11話 愚か者たちの破滅【元妻、浮気相手】
岡谷 光彦が新居へと引っ越してから、数日後のこと。
岡谷の元妻、ミサエは……彼が元いたマンションにいた。
「ねえ……あなた……あけて……私よぉ」
ミサエが岡谷の部屋のドアの前でそう言う。
「ねえあなた……やっぱりやり直しましょ? ねえ?」
ミサエがここへやってきた理由は、単純だ。
金が……なくなったからだ。
岡谷はミサエの実家あいてに、高級家具などを含めた私物を送った。
それらはすぐに売りに出し、結果、かなりの大金が手に入った。
……にもかかわらず、彼女はその全てをたった数日で、失った。
理由は……単純。
男に貢いだからだ。
男……つまり、浮気相手の木曽川だ。
今までみたいに、金を与えれば、またよりを戻してもらえると思ったのだ。
だが……。
「ねえあなた! ねえ! 聞こえないの!?」
中から返事がない。
どうなっているのだろうか……?
「あなた……? お願いよ……怒ってないで出て来て……ねえ! あなた! ねえってば!」
どんどんどん!
どんどんどんどんどん!
「無視しないでよ! こうして謝りに来てやってるんだから出てきなさいよ! ねえ! おい!」
やがてミサエは、岡谷が外出しているのだと考えに至る。
「あなたが……あなたが悪いのよぉ……」
ポシェットの中から、ミサエが何かを取り出す。
それは……合鍵だった。
「あなたぁ~……不用心よぉ……鍵を回収しないんだからぁ~……」
……岡谷と離婚の話をしたとき。
彼は合鍵を、回収していた。
だがミサエは実は、さらなる合鍵を事前に作って隠し持っていたのだ。
「これは盗みじゃないわ……妻が自分の家に帰って、なにが悪いのよぉ~……」
凶悪な笑みを浮かべるミサエ。
明らかに、正気を失っていた。
合鍵を……鍵穴に入れる。
がちっ!
「は? え……? なんで……?」
がちんっ! がちんっ! がちんっ!
「ちょっと! なんで開かないのよ!」
……単純な話だ。
鍵穴の形が、変わっているからだ。
岡谷はこのマンションを出る際、鍵穴も換えて出て行ったのである。
マンションの大家は、そこまでしなくていいと言った。
だが岡谷は、万一の可能性を考え、自腹をきって、錠前を新しいものに換えていたのである。
……結果、ミサエは鍵を開けられずにいた。
「あけろぉおおおおお! ねえ! あけてよぉおおおおおお! ねぇえええええええええええええええ!」
だが……いくら訴えても、中から岡谷が出てくることはなかった。
がくり……と力なくうなだれる。
「電話には……出てくれない……マンションも……なんで……? ねえ、なんでなのあなたぁ……私を、すてたのぉ……」
捨てたというより、離婚したのだが……。
しかもその引鉄を引いたのはミサエ本人であるのだが……。
ミサエは自分を悲劇のヒロインにしたてあげることで、心のバランスを保っていた。
「もう……お金もないし……だれをたよればいいのよ……」
……自分で働く、という選択肢は彼女にはない。
彼女は生まれてから今日まで、一度たりとも働いたことがない。
大学で岡谷と知り合い、結婚してからずっと、何不自由のない生活を送っていたから……。
「…………」
ミサエはスマホを取り出し、【彼】に連絡する。
何度目かのコールのあと、やっとつながる。
「く、楠男くん? 私よ……ミサエ……」
電話の相手は、木曽川 楠男。
ミサエの浮気相手である。
『あー……なに? おれ今いそがしーんすけどぉ?』
木曽川が不機嫌であるのが、電話の向こうから伝わってくる。
「ご、ごめんね楠男くん……」
『チッ……! んで、なんすか?』
「う、うん……あのね、この間のお金……届いてない? 振り込んだんだけど」
そう……ミサエは、岡谷から温情でもらった家具などを売って金を作り……。
それを、あろうことか木曽川に、全て渡したのだ。
『おお、届いてるよ。んで、なんすか?』
「え……? え、えっと……その……だから、ね? また……やり直さない?」
……ミサエは岡谷という寄る辺を失い、すぐに木曽川のもとへ戻ろうとしたのだ。
なんとも尻の軽い女である。
しかし……。
『は、ふっつーにいやっすけど』
「な、なんで……?」
『あのねぇ、オバサンさぁ。あんた、もう用済みなんだよ』
「よう……ずみ?」
『そ。用済み。おつかれっした-』
木曽川が何を言っているのか、さっぱりわからない。
だが……これだけはわかる。
彼に……浮気相手にすら……捨てられたのだ。
「ま、待って! 私たち、あんなに愛し合ってたじゃない!?」
『うっわ重っ。重すぎっすよあんた』
「重いってそんな……」
『それにおれ、ほかにも女たーくさんいるしぃ〜? あんたが居なくても問題ないわけ。悪いね』
「ほかに女も!? なにそれ! 浮気じゃない! さいてー!」
『ぎゃはは! あんただって浮気してたじゃーん。どの口がいってるのオバサン?』
……裏切られた悲しみ、そして……怒りが胸に去来する。
『最後の金だけありがたーくもらってくわ。これでもうあんたから絞れるものは全部もらったんで、とりま着拒しとくんでよろしく』
ぶつんっ、と木曽川が一方的に電話を切る。
「そんな……うそよ……うそ……うそよぉおおおおおおお!」
木曽川からも、そして……元夫の岡谷からも、見捨てられた。
両親にも……こんなみっともないこと、言えない。頼れない……。
「ねえ! あなた! 助けなさいよ! 私が困ってるのよぉおおおおお!」
と、そのときだった。
「あのー……」
「あなた!? ……って、え?」
そこには、制服を着た警察官がいた。
「け、けいさつ……な、なんで……?」
「近所から通報がありまして、大声出してるようですが……すこーしお話聞かせていただけませんか?」
警察官の背後には、大家がいた。
おそらく隣の部屋の住人が、大家に連絡し、そこから警察へ通報が入ったのだと思われる。
「いや! 違います! わたしは違うんですぅ!」
警察はただ事情を聞きに来ただけ……だが。
ミサエは、捕まるかもと思ってしまったのだ。
「違うの! 違うの! 違うのよぉおおおおおお!」
バッ……! とミサエが逃げる。
警察官が引き留める前に……彼女は惨めに泣きながら、逃げるのだった。
★
一方で、木曽川 楠男はというと……。
「はーあのオバサン、まじ気持ちわるかったわー」
木曽川は、大手出版【タカナワ】グループが持つレーベル、【TAKANAWAブックス】の編集部にいた。
「木曽川くん、どうしたの?」
「お! 利惠さん、おはよーっす!」
木曽川に声をかけてきたのは、TAKANAWAブックス編集部の編集長、十二兼 利惠だ。
30代前半にして、大手出版の編集長にまで上り詰めた才女。
そして……岡谷の才能を見抜けず、追い出した張本人だ。
「ええ、おはよう木曽川くん」
ふふ、と十二兼が微笑む。
利惠と馴れ馴れしく下の名前で呼ばれたにもかかわらず、彼女は注意することはなかった。
むしろ、そうやって女扱いされたことを、喜んでいる節さえあった。
「いやぁちょっと知り合いがしつこくつきまとってきて、困ってるんすよー」
「まあ、大変。良い弁護士知ってるわ、相談に乗るわよ」
「あざーっす! いやぁ、利惠さんまじやさしいわー! さっすが敏腕美人編集長!」
「も、もう……おだて上手なんだから……」
そう言って頬を赤らめる十二兼。
それを見て木曽川は内心で邪悪に笑う。
(相変わらずちょれーオバサンだな)
「ところで木曽川くん。そろそろ【るしあ】先生の最終巻、校了したかしら」
るしあ、とは【開田 るしあ】のことだ。
開田るしあ。
神作家カミマツ、AMOの作者 白馬 王子につづく、ラノベ業界第3位の人気と実力を持つ、ラノベ作家だ。
今このレーベルを支えている、3人の作家の一人といえる。
「ばっちりっすよ!」
「そう……ごめんね、急に仕事任せて。岡谷くんが急に辞めちゃったから、引き継ぎを頼んじゃって」
本来るしあの担当は岡谷だった。
だが岡谷は辞職したため、担当が変わったのである。
……といっても、るしあの原稿は岡谷とほぼ作り終わっていたので、木曽川のやることはほぼないに等しかった。
ただ……。
「問題ないっす! るしあ先生とも仲良くやれそうですし!」
「そう……良かった。【せんもし】はこれで終わりだけど……るしあ先生には、まだまだ書いてもらわないといけないから、次回作も頼むわよ」
「【せんもし】終わっちゃうのかー。ドル箱コンテンツなくなるの痛手っすよね。出せば金になるのに、なーんで自分から終わらせるんすかね、るしあ先生」
せんもしとは、【先生、もしかして……死んでるんですか?】。ラノベのタイトルだ。
開田 るしあのデビュー作だ。
新人賞の応募作である。
……ちなみに、せんもしを見いだしたのは、岡谷であった。
「ねー利惠さん。せんもしって、本当だったら落選するはずだったのって、まじっすか?」
「ええ、そうよ。サスペンスものってラノベじゃうけないからっ、ってわたし落とすつもりだったの。けど岡谷くんが待ったをかけたの」
岡谷は本来なら大賞にしようと、強く推していた。
だが一度落選させた作品に、大賞は与えられない……
となり、結果【佳作】となって、岡谷と改稿を重ね、るしあはデビュー。
だがその年の大賞作品は、結局売り上げ不振で1巻打ち切り。
同時期に発売したせんもしが10巻を超え、しかもアニメ化もした、超人気作になったのだから……。
岡谷には、先見の明があったのだ。
だが……。
「いやぁさすが編集長っすわ! せんもしを見いだしたのは利惠さんってことっすよね!」
……そんなはずはない。
岡谷の功績だ。しかし……
「まあね」
十二兼 利惠は、自分の手柄だと思っている。
部下(岡谷)の【わがまま】を、自分が許したから……。
せんもしは、大ヒット作品になったと、そう思っているのだ。
「じゃあ木曽川くん。るしあ先生のこと頼んだわよ。これでシリーズ終了だけど、くれぐれも、彼女を逃がさないように」
「うぃっす! だいじょーぶっす! 絶対逃がしませんよ! 次回作の話もこの間ちゃーんとしましたし! 100パー次回作もうちで書いてもらえます!」
「それを聞いて安心したわ。がんばってね木曽川くん。あなたのことは、誰よりも期待してるわ」
十二兼は去って行く。
さて……。
ピリリリリ♪
デスクの固定電話に、着信があった。
「はいはいTAKANAWAブックス……あ! るしあ先生! おつかれっすぅ!」
木曽川の電話の相手は、件の【開田 るしあ】からだった。
「ええ、せんもし最終巻、おつかれっした! で、さっそく次回作なんすけど、年内には出したいんすよねーでその打ち合わせなんすけ…………え?」
かたん……。
思わず、木曽川は受話器を落としてしまう。
「あ、あの……! 先生! るしあ先生! じょ、冗談ですよね!?」
『……冗談じゃないわよ。いいわ、ハッキリ言ってあげる』
受話器の向こうで、るしあが言う。
その声は……怒りで、震えていた。
『るしあ……もうここで本書かない! 【おかや】のいない編集部に、価値なんてない!』
ぶちん……!
「る、るしあ先生!? おい、嘘だよな! おい! おぃいいいいい!」
木曽川はもう一度かけなおす。
だが着信拒否されていた。
「どうしたの? 何かトラブルでも?」
騒ぎを聞きつけ、十二兼が心配してやってきた。
「な、何でもないっす! 問題ないっす!」
……どうにかしなければ、と木曽川は焦る。
だが、なぜ急に書かないなんて言ったのだろうか……。
「お、おれ! ちょっと外出てきます!」