指し伸ばされた小さな手の価値
お久しぶりです。やる気は充分身体は瀕死。
つい指が転職サイトに行くくらいは仕事を辞めたいです。
ていうか今回が死ぬほど難産で、未だ納得は出来て無いんです。でもとりあえず形にはなったしこの後も沢山詰まってるので、ヴィオレット回はここで。
エタル気持ちは微塵も無いんですけど、これから夏商戦とか入るからまた仕事が忙しくなるしでワンちゃん転職活動なので命を削って書きます。褒めてください。
『今日からあなたはワタクシの物ですわ。その命をワタクシの為に使いなさい、その代わりワタクシはあなたを絶対に幸せにすると誓いますわ』
これは夢だと、ヴィオレットは思った。
薄霧に包まれた視界で見るのは、幼い頃のクリスティーヌ。
縦巻きツインテールなんて派手な髪はしておらず、美しい金髪を上品に結い上げドレスを身に纏っている。
そのクリスティーヌの力強い翠の瞳が見下ろす先には、薄汚れた浮浪児の姿があった。
紫の髪は垢と泥で荒れ、がりがりにやせ細った身体は近づくだけで鼻の曲がる悪臭を纏わせている。
ぎゅっと汚いクマの人形を不安そうに握りしめる、幼い頃のヴィオレットを、クリスティーヌは決して顔を顰める事もせずにじっと紫の目を見つめ手を差し伸べ続ける。
『あ……ぅ』
『声が出せないのかしら?』
幼いヴィオレットの口から出るのは、消え入りそうな呻き声だけ。水すら真面に飲めない彼女の喉は枯れ切り、その上話す事さえ叶わない綺麗な人に話しかけられている緊張が上手く声を出させてくれない。
気分を害してしまった!? と顔を青くするヴィオレットは気持ちは勢いよく、実際は弱弱しく首を振って否定する。
喋れない訳でないと分かると、クリスティーヌはほっと安堵に頬を緩めた。
『良かった』
ヴィオレットには、どうして目の前の綺麗な女の子が話しかけてくれるのかも分からなかったし、安心したのかも分からなかった。
ヴィオレットに、浮浪児に声を掛ける人なんて居なかった。
同じ浮浪者には殴られ、少ない残飯や雨に濡れない寝床を奪われた。
薄暗い路地裏から出れば、待ちゆく人々は顔を顰め殴られたり怒鳴られた事もあった。
ヴィオレットにとって他人とは等しく自分に痛いことをする人で、こうやって穏やかに声を掛けてくれる人も心配してくれる人もいなかった。
だからかも知れない。
ヴィオレットを初めて人として見てくれた人に、差し伸べられた手に自然と手が伸びた。
唯一の家族である薄汚れたクマの人形を抱きしめる手を解き、震える手を本当に触れても良いのかと不安そうに伸ばす。
虚空で彷徨う手が温もりに包まれた。
『あ……ったかい』
『ふふ、貴女の手は冷たいのね。でも、手が冷たい人は心が温かいって言いますわね』
『?』
『あぁごめんなさい、難しい言葉は分からないわよね。良いわ、言葉もゆっくりと覚えて貰いますわ』
『あ……』
伸ばした手に包まれる汚い手。汚い筈なのに、顔を顰めることも無くクリスティーヌは微笑んだまま手を引いて、光の向こうへヴィオレットを連れ出した。
一人では決して歩けない、光の中へ。
「……っ」
全身に刺さる痛みが薄霧を晴らした。
霞む視界に映るのは瓦礫と血溜まり。
戦いには、勝者と敗者が居る。
勝者は立ち、敗者は地に伏せる。
イライジャは槍を片手に詰まらなさそうに立っていて、ヴィオレットは壁に埋もれ伏せた顔に掛かる明るい紫の髪を伝って赤い雫が滴った。
「どこ行ったー? まさか一分もしないで終わりとは言わねーよなー? ティーン同士ですら二分は持つぞー」
「っせぇ……」
「お? そこにいたか」
瓦礫から身体を起こすヴィオレットの音に気づいたイライジャが、こちらへ向かっていやらしく口元に三日月を描きながら歩み寄ってくる。
頭を打ったせいでふらつくヴィオレットだが、歯を食いしばって立つ姿に諦めなんて言葉は似合わない。
荒い息を吐いて頭から血を流すヴィオレットは、悪人顔負けの顔つきでしっかりと地面に立つ。
「良ーツラになったじゃねぇか。バージン済ませた女みてぇな顔だぜ」
「さっきから、いちいち下品なんだよ」
「ははっ!」
グイっと血濡れた紫の重たい前髪を鬱陶しそうに上げながら、ヴィオレットは決してクリスティーヌの前では使わない荒々しい口調と苛立たし気な顔で血の混じった唾を吐き捨てた。
元々鋭かった紫の瞳は、敵意に満ちナイフの様に鋭く冷たくニヤニヤと笑うイライジャへ向けられている。
「お嬢様の実兄とは思えない下品さ」
「そう睨むなよ、男なんてこんなもんだぜ」
「死ねばいいのに」
「くははっ、それは無理な相談だ。この滾るオーガズムを我慢するとかナンセンスだね」
ナイフを深く構えるヴィオレットを前に、イライジャはニヤついたまま穂先で石畳を叩く。
コンッ……コン……と叩く音は、二人にとって試合開始前のブザーの様な物だ。
「さて、そろそろ俺のリビドーも限界なんだ……愉しい事しようぜ」
「<帝国スラング>。一人地獄で達してろ」
……。
静寂の中で、二人は戦闘態勢を取る
ヴィオレットはナイフを隙なく構えながら、深く息を吐いて魔力で身体を強化する。
イライジャは穂先を踵の先に添えながらの、獣が獲物に狙いつける様な前傾姿勢。
全ての音が消える。
風の吹く音も、悲鳴も、二人の間に入る事など出来ない。
瞬きすら躊躇う緊張が二人の間に走り、二人の頭上の月すら逃げる様に雲に隠れる。
「ははぁっ!」
「ふっ!!」
月明りが無くなった瞬間に、二人の姿はブレた。
残像すら残す速度で一歩を踏み出した二人の最初の一閃は、火花によって刃と刃がぶつかったのだと漸く理解できる。
ヴィオレットの一撃は女性の身体では到底出せない手に痺れる重さと、ナイフ特有の細やかさが手数の多さに反し一撃はどれも重い。
だがその尽くを、イライジャは叩き落す。
槍という懐に入られたらおしまいの筈の武器にも関わらず、時に穂先で、時に柄で、時に地面に槍を突き立ててポールダンスの様に軽やかに躱す。
口調の荒々しさに反し女の様なしなやかさをと、一つ一つを丁寧に受ける彼の眼はお気に入りの玩具を見つけた子供の様に輝いている。
その間僅か数秒。
しかし虚空に散りばめられる火花の数は、瞬く間に数を増す。
「くはははっ! 良いぞっ! 昂ってくるなぁ!」
「っそ、ちょこまかと……」
「疲れたか? もう賢者タイムか? なら攻守逆転だな!」
「っ!?」
頭からの出血は、予想に反してヴィオレットの体力を奪っていた。
始めは重かった一撃も軽くなり、すぐさま手数を優先して攻め込むがそんな小手先の技術がイライジャに通用するはずも無く、攻め手がイライジャに移る。
一歩下がったイライジャは、ヴィオレットの心臓へ向かって鋭い一突を繰り出し、ギリギリで躱すヴィオレットの胸元を薄く裂いた。
なんとか避けたが胸元に一文字の傷を作り、体勢を崩しかけたヴィオレットに反撃の隙を与える事無くイライジャの鋭い突きの応酬がヴィオレットを襲う。
致命傷だけは気合で避けるが、イライジャの攻撃はヴィオレットの身体に幾つもの傷を作っていく。
胸元がはだける。
太腿が裂ける。
綺麗な顔に傷が出来る。
敢えて攻め込む事はせず、甚振る様にイライジャは攻撃の手を止めて槍を肩に担いだ。
「俺好みの格好になったな」
「はーっ、はーっ」
息を荒げて膝を着くヴィオレットの格好は、ボロボロのメイド服。
太腿は裂け黒いガーターベルトが曝け出され、身体中に出来た傷から滴る血がボロボロのメイド服を赤黒く染めている。
一見すれば満身創痍のヴィオレットだが、まだ目は死んでいない。
「っぐ……それだけ、力があるなら……何であの家を継がなかった」
「あ? んだよ藪から棒に」
膝に手を置きながら立ち上がるヴィオレットの言葉に、イライジャは水を差された事で不機嫌そうに顔を顰めて槍を肩に担ぐ。
ここで攻めればイライジャの勝ちは確定なのに、態々立ち上がるのを待っているのは優しさでは無く戦闘を楽しみたいという魂胆が透けて見える。
「言葉、通りだ。お前が、あの家を継げばお嬢様は……クリスティーヌ様は辛い思いをしないで済んだのに」
「あー、んな事かよ」
「そんな、事だと?」
心底つまらなそうに、イライジャは後ろ髪を掻いて顎を擦った。
どうでもよさそうに吐かれた言葉に、ヴィオレットの纏う鋭い雰囲気が一層濃くなる。
そんな事と言った言葉通り、イライジャは肩を竦めて吐き捨てた。
「お前が言いたいのはあれだろ、俺が唯々諾々と当主になればクリスはあのクソつまらねー当主教育をしなくて良かったって話だろ」
「ふー……そうだ。そうすればお嬢様が苦しい思いをする事も、捨てられる事も無かったのに」
「本当にそうか? 思い出してみろよ、あの家の人間が自分の子供だろうと道具以外に見た事があったか?」
「それは……」
思いは足る節は、記憶の中に沢山あった。
あったからこそ、言葉を詰まらせる。
◇◇◇◇
『貴族たるもの、その背に多くの命を背負ってる事を知るべし。貴族たるもの、その手は血濡れてあろうと剣を握るべし。貴族たるもの、その生は国に尽くすべし』
クリスティーヌとイライジャの生家で、ヴィオレットはこの言葉を嫌という程聞いた。
今のクリスティーヌがいるフィーリウス家では無い、クリスティーヌの本当の両親が居る幼い頃住んでいた家での話だ。
『ここが今日から貴女の住む家ですわ。ワタクシと共に多くを学んでもらいますわよ』
『あ、他の……人?』
『いませんわ、親も。ここに居るのは職務に忠実な使用人だけですもの』
ヴィオレットが連れてこられたのは、想像すら出来ない程に大きく豪華で美しい邸宅だった。
しかし眩い外観に反し、邸宅の中は物寂しい。
埃一つない、季節を取り入れた手入れの届いた壁紙や敷物に花々や肖像画。とても寂しいなんて印象を受ける筈なんてないのだが、ヴィオレットには人の気配を感じなかった。
そう思って聞けば、クリスティーヌはいつも通りだと淡々と答えた。
10歳かそこらの女の子が浮かべるには似つかわしくない、全てを受けいれた淡々とした表情をヴィオレットはスラムで沢山見て来た。
しかし、そこにいる人々の顔はスラムでは見た事が無かった。
スラムでは多くの人を見て来た。
人生を諦めている者。境遇や原因に怒りを向ける者。仕方ないと笑う者。どん欲なまでの生への執着を持つ者。いつか遥か高みへ上り詰めて幸せになると夢や野心を持つ者。
スラムにいる人は感情が分かり易かった。
でも、ここに居る人たちはその感情が分からない。
ただ家を、人を世話する人形にしか見えなかった。
『お嬢様、本日の予定です。昼食まで勉学、その後剣の指導と舞踏の指導。その後は旦那様より預かっている領地管理の書類整理です』
そして、クリスティーヌの生活もあり得ない物だった。
陽が上るより早く起き、一日中休む暇も無く仕事や勉強に費やされる。
食事も、豪華で何の食材を使ってるか分からない程に美味しそうなのに、毒見だからと冷めきった物を食べる。
手が真っ黒になる迄机にかじりつき、幼い少女の身に余る程の知識を叩き込まれる。
どれだけ疲れ果てようと、剣を握れなくなろうと無理やり立たされて戦いの技術を叩き込まれる。
踵から血が出るまで何度も何度も狂う程に踊らされる。
ボロボロの身体に鞭を打って、眠たい筈の瞼を無理やりこじ開けながら幾つもの書類を手に指示を出す。
『クリス……お嬢様、どうしてそんなに頑張るの……んですか?』
床に就くのは何時だって日付を跨いでから。ボロボロで疲れ果てた主の身体をいたわりながら、ヴィオレットは何時かクリスティーヌに聞いた。
うつらうつらとしながらも、片時も離さない教科書に目を通していたクリスティーヌは虚空を眺める。
『ワタクシは貴族ですわ、貴族は国の奴隷で民の命を握る者。その生は国の為、その身は民の為。多くの命を預かる者として生を成した時、クリスティーヌという名前を名乗る以上、命という責任を背負ったが為に甘える事は許されませんわ』
『?』
貴族として語ったクリスティーヌだったが、ヴィオレットが理解できずに首を傾げれば苦笑を浮かべ、ポンポンとベットに座る様に促す。
この時のヴィオレットは特に問題に想うことも無く、クリスティーヌの隣に腰かければ彼女はヴィオレットの膝に頭を預けて目を細める。
『って、貴族ならこれが正解ですわ。でも、ホントはね、お父様とお母様に褒めて欲しいの。ワタクシにはお兄様が居ましたのよ、年の離れた兄で、優秀な方でしたわ。でも、ある日いきなり出奔したんですの。いつか後を継がせようとしたお父様もお母様もそれはそれは大層失望したでしょうね』
それはヴィオレットも小耳に挟んでいた。
クリスティーヌが何故女だてらに当主の仕事を補佐しているのか、剣を握っているのか。それは彼女の兄が突然出て行ったから、その代わりだと聞いていた。
本来ならクリスティーヌは淑女教育だけしていれば良い、だって家を継がないし何処かへ嫁ぐのだから。
でもそれが出来ないのは、後を継ぐはずの兄が居なくなってその後継ぎにクリスティーヌが選ばれたから。だから遊ぶ時間も休む時間も無くクリスティーヌはその準備をしている。
『お父様もお母様もワタクシを次期公爵としてしか見ておりませんわ。ワタクシは真面にお二人と話した記憶もありませんし、こうやって床を共にした事もありませんわね』
そう言えば、ヴィオレットはここに来てからクリスティーヌの両親に会った事が無いなと思った。
姿は肖像画で見た事はあるが、どうやら二人共忙しくてこの家に帰ってくる事なんて年に二度三度歩か無いかと言った所らしい。
寂しそうに呟くクリスティーヌの柔らかい金糸を撫でれば、クリスティーヌはヴィオレットの裾を小さく握りしめながらされるがままになる。
『だからかしら、ワタクシはただ一言、労って……褒めて貰う為に……頑張ってるのかしら……ね……すぅ』
『クリス……』
最後まで言い切る事無く穏やかな寝息を立てだしたクリスティーヌを、ヴィオレットは最近漸く浮かべられるようになった笑顔を小さく浮かべて撫で続ける。
『クリス。お疲れ様』
クリスティーヌは幸せな夢を見ているのだろう。
気持ちよさそうに眠っている。
まさかその数年後に、褒めて欲しいと願った両親から捨てられる事になるなんて思ってもおらず。
◇◇◇◇
「だとしても!!」
過去を振り切ってヴィオレットは地面を蹴って切りかかる。
さし伸ばされた手を取ったその時に、ヴィオレットの全てはクリスティーヌの物だ。
クリスティーヌが幸せになる為に、この身がある。
「お嬢様は必死でお前がすべき事をこなした! お前が逃げた事に向き合った! お前の代わりになったんだ!」
「耳が痛ぇな……」
叩きつけられるナイフは激情の一撃。
全てを他人に押し付けて逃げた目の前の男へ向ける、怒りの一撃だ。
「許せない! お嬢様をあっさりと捨てたあの家も! 見向きもしなかった両親も! お前も!」
振り抜かれるナイフは何度も何度もイライジャへ叩き込まれる。
何故! 何故! と吠える様にヴィオレットは憤怒の形相でイライジャへ一歩踏み込んだ。
例えナイフが刃ころびしようと、例え全てを受け止められようが関係ない。
敢えて反撃せず受けに徹するイライジャを、どんどん追い詰める。
「だから! ここで死ね!!」
「っち」
イライジャの足が止まる。
背中に当たる感触が、壁に追い込まれたのだと彼は悟ると舌打ちを一つ鳴らして全力のハイキックをぶち込もうとしているヴィオレットを前に防御態勢を取った。
ゴガッ!!!
蹴りなんて生易しい威力では無い。
ヴィオレットの蹴りがイライジャの防御のために立てた槍の腹を蹴りつければ、その衝撃は彼を家の外壁の向こうへ叩き飛ばす。
豪快な音と土埃を上げながら、がれきの中に埋もれるイライジャの姿は奇しくも最初の二人の構図の真逆。
「げほっ……って~、効くわ~」
「……」
がれきの中から片足を突き上げて這い出るイライジャは、誰の食べのこしだか飯の残った器を頭に被りながらさしてダメージを受けた様子も無く這い出る。
ダメージよりも食べ残しを被った不快感の方が上回ってる様だ。
それを一瞥すると、ヴィオレットは徐に上方に糸を飛ばし屋根の上に飛び乗る。
何故態々過度に距離を取ったのか、初めは分からず怪訝にしていたイライジャだが四方から聞こえる音に納得の色を浮かべた。
「何だよ、俺は複数プレイは趣味じゃねーんだがな」
おどけて笑うイライジャを囲むのは、人の身体を継ぎ接ぎした外見で生者を食らう化け物の数々。
戦いの音に惹かれたのかはたまた、生者の匂いに惹かれたのか闇の中から続々と姿を現した。
「人形劇・序章——ハーメルンの笛吹き——」
月を背に屋根の上で佇むヴィオレットの、子守歌の様な呪文が闇夜に響く。
それと同時に、まるで天使の羽の様に沢山の魔力の糸が咲き乱れ、イライジャへ迫る化け物一体一体余すところ無く頸椎に潜り込ませた。
頸椎を侵食し神経に張り巡らされた魔力の糸は、化け物達の身体を激しく痙攣させる。
「濶ッ縺?、ゥ豌……励〒縺、吶?」
「縺、縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺」
「縺薙■繧峨?蝠?刀縺ッ縺翫せ繧ケ繝。縺ォ縺ェ縺」縺ヲ縺翫j縺セ縺」
ガタガタと電流に掛けられている様に震える化け物達の皮膚の下では、魔力の糸が全ての神経に根を張り終えた。
明らかに異常な光景だが、イライジャの表情に焦りはない。楽しそうに笑いながらヴィオレットの準備が終わるのを律儀に待っている。
十の指を遥かに超える糸を手繰るヴィオレットは、冷たくイライジャを見下ろしながら演奏を始める様に腕を払う。
「食らいつくせ」
「————!!」
錆びついた人形の様に鈍間だった化け物は、その姿を欠片も残さず勢いよく地面に四つ手を着くと、さながら狂犬病に掛かった畜生の様に涎をまき散らせながら機敏な動作でイライジャへ飛び掛かる。
「たくっ、乱交は好きじゃねぇって言ったろ。俺はピュアなんだからよ、ヤルならサシが一番なんだよ」
下品な言葉とニヒルな笑みを浮かべたまま、イライジャの身体は狂う化け物の群れに潰される。
さながら、蜜蜂が天敵を殺す様に化け物は一つの塊となりイライジャはその向こうに消えた。
「……」
呆気ないものだ。
化け物の塊は咀嚼でもしてるのか不規則に蠢いている。一見すればイライジャは食い殺され、戦いはこれで終わりだろう。そう見える。
だがヴィオレットは警戒を解かない。
じっとそれを見つめる。
あの男が、この程度で死ぬわけがないのだから。
「っち」
舌打ちが漏れれば、その原因である化け物の塊が一つ跳ねる。不本意な確信が当たった瞬間だ。
まるで心臓の脈拍の様にドクッ……ドクンッ! と徐々にその脈動は強くなり、化け物の塊に隙間が出来た。
その隙間から、ギラついた翠の瞳が覗く。
化け物の塊から一本の槍が勢いよく突き上げられる。
鮮血の噴水をぶちまけながら、その槍がゆっくりと捻られると押し込もうとするヴィオレットの抵抗なんてないも同然に勢いよく振り抜かれ化け物は吹き飛ばされる。
「キタキタキタァァァ!! 最っっ高にエクスタシーが決まるぜぇ!!」
中から現れたのは全身返り血で真っ赤にそまり、狂的に恍惚と吠えるイライジャ。
天を仰ぎながら猛々しく勃起する彼は、興奮しすぎて小刻みに身体が震えるほどだ。
下品すぎる傷一つない姿へ盛大に顔を顰めるヴィオレットに向かって、イライジャはギラギラと興奮に震える翠の瞳を向ける。
「良いぞ! 最高だよお前!! 久しぶりに勃起したぜ!!」
「気持ちわる……」
「行くぞオラぁぁ!!」
「!!」
思わず鳥肌を立たせてしまう程に気持ち悪さを覚えたヴィオレットだが、その視線の先でイライジャが勢いよくこちらへ跳んでくるのを認識した瞬間、意識を切り替える。
即座に投げナイフを投げつけ迎撃を図る。
翼でも生えていない限り、空中にいるならば飛来物を避けるなんて叶わない。
地の利は上にいるヴィオレットが圧倒的有利なのだ。
とはいえど、まっすぐ正面から飛んでくるナイフを迎撃するのに手間取るイライジャでは無い。素早く穂先を振るえばナイフは弾かれ彼を阻む物は無くなる。
ヴィオレットは分かり切っていた対応に反応する事は無く、右手を握り込み勢いよく引けば、弾かれたナイフに張り付けられていた糸が勢いよく手繰り寄せられイライジャの背後から迫る。
常人ならここで終わりだ。
しかしイライジャは一瞥もくれる事無く、槍を背後で風車の様に回し真っすぐにヴィオレットとの距離を縮める。
「おらぁ!!」
「っ!!」
すれ違いざまにイライジャの鋭い突きが炸裂し、ヴィオレットも吠えながらナイフで受け止め激しい火花が咲き乱れる。
しかしナイフと槍。槍の渾身の突きを受け止め切れる訳もなく、押し負けそうになったヴィオレットは何とか軌道をずらすが右肩に風穴が開く。
しかし痛みに止まる余裕はない。
焼ける痛みと傷口を撫でる風を意識から追い出し、背後に着地したイライジャから迫る穂先を振り向きざまにナイフの腹で滑らせる。
火花を走らせながらギリギリで受け止めるヴィオレットの右腕は、神経をやられたのか全く動かない。
「おらオラオラオラオラァ!!」
「っ! ぐっ! マリオネットロマンス——アンコール!——」
左手一つで目で追うのすら難しい突きの嵐を受け止めるヴィオレットだが、その勢いを止める為右手に魔力の糸を巻き付け己の傀儡魔法下に置くと、その腕の腹で穂先を受け止めた。
「ふーっ! ふーっ! 捕まえた!!」
「くははっ! 良い覚悟だ」
目は血走り、激痛に一気に体力を持っていかれる。ドボドボと溢れる塊の様な血が溢れる右手から、引き抜かれない様に腕ごと糸で槍を固定する。
チャンスはここしかない!
武器を無力化した!
懐に潜り込んでる!
隙が出来た!
反撃するなら今しかない。確実に致命の一撃を狙える絶好のチャンスにヴィオレットは、今までの鍛錬を証明する様に無意識的に身体を動かし左手に握られたナイフをイライジャの首へ振り上げ——。
ゴッ!!
「!?」
イライジャの拳がヴィオレットの端正な顔を殴りつけた。
顎に確実に入った一撃は、ヴィオレットを屋根から地面の上に叩き落して激しい衝撃にヴィオレットの意識を更に刈り取る。
何故? そんなの簡単だ。ナイフが届く直前にイライジャが槍から手を離し殴りつけたのだ。実際右手には槍が突き刺さったままだ。
だが問題はそこでは無い。
ヴィオレットが至近距離でありながら、その動作を認識できなかった事だ。
夜空を見上げるヴィオレットの頭は確実な隙を突いたにも関わらず、反撃を許した事への理解しがたい現実と指先一つ動かすのすら億劫な倦怠感で真面に機能していない。
「っと」
「……!」
しかしヴィオレットに呆ける時間なんて無い。
屋根から呼び降りて来るイライジャに気付いて、すぐさま身を叩き起こせば直後ヴィオレットが倒れていた場所は衝撃と轟音によって大きく抉れる。
右肩に槍を突き刺したままのヴィオレットは、戦いの邪魔になると槍の柄に手を添えて力を加えた。
「ぐっ! がぁっ!! ……ぁああああ!!!」
ブチブチッ! っと筋が千切れる音と鮮血を断続的に噴き出しながら、激痛に吠えて勢いよく槍を抜き出し放り捨てる。
「はぁ、はっ……ぐっ……」
指先一つ動かない右腕を、ヴィオレットは自身の魔力の糸を化け物にやった様に筋肉に侵食させ無理やり筋肉を収束させて塞いだ。
ボロボロな姿のヴィオレットの止血が終わると共に、土埃の中からイライジャがゆっくりと立ち上がる。
素手だというのに、勝てるビジョンの浮かばない相手に対して歯ぎしりが一つ鳴るが、焦ったら負けだと深く息を吐いて傀儡魔法を起動して全身に纏わせる。
「久々にこんなに楽しめたわ……まだまだいけるよなぁ?」
「ぜぇ……ったり前だ! 絶対お嬢様の前に引きずり出してやる」
「そうこなくっちゃな!!」
「マリオネットロマンス!」
全ての力をありったけ振り絞って、自分の身体を傀儡魔法の制御下に置く。
鋭い紫の瞳からは血の涙が溢れ、ダメージ著しい身体の至る臓器が悲鳴を上げ口からも血の塊があふれ出た。
しかしその効果は如実に現れる。
「ぅおっ!?」
「はあああぁぁぁぁああ!!」
人間の身体は意識したそのままに動かす事は出来ない。が、傀儡魔法という意識のままに対象を操るヴィオレットの魔法は、自分の身体を意識のしたそのままに操りナイフを振るう。
一歩踏み込むと同時に振るわれた一閃は、イライジャを驚かせる程の鋭さと力強さで彼の胸に一文字の傷が走った。
ブチッ!
「ゴフッ……」
血を吐きながら息つく暇も与えずヴィオレットは連撃がイライジャに迫る。
腕を振るうだけで筋が千切れる。間合いを詰めるだけで骨が軋む。一秒過ぎる度に臓器が死んでいく。
人間の限界を意識的に引き出して戦うヴィオレットの身体が、刻一刻と力の代償として死んでいく音が響いている。
流れる血の感覚すら無くなっていく中で、ヴィオレットはそれでもイライジャを確実に追い詰めていた。
戦いを楽しんでいたイライジャは、とうとう回避一択を迫られその表情には焦りが僅かにチラつく。
「っ!?」
「おらぁっ!」
しかし一瞬ヴィオレットの身体が限界を迎えた隙を突いて、イライジャは左手に納まっていたナイフを蹴り飛ばす。
これでお互い素手になった。後は泥臭い殴り合いだけ。
「ぐふっ!? 良い蹴りだ!」
「ぶっ! <帝国スラング>!!」
一切躊躇うことなく、ヴィオレットの踵がイライジャの鳩尾に刺さった。
僅かに身体が浮くも、イライジャも笑いながらヴィオレットを殴りつければ彼女は口汚く罵りながら再びブーツのつま先を脇腹に突き刺す。
ヴィオレットが蹴って、イライジャが殴って。ヴィオレットが殴られてイライジャが蹴られて。
避ける体力の無いヴィオレットと避ける気の無いイライジャの殴り合いは、お互いその場を動かないまま鈍い音だけが響く。
「はははっ! 良いぞ! お前最高だよ!!」
(まだか……まだ終わらないの……)
どれだけの時間が流れたか、楽しそうに血まみれの拳を振るうイライジャを前にするヴィオレットはその感覚が無くなっても残り少ない魔力を絞って身体を無理やり動かす。
少しでも気を抜けば、傀儡魔法に依って動かされている身体は糸が切れてしまいそうだった。
立っているのか横たわってるのか、目を開いてるのか閉じてるのかも分からない中でもヴィオレットはひたすらに抵抗していた。
諦めても良いのでは無いか? これだけ頑張ったんだから、もう良いだろう。疲れ切ったヴィオレットの脳裏では諦めの言葉が過った。
(お……嬢……様……)
振るわれる拳が顎にクリーンヒットする。
脳が揺さぶられたヴィオレットの身体が、ボロボロの身体がゆっくりと後ろに倒れる。
意識が遠くに羽ばたきだしたヴィオレットの、魂に染みついた記憶がよみがえった。
さし伸ばされた手に触れた温もりが。
それを手にした時の約束を。
「お?」
「っ! ……お……お嬢様ぁぁぁあああ!!」
もう魔力は無かった。
血が溢れすぎて目は真面に見えない。
身体の感覚も無い。
それでもっ、吠えて最後の一発。
あの時取った手をっ! 掴んでくれた右手をっ! 傍に居ると誓った魂を震わせてイライジャの顔面に叩き込んだ。
「…………良い拳だ」
「ごふっ……ちく……しょぉ……」
ずるりと倒れたヴィオレットの最後の一撃は、弱弱くもう立ち上がれない。
倒れ伏しながら悔し気に睨み上げるヴィオレットの視線を受けながら、イライジャが熱い息を吐いて自分の槍を拾い上げる。
そのまま止めを刺す事もせず背を向けた。
「……ま……まて……」
「悪いが時間切れだ。次も滾る殴り合いを期待してるぜ」
閉じていく瞼に抗えず、這いずる力すらないヴィオレットを一瞥しながら、イライジャが満足そうに笑って歩き去って行く。
が、何を思ったのか徐に立ち止まった。
「そうだ、愉しませてもらった礼をしなくちゃな。魔王と勇者について調べな。全ての始まりはそっからだぜ」
イライジャはそれだけ残すと、さっさと闇の中に消えていった。
後に残ったのは、地面に倒れる無力な女一人。
鼻を啜る泣き音が、暫く、小さく、響き続ける。




