32話 ホワイト出版社の夏休み
そろそろ7月も終盤にさしかかってきた。
俺はSR文庫の雑居ビルで、編集長の上松さんと打ち合わせしていた。
「は? 引っ越し……ですか?」
ビルの端っこで、俺は編集長とアイスコーヒーを飲んでいる。
「うん、そう。ほら、今うち手狭でしょ? だから新しいビルを借りようかと思って」
「ビルって……どこですか?」
「タカナワのビル」
「ぶっ……げほごほっ」
急に上松さんは何を言っているのだろうか。
タカナワ、つまり、俺や編集部が元々居た出版社のビルだ。
「いや……え、そんな金あるんですか?」
「うん、これがね、あるんだよ。不思議なことに」
上松さんは首をかしげながら言う。
「実は開田グループがうちの出版社の出資者になってくれたんだ」
「は……? 嘘でしょう?」
「ねー。岡谷くんもそう思うよね。僕もびっくり」
「その割にはいつも通りのような……」
「ははっ、驚きすぎて感覚麻痺してるのかもね。ともあれ、タカナワがビルを撤退するみたいだから、そこの空いたビルをありがたく使わせてもらうってことになったの」
しかし……開田グループか。
ファミレス、銀行、そのほか諸々。
日本で開田グループの傘下じゃない企業なんてあるのか、というレベルで、開田グループは力を持っている。
そんな大企業が、なぜうちの出資者になったのだろうか……?
「先日ね、向こうから打診があったんだ。なんでも、ぼくらの方針に感動したんだってさ」
俺たちの前には、3冊のラノベが置いてある。
【SR文庫】の、創刊ラインナップだ。
業界ナンバーワンの作家【カミマツ】。
AMOの作者【白馬 王子】。
期待の新人【黒姫 エリオ】。
「もしかして、この3人がうちで書いてもらえたのって……」
「開田グループの出資があったからだね。金がなきゃ、とてもじゃないけどこの面子の本を出せてなかったよ」
上松さんの理想、それは、埋もれていく才能を伸ばす、そんな出版社を作りたい。
だがそれには、文庫としての知名度をあげる必要があるも事実。
だからレーベルの宣伝もかねて、今回、この超大物3人に書いてもらうことになったのだが……。
「なるほど、そんな経緯があったんですね。オカシイとは思ったんです、この3人に書いてもらえるなんて」
「まあ1人はコネみたいなものなんだけどね」
あはは、と上松さんが苦笑しながら言う。
この人はかなり顔が広い。
出版社だって、普通思い立ってすぐできるものじゃない。
それを実現できたのは、ひとえに上松さんの人徳のなすところだろう。
「いやいや、優秀な右腕である副編集長の君がいたからこそだよ。レーベル立ち上げ、手伝ってくれて本当にありがとうね」
「いえ、これからです。8月の創刊ラインナップ発売に向けて、頑張りましょう」
俺と上松さんは、がしっ、と手を組む。
「ところで夏休みのことなんだけど」
「は……? な、夏休み……ですか?」
「うん。ぼく、ちゃんと夏休みを社員には取ってもらいたいって思ってるんだよね」
あっけらかんと、上松さんが言う。
「いや……あの、編集者に夏休みなんて、普通ありえないですよ。ただでさえ、週休二日はオカシイって言われてるのに」
「まあね。ただぼくは、会社の利益より、社員や作家さん達の幸せを優先したいんだ」
……ほんと、この人の後についていって良かったな。
「夏休みは10日くらい想定してるんだけど」
「と、10日……ですって?」
「え、ぼくなにかおかしな事言った?」
きょとん、と上松さんが首をかしげる。
いや、おかしい。
社会人になれば誰もがわかることだ。
夏休みなんて、5日もあれば多い方、無くても不思議じゃない。
なのに、10日ももらえるなんて、これは異常だ。
「あ、かんちがいしちゃあいけないよ」
そ、そうだよな……まさか社会人になって10日も、夏休みがもらえるわけない。
きっと有給休暇として与えられてる休みを使って、10日分休めって事だろう。
「有休にプラスして10日の夏休みを使って良いんだから、もっと長く休んでもいいんだよ?」
「ゲホッ……! ごほっ! ごほっ……!」
「だ、大丈夫かい岡谷くん? ぼく……なにか気に障るようなこと言ったかい?」
……こ、この人は、トンデモないことを言っている自覚がないのだろうか?
ただでさえ、この出版社では、有給休暇として、年に20日もくれる。
そこに加えて、年末年始は休みだし、夏休みとして10日も休んでいいだって……?
「それで、ここ、回していけるんですか?」
「もちろん。人も増やしたからね」
「そういえば、知らぬ間に佐久平以外の編集や、バイトの人も増えてきたのって」
「うん。ぼくがヘッドハンティングしてきた。と言っても、前の職場辞めた人たちを拾ってきただけなんだけどね」
上松さんは今日の朝刊を手に取って広げる。
そこには、【タカナワ 崩壊の兆し】の見出し。
中津川前社長の解任をきっかけに、タカナワは不祥事がボロボロと発覚。
事業縮小、社員数もドンドンと減っていっている。
「倒産するんじゃないかってもっぱらのウワサだよ」
「でも……そのウワサ、実現しかねないレベルですよね。TAKANAWAブックスで出してた作品も、どんどん余所に出版権が移ってますし」
「ねー。まさかうちで【デジマス】と【僕心】の続き出すことになるなんて、夢にも思ってなかったよ」
デジマス、僕心。どれも超人気作家、カミマツ先生の作品だ。
もともとはTAKANAWAブックスで出していたのだが、出版権がうちに移ってきたのだ。
「カミマツ先生……大人の汚いゴタゴタに巻き込まれて、モチベーション下がってないといいんですけど」
「んー? 大丈夫じゃない?」
もの凄いあっけらかんと、上松さんが答える。
「そんな……カミマツ先生はまだ高校生、繊細かつ多感時期なんですから、我々がしっかりサポートしてあげないと」
「いやいや大丈夫大丈夫。今日も元気にハーレム……じゃなかった、友達と遊んで居るみたいだからね」
「そういえば、カミマツ先生……勇太くん、もう夏休みでしたね」
そう、何を隠そうこの人、超人気作家カミマツ先生の父親なのだ。
だが、前の職場では、それを信じない輩がかなり多かった。
さらに、カミマツ先生がいるからこそ、副編集長になれたのだと口汚くウワサしている人たちもいた。
でも俺は違うと思っている。
この人は別に、カミマツ先生の父親じゃなくても、優秀で、いい人なのだ。
「子供達も夏を謳歌してるんだ。大人であるぼくらも、しっかり休んで、夏に備えようじゃないか」
「なるほど……わかりました。そういうことなら。遠慮なく休ませてもらいます」
「うん、しっかり休んでね」
「上松さんはいつ休むんですか?」
「ぼくはお盆の時期に妻の実家に帰る予定だから、そこで休ませてもらえれば良いよ。先に……というか、もう今日から休んで良いよ」
「ほ、本当に……?」
「うん、本当に」
……いつも思うが、ここの出版社はホワイト過ぎる気がする。
朝9時出勤、18時退社。
残業は基本させてもらえない。するなら事前に申告し、超勤分は払ってもらえる上に、手当まで出る。
そのうえ土日祝日完全に休みなのだから、前のブラック出版社と比べて、そのホワイトさが際立つ。
「あ、そうだ、今日は午後から、るしあ先生と打ち合わせだったね。今日は打ち合わせ終わったらそのまま上がっていいよ」
「わかりました。では、上松さん。夏休み、いただきます」
俺は荷物をまとめて、立ち上がる。
「せっかくの夏休みだ。どこか出かけてくるといい」
「出かける……そうか。そうですね」
うちにはJK2人が家で待っている。
あかりはバイト、菜々子は基本引きこもっている。
彼女たちを預かる以上、どこかへ連れて行ってあげるのも、保護者代行である俺の役割だな。
「アドバイスありがとうございます」
「うん、楽しんできてね」
俺は出版社をでる。
午後からるしあとの打ち合わせがあるので、そちらに向かおうとした……そのときだ。
プルルルルッ♪
電話が掛かってきた。
【十二兼 利惠】
前の職場で上司だった、女編集長だ。
「…………」
正直、出るかどうかでかなり迷いがあった。
今更あの女が、俺に何の用事があって、かけてきたのだろう。
だが、何かあってかけてきているのだろうから、出ないのは社会人として失礼だ。
「はい、岡谷です」
『……岡谷君。十二兼よ、ひさしぶりね』
電話口に聞く彼女の声は、憔悴しきっていた。
「お久しぶりです。どうしたんですか?」
『……実は、あなたに直接会って話したいことがあるの』
彼女の切羽詰まった声。
よほどのことがあるのだろうか。
ちら、と腕時計を眺める。
るしあとの打ち合わせまでには、まだそこそこ時間があった。
「わかりました。午後に用事があるので、それまででしたら」
『ほんと!? ありがとうっ! ありがとう!』
……まだ話を聞くって言っただけなのだが。
何を感謝しているのだろうか。
「駅前の……ファミレスでお願いします。それでは」
駅前のカフェではあかりが働いているからな。
さすがにもう、大人の話し合いに、あの子を巻き込みたくない。
俺はLINEで、るしあに連絡を入れておく。
『打ち合わせ、ひょっとしたら少し遅れるかも知れない。間に合わないようなら、悪いが少し待っててくれ』
するとすぐ、OKのスタンプが帰ってきた。
「よし……」
俺は意を決して、十二兼との話し合いの場へと向かう。