復讐の道化
石造りの部屋で、二人の男が向かい合っている。
片方は部屋の奥で、整理された書類が並ぶ机に座って目の前の男を感情の無い目で見つめている初老の男性。
初老の男性の見つめる先は、白衣を着た30代頃の眼鏡を掛けた細身の男性。やや不健康そうな顔と白衣が、如何にもな研究者という風体をかもしている。
その背後で影に潜むように一つの小さな人影が見えるが、その人影は二人の間に挟まる気は無さそうだ。
「……それで、何時動くつもりだ」
口火を切ったのは初老の男性。
精悍な顔つきと年老いても尚若さを思わせる隆々な体つきに反し、その眼は酷く昏く濁っている。一体どんな経験、絶望を味わえばそんな顔が出来るのか、推し量る事も憚られる程、ぞっとする位何の感情も読み取れない。
主語を濁した質問に、対面に立つ白衣の男性——オルランド——は、眼鏡を開いた右手で直しながら口端を上げる。
フランやダキナからはドクターと呼ばれている、魔導歴の遺物に精通している研究者兼技術者だ。
「我らが女王の到着と共に。貴方のお陰で想定より早く実行に移る事が出来ました。感謝しますよ、ダーウィン伯爵」
「元だ。今はただの監獄長だ」
ダーウィン伯爵。そう呼ばれた彼は形の良い眉を僅かに歪めただけで、一切の感情を匂わせない声音で訂正した。
ロバート・ダーウィン元伯爵当主。恐らく、このスペルディア王国にてその名を知らない者はいないだろう。貴族だけでなく、一庶民に至るまで彼の名は知られている。
悲劇の父親、伯爵として。
「これは失礼しました、ダーウィン元伯爵。しかし本当によろしいのですか、これを行うというのは謀反などではすみませんよ。これは最終確認です」
「構うものか。それにこれは謀反などでは無い、ただの復讐だ。大義も忠義も無い」
ダーウィン伯爵の声は静かだ。しかしそこには僅かに怒りが滲んでおり、それが初めて彼が人間らしい感情を、押し殺した煮えたぎる憎悪を腹の内に抱えている事が伺えた。
「イザベラ」
悲劇の王太子妃。それが彼の娘の呼び名だ。
オルランドに向けたものでは無い、ダーウィン伯爵は覚悟を決める様に亡き愛しい人たちの名前を口に出す。
決して忘れる事など無い、最愛の人々の名前を。
「リーザ。カシウス。シリウス。そして幾百幾千の我が領民」
それは彼の家族の名前。
気丈であり良き母でもあった妻に、両親を一心に慕い騎士に成りたいと言ってくれた幼い息子に、身体が弱く気弱ではあったが誰よりも優しい次男。
良き領主だった彼を慕って、様々な困難に当たっても挫けなかった領民達。
魅了の魔法によって、スペルディア王国の貴族は一人の少女を巡って腐敗した。
貴族の責務も男としての矜持も吐き捨てて、多くの女性や民が犠牲を強いられ死ななくて良い人々が死んだ。
「今でも目を瞑ればあの時の光景が思い出せる。分かるか、分かるまい。貴様らの様な狂人には」
「狂人とは失礼な。目的の為に手段を選んでいないだけなんですがね……その恩恵を貴方も得ているでしょう」
オルランドの言葉には黙して答えない。
ダーウィン伯爵は既に過去の光景を幻視していた。
長期の仕事だった。
移動だけで数か月かかる様な長旅の果て、彼の領地をより豊かにする交易を彼自らが果たしに行ったのだ。
王太子妃として精進している娘への結婚祝いの為に珍しい土産を抱えて、愛する家族と信頼のおける使用人たちの納める大事な故郷へ帰った彼が見たのは、煌びやかな王国では無かった。
地獄だった。
大陸一の肥沃で広大な領土を誇り、収穫時期になれば見渡す限りの美しい麦畑が広がるスペルディア王国は、その姿など欠片も無い飢えた国と成っていた。
「地獄は見た事あるか?」
「生憎と私は無神論者でしてね。何を地獄と定義するのかにもよって変わりますが」
ダーウィン伯爵の言葉にオルランドは肩を竦める。
どうでも良さそうに、きっと彼からすれば地獄だの彼の思いだのはどうでも良いのだろう。
そんなオルランドの態度すら、気にした様子も無くダーウィン伯爵は机の上で両手の平を重ねる。
その眼は過去に思い馳せている。
「そうか、だが私はあの時地獄はここにあると思った物だよ。乳も出ない母親が蠅の集る赤子を抱えていた。飢えた子供がカビ生えた僅かな残飯を奪い合っていた。民を救うべき騎士は女子供だろうが縋る人を切り捨てていた」
きっとそれは地獄なのだろう。
飢えというのは恐ろしい物だと、この時初めて彼は肌で感じた。
飢えていた。誰も彼もが、心も体も。
「貧民街の話では無い。昨日まで煌びやかだった城下街での話だ」
「有名な話ですね。20年前にスペルディア王国を傾国にまで陥らせた大規模魔法事件。魅了の魔法を持つ少女によって国内の多くの男性が理性を失ったという事件」
国一つをあわや滅亡にまで追い込んだ、魅了の魔法。
それを持っていたのは、ごく普通の少女だった。
普通に庶民に生まれ。普通に両親に愛され。普通に野心を持っていた。
先天的に魅了の魔法を持っていた少女は、周囲からとても愛されていた。それが魔法の力だと自身ですら気付かずに、少女は愛されることが当たり前だと考えていたのだろう。
そして少女は思ってしまった。
『もっと上に行きたい』と。
それが地獄への入り口だと知らずに。
「そうだ、その筆頭が現王。理性を失わなかった者は少なくない、女だからだろうな、同性には効果は薄かったようだ。ただこの国は男尊女卑が根強い、女が真面であった所で意味はない。当時国内にいた女たちは皆口を揃えてこう言う『あれは悪夢だと』きっと私もその場に居れば同じことを言っただろうな……いや、言ったな……あの時に」
ダーウィン伯爵は無意識の内に拳を握る。
その爪が肉を裂き赤い染みを作ろうと、憎悪の炎を揺らす彼は止まらない。
止まれない。もう彼にはこの道以外無いのだから、この道に縋らないと彼は生きていけない。
たった一つの覚悟が、彼を生へ縛り付けていた。
「私がこの国に戻って来て最初に見たのは何だと思う……斬首され、矛先に掲げられた娘の頭だよ……娘だけでない、妻も、息子たちも。友でもあった使用人も、領民達ですらだ。まるで誇る様に高々と、辱められた姿だった」
はは。と乾いた声が漏れる。しかしそれは笑い声なんて可愛い物ではない。
人間、本当に許容量を超える光景に出会うと、笑ってしまうのだ。理性が正気を保とうと、生存本能に刻まれた安全装置が働く。
だけど心は耐えられない。では心が壊れるとどうなるか。
簡単だ。
人間を辞めるだけだ。
「そうなった原因が、婚約者である王子に近づくその女を害したからだと……そう聞いた時……耳を疑った物だ。不貞を働く婚約者と間女を嫌わない女が何処にいる」
「……お悔やみ申し上げます」
「しかもだ……私の家族を辱めただけでなく、わが身可愛さの贅沢で国を滅ぼしかけ……それを止める筈の者まで同調するだと……ふざけるなよ……」
人を辞めたら後は楽だ。
何故なら引き下がれないから。
暗い闇の底に堕ちようと、復讐の炎に身を焼かれた鬼は全てを壊すだけだ。
守るものも、大切な人も失って何もかもを失ったら、もう失う者なんて無い。
だから何でもできる。
例え死刑が確定している極悪人だろうと、何のためらいも無く実験に使える。
例え貴族だろうと、使えるべき王が怨嗟の対象なら簡単に国を売れる。
例えその過程で何百人と死のうが、大切な人達を嘲笑と共に見殺しにした奴らなら幾らでも殺せる。
空気すら歪む怒りを滲ませるダーウィン伯爵に、オルランドは一つのケースを預ける。
きっとそれは、彼にとっては祝福。
「ダーウィン伯爵。貴方のお陰で計画は実行に移せる。検体の提供、ありがとうございました、それでは、我々はこれで」
「……あぁ」
「えぇ、また後程」
オルランドは小さな人影を連れて部屋を後にする。
残されたダーウィン伯爵は、一人過去に想いを馳せた。
脳裏に浮かぶは愛しい家族たち。
きっとここで止めれば、まだ彼は人で居られるだろう。優しい家族は復讐なんて望んでいない。
もし天国なんてものがあるなら、きっと彼はそこには行けなくなるだろう。
だが彼の後ろに、既に道なんて無かった。
「主よ。どうかこの罪深き男の無様な最後をお見送り下さい。そして私は今日を持って黄の法衣に身を包む事を宣言する。汝かの地にて、一切の慈悲も無く我が怨敵を討つ事を誓おう」
最後の祈りを捧げる。
もうどうでも良かった。後の事なんて何も考えてはいない。
しかし、その口端だけは薄く弧を引いていた。
「くはは……やっとこの時が来た……」
◇◇◇◇
ダーウィン伯爵の下を離れたオルランドは、そびえ立つ監獄を見上げながら口端を上げていた。
これから起こる事への期待で、興奮が抑えきれていないのが見てとれる。
「追い込まれた人間というのは本当に何でもやるものだね。君もそう思うだろ?」
「……」
オルランドは視線をついと、隣のフードを被った小さな人物に逸らしながら楽しそうに声を掛けるが、帰ってくるのは沈黙だけ。
全く、愛想のない子だ。と言わんばかりに肩を竦めたオルランドだが、それでも気にした様子は無い。
「まぁ良いですけど……それよりも、我らが女王に連絡を入れて貰えますか? 万事抜かりなし。と」
小さなフードの人物は小さく頷くと、耳に手を当てて囁きだす。
そのフードの隙間から白い髪が覗いてるが、きっとそれは月明りに反射された見間違えかもしれない。
数分もすればそれも終わり、フードの人物は手を離す。
「——作戦開始は予定通り。との事です。それと、オリジナルがこちらへの移動を開始した様で、明朝に合流地点で回収を求とのこと」
「了解。と返事を。フラン君も足を見つけたのでしょうかね、別に急いで来る必要は無いのですが……まぁ良いでしょう、何人か補給用の人員を割いてあげなさい、采配は任せましたよ」
「了解」
フードの人物が答えると、何処に隠れていたのか同じような背格好の人物が3人ほど現れる。
その人物たちに、命令を受けたフードの人物はオリジナルと呼ばれた少女へ出迎えに行くように告げると、新しく現れた人物たちは手早く移動を開始した。
オルランド達も今日の宿へ向かおうとした時、二人に近づく人影に足を止める。
「御機嫌よう、闖入者方」
「貴女は……なぜこんな場所に」
余りに場にそぐわない人物。
嫋やかな微笑を浮かべながら現れた、人とは思えない虹色に輝く美しい少女にオルランドは驚きの色を浮かべる。
虹色に輝く、宝石人という亜人に属する宝石の様な少女は明らかに怪しい筈のオルランドやフードの人物に対して、初めからここに居るのが分かっていたかのように堂々とそこに立っていた。
しかし周囲に人の気配はない。
隠れているのかと、オルランドが隣のフードの人物に視線で問えば、首を振って否定される。
警戒する二人に、虹色の少女のクスクスという笑い声が届く。
闇夜で、極悪人が収監される場所にはそぐわない朝日の中の雀の様な可愛らしい声だ。
「そんなに警戒しないで、私の魔法は知ってるでしょ?」
「……未来すら見通す虹色の瞳を持つという噂でしたが、まさか本当だとは」
「我ながらチートが過ぎるとは思ってるけどね、どう? 生で体験した感想は」
「ちーと? いえ、恐ろしい物ですね。ここへはかなり慎重に来たというのに、こうもあっさりと……しかしよろしいのですか、貴女の様な高貴な身の上の方がお一人で、お父上が悲しむかもしれませんよ?」
「気にしないわ、だって父親が何時だって考えてるのは最愛の人だけだから。それよりも」
きっと本当にどうでもいいのだろう、虹色の姫はあっさりと話題を切り替えた。
心底どうでも良さそうに。
「私が貴方達を手伝って上げる。だから、私のお願いを聞いてくれる?」
虹色の姫は作り物を思わせる様な美しい、狂的なまでの笑みを浮かべた。
きっと、恋する乙女はこんな笑顔を浮かべるのだろう。




