酒と恋は程々に
お久しぶりです。
今リアルが忙しい時期で執筆する体力も残ってないのが現状です。
でもわたママは出したいキャラも書きたいシーンも、何よりまだ母娘百合を書ききれてないのでエタりたくないです(切実)
それは楽し気な声の裏での会話。
広い和室で、ナターシャとエロメロイは二人っきりで豪勢な食事を前に箸をついている。
二人共既に入浴は澄ませている様で、エロメロイは前髪を下ろしナターシャも長い黒髪を一つに纏めて肩から前に垂らしている。
二人共浴衣を気楽に着こなして落ち着いた様子だが、そこに笑顔や笑い声は無い。
黙々と、会話無く食事を進めている。
エロメロイにとっては折角の美味しい食事の筈なのに、目の前で黙々と箸を進める姉と、背後から聞こえる微笑ましく羨ましい声に心なしか折角の高級な肉も塩味が効いている気がする。
「……なぁ姉貴」
「……」
「……はぁ」
声を掛ければ反応する。
お茶碗片手に、箸をつつきながら目線だけ向けて。
そんな無粋な反応に、思わず文句の一つでも言いたいが弟は姉に反抗出来ないという世の法則は悪魔も同じなのか、エロメロイは深いため息だけついて熱燗を煽る。
あぁ、もう癒しは酒だけだよ。弱音を吐いたら本当に泣きそうになるので、エロメロイは込み上げた泣き言を流し込んだ。
「なぁ姉貴よぉ、マリアさんに謝った方が良いんじゃね?」
「……なんでぇ」
「なんでって、そりゃぁ……」
長く一緒に居たからナターシャの内心なんておおよそ見抜ける、伊達に姉弟していない。
だがだからこそ、ナターシャのマリアへの態度へは一言言いたかった。ナターシャ自身の為に。
「じゃあ姉貴は良いんかよ、あのまんまマリアさんと仲違いしたまんまで」
「……っさいわよぉ」
「っ~~! あ~もう。なんなん」
折角気を遣ったというのに、そっぽ向くナターシャにエロメロイは苛立たし気に後ろ髪を掻く。
そのまま乱雑に箸を使って肉をひと切れ口に放り込む。悔しい事にめちゃくちゃ美味しい。
「ぶっちゃけさぁ、俺はマリアさんとは直接の関わりはんな無いから何とも思わないけど、魔王様は黙認してたじゃん、そしたらマリアさん怒るのは違うっしょ?」
エロメロイの言葉にナターシャは苦々し気に顔を顰める。
何も反論しない所を見るに、それはナターシャも理解しているのだろう。
唇を噛むナターシャに、エロメロイは再度ため息をついて熱燗をとっくりに注ぎながら舌を廻し続ける。
「俺は仕事柄、あんまり魔王様達の傍に居られなかったからだけど、あのクソみたいに荒れてた魔界で楽しそうに笑う魔王様や野郎共が、大戦前にマリアさんが居なくなった事になんも言わなかったんだぜ? それに姉貴も見たっしょ? あれ、魔王様との子だよ、そしたら逃げた理由も頷けるっしょ」
喉を熱い物が通る。
そして腹の底が熱くなると共に、当時の事がありありと思い出せてしまう。
クリスティーヌ達に語った事は半分事実で、半分嘘だ。
嘘は対立した組織が在るという事。
魔王であるファウストが嘗ての人魔大戦で無くなった後、王が無くなった後の世などどこの世界も同じ。
そして事実は、戦争が起きそうという事。それも、最早止めようがない程に目前に。
誰も幸せにならない、ただ一部の獣達だけが楽しみたいだけの吐き気を催す戦争が。
そして一つだけ、ある意味最も大事な仕事が控えている事は、語る事は無かった。
(魔王様……アンタの予想が当たっちまったよ)
◇◇◇◇
「俺は死ぬだろうな」
「は?」
それはまだ、人魔大戦が起こる前の事。
諜報員であるエロメロイは、何故か主である魔王ファウストに呼ばれ、戦々恐々と真っ赤な酒の入ったグラスを覗き込んでいた。
そんな折、エロメロイに背を向けて空を仰ぐファウストの呟きに、緊張で味も分からない酒を呑みこんでいたエロメロイは思わず不躾に主を凝視してしまう。
それ位、エロメロイにとってファウストが死ぬなどと言うのは想像も出来ない事だった。
驚くエロメロイに、ファウストは苦笑すると真っ赤な月を見上げる。
「時々、俺を置いて皆が遠くへ行く夢を見るんだ。とても寒くて、とても苦しい夢を」
「そっ!?」
主の独白を遮るなど、普段であればするはずも無かった。だが、唯一の主であるファウストのそんな弱弱しい独白を黙って聞いていられる程、彼は大人では無かったのだ。
「そんな事仰らないで下さい! 俺は、いや俺達、この国に住む全ての悪魔達は魔王様に感謝してます! あの地獄から救って頂いて! 安心して家族と夜を過ごせるこの日々をどれほど求めたか! 仮に魔王様の身に危険が訪れる様な事態になれば、この国に住む全ての悪魔達は身を盾にして貴方様を守り通す所存です!!」
エロメロイは必死で懇願する。
普段は細められた糸目も、この時ばかりは見開いて傍に駆け寄った。
明らかに冷静さを欠いた行動に、ファウストは困った子供を見る様に微笑む。
「あぁ、分かっている」
その言葉にエロメロイはほっと安堵する。
よかった、きっとさっきの言葉は冗談か何かだったのだろうと。
だから見えなかった、主の表情を。聞こえなかった、寂し気な呟きを。
「そうしてしまうんだろうな」
「はい?」
呟きを聞き取れず、聞き返したエロメロイにファウストは緩く被りを振るとと着席を促す。
お互いがソファに対面に座れば、再度空になったグラスに酒を注ぐ。
そのまま、信ずる神など居ない悪魔の王であるファウストが何かにグラスを捧げれば、勢いよく煽り呑んだ。
「時にエロメロイよ」
ピンと背筋を伸ばし黙って言葉を待つエロメロイに、ファウストは酒気を帯びたため息を吐く。
物憂げに、言うべきか言わないべきか悩むように。
だがファウストは、しんと白目に浮かぶ真紅の瞳でエロメロイを見据えると、少しだけ表情を柔らげた。
「もし、人界と魔界が繋がったとすれば……戦争が起こると思うか?」
静かな言葉だ。
そして、ありえない事だと一蹴出来る様な事。
世界を隔てる壁が取り払われ、戦争が起こる程の道が繋がるなどありえないだろう。何故なら、悪魔と言う彼らの全く反対には、ファウストが指す人界には神が居るのだから。
だがエロメロイは、ファウストの発言を冗談と笑い飛ばすような無能では無かった。主の言葉に、真剣に答える。
「起きます」
確信をもって答える。
前提は有り得ないが、戦争が起きるか否か。だけで言うなら断言できた。
「今は魔王様が抑止力となってますが、他の地を支配する殆どの悪魔達は血の気が多いですから。抑え付けられている鬱憤を晴らす意味合いも込めて……まぁ八割以上は享楽の為でしょうが、必ずやあいつらは動きます」
「だろうな」
嘗てファウストが現れる前の世界を思い出し、エロメロイは確信と怒りを持った固い声で答える。
弱い物なんて虐げられるだけの、真面に夜も眠れない日々を。
同族の筈の悪魔から、殴られ唾を吐かれ、地べたを這いつくばっていた日々を。
その言葉を肯定するファウストも、そう来るだろうと予想していた様に頷く。
「エロメロイ、君だけには伝えとく。近い内人界と魔界は繋がる、戦争は必ず起こるだろう。そして、恐らく俺はそこで死ぬ。そうしたら魔界はもう一度暗黒時代に戻ってしまう。それだけじゃない、恐らく何百年後かにはまた戦争が起きる。その時、その時君には人界で人類に協力を持ち掛けて欲しいんだ」
「……何故、俺に」
こんな話をしたのだ、どうしてそんな事を言い出したのかは聞く必要は無い。エロメロイの役割は王の手足となって支える事だから。
それ以上に、どうしてそんな話を自分にするのかが分からなかった。
エロメロイはただの諜報員で、彼より位の高い悪魔なんて沢山いたから。その中には、エロメロイの姉もいた。
何より、言葉の重みにエロメロイの心臓は破裂してしまいそうだった。
「君の姉のナターシャでも良いのでは? という顔だな」
「まぁ……俺はただの兵士ですし」
エロメロイの答えに、ファウストは困った様に笑う。
その笑みは、友人に向ける様な気安さで尚、分からなくなってくる。
「そうだな、ナターシャ嬢。彼女はほら……妻の事が好きだろう? それもかなり」
「まぁ、会う度に惚気られてますね」
「だからダメなんだ。将来それは分かる。それに、恐らくその時になったら真面に動けて信用が出来る悪魔の数も居ないだろからね」
いまいち理解できないエロメロイは、不躾にも訝しんでしまう。
そんな態度すら許してしまう主の寛容さに感謝しつつも、このまま何も聞かなかった事にして逃げ出したいプレッシャーに晒されていた。
「まぁなんだ、多分その時になったら分かると思うから。頼んだよ」
「…………分かりました。ですが、魔王様、死ぬなど恐ろしい事を仰らないで下さい。魔王様の存在だけが、この国の悪魔の希望なのですから」
エロメロイの言葉に、ファウストは力なく苦笑した。
そして、それがファウストとエロメロイが個人として話した最後の会話で、彼がファウストと再び会う事は叶わなかった。
◇◇◇◇
回想に浸り、苦い物と熱い物が込み上げてくるのをエロメロイは酒で流し込んだ。
深く息を吐くと、目の前の肉を炙る炎がゆらゆらと揺れ、消えそうなのにあと一歩で消えない。
(まだ3日目だってのに、センチメンタルになりすぎっしょ)
この世界に来てまだ3日。
やるべき事は沢山あるが、今できる事はかなり少ない。
移動中の今では特に、本当に何もすることが無い。とりあえず人間の、それもかなり高位の地位の人物と渡りをつけられたのは上々だが、今は待ちの時だ。
だからこそ、過去の事を嫌と言う程に思い出してしまう。
特に、酒が入っていると尚更。
流石にそろそろ呑むのを止めよう。と箸を取った所で、目の前の姉の動きが止まっている事に気づく。
「姉貴? なしたん」
「……」
じっと俯いたまま。
流石に言い過ぎたか? と後ろ髪を掻くエロメロイは珍しく消沈している姉に優しくしてあげようと腰を浮かすが、そこで彼女が手にしている物を見て目を見開く。
「お、おい……姉貴それ……」
「っぐす」
エロメロイの途惑いの声への返答は、水っ気混じりの鼻啜り。
その手には、一升瓶。
それを見てエロメロイは頬を引き攣らせて腰を浮かせたが、その腰は引けている。
エロメロイは思い出した。
目の前の姉に酒を呑ましてはいけない事を。
それはもう、嫌と言う程身をもって経験したから。
「ひぐっ……えぐっ……分かってるわよぉ……」
いつの間にか、ぼろぼろと涙を流しながら子供の様に嗚咽を漏らすナターシャ。
止めれば良いのに、一升瓶をラッパ呑みする。が、三分の一も減ってない。にも関わらずナターシャの顔は真っ赤に染まっている。
そのまま、勢いよく机に叩きつけ顔を上げると、いつも眠たげに垂れていた目尻は更にとろんと垂れ瞳には膜貼っている。
「やば……逃げ——」
「いやだいやだぁ!! 嫌われたくないよぉ!! マリア様に嫌われたくないよぉ!!」
「なっ! 離せよ酔っ払い!」
身の危険を感じて逃げようとしたエロメロイの腰に、ナターシャはしがみついてやんややんやと駄々をこねる。
ナターシャは下戸だったのだ。
そして、泣き上戸でもあった。
そしてそして。
「うわぁぁぁん! 私だって本当はもっと仲良くしたかったもん!! マリア様大好きだもーん!!」
「もんって……じゃぁなんで」
ただの拗らせ女だった。
「でも一目あった瞬間にビビられて、その後もびくびくしてる姿見たらすっごいイラついちゃって……」
「あぁ、まぁ確かに魔界に居た頃はもっと明るい人だったよな」
余り深い付き合いは無かったが、当時の姿と邂逅した時の姿が乖離していたのはエロメロイも分かっていた。
だが、だからと言ってナターシャ程ではない。
「そうなのそうなのぉ! 昔はもっと明るくてねぇ、魔王様の隣で楽しそうに笑って、あっちにちょろちょろこっちにちょろちょろ、それこそ危ない所にも足を踏み込んで笑うマリア様がちょー可愛かったのぉ! ……なのに……ひっぐ、ぐす……うわあぁぁぁん!! 嫌だよぉぉ! 嫌われたくないよぉ!!」
嬉しそうに語ったと思えば、幼子の様に泣き喚くナターシャにエロメロイは疲れを感じため息を吐いてしまう。
いつかきちんと腹を割って話せる機会があれば良いのだが、普段の様子では無理だろうな、と肩を落とす。
この姿を見せれば一発で解決なのかもしれないが、そんな事をすれば酔いが醒めた後のナターシャに殺されかねない。
どうしよっかなぁ、とエロメロイは遠い目で乾いた笑いを零した。
「ひっぐ、えぐ。マリア様ぁ……すきぃ……ぐすっ……でもきらぁい」
その後、エロメロイはひたすらナターシャに付き合わされた。
絶対、絶対もう一度風呂に入ろう。せめて精一杯満喫しないとやってられない。
◇◇◇◇
夜空の下、地球と同じ満月に向かって手を伸ばし、指に絡めたネックレス越しに地球と同じ満月を見上げる蒼銀の髪の少女。
真紅の瞳を空色の、永遠を意味する宝石に紐を通しただけのシンプルなネックレスに映しこむセシリアは、物憂げな表情を浮かべている。
「トリシャさん、ガンドさん。私ね、初めて仕事以外で街の外に出たんだ。あ、今回のは観光とは言い難いけど、でもさ、まさかこんな日本風の場所があるなんて初めて知ったよ」
プラプラとネックレスを揺らしながら、セシリアはまるでそこにその人が居るかの様に空を見上げたまま語りだす。
決して忘れる事は無い、セシリアにとっての心の祖父母を思って。
気が触れた訳では無い。セシリアの脳は至って正常。
正常に、死者を思って感傷に浸っていた。
「凄いよね、この国を作ったのは初代勇者って話だけど、確実に日本人だよね、それか日本大好きな外国人。でもさー、禁忌の森の街には日本らしい文化って意外と感じないよねー。良くも悪くも異世界味あるって言うかさー」
和風のお店があったり、宗教味が薄かったりと日本らしい所はあるが、この旅館の様に和を前面に出した街では無い、言ってしまえば西洋感ある15年過ごした街への感想を冗談交じりに独り言ちる。
別に不満がある訳じゃない。だがやはり、元の日本人としての感性が残るセシリアからすれば、この旅館の方がしっくりくる。
腕を下ろし、背を丸めたセシリアは手の中のネックレスを見下ろす。
口元だけ薄く弧を引いたまま。
「恨んでるかなぁ、恨んでるよね。だって私の所為で死んじゃったようなもんなんだからさぁ」
悪いのはダキナだ。
それは確かだ。セシリアが気に病む事なんて無い。
だがそれでも、どうしても罪悪感を抱いてしまう。
「どっかで慢心してたんだよね。チートみたいな魔法持ってさ、めっちゃ力も強くて、それでA級に上がれる位強い魔獣も狩れて、多分……いや、仮に何かあっても何とかなるとかって慢心してた」
ネックレスを壊れんばかりに握りしめる。
だから対人戦闘の技術を磨こうとしなかった、もっと強くなろうとしなかった。銃だって、本気で改善しようとはしていなかった。
だから負けた。
だから守れなかった。
偶々、セシリアの中の魔王の、父親の力が覚醒したからマリアだけは何とかなったが、博打による成功で喜べる程お花畑では無かった。
トリシャ達はそもそも仕方ないと思う。
でももっと強ければ、ガーゴイルの仕事をもっと早くに終わらせることが出来てれば間に合ったかもしれない。かもしれないと思ったら、あれもこれもとifが出てくる。
「たった五年で慢心するとかさー、やっぱ子供だよねー……はは、多分、トリシャさんにこんな姿見せたら拳骨されそうだけど」
トリシャならウジウジしてるなと豪快に笑い飛ばして、恨んでなんかないと拳骨してくれるだろう。
ガンドなら言葉少なに、不器用に逆に慰めて、トリシャに尻を叩かれるだろう。
そんな姿がありありと想像できて、苦笑が漏れる。
だが寂し気な微笑に変わると、セシリアは左手に置いたアイアスからのプレゼントを撫でる。
「……前世の漫画でさ、すっごい印象に残ってる奴があったんだ。お母さんが病気の娘を守りながら、必死で戦う奴。私のお母さんとは性格とか何もかも真逆だけどね」
今日はやたらと愛衣だった頃の、前世の記憶を思い出してしまう。
特に、創作物の内容を幾つも思い出して望郷の様な思いが湧き上がる。
そしてその記憶に残骸の様に刺さる、あと一歩で思い出せない一人の記憶も。小骨が刺さったような違和感で、取れそうで取れない違和感がむず痒い。
「それでさ、困ってる人を助けようとしたお母さんが、その隙をついて娘を奪われちゃうシーンがあったの」
ありありと思い出せる。
物語の中盤頃の話だ。
半狂乱になった母親が、止める仲間をぶん殴って娘を取り返しに行くシーンはネットでは「狂的過ぎ」や「依存じゃん」と酷評だったが、セシリアとして転生しても尚思い出せるくらい強烈だった。
「その後お母さんは文字通り他者を切り捨てて、娘の為だけに行動するようになるんだ。でもさ、やっぱり葛藤するの。娘だけを守って、他の人を見殺しにする様な人生で、母親として胸を張れるのかって……」
そこでセシリアは膝を抱き込む。
春とは言え、夜の風は肌寒い。後で二度風呂でもした方が良いかもしれないと思う程度には、身体は冷めきっていた。
「……そのお母さんの気持ちさ、分かっちゃうんだ。すっごい分かっちゃう。私だって、赤の他人を守って死んだんだからさ」
そういえば、あの時の少年は生きてたかなぁ。と呟きながらセシリアはポケットから紙を取り出す。
ヤヤから貰った手紙。
友達からの手紙。
心温まる、ヤヤらしいけど、精一杯背伸びして書いたんだろうな、と分かる間違いだらけの字。
「……でも、分かんなくなっちゃった。ヤヤちゃんからずっと友達だよって手紙を貰って、嬉しいとは思った。でもさ……多分、ヤヤちゃんとお母さんを選ばなくちゃいけない状況になったら、私……迷わずお母さんを選ぶと思う。葛藤も、後悔も何も無く。あっさりと切り捨てられちゃうと思うんだ」
くしゃりと紙を持つ部分に皺が寄る。
頭の中で最悪の状況を想像する。鮮明に。マリアを選んだ時の、ヤヤの絶望する顔をどれだけ想像しても、全然心が痛まない。
想像だから? 確信する。きっと現実に起こっても同じだ。一切の迷いなくマリア以外を切り捨てられる。
少し前までならそんな事は思わなかったのに。
「壊れちゃったのかなぁ」
ジャリっと、セシリアの背後で足音が鳴る。
誰か来たのか? と振り返ったセシリアは、そこに心配そうに立っているマリアを見て表情を柔らげた。
「冷えますよ、セシリア」
「おか……ママ」
マリアの姿を見据えたセシリアは柔らかく微笑むと少し横にずれて、そこにマリアは腰を落ち着けた。
マリアがセシリアの肩に手を当てると、風邪を引かないか心配してしまう程に冷え切っている。
「何時からここに居たんですか」
「うーん、だいぶ前?」
「お馬鹿さん、後でお風呂入りましょうね?」
「うん。分かった」
先ほどまでの消沈具合は一切無く、穏やかに、いつも通りの自然体で会話するセシリア。
来たばかりで、その独り言を聞いていた様子も無いマリアはセシリアの様子に気づくことも無く鼻頭を指で弾くと、微笑む。
直前の昏い気持ちは、マリアの姿を見た事で幾分か晴れた。だが、彼女の傷一つない首筋を見ると悲し気に目尻を下げた。
「ママ、首。痛くない?」
「……えぇ、傷一つありませんから。セシリアこそ、身体は大丈夫なんですか?」
「私の回復魔法で治したから」
セシリアはマリアの首を撫でる。
傷一つない、一度は裂けた首を。
産毛を撫でる様な触り方に、マリアはくすぐったそうに身を捩らせるが嫌がる素振りは見せない。
寧ろ何処か嬉しそうに目を細めた。
そんなマリアの反応に、セシリアは愛おし気に笑みを深めるとマリアの方に身体を寄せ、左腕に抱き着いた。
「ねぇママ。魔界ってどんなとこだったの? やっぱ地獄みたいな所だったの?」
「また前世の知識で変な事言って……そこまで危ない所じゃないですよ」
「そこまでなんだ……」
自分の心から目を背ける様に、セシリアは明るい声で話題を振った。
それに対してマリアは前世の事を隠す事をしなくなった娘に苦笑を浮かべ、セシリアの頭を撫でながら当時を振り返る。
「そうですね、言ってしまえば魔界もこの世界も大きな違いはありませんね」
「へー、じゃあ悪魔って皆あんな感じで、見た目が違うだけの人間なの?」
「えぇ、この世界と同じように見た目が違うだけで知恵を持ち、文明を築き、共通言語を持っていますよ……ただ」
悪魔も、人間と亜人の様に見た目だけが違う存在が居るという。
脳裏には、鬼の様な姿の悪魔や、はたまたセシリアが想像している様な悪魔らしい悪魔なども浮かんでいるが、マリアはそこで言葉を切って、深く息を吸った。
そこから、マリアは一つ一つを丁寧に語りだした。
例えば、魔界は力なき者は虐げられるような世紀末感で、ファウストが作った国には虐げられた者達が数多く居る事を。
魔界では力こそ至上とする様な気風があって、ファウストが治めていた国以外ではその傾向は如実だと。
実は魔界の月は紅くて、見た目は悪いけど美味しい料理があった事を。
時に楽しそうに、時に寂し気に、時に恥ずかしそうに。
夫であるファウストとの思い出を、ナターシャ等沢山の悪魔との思い出を時間の許す限り話した。
「夫とは天界から離れて直ぐに出会って、それから4年程人界を旅して……ふふ、あの頃はまだ自我を持って短かったですから、我ながら好奇心の赴くままに行動して、その度に夫に怒られたんですよねぇ。その後は愛してると告白されて一緒に魔界に行って、3年でしょうか。魔界で色んな人と出会って……思えば、随分短いんですね」
「むー……」
惚気られるのは仕方ないと思う。
セシリアも父親の話を聞くのは吝かでは無いし、マリアが父親を愛してるのは分かっている。だが、胸の奥がチクチクと気持ち悪くなってしまう。
「じゃああのナターシャさんとか、昔は仲良かったんだ」
話題を変えたが、あまりいいチョイスでは無かった。
マリアは悲し気に眉を下げると、罪悪感を抱きながら空を見上げた。
「……そう、ですね。彼女は初めて会った時から良くしてくれて。時には一緒に冒険したり、時には夫の側近の方に悪戯を仕掛けて怒られたり……下手したら、夫よりも付き合いは濃かったかもしれませんね」
夫であるファウストに嫉妬される程に。
それほど仲が良かった。
魔界に居た頃は、いつもナターシャと傍に居て、色々笑い合ったり怒られたりしたものだ。
あの頃に比べ随分大人になった物だと達観し、そしてそんな人々から背を背けて逃げてしまった自分を、酷く卑しく思えてしまう。
「彼女が怒るのは当然です。天使の権能というのは万物に干渉できる。それこそ、命にだって。きっと、あのまま私が残ってれば死なないで済んだ人は大勢いたでしょう」
あの時の選択を間違っているとは思わない。
だが、どうしてももしあの時天使である事を捨て300年後に逃げるという選択をせず、あのまま戦場に共に立っていたらどうなっていただろうか。と思ってしまう事はある。
もしかしたらファウストは死ななかったかも知れない。でも、そしたらこうしてセシリアと穏やかに語れる事も無かったかもしれない。
左腕に抱き着くセシリアは、抱き着いたままマリアの左手を握った。
「……正直、ママの憂いを晴らす言葉は分かんない」
「はい」
「それでもさ」
ぎゅっと、セシリアはネックレスを間に挟みながら五指を絡める。
絶対に、二度と離さないように。
「私はママが産んでくれて、その選択をしてくれてうれしいよ。優しくて、好奇心旺盛で、トリシャさんに怒られる位甘くて、眠くなる位穏やかでさ……あったかいんだ」
「……は、い」
マリアは下唇を噛んで俯く。
セシリアは彼女の声が水気に滲んできた事に触れず、明るい声で話し続けた。
「それにさ! 友達だったんでしょ? なら仲直り出来るって! ま、まぁ、前世含めて友達と喧嘩して仲直りした経験とか無いけど……漫画とかだと腹割って話せば何とかなるって!」
「ふ、ふふ……なんですかそれ」
「ははは……良く考えれば私、前世含めて友達殆ど居なかったや」
自虐しながらの不格好な励ましに、マリアは笑い声を零すと、笑って目尻に溜まった水滴を指で払いながら首を撫でるセシリアに微笑む。
娘に気を遣われた事を恥じながら、その優しさに胸に温かい物が込み上げて来た。
「ありがとうございます。ダメなお母さんですね、私は」
「そんな事ないって、ほら、最近は色々あったから。ママがダメって言ったら世のお母さんは殆どダメだよ!」
そう、本当に色々あった。
たった一日、たった数十分で失うには多すぎるものを失ったのだ。
だから疲れてるだけだ、疲れてるから余計な事を考えてしまうんだ。
「そうでしょうか? うーん、だとしても、良いお母さんってどんなのでしょう……トリシャさん?」
「うへぇ、多分トリシャさんがママだったら私グレたね。殴んなばばあ! って」
「グれたセシリアですか……どうしましょう、ちょっと見たいと思ってしまいました……」
「え!? いやいや! 冗談だよ! あの前世でグレられなかった陰キャなんだから、無理に決まってるって!」
母娘の楽しそうな笑い声は、暫く満月浮かぶ夜空に響いた。
本当に、心の底から自然体で居る様な、楽しそうな笑い声を。
当然、身体が冷えて二度風呂したのだが、明日も朝早くから出るのに何時まで起きてるんだとアイアスに怒られたのはご愛敬。




