29話 女友達の家に泊まる
俺は大学の頃の友人、贄川 一花を、家に届けた。
終電を逃してしまったので、彼女の家で一泊することになった。
マンションのベランダにて。
「もう寝てるだろうが」
俺はLINEで、あかり達に、今日は一泊する旨を書いて、メッセージを送る。
1秒で、既読がついた。
ぷるるるるるるっ♪
と思った、あかりから着信があった。
「どうした、こんな夜中に?」
『いや、おかりん。どうしたじゃないよ。泊まるって、どゆこと?』
あかりの声には、俺を気遣うニュアンスが含まれていた。
多分俺が帰るのを待っててくれたのだろう。
優しいヤツだ。そして、申し訳ない。
「すまん、大学の友達を家に届けたら、終電を逃しちゃってな」
『ふーん……女?』
「? なんでわかったんだ?」
『やっぱし……。てかさーおかりんさー……ちょっとは言い訳してよ。取り繕ってよ。なんか凹む』
凹む? なんで凹むのだろうか。
はぁ、とあかりがため息をつく。
ああ、なるほど。子供を預かる保護者なのに、ほっといて朝帰りはどうだろう、と呆れてる訳か。
「すまん。ただ彼女も大分酔っててな。置いとくわけにはいかなかったし」
『いやあの……そーゆーことじゃなくて。だから……【これは浮気とは違うんだ!】とか、【あかりが一番だから誤解しないでよね】とかさー』
「お前の言いたいことはわからん」
『むぅ~……凹むわ~……これじゃ完全に保護者じゃん、アタシらの……』
「何言ってるんだ、おまえらの保護者の代わりだよ、俺は」
しばし、沈黙があった。
やがて、小さくため息をつく。
『わかった。お姉にも言っとく。おかりんが、大学時代の親しかった女と一泊したって』
「ああ、悪いな、伝えておいてくれ」
『だからぁー……はぁ。遠いなぁ~……。いいなぁ~……その人』
「夜分に電話させてすまなかった。明日は早く帰るから」
『あいよー。おやすみおかりん』
「ああ。おやすみ」
俺は電話を切る。
夏休みといえ、こんな遅くまで、高校生を起こしてしまった。
次から外泊するときは、もっと早めに連絡しておこう。
「岡谷くん」
振り返ると、風呂上がりの贄川がいた。
濡れた黒髪を、タオルで拭いている。
水色のシンプルな、しかし少し透けて見えるタイプの寝間着だ。
「お風呂上がったわ。次、入るでしょ?」
「いや、俺は良いよ」
ひとんちの風呂を使わせていただくのは忍びない。
それが年頃の女性のならなおのことだ。
「……岡谷くんは、シャワー浴びないでやるほうが、好きなのかしら」
「? どうした?」
「なっ……!? ななな、なんでもないわっ!」
風呂上がりだからか、首の根元まで真っ赤にして、贄川が叫ぶ。
「風呂は明日家に帰って入るよ」
「そ、そう……じゃ、じゃあ……寝ましょうか」
「そうだな」
「……ついに、約10年越しに、ようやく、このときが来たのね」
贄川が、ごくり、と息をのんで、真剣な表情で、寝室へと向かう。
俺は……。
リビングのソファに座り、寝転ぶ。
「おやすみ」
「待って岡谷くん待って」
「? どうした?」
贄川は頭を手で押さえて、言う。
「寝ないの?」
「? 寝るけど。ああ、ソファ借りるぞ」
「いや……そうじゃなくて……え? この雰囲気で……え? もしかして……本当に寝るだけ」
贄川が困惑顔で言う。
「おまえは何を言ってるんだ?」
「何って、だからセッ……」
「せ?」
「くぁ~~~~~~~~~~!!!!」
贄川はその場にしゃがみ込んで、子供のように丸くなる。
「ど、どうした急に?」
「……ううん、なんでもない。こっちが一方的に暴走しただけだから……」
贄川は髪を拭いていたバスタオルで顔を隠しながら言う。
「……28にもなって、なに処女みたいな勘違いしてるの、あたし……いや、処女だけど」
「どうした贄川?」
「なっ、なんでもないわ」
はぁ……と贄川がため息をついて立ち上がる。
「ソファで寝るくらいなら、一緒にベッドで寝ましょ?」
「おまえ……それはダメだろ。お互い大人なんだし」
「それ以前に、あたしたち【友達】でしょ。友達がこんなとこで寝て風邪引くのなんて、看過できないわ」
贄川は俺の体調を気遣ってくれているようだった。
ここで色々言うのも、逆に失礼に当たるだろう。
まあ正直いい年した男女が同じベッドに寝るのはどうかと思うが、贄川の言うとおり、俺たちは友達だからな。
「ありがとう。じゃあ、遠慮なく……って、どうした?」
贄川がその場にしゃがみ込んで、また体を丸くしていた。
「……あっさり承諾しすぎよ。ちょっとは動揺したり、取り繕ったりしなさいよ……凹むなぁ」
あかりといい贄川と良い、女心はわからないな。
★
贄川のベッドルームにて、俺は同じベッドで、彼女と供に横になる。
時刻は2時半を回っている。
時計の針が進む音だけが寝室に響いていた。
「……ねえ、岡谷くん」
ぽつり、と贄川が言う。
「……まだ起きてる?」
「……ああ」
「……そう。ドキドキして眠れないの、少し、話し相手になって」
「……ドキドキ? ああ、酒飲んだからか」
寝る前のアルコールは興奮作用を起こすから、あまり良くないらしいな。
「ぐっ、今すぐ一本背負いぶち込みたいわ」
贄川は体をこちらに向ける。
長い髪と、大きな胸が、重力に従って垂れている。
月光に照らされた彼女の白い肌と黒い髪は、とても美しく、少し、どきりとしてしまう。
「ねえ、さっきの話だけど、あの頃の夢はもう、追わないの?」
俺は大学時代に、ラノベ作家をやっていたことがある。
「【人に夢を与えられるような作品が作りたい】……じゃなかったの?」
「おまえ……覚えてたのか、それ」
意外だった。
もう七年も前のことだから、てっきり忘れているかと思った。
「覚えてるわよ。当たり前じゃない。素敵な夢だなって……今も思ってるわ」
……失った夢について褒められても、俺は嬉しくなかった。
けれど彼女が意地悪でそんなこと蒸し返しているのではないくらい、俺にはわかった。
「あたしね………………好きよ」
贄川は恥ずかしそうに、顔を赤らめる。
「も、もちろん岡谷くんの作品のことだから、か、勘違いしないでちょうだいね」
あわあわ、と贄川が慌ててそう言う。
勘違いも何も、作品の話をしているのではないのだろうか?
「おかたに先生の作品……人が死ぬような劇的さはないけど、登場人物達の心理描写が丁寧で、苦境の中でみんな必死に、その世界を生きてるって、読んでて伝わってくる……素敵な作品よ」
「……そう言ってくれるのは、贄川だけだよ」
俺は、彼女の真っ直ぐな瞳を見てられなくて、背中を向ける。
……かつて作者が、そうしたように。
「今思えば、俺の作品はてんでだめだった。流行を取り入れられてない。今どきストレスの掛かるような展開は読者離れを起こす。活字離れが激しい昨今、ページいっぱい埋めるような心理描写は、読者のストレスになりかねない」
「岡谷くん……」
「おかたには……7年前の俺は、何もわかっちゃいなかった。売れなくて当然だ」
「でも……今はわかるんでしょう? なら、もう一度……書こうって、思わないの?」
小説家として、もう一度トライしないのか、ということを、贄川は言いたいのだろう。
それについては、俺はもう結論が出ている。
「書かないよ」
俺が即座に答えると、贄川の顔が曇る。
なんでそんな悲しい目をするんだろうか。
「……どうして?」
……このことについては、あまり答えたくなかった。
けれど黙ったり嘘ついたりすることはできない。
目の前にいるのは、大学時代を一緒に過ごした、大事な友達だから。
「俺の、作家としての夢は、もう終わってるから」
「……夢が、終わってる?」
「ああ。俺は、三冊本を出した。でも、結果は惨敗だった。俺は、わかったんだ。この両手には、人に夢を見せられるだけの力が備わってないって」
「そんなこと……ないよ」
「あるんだよ。じゃあなんで売れなかったんだ? 俺が、あれだけ努力して、死ぬ思いをして、身を削って書いた作品が……」
……彼女の悲しそうな顔を見て、俺は我に返った。
ダメだな、この話題になると、俺は自分を制御できなくなる。
「……ごめんなさい。軽率だったわ」
「いや……俺の方こそ、すまない」
向こうは、俺のトラウマに触れてしまったと思ったのか、それ以上は何も言ってこなかった。
俺も俺で気まずかった。
でも、彼女に誤解をしてほしくなかった。
だから、俺は言う。
「贄川……勘違いしないでほしいんだ。俺は別に、もうすべてをあきらめたわけじゃない」
「……え? カムバックするってこと?」
「違うよ。俺は自分に折り合いをつけたんだ。夢のかなえ方を、替えたんだよ」
どういうことかわからないのか、贄川は首をかしげる。
「世の中には、たくさん、人に夢を与えるような、すごい作品を作れる、本物の天才たちがいる。カミマツ先生や……王子とかな」
白馬 王子。彼もまた天才だ。
AMOは全世界の子供たちに、夢と興奮を与えられている。
俺が、したくても、できなかった事を、出来る人たちがこの世にはいる。
「俺はその人たちに夢を託したんだ。自分で、夢を与える作品を書くんじゃなくて、人に夢を与える作品作りを、サポートしようって」
「だから……編集者になったの? 作家になることを止めて」
「ああ。作品を作るって意味じゃ、今も昔も、やってることは同じだろ?」
自分で書くか、一緒に作るかだけの違いに過ぎない。
「俺の夢はさ、形は変わっちゃったけど、今も俺の中にちゃんとある。だから悲観しなくていいんだよ」
俺は、言いたいことを全部、贄川に伝えた。
これでいいんだ。これで……
「…………」
「贄川?」
彼女は、俺を、正面から抱きしめてきた。
俺を抱き寄せて、その大きな胸に、押し当てる。
「おい? どうした、急に?」
「……ごめんなさい。見てて、痛ましくて」
痛ましい?
どういうことだろうか?
「……岡谷くんの、覚悟と決意を、否定することは、しないよ。けどね……あたしは、あなたにもう一度、書いてもらいたい。あなたのお話を、読んでみたい」
贄川が言っているのは、俺にもう一度、作家として書けということだろう。
おかたに、として。売れない作家として。
「……無理だ」
「どうして?」
「俺には、王子みたいな、輝く才能がないから」
俺にできるのは、せいぜい、埋もれている才能の原石を見つけ出して、磨き上げて、世に出すこと。
俺の仕事は、人に夢を与える宝石を作ることであって、俺自身が輝く宝石になることじゃない。
「でも……待っている人、いるよ。あなたの作品を」
「……いないよ。そんなやつ、どこにも」
そのときだ。
贄川は俺の両頬を、両手で包み込む。
頬を真っ赤に染めた彼女は、目を閉じて、俺の唇に……
自分の唇を、重ねてきた。
「んっ……」
熱い吐息と、甘く、蕩けるような、彼女のぬくもりが……
俺のなかに入ってくる。
贄川は、俺に、キスをしたんだ。
彼女は唇を離すと、目をそらす。
全身の白い肌が、真っ赤に染まっていた。それくらい、恥ずかしかったのだろう。
「どうして……?」
俺は突然のことに困惑していた。
友達である彼女が、どうして俺なんかに……。
「岡谷くんのことが……」
贄川は、口を開けたまま、二の句が継げずにいた。
何度も、何かを言いかけて、しかし、何も言えないでいる。
「岡谷くんが……元気が出来るように、おまじない」
一瞬、ドキッとしてしまった。
あの雰囲気で、まさか告白されるかも、と思ってしまった。
友達だと思っていた人と、恋人になるかもしれないと。
そう思ったとき、俺は少し怖かった。この心地よい関係が、崩れてしまうことを、恐れた。
けれど、少しだけ。
胸の高鳴りを感じたのは、事実だ。
まあ不発だった、というか俺の勘違いだったので、がっかりしたが。
「ふふっ」
贄川が微笑んで、俺をぎゅっと抱きしめる。
その大きな胸に、甘い匂いに、あたたかな体に、俺は癒される。
「岡谷くんも、動揺するんだね」
「当り前だろ。なんだと思ってるんだよ」
「仙人とか。もしくは枯れ木?」
「なんだそりゃ」
贄川は抱擁をとくと、静かに笑う。
「これから、辛いことがあったら、まずあたしに言って。なんでも聞くわ」
「いや、そんなストレスのはけ口みたいなこと、できないよ」
「いいから。あたし、望んで、岡谷くんのはけ口やろうとしてるんだもん。気にしないで」
「気にするって普通は」
んー、と少し贄川が考えて、こういう。
「じゃあ、週一で、あたしとどこかでかけない? 昔みたいにさ」
贄川からの提案は、そんな魅力的なものだった。
「大学の時と全く同じってことは無理だろうけど、あの楽しかった頃を思い出せたら、岡谷君も少しは、楽になれるかなって」
「……どうして、そこまでしてくれるんだよ」
彼女は眼を点にすると、頬を指でかき、顔を赤くして言う。
「……ここまで言ってもわからないか」
「え?」
「ううん、それはね、岡谷くんが、大事な友達だからよ」
贄川がぎゅっ、と俺をまた抱きしめてくれる。
俺は、心地よくって、その手を振りほどけなかった。
「あたし、待つわ。ずっと、ずっと。岡谷くんがまた、自分の夢に誇りを持って、自分の手だけで、人に夢を与える日が来るのを」
ぱっ、と贄川は俺から手を放すと、最高の笑顔で言う。
「だってあたし、【おかたに】先生の……ううん」
美しい瞳で俺を映しながら、まっすぐに言う。
「岡谷くんの、一番のファンですもの」
★
翌日、俺は贄川に自宅まで送ってもらった。
自宅の入り口にて。
「贄川、おまえ、どうしたんだよ。今朝からずっとしょぼくれて」
朝起きてからにはじまり、飯を食って、ここまで運転してくるまで間中、ずっと贄川はうーうーうなっていた。
「……あの流れで告白できない、ヘタレなあたしの背中を蹴飛ばしたい」
「え?」
「な、なんでもないわ。二日酔いよ、うん、二日酔い」
「そうか。気をつけてな」
贄川は、ぴしっとした格好をしている。
スーツにサングラス。これから出勤だそうだ。
「岡谷くん、昨日のことだけど……本気だから、あたし」
週一で遊びに行くってことだろう。
「ああ、わかった。また連絡するよ」
「ええ、待ってるわ」
贄川はそう言って、車に乗り込むと、軽快に走りだした。
一人取り残された俺は、振り返って、自宅へと向かう。
妻と別れて、辛かった気持ちは……。
こうしてたくさんの人たちに触れ合うことで、俺はいつの間にか、辛さを忘れている。
……一度変えた夢は、簡単に変えられないけれど。
変えようと努力することはできる……。
といいな、と思ったのだった。