28話 酔った女友達を家まで送る
俺は大学時代の友人たちと飲み会をした。
夜、俺は友人の一人、贄川 一花を家まで送り届けることになった。
「…………」
俺たちはタクシーに乗っている。
「……すぅ……すぅ……んぅ」
俺の真横で……贄川は眠っていた。
彼女は自分の家の住所を告げて、数分もしないうちに船をこぎ出した。
そして10分後には、熟睡していた。
「……ん……ぁ……ん」
俺の肩に、贄川が頭を載せている。
あらためてみると、7年ぶりの彼女は、昔以上に美しくなっていた。
真っ白な肌、整った顔、長いまつげ。
胸は、大学時代よりも一回りくらい大きくなっているような気がした。
彼女と触れる肩の感触も、あの頃より柔らかく感じる。
アルコール混じりの吐息にまじって、髪の毛からふわりと、甘い果実のような香りが鼻腔をくすぐった。
正直、性的な魅力を感じないわけではない。
だが、酔って眠っている女性に、手を出すなんて真似はしない。
「お客さん、到着しましたよー」
ほどなくして、タクシーが贄川の家の前で停止した。
都内のマンションに住んでいるようだった。
俺は支払いを済ませたあと、贄川の肩を揺する。
「おい、ついたぞ」
「んぅー……」
だがいくら肩を揺すっても、贄川は目を覚まさない。
「彼氏さん、早くカノジョさん起こしてくださいよ」
運転手が苛立げに言う。彼氏ではないがまあ。
だが贄川が目を覚ます気配はないし、早く降りないと迷惑が掛かる。
「……先に謝っとくからな。よいっ、しょ」
俺は断りを入れて、一度タクシーから降りて、彼女をおんぶする。
「……んんっ」
「意外と、軽いな」
背中に柔らかく、しかし張りのある弾力を感じる。
彼女が呼吸するたび、ぐにぐに、と柔らかな感触が当たる。
……早めに下ろしたいな、これは。
「おい、何階だ?」
「うぇー……」
「いや上じゃなくて、何階の何号室だ?」
「んぅー……にゃにゃまるにゃにゃ」
707号室らしい。
酔っ払っているからか、果てまた眠いからか、贄川はろれつが回っていなかった。
俺は贄川を負ぶさった状態で、マンションの中へと入る。
エレベーターに乗って、マンションの七階へ。
入り口もかなり広めで、中も結構高そうだ。
俺はエレベーターを降りて、707号室へと到着。
「贄川。鍵はどこだ?」
「ぅー……きぃ……?」
「鍵だ、鍵」
「うきぃー……」
「猿かお前は」
もぞもぞ、と贄川がハンドバッグをあさって、キーケースを取り出す。
俺は鍵を開けて、無事、中に入ることができた。
「贄川、邪魔するぞ」
「……ん」
あともう少しだ。
俺は彼女を連れて、部屋の奥へと向かう。
一人暮らしの女性にしては、部屋数が多く、また広かった。
寝室らしき場所を見つけて、中に入る。
中は、実にシンプルな内装だった。
デスクに姿見、そして本棚。
窓際に高そうな、大きめのベッドが1つあった。
俺は彼女をベッドまで連れて行き、仰向けに寝かせる。
「……んぅ。……ん……」
仰向けに寝ているのに、贄川の胸は形を保ったままだ。
いや、いかんな。寝てる女の胸を凝視するなんて。
「じゃあ、俺は帰るよ、贄川」
家に寄っていけとは言われたが、相手が寝落ちしている状態では、どうしようもない。
俺は立ち去ろうとした……のだが。
「……って」
きゅっ、と贄川が、俺の手を握ってきたのだ。
「おい、おまえ……」
「……やだ。……いかない、で」
贄川は眠っている。
その目のはしから、涙がこぼれていた。
「……お願い、おかやくん……そっちに、いかないで。あたしの……そばにいて」
……彼女は熟睡している。夢を見ているのだろう。
夢の中で、彼女は俺を引き留めているのだろうか。
俺は、どこへ行こうとしているのか。
起きた彼女に尋ねても、多分、それはわからないだろう。
「…………」
いかないでと、俺の手を握る彼女を……俺は振り払うことはできなかった。
せめて、目を覚ますまでは、ここにいよう。
俺はスマホを取り出して、あかり達に連絡を取る。
帰りが遅くなることをLINEすると、OKのスタンプが帰ってきた。
「ふぅ……」
贄川は起きそうにない。
かといって、一緒に寝るなんてもってのほかだ。
と、そのときだ。
「え……?」
俺はふと、ベッドサイドにある、本棚が目についた。
自己啓発本や、ビジネス書など、硬い本の中に混じって……【それ】があった。
「なんで、【こんなもん】が……」
俺は贄川を起こさないように、慎重に、彼女の手を離す。
ゆっくりと起き上がって、本棚に近づく。
俺が手に取ったのは、1冊の、ラノベだ。
著者名は……【おかたに】。
俺が、大学の頃に書いて、出版した本だ。
「どうして……俺の本が……?」
本棚に刺さってた、【おかたに】のラノベは、3冊。
どれもナンバリングとして【1】となっている。
だが……2巻は、ない。
3シリーズとも、【1巻】だけで、それっきり。
「…………」
俺はデビュー作を手に取る。
ぱらぱら……とめくると、奥付には7年前の日付。
もちろん初版だ。
重版なんてしなかったので、初版しかないけれど。
ーー岡谷くん、買ったよ、デビュー作。
大学の時、贄川が本を買ってくれたのを、俺は思い出す。
ぱら……とめくる。
裏表紙に、【おかたに】と、マジックペンで書かれたサインがあった。
ーーサインちょうだい、岡谷くん。ほら、きっと将来すごい作家になると思うし、今のうちからもらっておきたいな。
「……すごい作家、か」
あの頃、俺はどんな気持ちで、贄川の本にサインをしただろう。
7年も前のことだ。もう、覚えてなかった。
……けれど、7年後、俺は作家としてではなく、編集として、生きている。
それが事実で、それが全てだ。
★
「ほんっ、とうに、ごめんなさい! 岡谷くん!」
数時間後、贄川は目を覚ました。
起きた瞬間、ばっ、ばっ、と自分の着衣の乱れを確認したあと、なぜかがっかりした表情でため息をついていた。
俺たちはリビングへと移動している。
「迷惑かけちゃって、ごめんなさい」
「気にするな。友達だろう?」
俺は贄川に煎れてもらったコーヒーを啜る。
リビングもとても広く、また清潔に保たれていた。
脱いだ服など廊下に一切置いてなく、床にはホコリのひとつも見当たらない。
「あ、あのね……」
贄川は私服に着替えている。
だぼっとしたパーカーに、ショートパンツ。
まとめ上げた髪の毛をおろし、ストレートにしている。
髪を下ろすとまた随分と若く見える。
「岡谷くん、あ、あたし……変なこと、口走ってなかった?」
「変なこと?」
「う、うん……」
……ベッドに横になっていたとき、いかないで、と彼女は言っていた。
それだろうか……?
いや、でも、人から寝言について指摘されたら、恥ずかしく感じるだろう。
「いや、何も。気持ちよさそうに眠ってたぞ」
「……ほんとに?」
じとっ、と疑いの目を向けてくる。
「ああ。嘘だったら投げ飛ばしてもらってもいいぜ」
「な、投げ飛ばすなんて、しないわよ……」
「そうか? 大学の時は、よくしつこくナンパしてきた男、投げてたじゃないか」
「あ、あれは! だって向こうがしつこく迫ってきたからであって……」
俺たちは、しばし思い出話に花を咲かせる。
「いやしかし、一番驚いたのは、王子とおまえが付き合ってなかったことだな」
「付き合うわけないじゃない」
「どうして? あいつ性格も見た目もいいし、金持ちだし、優良物件じゃなかったか?」
「……あのとき、ほかに好きな人が、あたしにはいたから」
「そうなのか? 誰?」
「……ばかね、ほんと」
ふぅ、と贄川が呆れたようにため息をつく。
王子じゃないとなると、まったく検討がつかないな。
「……少しは、自分かもって思わないわけ?」
「え?」
「~~~~~~~~! い、今の……なし! 今のなしね!」
贄川が顔を真っ赤にして、ぶんぶんと首を振る。
大きく手を振りながら否定する。
まあ、ないだろう。
贄川みたいな美人女子大生が、俺みたいな根暗大学生を好きになっていたわけがない。
「楽しかったな……大学時代。白馬くんと岡谷くんと一緒に、いっぱい色んなとこいったわね」
「そうだな。王子も作家目指してたし、取材だって行って、旅行にも色々連れてかれたっけ」
「熱海に伊豆に、札幌、九州、沖縄……いっぱい行ったわね」
「ああ、夜行バスとか使ってな。……というか、今更だが、嫌じゃなかったか、俺たちに付き合って」
「嫌なわけないでしょ。だって岡谷くんとは、取材じゃなきゃ、一緒に旅行に行く機会なかったし。ずっと執筆とバイトと、それと……長野さんにつきっきりで」
長野さん、とはミサエの旧姓だ。
大学の時は、サークルには所属していなかった。
だから遊び相手は王子か贄川しかいなかった。
あとは……ミサエと、そして小説に時間を捧げていた。
「……ねえ、岡谷くん。後悔、してない?」
唐突に、贄川がそう切り出してきた。
「後悔?」
「……夢を、あきらめちゃったこと」
夢。つまり、作家になること。作家として生きていくこと。
贄川は、俺がラノベ作家を目指していたことを、知っている。
念願叶って、本を出せたことも、知っている。
同じ大学に通う、友達だったからな。
「ちょっと待ってて」
贄川は立ち上がって、寝室へと向かう。
戻ってきた手には、俺のデビュー作がにぎられていた。
……俺は目をそらした。
デビュー作が、一番見たくない。
「そんな本、まだ持ってたんだな」
「もってるよ。宝物だもの」
贄川はデビュー作を、ぎゅっ、と抱きしめる。
「おかたに先生の、サイン本第一号だもの」
贄川が愛おしげに、表紙をなでる。
彼女は俺の本を大事にしてくれていた。
それが……申し訳なかった。
「……そんなもん、後生大事に持ってたところで、何の価値もない」
「岡谷くん……」
「どうせ1年目で消えた作家の、売れなかった作品……」
気遣わしげな彼女の表情を見て、俺は……反省した。
何を当たり散らしてるんだ、他人に、俺は。
「……すまん。酔いが回ってるみたいだ。これ以上変なこという前に帰るよ」
俺は立ち上がって、贄川の部屋を出て行こうとする。
だが……。
「待って」
きゅっ、と贄川が、俺のことを、後ろから抱きしめる。
離すまいと、力強く、俺のことを抱き留める。
「岡谷くん、帰らないで」
「いや……帰るよ」
「どうやって? 終電、過ぎてるわ」
贄川が起きるまで数時間、とっくに0時は回っている。
そのあと話し込んでしまったこともあって、完全に終電を逃した。
「歩いてでも帰るよ」
「……だめ」
贄川の手が、さらに強くなる。
俺が振り返ると、彼女は潤んだ目で、俺を見上げながら言う。
「あなたを帰らせたくない。……今夜は、泊まってって……ね?」