」
俺の言葉と、そして自分が浮気されたことで……。
十二兼はようやく、気づいたのだろう。
木曽川が嘘をついていて、俺がはめられたことに。
「あなたのような部下を信じない人の下に、仕える気はサラサラありません」
「ああ……そんな……」
「俺はちゃんと言いましたよね。木曽川が浮気したって。聞く耳を持たなかったのはあなたですよね?」
「あ……あ……」
俺を引き留める気は、もう彼女にはないのだろう。
そう、結局は自業自得なのだ。
「失礼します」
力なくうなだれる十二兼を余所に、俺はファミレスを出て行ったのだった。