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苦しむ子供達




 セシリアと別れてしまったマリアは、オフィーリアの先導の元息を荒げながら必死で走っていた。

 何処を走っているのか分からない。それでも、後ろから追ってくる化け物や先々から現れる化け物から逃げて、逃げて逃げて。

 もう走る事なんて出来ないと思っても必死で走った。


「はぁっ、はぁっ……」

「ふぅ……とりあえず、ここまで逃げれば安全ね」


 オフィーリアが逃げ込んだのは屋上庭園。

 出入り口は一つしか無いが、その扉は強固で一度締めれば簡単に開かれそうにはない。

 中に化け物が入り込んでる様子はなく。漸く一息つける。

 二人は深く息を吐いてひと時の安堵に浸った。


「ここが、避難場所なんですか?」

「そうよ、数ある避難場所の一つ。まぁ、一番遠いから誰も使わないけど」


 緑豊かな庭園。平時なら都会の中の自然にゆっくりと楽しむ余裕は有るのだが、今は無い。今いるのはオフィーリアとマリアだけ。

 二人共化け物の有無を気にするだけで、溢れる自然には一切目がいかない。


 安全を確保し、思考する余裕が生まれたマリアは芝生の上で膝を抱えた。

 頭を埋め尽くすのは自爆し道を開くも、別れてしまった娘の存在。


「……セシリアは、無事でしょうか」

「大丈夫よ。愛衣は約束を破る子じゃないから、必ず合流するわ」


 不安がるマリアに、信じてると口にするオフィーリアだが、不安なのはオフィーリアも同じ。

 マリアの後ろで爪を噛みながら、厳しい表情でドンドンと叩かれ続ける扉を見つめる。

 自爆した瞬間はまだ無事だった。

 城壁から落ちた後までは分からないが、死んでる筈はないと信じてる。二人共セシリアの魔法は知っている、傷を負おうが魔力のある限りは治せる。しかし即死すれば魔法を起動なんて出来ない。

 今は信じるしか出来ないのだ。


 沈黙が降りる。

 二人共、面識はあったがこうして二人っきりになった事は無いし実は挨拶すらしていない。

 セシリアを介しての面識しか無いのだ。


「オフィーリア様。一つ聞いても良いですか」

「何かしら」

「あの子を、セシリアを何故愛衣と呼ぶのですか」

「……」


 膝を抱えたまま、顔を上げて問うマリアに、オフィーリアは背を向けたまま固まる。

 視線は真っすぐに扉へ。しかし心は別の所へ置き去りにしたままの彼女は、深く息を吐くと血濡れたレイピアを芝生に刺した。


 しかしその問いは最だ。

 前世での付き合いがあるとは言え、今は二人共日本人では無い。この世界に生きる、前世の記憶を持った別人だ。

 少なくとも、セシリアは愛衣では無くセシリアとして生きている。

 何時までも日本人であった頃の名前を呼ぶ理由は無く、またそれに拘る姿はまるで今のセシリアを否定している様では無いか。


 自分の娘はセシリアただ一人。

 愛衣では無く、セシリアだけ。

 母親として、疑問や不安に思うのは当たり前の事。


「……愛衣はね、本当は寂しがり屋で、争いを好まない子なの」


 知っている。

 自分の娘がどういう子なのかなんて、母親であるマリアが知らない訳が無い。

 冒険者として戦う娘が、好きで戦っている訳では無い事なんて。

 寂しがり屋だから、マリアとはこの年になっても同衾してるし、時間の許す限り一緒に居ようとしているのも。

 お金が溜まって余裕が出来たら、トリシャとガンドのお店を大きくしてそこでまた働こうと言ってくれたことも。


「聞いてるんでしょ? あの子の前世の家庭環境を」

「はい」

「それが原因で、あの子は親の愛に飢えているの。友達の私にお母さんになってって言っちゃう位」


 オフィーリアは懐かしそうに、微笑みながら空を見上げる。

 今は星々が煌めく闇夜だが、オフィーリアにはありありと夕陽の中でのあの頓珍漢な告白を思い出せる。

 忘れた事なんて無い。忘れられる筈が無い。

 最高に嬉しくて、最悪の記憶。


 噛み締める様に答えるオフィーリアは、徐にレイピアに手を添える。

 背を向けていたマリアだが、ぞわっと嫌な予感が背を撫で腰を浮かせた。


「だから私が一緒に居ないといけないの。あの子の孤独を理解できるのは私だけ。貴女にだってあの子の孤独は理解できないわ」

「っ! きゃぁ!?」


 転ぶように前へ飛び出せば、幾つかの髪の毛を切られながら直前まで居た場所へレイピアが振られた。

 明らかにマリアの首を狙った横薙ぎ。偶々避けれたから無事だったが、あのまま座ってたら何も分からずマリアの首は胴体と別れていただろう。

 何故? と顔を青くするマリアが見たのは、人間ここまで感情を殺せるのだろうかと感心してしまう程に、一切の表情が抜け落ちたオフィーリアの美しい顔。


「な、何で……」

「何で? 何でですって?」


 マリアの震えながらの問いに、オフィーリアの美しい顔が歪んだ。

 怒り、後悔、嫉妬。全てをない交ぜにし過ぎて根底にどんな感情があるのか分からない位、憎々しくマリアを睨みつける。

 刺さる視線は、ヘドロの様にこびりつく殺気に満ちていた。


「守られるだけの貴女が居るから愛衣は傷つく。努力した? 愛衣を護る為に血反吐の吐く思いをした? どれだけ傷ついても立ち上がった?」

「……それ、は」

「してないでしょ。守られるままに毎日を普通に過ごしてたんでしょ」


 答えられなかった。

 オフィーリアの言ってる事は事実だから。マリアは守られるだけの存在。戦えるスキルも無く、そのために必死で努力をした訳では無かった。

 ごく普通の母親として、ごく普通の日常を送っていた。

 セシリアの特異性を鑑みても、一般的に平和に日々を過ごしていたのは事実。


 俯くマリアは、突如蹴り飛ばされた。


「何で! なんでそこにいるのが私じゃないの!! 私なら愛衣を守れる! 愛衣の為に何でも出来る! 愛衣の心を理解出来る! 貴女より私の方が愛衣に相応しいの!!」

「あぁっ!?」


 嫉妬の怒号を吐きながら、オフィーリアはマリアを蹴りつける。

 無様に転がる事も許さず、地面に倒れ苦悶の声を上げるマリアをオフィーリアは何度も何度も踏みつける。

 胎児の様に身を縮こまらせて耐えるしかないマリアに、更に苛立ちを覚え頭を踏みにじる。

 土の味を味わわせながら、マリアの頭をめり込ませる様にぐりぐりと押し付け続ける。


「確かに今はセシリアよ、私も千夏では無くオフィーリアとして生まれ変わった。でも私達は運命の糸で結ばれているの。あの子は私にとっての愛衣、私もオフィーリアでは無く千夏として愛してるの……それをっ! お前みたいなただの母親が傍にいて良い訳ないだろ!!」

「うぅ……やめ、やめて……下さい」

「だったら抵抗してみなさいよ!!」

「うっ!」


 ガタガタと震えて頭を守るマリアを、オフィーリアは息を荒げながら蹴り飛ばした。

 ボロボロになって尚抵抗する様子の無いマリアへ、舌打ちを一つ鳴らすとレイピアを構えながらゆっくりと近づく。


 マリアは震えながら、亀の如き遅さで後ずさる事しか出来ない。

 戦う力も無ければ、抵抗する勇気も無い。オフィーリアに言われた通り、暴力に脅えセシリアに守られるだけの普通の母親なのだから。


「安心しなさい、愛衣は私が愛してあげるから。二度と危険な事はさせない。不安も抱かせない。望むだけの愛を溺れる位上げられる。外の世界と関わる必要なんて無いから、一生安全な所で何の心配も無く過ごさせてあげるの。食事も排泄も秘め事も何でも私がお世話してあげるの」


 狂ってる。

 穏やかな笑顔は聖母の如き柔らかさだ。しかしその口から溢れる欲望は常軌を逸してる。

 そんなの、マリアでなくとも許容できない。


「く、狂って……ぎゃぁ!」


 睨みつけながら放たれた言葉を言い切る事なく、マリアの足にレイピアが突き刺さった。

 鋭い痛みと燃える様な熱に、溢れ出す血。

 レイピアを突き刺したオフィーリアは、すっと微笑を消して冷たく見下ろす。


「当り前でしょ。私がどれだけ愛衣を愛してると思ってるの? 愛衣が目の前で死んだときの絶望が分かる? 好きな人が冷たくなる姿を見ていく事しか出来なかった無力感が分かる? 好きな人が死ぬ原因になった罪悪感が分かる? 好きな人の言葉(ありがとう)が呪詛になって纏わりつく後悔が分かる? 分かる訳無いでしょ!!」


「い“っ……ぎっ……ふぅっ、ふぅっ」


 ぐりぐりと刺したままのレイピアで傷口を抉るオフィーリアの言葉に反応すら出来ず、珠の様な汗を掻いて必死で痛みに堪えるだけのマリアは、オフィーリアの虹色の瞳から目を離さない。


 オフィーリアは狂ってる。

 でも、でも苦しそう。

 これだけの事をされても、マリアに怒りの感情は湧かなかった。

 震える右手を上げて、オフィーリアの冷たい左手に触れた。


 ビクっと震えるオフィーリアの手に、力なく添えただけのマリアに何かをする力は無い。

 彼女が出来るのは、人間が出来る事だけ。


 怪訝な表情を浮かべるオフィーリアに、マリアは痛みに顔色を青くしながら微笑んだ。

 セシリアに向けるのと同じ位、慈愛に満ちた微笑を。


「つら、かった……ですよね……」

「っ!?」


 オフィーリアの虹色の瞳が動揺で揺れる。

 心底理解できないのだろう。

 今まさに自分を痛めつけている相手に、殺そうとしている相手にどうしてそんな気遣いが出来るのか。

 狂気と嫉妬で燃え盛っていたオフィーリアの瞳に、得体のしれない物を見た恐怖が浮かんだ。


「ごめ、なさ——」

「黙って!!」

「あうっ!!」


 拒絶の言葉と共に、脚に突き刺したレイピアを引き抜く。

 オフィーリアの身体は、無意識に一歩後ずさっていた。

 その姿は、迷子の子供の様な印象を覚える。それ位、オフィーリアの眼は動揺に揺れていた。


「はぁっ、はっ……っ。もう良い、殺す」

「っ……!!」


 動揺を押し殺す様にレイピアを構える。

 視線が向く先は心臓ただ一つ。殺そう。殺せばセシリアは自分の物になる。泣きそうな目で口元に弧を引くオフィーリアは勢いよく振り被った。


 何も出来ないマリアはただ身を竦めるしかない。

 助けて、と。心の中で最愛の娘の名を呼ぶ。


(セシリア! 助けて……)


 レイピアの切っ先は、何の障害も無くその胸に——


「なぁにしてるのぉ?」

「——ッ!?」


 突き刺さる事なく、眠たげな女の声が響いた瞬間オフィーリアは勢いよく後ろに飛び跳ねた。

 息を荒げ険しい表情を浮かべるオフィーリアは、レイピアの切っ先が溶けている事に気づき、冷や汗を拭いながら、マリアの後ろの影を見つめる。

 ほんの少し、後僅かでも後退するのが遅ければ、オフィーリア自身もレイピアと同様と溶ける未来が見えた。


 身を庇っていたマリアは、聞き覚えのある声に後ろを振り返ると、ゆっくりと、背後の闇が揺らぎ人のつま先が月下に晒される。


「その声は……」

「ここにぃアレがあると思って来たけどぉ、これは一体どういう事ぉ?」

「誰よ……貴女」

「誰ってぇ? お姉さんはねぇ……」


 月明りに徐々に照らされるのは、青い肌と豊満な身体を曝け出す、黒いビキニとベルトで覆われただけの煽情的な恰好。

 艶やかな長い黒髪は、癖っ毛。妖艶さを強調する厚ぼったい唇と、それに添えられた艶黒子。

 眠た眼から覗く、決して人は持たない黒白目に浮かぶ真紅の瞳。


 その容姿を持つ者は、別世界にしかいない。

 その世界に住む者はこう呼ばれる。


「悪魔ってぇ呼ばれてるわぁ……それよりもぉ、不可視の執着ぅ」

「ぶなっ!?」


 マリアの後ろに現れたナターシャは、腕を振るうも何も起こらない。

 しかし未来を見れるオフィーリアは焦りの表情で、大きく横に飛び跳ねる。

 その際、ドレスの裾が突然溶けた。


「これを避けるのねぇ……やっぱり感知系の魔法持ちなのねぇ。処女の偏愛ぃ」


 ナターシャの魔法は【全てを溶かす激情の魔法】

 つまり毒の魔法だ。

 今使ったのは無色透明の溶解毒。射程は短く速度は遅いが、余程感や鼻が鋭くない限り知覚すら出来ない魔法。

 舌打ちを一つ鳴らすナターシャは、再度腕を振るうと空気中を火花が走りオフィーリアへ迫る。


 その数4つ。空気中を走る火花を前に、オフィーリアの瞳が虹色に淡く光る。


「星詠み!」


 【未来を見る魔法】を起動し、数秒先の未来を読んだオフィーリアは、ナターシャの魔法が何処に着弾するか、その結果がどうなるかを見ると身体を捻って躱す。

 オフィーリアの身体の傍を通った火花は、地面に着弾し芝生を溶かす。

 食らえば溶けて爆発する。しかし食らわなければ問題ない。鼻に刺さる刺激臭に絶対食らえないと溶けて使い物にならないレイピアを放り捨てながらオフィーリアは一つ息を吐いた。


「成程ぉ、未来視の魔法を持つってのは本当なのねぇ」

「な、ナターシャさんは何故ここに?」

「……偶々よぉ。それより、それはこっちのセリフなんだけどぉ?」


 突き放す様な物言いだが、ナターシャはマリアを護る様に前に立つ。

 チラリと血が溢れる足の傷を一瞥し、僅かに顔を顰めれば、包帯をマリアへ放り投げた。

 言葉は無い。しかしナターシャの気遣いは感じられる。

 お礼を言おうとするマリアから顔を逸らし、ナターシャはオフィーリアへ向き直る。


「話は聞いてたけどぉ、随分自分勝手ねぇ」

「……黙りなさい」

「好きな人の大事な人を殺せばぁ、自分がそこに入れるってぇ? 強弁過ぎるでしょぉ?」

「黙れっ!」


 ナターシャの正論に苛立たし気に声を荒げるオフィーリアは、反抗期の子供の様にがりがりと頭を掻きむしる。

 きっとオフィーリアだって分かってるのだろう。マリアを殺した所でセシリアの心は手に入らない。

 でもだからって、止まれるオフィーリアでは無い。

 前世で焦がれた初恋相手が死に、絶望し、そして転生し出会えた。運命を感じたにも関わらず、その隣には自分以外の人がいる。

 許せる筈が無かった。

 嬉しそうにマリアの事を語るセシリアに、どれだけ嫉妬の炎を燃やしたか。それだけ愛されてるのに、護る力も無い努力もしていないというなら尚更だ。

 自分の方が相応しいのに、という気持ちは本気の殺意を抱かせるには充分だった。


 苦しそうに呻くオフィーリアを、ナターシャは痛ましく見つめ、一歩踏み出す。


「痛い位ぃ気持ちは分かるわよぉ」

「分かる訳無い!」

「……分かるわよぉ、お姉さんも一緒だもん」

「ナターシャさん?」


 寂し気に微笑みながらさらに一歩踏み出す。

 その声は小さく、誰にも届かない。一瞬、マリアの声に足を止めた彼女だが、再び歩きだした。

 オフィーリアに武器は無い。武器を持たない相手に、避けられるとは言え攻撃すれば良いのに、ナターシャは攻撃する様子はない。

 語り掛け続ける。


「失恋してぇ、嫉妬してぇ、殺そうとしてぇ、それが正しいって自分に言い聞かせてぇ。でもそれ以上に苦しんでぇ……恋って難しいわよねぇ」

「黙れっ! 分かったような口を利くな!」

「辛いわよねぇ……でもそのままに行動したら絶対後悔するわよぉ」

「後悔なんてっ! 後悔なんてしない! 愛衣は私のなの! 愛衣には私しかいないの!」

「っ!」


 オフィーリアは苦しそうに吠えながら、足元の石を拾うと投げつけた。

 石はナターシャの額に辺り、人間と変らない赤い血が青肌を伝わる。それでも、ナターシャは決して手を上げる事無く更に一歩近づく。

 その言いようの無い圧に、オフィーリアは怯え一歩後ずさった。


「本当は分かってるでしょぉ? こんな事間違ってるってぇ」

「うっ……やめて……来ないで」

「どうすれば良いか分からないならぁ、お姉さんが教えるからぁ。ね? だから——」


 挿し伸ばされる手。

 同じ人種の手では無い。青い肌は悪魔の手。

 でも流れる血は人と同じ赤で、交わす言葉は人と同じ気持ちがある。

 この手を取ってくれと訴える真紅の瞳は、心から訴えてるのだと嫌という程伝わる。


 オフィーリアの手が彷徨う。

 迷子の子供の様に不安に揺れる手が、その手に伸びようとした時。


「ア“ア”ア“ア”ァ“ァ”ァ“ァ”!!」


 骨に響く獣の咆哮が空気を震わせた。

 その声に一番に反応したオフィーリアは、咄嗟に起動した魔法でこれから何が起こるのかを見た瞬間、ナターシャを拒絶する様に大きく後ろへ下がる。


 ナターシャは培ってきた感覚から、この場から離れないといけないと第六感が警鐘を鳴らしマリアの元へ慌てて下がる。


 二人が交わそうとした手の場所へ、一体の獣が空から飛び降りた。

 黒い龍。

 でも人の形を残していて、ナターシャは見覚えのあるその姿に舌打ちを鳴らし。

 オフィーリアは、怪訝そうに警戒する。


「ウ“ウ”ゥ“ゥ”……」

「……え」


 唯一声を上げたのは、その獣の本能に刻まれた人物。

 獣の胸元で踊る、空色のネックレスだけがその獣が誰かを示す。

 それが示す人物を、マリアは良く知っていた。


「セシ……リア?」

「アア“……GAAAAAA!!!!!」


 果たしてその咆哮はマリアへの返答なのか、それともマリアの声すら分からない獣へ堕ちたのか。

 雄たけびを空へ上げるその姿は分からない。


「セシリア!」

「馬鹿! 処女の偏愛ぃ」


 獣の真紅の瞳が、マリアへ向けられる。

 しかしその眼に浮かんでいるのは、愛しい人へ向ける親愛では無い。あるのは背筋を凍らせる敵意だけ。

 手を伸ばすマリアへ向かって拳を構えながら飛び出すセシリアへ、ナターシャは魔法で迎撃する。


 本能から危機を察知したのか、セシリアは空へ跳んで迫る劇毒を避けた。

 そこへ更に追い打ちをかけるナターシャから、セシリアは縦横無尽に空を舞って避け続ける。

 だがよく見れば避けきれていないのか、身体の端々が溶けている。

 それを見たマリアがナターシャの身体へしがみついて止める。


「ダメ! ダメですナターシャさん!」

「離しなさいよぉ! あれは完全に暴走してるわよぉ!」

「でも身体が溶けて……!」


 そうこうしている間に、滞空しているセシリアは【正常な状態へ戻す魔法】を起動し溶けた部分を元に戻す。

 黒い光は、文字通り彼女が堕ちた事への証明の様だ。

 羽ばたきながらマリアを見下ろすセシリアを、オフィーリアは目を見開いて見上げる。


「……あれが愛衣? 私が、マリアさんを殺したら愛衣は、愛衣じゃなくなっちゃうの? もっと酷くなるの? ……っ!」


 俯き、血が滴る位固く拳を握った彼女は、踵を返し屋上庭園から逃げ出した。

 その背中をナターシャは寂し気に見送ったが、直ぐに意識を上空で傲慢に見下ろすセシリアへ向けられる。

 未だしがみつくマリアは、少し力を籠めればあっさりと剥がれた。


「これ位で……」


 ナターシャはふと脳裏に浮かんだ憐みを、被りを振って振り払う。

 そしてマリアの空色の瞳を覗き込んだ。しっかりと言葉を届かせるために。


「聞きなさぁい、アレはもう貴女の知ってる娘じゃないわぁ。力に振り回される獣よぉ」

「でも、でもあの子は確かにセシリアなんです!」

「分かってるわよぉ、そんな事……」


 だから困ってるのだ。と、ナターシャは後ろ髪を掻いた。

 アレが見ず知らずの敵なら躊躇いなく殺せるのだが、マリアの娘であればそれも憚られる。

 適当に手足を溶かして無力化させようにも、あの動きを相手にそんな丁寧な手加減が果たして出来るのだろうか。

 かと言って、完全に暴走状態のセシリアを相手に言葉で語りかけて解決するなんてご都合主義に走る程ナターシャは夢見がちでは無い。


 すったもんだしてる二人へ、セシリアは勢を付けて突っ込む。

 鷹が地上の獲物を狙う様に、圧倒的威圧感と共に一切の躊躇いなく迫るセシリアを前に、ナターシャはマリアを突き飛ばして迎撃のために魔法を放った。


「処女の偏愛ぃ!」

「GAAAAA!!」

「っ!!」

「ナターシャさん!」

「アンタは下がってなさぁい!」


 ナターシャの魔法はセシリアの片翼を溶かす。殺してはいけない、しかし弱すぎてもいけない。その躊躇いが咄嗟の判断を鈍らせたが、片翼を溶かすコントロールは僅かにセシリアの狙いがそれ大きく地面を抉った。

 直撃すれば即死は必須の一撃に、ナターシャは緩やかに後ずさるも逃げる事を許さないセシリアのラッシュが迫る。

 拳が掠れるだけでナターシャの青肌が傷つけられるが、紙一重で避け続ける。

 一撃は重く鋭い。攻撃の手数も多く一瞬でも気を抜けば一撃でダウンするだろう。


 しかしナターシャに焦りはない。


「確かに強いけどぉ、暴走して理性の無い相手に遅れは取らないわぁ」

「GAァ!」

「こっちは地獄の戦争を潜り抜けたのよぉ、舐めないでよねぇ」


 足運びは軽い。緩やかに、最小限の動きで常人なら反応できない速度と一撃食らったらおしまいという緊張感の中をナターシャは涼しい顔でやり過ごす。

 ナターシャの身体に刻まれた戦場での記憶が、もっと激しい戦いの経験が彼女に冷静さを取り戻させた。


 攻撃が当たらないセシリアが苛立ちの咆哮を上げ、勢いよく拳を振り被ったのをナターシャは見逃さない。

 身を捻り、薄皮一枚で顔の横を通り抜けた腕にナターシャは腕を這わせ一本背負いを決め込んだ。

 地面に倒れ込んだセシリアの右腕を掴み上げたままのナターシャは、肩に足を置いて勢いよく腕を捻る。

 鈍い音が一つ響くと、セシリアという獣はここで初めて苦悶の声を上げて抜け出そうと暴れる。


 堪え性の効かない子供の様に、尻尾と手足で激しく地面を叩きながら暴れる姿にセシリアの面影は一切無い。


「無駄よぉ、完全に抑えてるものぉ。あんまり暴れると折れるわよぉ」

「アァ“! Gァ!!」

「……駄目ねぇ。完全に力に溺れて……って、何してるのよぉ」

「セシリア……」


 足元で暴れる獣の中にセシリアはもういないだろうとため息をつくナターシャは、ふらふらと近づいて来るマリアに眉を顰めた。


 マリアの顔は今にも泣きそうだ。

 涙が溢れそうなのを必死で抑えながら、いつもの様に微笑もうと不格好な表情を浮かべている。

 娘がこんな姿になって、心痛まない母親は居ない。

 覚束ない足取りで、倒れ暴れるセシリアの前に膝を着く。


「……冷たい。それにこんなに血も……痛いですよね……」

「ア“ァ”!! GAA!」


 頬に触れれば、冷たく硬い。人の肌では無い感触、その心の在処を指し示す様に冷たい外殻。

 べったりと手に張り付いた血はどす黒く、滴る。


 こんな姿になったのは、戦いが原因なのは明白。

 痛い思いをして、苦しんで、それでも歯を食いしばって戦って。でも、最後にブちギレたのだろう。

 心を捨てる程の、激しい怒りを。


 血濡れた手を、握りしめる。爪が肉を裂き、セシリアの血と自分の血が混じり合う。

 どうして娘がこんなに苦しまなくてはいけないのか。

 どうして娘を守れないのか。

 どうして娘の力になれないのか。


 オフィーリアに言われた言葉が脳裏を反芻する。

 弱いくせに、護られるだけの癖に。傍に居て、護る努力をしない。

 だから大切な人が苦しむんだと。


「ごめっ……ごめんなさい」

「ア……」

「セシリア?」


 ぼろぼろと涙を流して、罪悪感と後悔に苦しむマリアに、セシリアの動きが止まった。

 人の手では無い、血だらけで、獣の如き爪が生え膨張した左腕をマリアの頬へ伸ばす。

 鋭い爪が傷つけないように恐る恐ると触れ、血が頬を彩る。確かに見た目は大きく変わってしまっている。でも涙を流すマリアを気遣う様に手を伸ばすセシリアの眼は、何時ものマリアへの想いが浮かんでいる様にも見える。


 理性が戻ったのか? と一瞬期待してしまうが、マリアの頬に手が触れたのは一瞬だけ。


「ウ“ウ”ウ”ウ”ッ……ァ“ア!」


 酷い頭痛に苦しむように呻き声を上げ、地面に頭を打ち付ける姿は必死で抵抗している様に見えるが、その顔が上げられて見えた真紅の瞳は、昏く淀んでいる。

 そして、セシリアを地面に押し倒し右腕を抑えているナターシャは目を見開いた。


「!? こいつぅ、無理やり。腕が折れても良いって言うのぉ!?」

「ウ“ウ”ウ“……ア”ア“ァ!」

「止めて! 止めてくださいセシリア!!」


 背中を足で抑えられ、右手は背後の伸ばされている。その態勢のまま無理やり立とうとし、セシリアの右腕はミシミシと嫌な音を立てる。

 確かに腕が折れれば拘束から抜けられるだろう。でもそれは激しく激痛を伴う行為で、凡そ正常な判断があれば選ばない選択肢だ。


 魔法で四肢を溶かすべきか、と悩むナターシャを余所に、マリアは無我夢中でセシリアの頭を抱きしめて懇願する。

 例えそれでセシリアが苦しそうに呻いても、マリアを振り払おうと暴れても固く抱きしめて離さない。


「っ!!」

「マリア様ぁ!!」


 マリアの右肩に、セシリアが喰らいついた。

 抱きしめるマリアの苦悶の声に、ナターシャの悲鳴と焦りの絶叫が響く。その瞬間ナターシャは目に怒りを浮かべて魔法を起動しようとするが、マリアが目でそれを制する。

 肩に食い込む牙は鋭く、深く刺さっている。

 血が溢れ、肉が裂け猛烈な熱さと汗が溢れるが、マリアは抱きしめる手を緩めない。

 歯を食いしばって、絶対に離さないと更に強く抱きしめる力に比例して牙は更に深く刺さる。


「大丈夫……痛くなんてないです……この子に比べたらこれ位」

「でもぉ……」

「お願いです、この子は……私の娘だから……私が……」


 痛みに慣れている訳なんて無いのに、青白い顔で今にも泣き叫んでしまいそうな痛みを必死で抑えるマリアの言いようの無い圧にナターシャは小さく悔しそうに頷いた。

 しかし無意識の内に溢れた魔法は、掴むセシリアの腕を甘く溶かしている。


 それを横目に、マリアは痛みに小さく震える手をセシリアの頭に置いた。

 いつも眠る時にするように、抱きしめて、頭を撫でて、優しく囁く。


「セシリア……痛かったですよね。苦しかったですよね……私が、頼りなくて苦労させてごめんなさい……でももう良いんですよ……もう、戦わなくて良いんですよ」

「ウァ……マ……ァ」


 セシリアの眼に理性が僅かに戻る。

 しかしそれも一瞬だけ、直ぐに獣の呻き声を上げて、苦しそうに呻く。その度にマリアが抱きしめる力を強くする。


 セシリアは今戦ってるのだ。自分の中の力と。

 マリアも分かってる。自分のこれがセシリアを苦しませていると。必死で抗う娘に、語り掛けるのが苦痛でしかないと。

 僅かに肩に食らいつく牙が緩み、また食い込む。

 もうマリアの肩はズタボロで、出血の多さにマリアの顔色は殆ど白い。倒れそうになる身体に、必死で鞭を打って最後の力を振り絞る。


「セシリア! 起きてください! 私は貴女を失いたくないんです!!」

「ウ“ウ”ウ”ウ”ウ”……ア“ア“ア“ァァ!!」

「しまっ!!」

「きゃっ!」


 一際大きく吠えたセシリアは、その光景に目を奪われていたナターシャに尻尾を叩きつける。

 虚を突かれた一撃は拘束を緩め、マリアを突き飛ばしてセシリアは上空へ飛び立った。

 咄嗟に伸ばしたマリアの手が、セシリアの胸元で踊っているネックレスに引っ掛かり鎖が千切れる。


 受け身をとったナターシャは今にも倒れそうなマリアを支えるも、そのマリアは上空のセシリアへ必死で手を伸ばしている。


「セシリア! 戻ってきて下さい! セシリア!!」

「馬鹿ぁっ、その怪我で動くんじゃないわよぉ」


 どれだけ抑えられても、マリアは力なく抵抗して上空で頭を抱えて苦しむセシリアだけを見る。

 ここで手を離したらダメだ。

 今、あのセシリアを逃がしたらもう会えなくなってしまう。そんな予感がする。

 もうセシリアに会えない。セシリアを助けられない。セシリアが何処かへ行ってしまう。

 それだけで足元が崩れる不安がマリアの傷だらけの身体を、泣きそうな位痛くても、今すぐ気絶しそうな位辛くても、不安と恐怖に犯されるマリアは必死で手を伸ばす。


 でもその手は届かない。


「AAAaa……」


 セシリアは墜落する様に離れていく。

 遠くなるセシリアの姿へ、必死で手を伸ばすマリアは、それを見つめる事しか出来なかった。

 止めて、行かないで。

 小さな子供の様な言葉が、泣きそうな子供の言葉が、小さく風に乗る。


「いやだよぉ……」


 くしゃっと今まで堪えていた涙を溢れさせながら、マリアは寒さに凍える赤子の様に、セシリアと同じ真紅の宝石のネックレスを抱きしめて意識を失った。


 オフィーリアに刺された足よりも、セシリアに噛まれた肩よりも、胸に走る痛みの方がいたかった。


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