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執着と悪意



 セシリアとマリアが仲直り? した翌日、今日も今日とてセシリアはドーベルマンの執事ことセバスチャンの指導の下青空の下で稽古に励んでいた。

 しかし今日はヴィオレットの姿はない。今日はセバスチャンとセシリアの一対一での稽古となっている。


「決まった!!」

「ワン」

「ぐべぇ!? まだまだぁ!」


 セバスチャンがわざと晒した隙にまんまと騙されたセシリアが、渾身の力を籠めたライダーキックを放つが難なくと躱され青空を仰ぐ羽目になる。

 しかし柔軟な体幹で即座に起き上がると、そのままセシリアは殴打の応酬を繰り広げた。

 けっしてあてずっぽうでは無く、時にフェイントやジャブを織り交ぜながらのしっかりとした戦い方だ。


 若さゆえの吸収力と貪欲なまでの稽古への意欲が、セシリアの戦闘センスを飛躍的に磨き上げていた。


「良い調子ですよ。しかし腋が甘いですね」

「っ!? それはひきょ——」

「戦いに卑怯も何もありませんよ。ほら、集中力が切れて足元がお留守ですワン」

「ひぎにゃあ!!」


 とはいっても、セバスチャンとは積み上げた経験が違う。

 今日明日でいきなり強くなるなんて事は無く、姿勢を崩された所を転がされて中二病的な黒いYシャツと黒のスキニーパンツが土埃だらけに汚れてしまう。


「はーっ、はーっ」

「今日はこの位にしておきましょうかワン。御母堂も先ほどから心配そうに見ている事ですし」

「えっ!? 嘘!」


 息を切らせて手足を投げ出したセシリアに、セバスチャンは一つ襟元を正しながら終了を告げた。

 還暦も間近という年にも関わらず、これほど動いて汗の一つ息の一つ切らしていない姿に、何時か絶対ほえ面を掻かせてやりたいと思ってしまうものだろう。


 悔しそうに疲れた体に鞭打って上体を起こしたセシリアだったが、マリアが来たという言葉に勢いよく、嬉しそうに背後を振り返る。

 そこには、バスケットを抱えたマリアが二人の稽古を見学できるような芝生の上で体育座りしていた。


 マリアの方もセシリアの視線に気づくと、控えめに手を振って来た。

 マリアが居る事に気づいたセシリアは、重苦しく身体を包み込む倦怠感なんて一瞬で吹き飛んで跳ね上がる。


「セバスチャンさん、今日もありがとうございます! それじゃお疲れ様です!」

「あぁ、少々お待ちください。こちら、体術の指南書になります。御手隙の際に目を通しとくのをお勧めします。ワン」

「え! 良いんですか!? ありがとうございます!」


 セバスチャンからの気遣いに勢いよく頭を下げると、紙の束を小脇に抱えながらポニーテールに纏めていた真紅のシュシュを外しながらセシリアはマリアの元へ駆け出していく。


「おかーさーん!」

「はいはい、危ないので飛びつくのは止めてくださいね」

「はーい」


 嬉しそうにマリアの首に抱き着いたセシリアは、ぐりぐりと首筋に頬を擦りつける。

 先ほどまで指先を動かすのすら憂鬱なほど疲労懇倍だったというのに、マリアの顔を見るだけでこれだけ元気が出るのだから筋金入りだろう。

 微笑まし気に眺めるセバスチャンは、空気を読んで足音も立てずに去って行く。渋い執事だ。


「今日もお疲れ様です。お昼ご飯を作って来たのですが、先に食べますか? それともお風呂にしますか?」

「んー、それよりもママ充電―」

「なんですかそれ……もう、この子ったら」

「ぎゅー!」


 折角昼食を作ったというのに、それに目もくれずセシリアはマリアを後ろから抱きしめる。

 今ではマリアの方が小さく、セシリアを見上げる様になってしまった。

 母親としては娘が立派に成長して微笑ましい反面、娘に背を抜かれるというのは少しだけ不満に感じてしまうだろう。


 マリアのつむじに顎を乗せながら、セシリアはしみじみと呟く。


「……いい天気だね」

「ですね~。ピクニックなんてしたら気持ち良いんでしょうね」

「良いねそれ、ごはん食べたら行く?」

「その前に貴女はお風呂に入って来なさい。運動したんだから、しっかりと身体を休めないと」

「ぃー」


 自然体で二人は身体を預け合う。

 流れる雲の様にゆったりと、でもその癖時間だけはあっという間に過ぎていく空間。

 お互いの体温が心地よくて、涼し気な青い風が二人の美しく長い蒼銀の髪を揺らす。


 お互い言葉なく、されど気まずさなんて無い雰囲気だったが、マリアがセシリアのポニーテールから解かれ、右手首に付けられた自らがプレゼントした真紅のシュシュを見ながら小首を傾げた。


「そういえばセシリア、どうして態々髪を解くんですか? 常に纏めていた方が楽なんじゃないですか?」

「ん? だってママとお揃いの髪形が良いもん」


 あっさりと言ってのけたセシリアに、マリアの頬が桜色に色づく。

 セシリアとマリアの髪色は同じ蒼銀色だ。昔は瞳の色も同じ空色だったのだが、セシリアが激痛の果てに魔法に覚醒した時に悪魔特有の真紅の瞳に代わってしまい、今では二人のお揃いは髪色だけになってしまった。


 マリアもセシリアも、普段は肩甲骨まである髪を自然に流したストレートヘアーだ。

 激しい動きをしないマリアでそれを気に良ってしているんだが、戦うセシリアからすれば邪魔になってしまうのは明白だろう。

 しかしそれを差し引いても、セシリアは母と同じ髪形をしたいと戦闘時以外は下ろしっぱなしなのだ。


「ふへへ、目の色は変わっちゃったからさ、唯一の髪位はお揃いが良いんだ」

「……もう、そんな事ばっかり言って」

「えー? ママは嫌?」


 ずるい言い方を重ねながら覗き込んで来るセシリア。

 そんな事を言われて嬉しく思わない母親なんて居ないだろう。ましてや、抱いてはいけない想いを抱いているマリアなら尚更。

 小首を傾げながら、どこか不安そうにするセシリアをマリアは安心させる為に微笑んであげる。


「そんな事ありませんよ、とても嬉しいです」

「ふへへ、なら良かった」


 安堵と嬉しさの混じった笑みをはにかむ。

 大好きな母にお揃いの髪形を嬉しいと言われて、本当にうれしいんだと一目でわかる。

 腕の中にすっぽりと納まるマリアは、顔を上げて娘の頭を優しく撫でてあげた。

 猫の様に気持ちよさそうに目を細めるセシリアは、きっと本当にネコなら喉を鳴らしているだろう。


「ふへへ、ままー」

「はいはい、何ですか?」

「呼んだだけ―」

「はいはい」


 母娘とは思えないイチャつきっぷり。

 ぎゅっとマリアのお腹に回した手を抑えながら、セシリアはマリアの首筋に顔を埋めて気持ちよさそうに息を吐く。

 ぞくぞくっと、こしょばゆい快感がマリアの肌を撫でて身じろぐが、しっかりと組まれたセシリアの手の所為で一切距離を取れない。


「んっ……セシリア、ちょっとくすぐったいです……」

「んー。もうちょっと」

「んんっ……」


 離して欲しいと懇願しても、セシリアはより一層腕に力を籠めて首筋に埋めた顔を更に深くした。

 そこにマリアがいる事を確かめる様に、そして絶対に離さないように。と言わんばかりに、腕の中に納まるマリアは身動きが取れない。

 これで自分の想いにセシリアは気づいてないのだから、そりゃぁマリアもそういう想いを抱いてしまっても仕方ないかもしれないだろう。


「……絶対離さないから……」

「え? セシリア?」

「あ、師匠だ」


 首筋に顔を押し付けながら、一層強く抱きしめながら囁かれた一言にマリアは困惑の色を浮かべるが、当のセシリアは「ん?」と微笑んだまま視線を上げている。

 ダキナに家族を奪われた日から、セシリアは時折こういった思わず背筋がぞっとする様な昏い空気を匂わす。


「え? あれ? あ……本当ですね。二日酔いでしょうか、顔面蒼白ですが」


 違和感を覚えつつも、見知った顔を遠目に見つけたマリアは怪訝にしつつも同じようにアイアスを見つける。

 辛そうに頭を抑えながらふらふらと歩いてるアイアスの姿は、何処からどう見ても二日酔いその物。

 酒を嗜むのを止めろとは言わないが、師匠のそんな姿を見たくも無い気持ちもあるセシリアはとしては不満そうに唸る。


「お酒―? お祭りだったからってはしゃぎ過ぎでしょ。師匠ったらいい年して……」

「いい年して悪かったね」

「うひゃぁ!?」


 気づいたら目の前まで来ていたアイアスのしわがれた不遜な物言いに、やれやれと肩を竦めていたセシリアは猫の様に座ったまま跳ね上がってマリアに抱き着いた。

 こちらに歩いてきたアイアスを見ていたマリアは、当然気付いていたが面白そうだったので黙って居た為、苦笑してセシリアの頭を撫でる。


「昨日は途中から見かけませんでしたが、どちらで呑んでいたんですか?」

「突然ばあ様に呼ばれてね。惚気話に夜通し付き合わされてこのざまだよ。全く、年寄りに無理させるなんて暇人には困ったもんだね」

「それは……ご愁傷様です」


 口ではイヤイヤと言っているが、流石に5年も付き合いがあればアイアスが決して嫌がっている訳では無いと分かる。

 しようが無いとばかりの物言いに反し、それなりに楽しんでいたのだと分かる雰囲気が声音から察せられる。


 アイアスは結局、あの後勇者との事を夜通し酒を交えながら語られたのだ。

 興味深い話もあったし、個人的に聞いていて楽しい師弟の時間ではあったのだが、途中から惚気話に移ったのはアイアスにとっては苦痛でしかなかっただろう。


「まぁばあ様には育てて貰った恩もあるし、良い師ではあるんだけどね。そうだセシリア」


 感慨深げに呟いたアイアスは、何かを思い出したとばかりにセシリアを呼ぶ。

 ごく自然にマリアの事を背中から包み込むように抱きしめていたセシリアは、ん? と顔を上げる。

 アイアスはセシリアに一つの鍵を投げ渡す。


「作りたがってた装備。出来たよ」

「マジですか!? 昨日の今日で作るとか、流石師匠! そこに痺れる憧れるぅー!」

「あー、あんまりでかい声出さないでくれ、二日酔いに響く」

「てへ」


 思わぬプレゼントにセシリアは大声を上げて喜んでしまい、アイアスは鈍く痛む頭を抑える。

 でもそれ位、セシリアの求めていた新装備の完成という報告は嬉しい物なのだ。

 その新装備というのが戦いに使う物だと察したマリアが、腕の中で悲しそうに一瞬表情を暗くしたのに気付かずに。


「アタシの部屋の金庫の中に入ってるからさ、後で回収しといてくれ」

「りょーかいでーす」

「それと、この後時間はあるかい?」


 問われたセシリアは虚空を眺める。

 今日はもうセバスチャンとの稽古も無いし、装備の点検や弾の補充も済ましてある。防具の新調をしたい所ではあるが、予備もある為急いではいない。

 特にないな、とスケジュールを振り返ったセシリアは頷く。


「大丈夫だよ。何かあるの?」

「ばあ様。アタシの師匠に会いに行って欲しいんだよ」

「……あの九尾の女の人に?」

「気が乗らないのは分かるけどさ、アンタに関係無くもない事だからね。まぁ、自分の眼で見て欲しいんだよ」


 別に気が乗らない訳では無く、どちらかと言えば人見知りの様子を浮かべるセシリア。

 言っては何だが、セシリア達とイナリの邂逅は余り良い物では無かった。イナリの性格もあるのだろうが、文字通り狐に化かされた様な後味を残したセシリアからすれば、元の人見知りの名残もあって唸ってしまう。


「お母さんも一緒に行っても良い奴?」

「まぁ別に良いんじゃないか? マリアは予定はあるかい?」

「……えぇ、大丈夫ですよ」

「お母さん? 気が乗らない?」

「いえ……そういう訳では無いのですが……」


 言いよどむマリアの表情はどことなく暗い。

 気まずさや不満が入り混じりになったような、でもそれを表に出さないようにと抑え込んでいる様な表情だ。

 腕の中にすっぽりと納まっているマリアを、セシリアが覗き込めば小さく被りを振ってアイアスを見上げる。


「別に無理しなくても良いんだよ?」

「本当に大丈夫です。ちょっと強烈な印象の人だったので……」

「ま、それは窘められなかったアタシも悪いと思ってるよ。んじゃぁ、余裕のある時に会いに行ってやってくれ。アタシはやる事があるから先に失礼するよ」


 用は終わったらそそくさとアイアスは背を向ける。

 きっと少し仮眠を取ったら、ここ暫く忙しそうにしていた何かをしだすのだろう。

 残された二人は、休憩の終わりを意識しだす。


「それでは、ご飯食べて汗を流したら行きますか?」

「うん。一体何を見せてくれるんだろうね」


 マリア手作りの昼食を取り出したセシリアは、仄かな期待を湧き上がらせながらそそくさと口を動かした。

 きっと何か凄い事なんだろう。何となく、セシリアはそんな予感を抱いた。



 ◇◇◇◇



 先ほどまでは心洗われる程の晴天だった。だが急に陽が沈んだと思えば、叩きつける様な雨が降りしきってそこらを歩いていた人たちは泣き言や恨み言を漏らしながら駆け出している。


「もー! いきなり振ってくるとか最悪!」

「はぁっはぁ。ほ、本当ですね、こんな急に天気が悪くなるなんて珍しいですし……」

「なんか不穏な前触れだよね。うぇ、全身びしょびしょ……タオルとか貸して貰えないかな」


 言うに漏れず、セシリアとマリアもイナリと出会った街はずれの古びた家へ向かっている最中に豪雨に見舞われ、水を滴らせながらもなんとか走ってたどり着いていた。

 脇のホルスターに純白の大口径五連装リボルバーを挿し、腰のガンベルトには予備の弾丸と色々入っている背嚢を装備した完全装備のセシリアは、恨みがましげに暗雲に覆われた空を睨みながら濡れて重たい髪を掻き上げる。


 マリアも、カーディガンの裾を絞りながら手早く髪を巻き上げて、肌に張り付く気持ち悪さに顔を顰めている。

 アイアスに言われてイナリの居る場所まで来たは良いが、既に気分は最悪の物となっている。

 これでつまらない事だったら、文句の一つ位は言っても許されるべきだろう。


 軒の下に避難した二人は、帰る事も出来ずさっさと身体が冷える前に中に入ろうと戸を叩く。

 以前来た時は迎え入れる様に勝手に開いたのだが、今回は閉まったままで仕方なくだ。


「……反応なし。と、鍵は……空いてる。入っちゃう?」

「ダメですよ、勝手に入っちゃ」

「っても、野ざらしだと風邪ひくし、どうせ空間跳躍で家の中には入んないんだから大丈夫じゃない? ママを風邪ひかせたくないし」

「それはそうですが……すみませーん! アイアスさんに言われて来た、マリアとセシリアでーす! イナリさん、入っても構いませんかー!」

「……返事も無し」


 このまま戸口で突っ立て居ても風邪を引くだけ。

 既に濡れた身体は体温を奪い、マリアの身体は小さく震えている。セシリアは鍛えていてまだ体力があるが、マリアは簡単に風邪を引いてしまうだろう。

 勝手は承知で、風邪を引くよりは怒られた方がマシという意思が勝ってセシリアは鍵の掛かっていない戸を開いて中に入るよう先導した。


「あれ? 跳ばない」

「ですね。お家の中に入っちゃいました」


 身構えていた二人だったが、前回と違い踏み込んだ瞬間に空間跳躍する事は無く、二人を出迎えたのは至って普通の家のリビング。

 間取り的にはリビングなのだが、物の散乱具合からは物置小屋の様相を見せていて、二人は首を傾げてしまう。

 そもそも、空間跳躍自体も魔法に依るものだからこそ、良く分かっていないのが現状だ。

 機械的に反応するんか、それとも当人が人為的にやってるのかも分からない。


 兎にも角にも、まずは濡れた身体を温めるべく、二人は置いてあった比較的綺麗なタオルを手に取って水気を取り始める。

 後で怒られれば代金を建て替えれば良いし、別に家探ししている訳でも無いのだから、こちとらアイアスに行って来いと言われた身だ。

 多少の不作法は目を瞑って欲しいというのが本音だろう。


「んー、多少は乾いたけど……鏡が欲しいな」

「ちっちゃいのなら持ってますが……あ、姿見が置いてますよ」


 物が散乱としている中で、マリアは至って変哲も無い姿見を見つけた。

 それだけは普段も使っているのか、他と違い周りに物が置かれていない。

 難なく正面に立つと、二人は姿見で身体を確認しながら身なりを整え直す。

 二人で並んで互いの身なりを整えていた二人だったが、突然。目の前の姿見が眩く輝きだす。


「あ、こんな所に枝毛がありますよ……え?」

「いやこれ、多分寝癖じゃな——ママ!!」


 ぐわりと、世界が歪み平衡感覚が失われる。

 その感覚には覚えがあった。今この瞬間に、どこかへ空間跳躍しようとしているのだ。

 それがイナリの下であれば問題ない。だが、その光に照らされた瞬間、セシリアは全身を襲う嫌な予感が過った。


 ヘドロの様にドロドロとしていて、蛇の様に巻き付いて離れない寒気の走る嫌な予感。

 咄嗟にマリアを護る様に抱きしめたセシリアを、光が一層強く包み……。


「きゃぁ!?」


(誰の悲鳴? ママでも無いし私でも。ていうか人の気配が凄い一杯……イナリさんの所じゃないのは確かだけど)


 固く目を閉じ、汗ばむ位リボルバーのグリップを硬く握りしめていたセシリアは、腕の中に温もりがあるのを確かめつつ、空間跳躍特有の内臓を揺られる気持ち悪さと眩しさが納まってくると薄らと目を開ける。


 周囲では沢山の人の気配を感じる。

 ざわざわと、困惑に揺れる混乱が感じられる。


 悲鳴が聞えた。

 明らかに聞き覚えの無い、女性の悲鳴だ。


「っ!? お、おい……あの眼……」

「あぁそんな……」

「悪魔だ……あの化け物の眼だ!」


「っ!? 何!?」

「なんで……こんな所に……」


 混乱は恐怖に変わる。

 ぼんやりと覚醒しきっていなかったセシリアの頭は、肌が泡立つほどの刺す様な敵意に一瞬で覚醒し膝立のまま反射的にリボルバーを構えた。


 はっきりと周りを見渡せば、絢爛豪華な会場でセシリアとマリアを囲むように、一目で貴族なのだと伺える眩しい装飾を身に纏った人々の壁が二人を囲んでいた。

 その全ての人が、表情に脅えと怒りを張りつかせていた。

 誰一人として、それ以外の表情は浮かべていない。


 誰も彼もがセシリアの真紅の瞳を見て怯え、主に祈り。怒り、怒気と殺気を滲ませている。

 訳も分からずこんな場所に投げ込まれ、何もしていないのにそんな感情を一心にぶつけられたセシリアは歯を剥いて威嚇するように周りの人々を睨みつける。

 されど、それが更に周りの人々に恐怖と不安を抱かせ悪循環は悪化する。


「お母さん、立てる?」

「え、えぇ。セシリア、一体何をするつもりですか」


 セシリアは絶対に離さないように片手で抱きしめたマリアを、視線と右手だけは周囲の人々へ向けたまま体勢を整えさせる。

 右手の人差し指は引き金に掛けられ、ほんの僅かでも誰かが自分に近づけばセシリアは迷いなく発砲するだろう。


 セシリアは深く息を吐いて魔力を身体に循環させ、何時でも動けるように僅かに腰を浮かす。


「ここを突破して逃げる。何が何だか分からないけど、ここにいて良い事は無いでしょ」

「ダメですセシリア! あの人達明らかに貴族ですし、多分ここで舞踏会か何かをしていたのでしょう、貴族に何かしたら犯罪者になっちゃいます」

「不法侵入でもう遅いでしょ。それに、ごめんなさいで済む様子じゃなさそうだけど?」

「うっ……それ、は」


 セシリアの身を案じて抗議こそしたが、マリア自身この状況でそれはきついだろうというのは理解していた。

 周りは貴族によって出来た人垣。会場は明らかにパーティー会場。恐らくあと数分もしない内に騒ぎを聞きつけ衛兵達が来るだろう。

 時は刻一刻を争う。

 逃げるなら一刻も早く逃げるべきだが、貴族に傷を与えれば重犯罪者まっしぐらだ。

 それでなくても、既に犯罪者かもしれない。


 なにか、何か穏便に済ませられる方法は無いかとマリアは必死で頭を巡らせる。


「おい! 早くあの化け物を殺せ!」

「息子の無念、俺が自ら晴らしてやる!!」

「主よ……どうかあの悍ましい化け物に主の裁きを……我が国を、我が娘を絶望に堕としたあの眼に裁きの鉄槌を……」


 だが、周囲から聞こえる声にマリアの気が変わる。

 自分の娘を化け物扱いし、更には今にも殺してやろうと気色ばむ男達に、マリアは話しても無駄所か、怒りすら滲んでくる。


「っ! 何ですかこの人達、私の娘に……分かりました。逃げましょう、セシリア」

「おっけ、合図したら目を閉じて口を開けてね……いくよ」


 ここまで敵意を露わらにされれば知った事では無い。

 そう判断したマリアは、何時でも走り出せるように踵を浮かしてセシリアの合図を待つ。


 背嚢から閃光手りゅう弾を取り出したセシリアは、退路を確認してから、大きく振りかぶ——


「静粛に!!」


 年若い女の広い会場中に響く凛々しい声に、セシリアの動きはおろか、あれほど敵意と恐怖を醸し出してた人々の雑音も静寂に包まれる。

 セシリアの眼前の人垣が、遠くの方からモーゼの様に割れていく。


 このまま逃げるべきか、声を張り上げた少女を待つべきか、判断に困ったセシリアの右手はやがて所在なさげに下げられる。

 何故だが、今ここで逃げたら行けないような気がしたから。

 何故だか、その声に懐かしさを感じたから。

 何故だか、その少女に会うべきだとも、会わないべきだとも思ったから。


「セシリア?」

「…………」


 逃げると聞いていたのに、じっと食い入る様に近づいてくる誰かの方を見つめるセシリアを不安そうに見上げるマリア。

 先ほどから、頭の奥で煩い程に警鐘が鳴り響いている所為で、マリアは早く逃げなくちゃと言わんばかりにセシリアの腕まくりしたYシャツの袖を引っ張る。


「セシリア、逃げましょう。なんだか、ここに居ちゃいけない気がして」

「あ……えっと……う、うん」


 呆けていたセシリアは、ここで漸く踵を返そうとするが、時すでに遅しだ。

 とうとう、その少女の姿が人垣の向こうから現れる。


 虹色に輝く人外染みた美しさを持つ少女。きっと宝石をそのまま人にしたらこんな美しさなのだろう。

 透き通る肌、滑らかな虹色の髪は後頭部で結い上げられている。

 虹色に輝く瞳は大きく、一度覗き込んだら吸い込まれそうな妖しい美しさを秘めていた。

 まさに天上の姫。

 美しさの頂点の一つを体現したような少女は、セシリアの真紅の瞳を目にすると、さして驚いた様子も無くそのまま見据え、ふっと微笑んだ。


 まるで、久しぶりに帰って来た家族を迎え入れる母の様に穏やかな微笑を。


「久しぶり、愛衣」

「—————」


 その言葉に、セシリアの頭の奥の奥に潜んでいて、今まで霧がかっていた最後の記憶が晴れた。

 わなわなと、セシリアは信じられないと目で語りながらも、隣で制止の声を上げるマリアすら意識の外に抜けて口を開く。


「……ち、なつ……ちゃん?」


 その名前を、前世で最も親しく、大切だった残してきてしまった人の名前を、漸く呼べた。

 虹色の姫は、セシリアの言葉に、肯定する様に笑みを深める。

 口端を引きあがらせた、心からの満面の笑顔を。


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― 新着の感想 ―
[良い点] これほど笑顔が怖いと思ったのは久しぶりだ……。 やっと再会した二人と何も知らないマリアがこれからどんな風になっていくのか、楽しみな反面、少し怖くもありますね。 ……いや、やっぱり楽しみだ!…
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