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「さてと、ここなら邪魔は入らないし。ゆっくりしてていいわよ」


 セシリアとマリアが突然舞踏会会場のど真ん中に現れてから、二人を虹色の姫が自身の部屋に避難させ、彼女は質のいいソファに座って対面のソファを示す。

 無駄な争いを回避できた二人だが、以前状況は変わらない。今自分たちが何処にいるのかも分からない上、何故ここに飛ばされたのかも分からない。

 分からない尽くしではあるが、唯一分かっている事は、目の前の虹色の姫がセシリアの前世の親友、千夏なのかもしれないという事だけ。


 未だ警戒する様にリボルバーを握りしめながら、セシリアは再度確認の為口を開く。


「えっと……さ、ほんとに……千夏ちゃん?」

「うん。私は千夏だよ。愛衣の親友で、最後の瞬間を見ている事しか出来なかったただの女子高生」


 にっこりと微笑みながら、確かに自分は千夏だと答える。

 愛衣の名前はセシリアしか知らない。前世での事は話したが、名前を言う機会も必要性も感じ無くてマリアには言っていなかった。今はもうセシリアなのだ、拘る理由も無い。

 だからこそ、愛衣の名前は何よりの証明にもなったし、親友という言葉は更に信憑性を増した。


(ん? でも何で私が愛衣って分かったんだろ……まぁ後でで良いや)


 何故セシリアを愛衣だと一目でわかったのか疑問には思ったが、それ以上にまさかの出会いへの喜びが頭の片隅へ追いやってしまった。


「セシリア? この方は……」

「千夏ちゃん。前世の事は話したでしょ? その時の親友なんだ」

「この方が?」


 置いてけぼりにされていたマリアだったが、セシリアから聞かされた前世での親友と聞いて納得の色を浮かべる。

 少なくとも、一目で姫なのだと分かる少女と面識なんて無かったし、ましてや親し気な雰囲気を醸し出す二人なら納得だろう。


「!! ……?」


 未だセシリアに肩を抱き寄せられるマリアは、一瞬殺気を感じてはっと千夏の方へ振り向くが、その千夏は何か? と言う様に微笑んだまま小首を傾げた。

 気の所為? と首を捻るが、先ほど感じたそれは確かに殺気だった。それも途方も無く深くて昏い、嫉妬の殺気。


 殺気を感じていないセシリアを見て、マリアは気の所為と腑に落ちないまま流してしまう。


「そのさ千夏ちゃん。私達いきなりここに来てさ、めっちゃ困ってるの。ここが何処だか教えて貰える?」

「それは大変だったわね。ここはね、スペルディア王国。それで私はこの国の第2王女、オフィーリアよ。凄いでしょ? ただの女子高生が一国のお姫様だよ?」


 千夏——オフィーリア——は前世の陸上部員だった頃と遜色ない位の健康的な肢体と、バランスの良い双丘を張って答える。

 仄かな敗北感を抱きながら、セシリアはまさか国を跨いでしまうなんてと表情を曇らせた。


「スペルディア王国……勇成国からそんな所まで飛ぶなんて……」

「帰るのは大変そうですね……」

「別に無理に帰る必要は無いわよ? ここに居れば私が守ってあげるから」


 顔を寄せて話し合う二人に、千夏は頼もしい事を言って来る。

 だが情勢に疎いセシリアは、何故守る? と首を傾げた。学校で勉強しただろうに、と娘の勉強不足さに呆れながらマリアが説明しだす。


「セシリア。スペルディア王国ではですね、真紅の瞳は忌み嫌われる対象なんです」

「そうなの? いや、確かにこれは悪魔の眼って事で勇成国でも良い顔しない人は居たけど、そこまで?」

「その理由はですね——」

「20年前に、真紅の瞳を持つ少女が魅了魔法でこの国を傾国にまで陥れた過去があるからだよ」


 マリアの言葉を引き継いで、千夏が特に真紅の瞳が忌み嫌われる訳を話しだす。

 セシリアとマリアは、話すからと促されて対面のソファに腰を落ち着かせた。


「この国を襲った大規模な魔法事件はね、歴史に残る位の酷い者だったの。所謂、催眠寝取られと逆ハー物を掛け合わせた胸糞物って感じの」

「あー、千夏ちゃんそう言えば寝取られ物好きだったよね」

「私が好きなのは恋人未満の両片想いの相手が汚いおっさんに快楽堕ちされる寝取られBLであって、寝取られが……って今は違うから! 今は純愛物だけだから!」

「あ、そうなんだ。おめでとう?」


 確かに千夏は前世でそれが好きだったが、力強く否定する。

 親友の趣味を否定するつもりのない、母親がカッコよく書かれるマイナージャンルにいたセシリアだが、流石に寝取られ物に理解も同意も示せなかったので、卒業おめでとう? と拍手を送ってしまう。


 思わぬ前世の性癖の暴露という仕打ちに、恥ずかしそうに咳ばらいをした千夏は話しを戻す。

 これ以上は言うなという無言の視線を感じるセシリアは、黙って口を横一文字に締めた。


「それでね、その魔法事件を引き起こした少女ってのが真紅の瞳を持ってたの。だからこの国では悪魔の眼ってよりは、あの時の惨劇を引き起こした化け物の眼って事で忌み嫌われるの」

「んー。だから皆あんなに殺気だってたんだ」

「えぇ、あの場にいた者は皆あの時の惨劇を知っている世代だからね……うちの父親もね」


 セシリアが歓迎されていない訳を聞かされ、難しそうにため息を吐く。

 好きでここに来た訳では無いが、尚の事早くここを離れて元居た場所に戻ろうと考えだす。きっとアイアスも心配してるだろうし。


「あの、オフィーリア姫殿下。私達、勇成国でトラブルがあってここに来てしまったんです。帰国させろとは言いませんが、せめてお力添えをして頂くことは出来ないでしょうか」


 落ち込んだセシリアの代わりに、マリアが助力を願う。

 あの状況を見て、セシリアとマリアだけでこの国を無事出れる保証はない。

 貴族だけであの反応なら、最も被害に遭った庶民ならセシリアの眼を見て何をするだろうか。

 想像するだけでぞっとする。


 頭を下げてお願いするマリアに、千夏は喉の奥で小さく唸る。


「そりゃぁ手伝って上げたいのはやまやまだけど、今って豊穣祭の関係で凄く忙しいの。それに伴って関所の検問を厳しくてね、だから今入国記録の無い貴女達が外に出るのはおすすめ出来ないわ」

「そんな……」


 遠回しに帰す事は出来ないと言われ、マリアは悲壮な程肩を落とす。

 マリアにとっては人間至上主義なだけの国ではあるが、セシリアからすれば目の前の千夏以外は全員敵であろう国なのだ。

 ここに居てはセシリアに何が起こるか分からない上、マリアにセシリアを護る力は無い。

 落ち込むマリアの手を、セシリアの手が重ねられるが握り返す元気はない。


「来た時みたいに、空間跳躍で戻れればいいんだけどねー」

「……あれ? 私千夏ちゃんに空間跳躍で来たって言ったけ?」


 雑談の間だったら聞き逃していたであろう、自然さで零された一言をセシリアは偶々拾う。

 一瞬、千夏の表情に動揺が走った様にも見えるが、ごく自然な様子であぁ。と手のひらを叩く。


「勇成国から来たって言ってたでしょ? 国を越えて突然現れるなんて、あの国じゃ初代王妃のイナリ以外出来ない芸当だからね。中りを付けただけ」

「? ……そっか」


 抱いた違和感は拭えない。セシリアの追求を逃れる様に、ごく自然な感じで千夏は話題を変えた。

 胸に残る後味の悪さを覚えながらも、セシリアはそれに乗った。

 きっと親友だから。そんな信頼があったから。


「それにしてもびっくりだよねー。生まれ変わったらお姫様! しかもアニメキャラも腰抜かすほどの美少女なんだもん」

「ね、魔法もあるし。亜人を見た時は本当に異世界なんだって思ったよね」

「それ。まー基本的には人間の方が多いけど、猫耳系だけじゃなくてガチの亜人も居るのは本当に異世界だよねー。ま、変わってない事はあるけど……」

「止めて、その慈愛の籠った目で胸を見ないで。良いの、まだ15だから。きっと来年にはお母さん譲りのわがままボディーになってるから」

「……私は好きよ、貧乳巨尻」

「すーっ……よかろう戦争だ」

「貧乳を好きになりなさい! その代わり私が巨乳になってあげます!」


「「……あはは!!」」


 ひとしきり雑談を重ねると、二人は目尻に涙を溜めて笑い合う。

 どれだけこの世界で生きていても、前世の地球でヲタクとして生きていた時間がある。こういうネタの通じる冗談を言い合える時間というのは、二人にとっては10何年振りという事も相まって懐かしさと楽しさを覚えた。


「はー、やっぱヲタクネタ通じるのいいなー」

「ねー。この世界も良いんだけど、やっぱり日本を恋しくなる時はあるわ。創作物が無さすぎて自分で書くくらいには飢えてるわね」

「嘘! 千夏ちゃん本書いてるの!? あ! もしかして美容品とか服とかも作ってるお姫様って千夏ちゃん!?」


「ふふーん、そうでーす。美容と服飾の女神と言われる位凄いことした継承権三位の姫様でーす。んで旦那、ここだけの話……BLでこの国を腐らせる計画があるんでやんすが……どうでやんすか」


「主も悪やのう……本が出来たら下さい。買います」

「毎度。ほどほどに全力を出すよ~?」

「懐かしー、それ良く言ってたよねー」


 自分の知らない所で、親友も色々していたんだと知ったセシリアは今だけはマリアの事を忘れて親友との語らいに興じた。

 打てば響くような親友との語らいは、それこそ状況もセシリアであることも忘れて、きっと愛衣として話しているのだろう。


 二人の語らいは夜が更けるまで続き、邪魔しては悪いと黙って居たマリアがセシリアの肩に頭を預けて眠っている事に気付くまで続いた。


「すぅ……」

「あはは……ってお母さん寝ちゃってる」

「もうこんな時間、ほんとあっという間ね。暫くはこの部屋を使って? 外は危ないから出ちゃだめよ?」

「何から何までごめんね、千夏ちゃん」

「良いの良いの。親友でしょ? 困った時はお互い様」


 親友の気遣いに感謝しながら、セシリアはマリアを寝室のベットに寝かせる。

 自分もそろそろ寝る準備をしよう。とした所で、聞いていなかった事が有ったとこちらに背を向ける千夏へ声を掛ける。


「そういえば千夏ちゃん。どうやってこっちに来たの?」

「ん? 20位で死んじゃって。目が覚めたらこの身体だったわね。愛衣と同じタイプだよ」

「そっか……ねぇ、お父さんとお母さんはさ、私が死んだあとどうしてた?」


 千夏も人生の半ばで死んだという事に、気づかわし気な表情を浮かべるが、当の千夏はさして気にした様子も無く呆気からんとしている。

 後悔や未練なんて無いと言う様な物言いは突き詰めたいと所ではあるが、それ以上にセシリアは最後の心残りだけ問うた。


 千夏は背を向けたまま、手元で呑んでいた紅茶を片している為その表情は窺えない。

 だが愛衣の父親と母親の事が出た所で、カチャカチャ。と小気味良かった音は止んだ。


「……父親の方は葬儀で泣いてたわ。母親は知らない。でも、どっかで再婚して子供がいるって聞いた気もする」

「……そっか」


 結局、母親は愛衣を見捨てたままだったのか。

 記憶に残る母の母であった頃の姿と、それ以外の母親では無くなった姿を苦々しく噛み締めながら、穏やかに眠る今生の母の柔らかな髪を撫でる。

 父親には悪い事をしたなとは思うが、やはりセシリアの中で父親というのは居ない物という扱いなのか、さしてそこまでショックを受けなかった事に口元を皮肉気に歪める。


「愛衣はさ、今のお母さんが好き?」


 今度は自分の番と、千夏は背を向けたまま問う。

 セシリアも、マリアの寝顔を眺めつつ穏やかに微笑む。マリアの顔を見れば、自然とそういう笑みは浮かんできた。

 きっと、マリアだから。マリアが居るからこうしてセシリアは愛衣ではなくなれる。


「うん。大好き」

「……そう」


 答えを聞いた千夏は、それ以上聞いて来る事は無く廊下への扉に手を掛ける。

 その背へセシリアは就寝の挨拶を投げながら、最後に一つだけ言葉を投げる。


「あっ! 私はもうセシリアだからさ、これからはセシリアって呼んで! それじゃおやすみー! ()()()()()()()()()!」


 背を向けたまま頭の横で手を振り、千夏は戸の向こうへ消える。

 ゆっくりと蝶番が締まって行く音の中、千夏は嬉しそうにマリアの隣に潜り込む姿を全ての感情が抜け落ちた無機質な表情で眺める。


「おやすみ、()()



 ◇◇◇◇



「ふざけんじゃないよ! このクソババア!!」


 アイアスの割れんばかりの怒号が響く。

 既にセシリアとマリアが姿を消してから何時間も経ち、夜も更け切っている。

 余りにも帰りが遅いのを心配したアイアスは、イナリの家へ足を運んだ際に家の中で二人の痕跡を見つけたのだ。

 そんな所で、遅い空間跳躍によってイナリの下へ移動したアイアスはどういう事だと問い詰め、二人が空間跳躍の魔法を搭載した移動用の姿見によってここでは無い所へ飛ばされたと言われ、怒鳴り声を上げたのだ。


「許して欲しいのじゃ~、怒らないでたのも~。妾、久方ぶりの酒で悪酔いしておっての? すっかり来ることを忘れておったのじゃ」


 胸倉をつかまれたイナリは、しゅんと狐耳を垂らしながら心底申し訳なさそうにしている。

 あの空間跳躍は自動では無く、態々イナリが手動行っていた物なのだ。しかし、セシリア達が来た時イナリは全裸で酒瓶を抱いて寝ていて、すっかり寝過ごしていた。

 予定外の来訪ならアイアスだって強くは言えないが、彼女は一層怒気を滲ませてもともとしかめっ面だった相貌に殺気を乗せる。


「昨日の晩明日呼べって言ったのはアンタだよな! それがどうしてスペルディア王国なんかに跳ぶんだよ!」

「それこそ妾にも分からぬわ! あの姿見はアイ坊と妾で作った、初めての設置型空間跳躍の装置じゃろう? しかして故障しておる上、対になる姿見が紛失しているのは主も知っておるじゃろ!?」


 流石にそこまでは自分の責任ではないと、イナリは反論するが、管理責任で問えば充分非がある。

 というより、初めからイナリが空間跳躍して迎え入れていればこんな事にはならなかったのだが……まぁそこまで当たるのは流石にやりすぎだろう。

 それでも、アイアスは文句を言いながら掴んだ胸倉を離す。あと数秒も持っていれば豊かなそれは溢れていただろう。


「だからこそだろうが、なんで壊れている筈のアレが動いて、ましてやそれでスペルディア王国何だい! アンタだって知ってるだろう? あの国は真紅の瞳にこの国以上の当たりの強さを持ってるって」

「うむ。件の傾国の女子が旦那様と近しい魔法を持ってると聞いて、実際に妾も対処に当たったからの、よーく覚えておるのじゃ」

「懐かしんでる所悪いけど、ばあ様にはやってもらいたい事があるからね」

「言いたいことは分かっておる。が、無理じゃ」

「あ?」


 言葉の無くアイアスの頼みを断ったイナリに、アイアスは不機嫌なまま言葉を荒げる。

 確認するまでも無く、イナリはアイアスが何を言わんとしているのか察しているのだろう。

 何故。という疑問にイナリは先じんじて答える。


「あの姿見は恐らく対になる片側が弄られたが故に起動したのじゃ、これは主も調べれば分かる。そして、妾はアイ坊を王国までは跳ばせぬ。単純な力不足じゃ」

「……年を取るって嫌だね」


 きっと昔なら無理なんて言葉は言わなかっただろう。

 見た目だけなら艶やかな美女狐だが、中身は既に300を超えた老人だ。走ればそうそうに息が切れるし、寒さが膝に来る。

 昔は出来ていた事が、今では出来なくなってしまった年齢。


 神妙に呟くアイアスに、イナリは苦笑を浮かべてしまう。


「死ぬべき時に死ねぬのが一番嫌じゃろ。それに比べれば、ただ無為に年を重ねるだけ等些末な事じゃ」


 愛する者に先立たれる、長命の種族から放たれる一言は、人間のアイアスには出せない程重く鋭い。

 深くため息を吐いたアイアスは代案を出す。


「なら出来るだけ近くで良いから跳ばしてくれ、脚はこっちで用意するからそこからは自分で行く」

「なんじゃ、娘っ子達を助けに行くのじゃ?」

「元々王国には魔界の門の封印と、人魔大戦の記録を漁りに行く予定だったんだよ。そのついでさ」


 過保護な師匠だ事で。

 イナリのいじらし気な視線から顔を背けつつ、アイアスは出立する予定を前倒しして預けていた道具を出させて支度を済ませた。

 殆ど準備が出来ていたのは、今彼女が口にした通りスペルディア王国へ向かう予定があったからなのだろう。


 一通り支度を済ませたアイアスを移動させるべく、イナリは右手を横に広げて空間跳躍の為に虚空に歪みを作る。


「んじゃ、行って来るよ」

「んむ……のうアイ坊」


 出鼻を挫かれたアイアスはやや胡乱気に振り返るが、そのイナリは神妙な、申し訳なさを覚えている顔でアイアスの顔をしっかりと見ていた。

 冗談や発破の類では無い、これから謝罪しようとしている様な顔つきだ。

 師の神妙な様子に、アイアスは黙って身体ごと向き直る。


「……主は……無理してはおらぬか? 妾はここを動けぬ。旦那様が残したここを護らねばならぬのじゃ。が、その所為で主に負担を強いてしまったじゃろ? 本当ならアイ坊は隠者などじゃなく、宮廷錬——」

「良いんだよ。アタシは、これで」


 イナリの言葉を遮る。

 アイアスは、女史と呼ばれる道もあった。しかし森の魔女として隠者の様な生活をしているアイアスはそう呼ばれていない。きっと輝かしい道もあったのだろう。それほどに、アイアスは優秀な弟子だ。

 だが60も迎えた今となっては、アイアスもそんな事に拘りを持っていない。昨日の語らいで明かしたように、彼女はこの国が好きなのだ。好きだから、地位や名声よりも優先した物があっただけ。


「アタシはこの国を、ひいては世界を護れる事に誇りを持ってるんだ。まぁ、若い頃はそりゃぁ理不尽にも思ったけどさ、もう良い歳だしね。今更、地位や名声なんて興味は無いよ」

「……すまぬ」

「謝るなよ……ばあ様のそんな姿は調子が狂うって……」


 普段は狐らしい掴みどころの無いイナリだけに、こうして気落ちしている姿を見るのは違和感が途方も無い。

 嘘偽りでは無い言葉だからこそ、今は。という部分がイナリの罪悪感を刺激した。

 どうしたものかと後ろ髪を掻いたアイアスは、ため息を吐いて座るイナリと目線を合わせる。


「それじゃぁさ、全部が終わったらアタシの研究を手伝ってくれないかい? アタシの弟子が面白い物を一杯教えてくれるんだ、お陰で創作欲ばっかり溜まって仕方が無いんだよ」


 慰め。とは少し違うが、アイアスは約束を取り付ける。

 昔はイナリの下で色々と物を作ってはいたが、自立してからはそれも久しい。

 だからこそ、昔と同じようにまた。と言外に語るのだ。

 世界だなんだは関係なく、ただ師弟として、またあの何でもない日常を過ごそうと。


 その言葉に、イナリは呆けた様に目をシバシバとさせるが、その意味を理解して表情を和らげた。


「……うむ。そうじゃな、全て終わったらまた、昔みたいに騒がしく過ごしたいものじゃな」

「だろ? うし! それじゃ行って来るよ。イナリ師匠」

「うむ、壮健での。アイアス」


 気負った様子も無く、アイアスは目尻を柔らげて虚空に消えていく。

 その姿を見送って尚、イナリは虚空のあった場所を眺め続けていた。


「……全てが終わったら。か」


 嬉しさと、寂しさが混ざった、消え入りそうな呟きは、まるで誰かに語り掛ける様に穏やかだ。


「……最近の、よく旦那様の夢を見るのじゃ。辛い事も楽しかったことも……旦那様や、随分長い事待たせたの。もうすぐじゃよ……」


 どこか泣きそうな、でも安堵しているともとれる呟きは、誰にも拾われる事も無く消えていった。


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