背負った夢と、形見のラケットケース
麗らかな春の日差しが、病室の窓に設置されたカーテンの隙間から入り込んでいた。
ベッドの上に上半身だけを起こしていた彼が、リモコンを拾い上げてテレビの電源を消した。
「ああごめん。一言言ってくれれば私が消したのに」
花瓶に花を生けていた手を休め、私は彼の顔をじっとみつめた。
いつの間にか、筋肉が落ちて細くなった腕。
一回り、小さくなったように見える背中。
バドミントン競技、日本A代表だったころの面影は、もうどこにも見当たらない。そんな、彼の変化を感じとるたび、胸の奥深いところがキュっと音を立て軋む。
「嫌なニュース、だったよね?」
「いいんだ。どうせもう、終わった夢、なのだから」
張り付けたような笑みを浮かべ、どこか寂しげな声音で彼が呟く。
テレビから流れていたのは、昨年より流行が始まった新型感染症ウィルスの感染拡大を受け、休業を余儀なくされた店舗の嘆きの声。非常事態宣言発動により、開催が危ぶまれていた東京五輪の一年延期が決まったのがつい先日のこと。これで彼のオリンピック出場も一年延期──で済んでいたなら、どんなに良かったことか。
急性リンパ性白血病。別名、血液の癌と呼ばれているこの病を彼が患ってから、既に半年になる。抗癌剤を併用した化学療法を続けているが、病状の改善は今のところ見られない。
日々痩せ細っていく彼の体。病状に改善が見られないことで、二人の間に諦観した空気が漂い始めているのが物悲しい。そんな事実を認識しながら、何もできない自分のことも。
「そんなこと言わないで。頑張って病気と闘おうよ」
備え付けの丸椅子を手繰って腰を下ろすと、彼の掌を握ってみる。彼はこちらに顔を向けない。握りしめた指先は、昨日より、また少し冷たく感じられた。冷たくなっているのは──きっと私の心も。
それが気休めの言葉に過ぎないことを、他ならぬ私が一番よく知っている。
オリンピックが一年延期になろうが二年延期になろうが、きっとどちらでも良い事。彼が再びコートに立つ日はどうせ来ない。
病室に差し込んでいた光は、気が付けばオレンジ色に変化していた。あまり感情を表にださなくなった彼の横顔が、ほんのりと朱に染まる。このまま時間が止まってしまえばいいのにと、今日も私は、起きるはずもない奇跡を神に願う。
◆
あれから一年。
東京都武蔵野市にある総合スポーツプラザ。東京オリンピックのバドミントン競技が行われる会場に私は立っていた。
『コールします。女子シングルス、試合番号十二。ソヨンさん、中津川さん、第三コートにお入りください』
自分の名前が二番目に呼ばれたのを確認して、私は一歩踏み出した。
スタンドから飛んでくるのは大声援。
頭上から降ってくるのは蛍光灯が落とす眩しい光。
肩に担ぐのは、もう、この世界にはいない彼の夢。そして形見のラケットケース。
本来であれば彼と一緒にミックスダブルスで出場する予定だった私は、後に代表権を獲得したシングルスの日本代表としてこの戦いに挑む。
昨年の冬。朝から雪がちらつく肌寒かったあの日。あなたは、静かにゆっくりと、眠りに落ちていくようにこの世を去った。
その日まで、私たち二人の心はちょっとずつすれ違いをしていたけれど、きっと最後は繋がった。あの時あなたは私の目を見つめ、確かにこう囁いてくれたのだから。
『俺が叶えられなかった夢。代わりに君が叶えて』
ええ、わかってる。
軽くウォーミングアップをしてからコートの中央に進みでると、ネットを挟んで対戦相手としっかり握手を交わした。
「よろしくお願いします」
同じように形見となったペアネックレスに一度指を触れ深呼吸をする。
大丈夫、とラケットを振って感触を確かめた。
トップヘビーのヨネックスのラケット。グリップに巻いたテープの色は彼が大好きだった黄色。夢を叶えるための験担ぎ。
一本目のサーブは私から。
放つのは、私が得意としているドリブンサービス。
──さあ、行くよ。天国から見守っていてね、私のこと。
夢に繋がる一本目。白いシャトルが鋭く宙に舞った──。