清々しく苦い朝の味
コンコンコン。と軽やかなノックの音が朝の静謐な室内に響く。
その音に部屋の主である、普段は豪奢な縦巻きツインテールに形作られた金髪の髪を今はつむじの辺りでお団子に纏め、白いシャツを着崩し朝焼けに輪郭を浮かばせる少女は手元の書類から顔を上げ壁時計を一瞥すると、深いため息を吐きながら背もたれに埋まり来訪者に入室の許可を返す。
入室したのは肌を出さないメイド服をしっかりと着込んだ、紫のボブカットとナイフの様に鋭い瞳が印象的なヴィオレット。
「失礼します。公爵家とレフィルティニア様への連絡、完了しました」
「ありがとう、きちんと届いたかしら?」
「いえ……レフィルティニア様は問題なかったのですが、当主様は……」
「そう。まだなの……」
疲れに堪える様に目を強く瞑ったクリスティーヌは、机の端に積まれた幾つもの手紙を一瞥した。
それを入室し報告したヴィオレットが痛ましく見つめると、テキパキと慣れた所作で珈琲を淹れる。
「お嬢様、どうぞ」
「ありがとう」
芳醇なコーヒーの香りがクリスティーヌの鼻孔を刺激し、眠気に鈍っていた頭が覚醒の兆しを見せる。
酸味が苦みを覆い、程よい苦みの後味がほっと一息つかせるが、どちらかと言うと紅茶の方が飲み慣れていた舌にはやや刺激が強い。
眠気に微睡んでいたクリスティーヌの猫目が、カフェインによって開かれ美しい翠の色を覗かせる。
ヴィオレットはそれを横目に、散らばった書類の数々を整理しながら口を開く。
「当主様は大丈夫でしょうか」
「そう簡単にやられる方では無いですわ……ただ、せめて安否の一つ位は知らせて欲しいですわね」
「そうですね、突然こちらに留学を決めたと思えば、帝国で政変。あれよあれと言う間に前皇帝は崩御されたけれど、何故かお嬢様が帰省する事は禁じられ連絡の一つも取れない。私の方でも同僚達にコンタクトを取ってますが、何も掴めないのが現状……」
ローテリア帝国の貴族であるクリスティーヌがこの場に、この国にいるのは理由があった。
第一に、フィーリウス家現当主によって勇成国に留学を命令されてから今日まで、故郷で何が起こってるかは知っていた、にも関わらず彼女は故郷に帰る事は望めず、この国に滞在するしかなかった。
第二に、彼女には現当主から秘密裏に命令を受けていた。
中立派であるフィーリウス家現当主からの命令を。
その事についての定期連絡すら出来ないのは、些か不安を覚えてしまう。
「それはそうと、お姉様の方は何て?」
「それは勿論色良い返事を頂きましたよ、是非来て欲しいと」
「そう、それは良かったわ。今日発つので早ければ明日には着くと伝えておいて」
書類を整理していたヴィオレットはパンパンに膨らんだ麻袋を見て首を傾げたが、誰が持ち込んだか思い出して難しい顔をする。
金銀銅様々な硬貨がぎっしりと詰め込まれ、中には換金可能な宝石等も入っていて、ざっと数えるだけでも金貨30枚はありそうだ。
「これ、セシリアさんが持って来た奴ですよね」
「ん? えぇ、ヴィーもいたわよね」
それはヴィオレットも同席していたから覚えている。
丑三つ時、徹夜で作業をしていた二人に夜中の来訪を告げるノックの音が奏でられた。
『夜分遅くにごめんなさい』
若干警戒する二人が出迎えたのは、仕事着に身を包みしっかりと首元までネクタイを締めたセシリアだった。
緊張に強張り背筋を伸ばしたセシリアは、会釈しながら入室した。
『どうしましたの? こんな夜更けに』
手元の書類を裏返したクリスティーヌの前に、セシリアはずしんと重たい麻袋を置く。
中を改めれば金銭や宝石。一般的な庶民の数年分の財産は下らない額が納められていた。
これは? と訝しむクリスティーヌに、セシリアは腰を90度に折って慇懃に頭を下げる。
『これで、私に、修業を付けて下さい』
セシリアの訪問と金銭の理由を理解したクリスティーヌは、ペンを置き深く背もたれに身体を預ける。
そのまま、つむじを晒すセシリアの垂れるネクタイを見つめるクリスティーヌは、指で机を叩きながら思案する。
『ワタクシの侍女になってから、という選択肢はありませんの』
『私が欲しいのはお母さんを守る力。悪意に対してただ一人だけを守る力が欲しい、侍女になりたい訳じゃないんです』
欲しいのは庇護では無い。
侍女でもセシリアの望む稽古は受けられるかもしれない、でもセシリアは後腐れの無い関係でありたかった。
有事の際はマリアを連れて逃げ出す選択肢が、セシリアの最後の所にあったから。
言葉にはしないが一線を引いた上でクリスティーヌの伝手に頼る姿に、クリスティーヌはため息を吐く。
『一つ、条件がありますわ』
クリスティーヌの言葉にセシリアは顔を上げる。
何を言われるのか分からない緊張に強張るセシリアに、クリスティーヌは苦笑を浮かべる。
一体自分はどういう印象を抱いているのか、聞きたくなってしまう。
『形ばかりで良いからワタクシの侍女になるなら、貴女の武術の師を紹介できますわ』
『……必要な事なんですか?』
『勿論』
嫌そうな表情を浮かべるセシリアに、クリスティーヌはその必要性を語る。
一瞬、セシリアは寒気を覚えたが嫌という感情が流してしまった。
曰く心当たりのある人物は高位の地位にある人な為、ただの友人では到底会えない。
曰くクリスティーヌの侍女であれば、それだけで一定の身分証明になる為いらぬ諍いを回避できる。
曰く今のクリスティーヌは少々不安定な立ち位置な為、侍女として身辺警護も兼ねて欲しい。
その全てを説明されるとセシリアは苦虫を噛み潰したような表情で、重く重く頷いた。
『……分かりました』
話が終わったのを感じたのか、会話が切れるとセシリアは一言夜間に訪れた謝罪とよろしくと残して部屋を出て行った。
回想を終えたヴィオレットは、視界に差し込む朝日に顔を顰める。
「しかし態々侍女なんて言わなくても、師匠とレフィルティニア様……この国の王家の方々なら問題ないとは思いますが」
「確かに……でもそっちの方が色々と都合が良いもの」
ヴィオレットの言葉にクリスティーヌは頷きながら、手の中の書類を弄ぶ。
ローテリア帝国の政変とフィーリウス家との連絡途絶、故郷に帰る事は予め現当主であるクリスティーヌの父親に厳命されている為帰ることも出来ない。
そして封印されていた筈の黒龍の強襲とそれを手伝う者達の存在、そしてなにやら不穏な噂のあるスペルディア王国と教会。
徹夜明けで薄く隈を作るクリスティーヌの為に、ヴィオレットはお替りのコーヒーを淹れる。
「そうだ、ワタクシの魔法に使える宝石の補充もしなくてはいけないわね」
「でしたら、首都に商会の支店があるので先ぶれを出しておきますか?」
「お願いね。と言っても、あんまり期待は出来ないのだけれど」
クリスティーヌは指に嵌められた、最後の赤い指輪を撫でる。
彼女の魔法“宝石魔法”は文字通り宝石を使う事で意味は発揮する魔法だ。
だがその宝石だって何でもいい訳では無い。長く魔力に充てられた、それこそあるだけで人を魅了する様な、一点物の妖しさを持つ様な物でないと意味が無い。
当然、そんな物が安価な筈も無くクリスティーヌは数少ない己の手持ちの宝石を大事に使っていたのだが、先の黒龍との邂逅で第一線の宝石は幾つかを残して塵と化してしまった。
忙殺されそうになっている現状では、思わず苛立ってしまう程度には面倒くさい。
ヴィオレットは手帳に予定を追加すると、疲れ目の主を気遣う。
「お嬢様、少し仮眠を取った方が良いのでは?」
クリスティーヌもヴィオレットも徹夜明けだ。二人共気怠さを覚えている。
だがヴィオレットはまだしも、クリスティーヌは少し位仮眠を取るべきだと進言するが、クリスティーヌはコーヒーを飲み干して苦笑を零す。
「カフェインを摂らせてから言う事?」
「あっ! も、申し訳ありません!」
ヴィオレットも眠気にぼうっとしてたのだろう、自分が無茶を語った事を思い至り焦って頭を下げるが、クリスティーヌはくすくすと笑って怒った様子は無い。
「そうね、主に無茶を言う侍従には罰を与えないとね。ヴィー、そこに座りなさい」
「え、あっはい」
クリスティーヌは徐に立ち上がり、意識して声を低くすると目の前の応接用にソファにヴィオレットを座らせる。
人一人が横になっても余裕のある大きさのソファの端に座らせると、クリスティーヌは間を空けて座ると、彼女の膝に頭を預けた。
「お、お嬢様!? いけません、こんな場所で眠っては……」
「あら? 言った筈よ、罰って」
苛める様に笑うクリスティーヌは、彼女の腿の硬さの強い弾力を堪能しながら広がる金色の膜の中でヴィオレットを見上げる。
その姿は今まで見せていた貴族としての仮面では無く、一人の17歳の少女の姿だった。
ヴィオレットは口ではダメだと言っているが、口端はヒクついていて普段は固められている相貌に紅を挿している。
そんなヴィオレットの珍しい表情に、クリスティーヌの相貌が優しく崩れる。
「ふふ、懐かしいわね。昔はこうして一緒に青空の下で眠ったりしたわよね」
「あぁ。あの頃のお嬢様は、フィーリウス家に引き取られてやんちゃでしたからね」
「貴女も、似合わない敬語で一生懸命背伸びしていたわよ」
「そりゃあ、これでも年上ですから」
「と言っても、精々3つじゃない」
「10代の3歳差は結構大きいんですよ?」
いつの間にか、ヴィオレット穏やかな表情でクリスティーヌの頭を労う様に撫でる。
それに対してクリスティーヌがむず痒そうに身を捩らせれば、ヴィオレットの目が優しく細められる。
まるで親子の様に、まるで姉妹の様に、まるで恋人の様に。
静謐に、清廉に、鮮やかに。
「ねぇヴィー、貴女彼女が侍女になる事を了承した時、殺気を漏らしたわよね?」
「……なんの事でしょう」
「あら? ワタクシを謀るというの?」
顔を逸らしたヴィオレットの首に腕を廻すと、グイっと自身の鼻先に抱き寄せる。
突然の事に目を丸くし、頬を色づかせるヴィオレットに笑いかける。
「ふふ、嫉妬したのよね。今までワタクシの侍従は貴女だけだったから」
「……心の狭い侍従ですいません」
お互いの吐息を交わしながら、ヴィオレットは唇を尖らせる。
内心を言い当てられた気恥ずかしさで侍従としての仮面が剥がれてしまったが、それを咎める相手はもっと崩している。
可愛らしいヴィオレットにクリスティーヌは苦笑すると、彼女の唇に己の唇をなぞる様にそっと重ねた。
柔らかく愛おしい温もりを感じながら、啄む様なキスを重ねる。
ちゅ。と柔らかく触れるだけのキスに、クリスティーヌは穏やかに、何処か物足りなさそうに微笑む。
「安心しなさい、形だけの侍女だもの。ワタクシに触れて良いのは貴女だけよ」
「……ありがとうございます」
一度崩れた仮面に、あからさまに安堵の色を浮かべたヴィオレットの愛らしさに、クリスティーヌは目を細め、唇を舐める。
唾液に照らされ、艶やかに染められた唇を凝視して、ヴィオレットの生唾を呑む音が清廉な朝日の中に響く。
「ワタクシ、お礼は行動で示されるのが好きですわ」
「っ……失礼します」
請われ、一つ喉を鳴らすとヴィオレットは遠慮がちに唇に触れる。
「んむぅ!?」
「はむぅ」
その瞬間、堪えきれなかったクリスティーヌがヴィオレットの首に抱き着くと噛みつくように唇ごと吸い付く。深く長く、貪る様に蹂躙する。
一瞬驚いたヴィオレットだが、クリスティーヌの舌が彼女の舌先で踊ると誘いに乗って粘膜をこすり合わせる。
クリスティーヌの舌がヴィオレットの腔内を蹂躙する度、彼女の紫の鋭い瞳がトロンと蕩けていく。
「んっ……ちゅ」
「んふーっ……はぁっ。お、じょうはまぁっきゃっ!?」
「いっ!?」
少し無茶をして引き込んだ所為で、二人はソファから滑って地面に倒れてしまう。
クリスティーヌを下敷きにしてヴィオレットが圧し掛かり、はっと気づいたヴィオレットは慌てて起き上がろうとする。
「す、すいませんおじょうさまぁっ!?」
だが痛みに悶える間もなく直ぐにクリスティーヌに抱き込まれ、逆に地面に押し倒された。
上質なカーペットを敷いている為、痛くは無いが汚れを気にしてしまう。
戸惑うヴィオレットに、クリスティーヌは肉食獣の如き笑みを浮かべた。
「ふふ、徹夜明けでカフェインを摂らせた所にあんな可愛らしい口づけ……煽ってるのよね?」
「そ、それはお嬢さっむぐぅ!?」
「んっ……ふーっふー……っはぁ、言い訳御無用。大人しく甘味に浸らせなさい」
「はにゅぅ……ほりょうりゃまぁ」
「あら、もう蕩けちゃったの? ならもう少し」
蛇の様に執拗に、なめくじの様に貪欲に、乙女の様に純粋に。
お互いの息だけを吸い込み僅かも離れずに貪り合い、唾液を混ぜ合わせ接吻と言うには熱すぎる。
次第に指が絡み合い、ヴィオレットが膝を擦り合わせるのをクリスティーヌは許さず身体を密着させる。
熱が籠った所で、クリスティーヌは喉にキスを落としながら煩わしいとヴィオレットの柔肌を露わにさせる。
露わになった美しい鎖骨を甘噛みすると、ヴィオレットが息を殺して悶える気配がつむじに刺さる。
「お、おじょうしゃまぁ……」
「なぁに?」
涙目で懇願するようにヴィオレットは主を見上げる、止めてと言うだろうか。時刻は既に朝を迎え外も慌ただしくなっている。
こんな所を誰かに見られれば問題ではあるのだが、その背徳感がクリスティーヌの下腹部を疼かせてしまう。
期待に疼いて悪い笑顔を浮かべてしまうクリスティーヌに、ヴィオレットはナイフの様に鋭かった相貌を見る影もなく蕩けさせながら、期待と不安に疼く紫の瞳に膜を張る。
「かぎを……しめてくらはい」
「……ふふ、本当に可愛い」
クリスティーヌは一つ舌なめずりをした。
その薄くも桜色の唇にたっぷりの愛を重ねて。
◇◇◇◇
「……何か、ヴィーさん顔が赤いデスよ? 熱デスか?」
「あら? 風邪薬ありますけど、飲みますか?」
「い、いえ……ちょっと直前まで運動していたので、大丈夫です」
「? そうデスか」
「はぁ……でも無茶はしないで下さいね?」
時刻は空が青く人影が伸びている朝の頃、西門の前で5人の女性が集まる。
ヴィオレットは頬を赤らめやや髪を乱していて、ヤヤとセシリアに心配されると恥ずかしそうに顔を背けている。
それを詰襟の黒い軍服をしっかりと着込んだクリスティーヌがやや、やつれた顔で見つめている。
そんなクリスティーヌの背後で、セシリアが幾つもの荷物を馬車に乗せていた。
「これで荷物は全部?」
「ん? えぇ、後はあの二人次第なのだけれど……」
この場にいない悪魔の二人を連れ出しにアイアスが去っていった方向を見つめるクリスティーヌは、遠目に見える人影にほっと胸を撫で下ろす。
「悪い、遅れたね」
「ほら姉貴! てめぇの所為で遅刻したっしょ! 謝れって!」
「ごめんねぇ? ついぃ300年ぶりの人間界が楽しくてぇ夜遊びしすぎちゃったぁ」
「酒くっせ!?」
魔女の様な黒いローブに身を包んだアイアスに連れられ、エロメロイとナターシャが顔を出す。
前髪を上げて無造作に整えられた黒髪と糸目が特徴的な青年。身体のラインが出ない緩めのパーカーとジョッパーズパンツを履くエロメロイは、隣のナターシャに文句を垂れるが右から左に流され肩を落とす。
そして情欲的な身体を惜しげも無く晒し、黒いビキニと幾つものベルトしか纏わず娼婦も真っ青な恰好で恥ずかし気も無く立つ彼女。
腰まである癖っ毛を緩く流し、眠そうな目と厚ぼったい唇に添えられた艶黒子が特徴的なナターシャ。
そんなナターシャはエロメロイに支えられながら、酒臭い息でエロメロイの顔を顰めさせる。
青肌に黒白目、そして真紅の瞳という亜人にはない特徴的な容姿の二人は、人間ではない。
嘗て人魔大戦と呼ばれる記録だけが残る戦いで、侵略してきたとされる悪魔だ。
だが悪魔と言うには、余りに人間達と変わらない酒気を帯びた姿に、怒りよりも呆れが沸いてしまう。
「荷物は?」
「なぁいわぁ?」
「……お酒くさ……」
肩を解しながら聞いたセシリアは、顔を顰めながら踵を返す。
馬車の数は2つ。
人数は8人。
辻馬車にはどうしたって4人、詰めて5人しか乗らない。
「配置、どうしよっか」
「私はお嬢様の乗る馬車の御者をするので、3・4になりますよ?」
「ん? あぁいや、そうなんですけど……」
セシリアに独り言に反応したヴィオレットは、頬の紅を引かせ初めて会った時同様デキるメイドらしい怜悧な澄ました表情に戻っている。
どこか機嫌の良さそうな声音に反応することも無く、セシリアは顎に手を添えてヤヤとおしゃべりするマリアを見つめる。
「悪魔二人をお嬢様と一緒には出来ないので、貴女には監視も兼ねてお嬢様とは別の馬車に乗って欲しいのですが……」
ヴィオレットは自分で言ってて望み薄だろうな。と思う。
悪魔二人には既にアイアスが付いている、そこにセシリアが入れば4人だ。少なくとも、マリアと一緒と言うのは安全面でも設計面でも無理がある。
セシリアがどれだけ実母を思っているかは察している以上、断られるかもしれない。
「……そうですね。分かりました」
「え?」
文句の一つもなく承諾したセシリアに、思わず目を丸くしてしまうが、彼女はヴィオレットを置いてマリアの元へすたすたと歩きだしていた。
付き合いの浅いヴィオレットは、自分の予想が間違っていたのかと首を捻るだけで、覚えた違和感は直ぐに捨て去った。
ヤヤと何やら楽しそうにおしゃべりしていたマリアは、娘が近づくと穏やかに微笑んで迎えた。
「あら? どうしました、セシリア」
「馬車が別れるって伝えにね」
「え、別々なんですか?」
「うん、ごめんね」
「そう……ですか……」
折角の旅の道中を、リアルタイムで共有できなくて少し寂しそうに頬に手を添えるマリアに、セシリアは大丈夫だと言う様に手を握る。
人通りの多い西門な上、二人は人目を惹く見目をしている。
そんな有象無象の視線はどこ吹く風に、セシリアは真っ白な歯を見せて笑う。
「師匠を一人には出来ないしね、それにどうせ暫くは面白みも無い風景だからさ、また後でね?」
そう言ってセシリアは、マリアの髪の上からこめかみにキスを落とすと冗談めかして笑って後ずさる。
そしてマリアの傍で何か言いたげにもじもじしているヤヤに、小首を傾げる。
目が合うと、ヤヤは一つ深呼吸してニコっと笑顔を浮かべた。いつもセシリアが見ていた、無垢な笑顔。
「おはようデス、セシリアちゃん」
「おはよ、ちゃんと眠った?」
「デスデス。ぐっすりで元気ハツラツデス!」
嘘だ。
ヤヤは結局数時間の睡眠しかとれず、それだってレム睡眠だったから熟睡できていないでいた。
しかしそれでもヤヤは、完全に疲れが取れた様に笑う。
あの日より前に、よく浮かべていた笑顔を。昨日までの姿は疲れに依るものだと言う様に。
「そっか、同じ馬車には乗れないけど、お母さんの話し相手よろしくね?」
「了解デス!」
おどけて敬礼するヤヤに、セシリアは小さく笑い声を零す。
よろしくね。とだけ残してセシリアは踵を返そうとするが、ヤヤは思わずと言う様に声を上げてその足を止めさせる。
「あっと……その……」
「?」
何かを言い淀むヤヤに、セシリアは小首を傾げて見下ろす。
セシリアの真紅の瞳に射抜かれながら、ヤヤは尻尾をゆらゆら、耳をペタンと垂らして視線を彷徨わせる。
何かを言いたげだが、上手く言葉にできない様子。
「ヤヤは……」
「セシリア! 悪いけど荷運び手伝っておくれ!」
煮え切らない態度ながら、何とか口を開こうとしたタイミングでアイアスの助けを呼ぶ声が届く。
見ればアイアスは両手に重そうに荷物を抱えている、活力あるとは言え老体の彼女には荷物を持ち上げるのは些かキツイだろう。
「あっはーい! ごめんヤヤちゃん、後で良い?」
「あっ……デス」
ヤヤは走り去るセシリアの背に思わず手を伸ばすが、それは力なく項垂れる。
結局、ヤヤがセシリアに何かを言う事は出来なかった。
そんなヤヤの灰色の髪を、マリアが透くように撫でる。
「代わりに、私から娘に伝えましょうか?」
マリアの言葉にヤヤは首を横に振る。
それでも良いのかも知れないが、大事な事は自分の口から伝えたかった。
パンパンッと頬を叩くと、ヤヤはにこっと笑顔を浮かべてマリアを見上げる。
「こういうのは直接言うべきだってお父さんが言ってたデス。だから大丈夫デス」
「そうですか……」
目尻を下げるマリアは、そのまま労わる様に撫で続ける。
「マリアさん……」
気持ちよさそうに目を細めたヤヤは、マリアの空色の瞳をしっかりと見つめて名前を呼ぶ。
その青みがかった灰色の眼には、僅かに迷いの色を滲んでいる。
「ヤヤは、難しい事は分からないデス」
マリアはしっかりと目を合わせながら、頭を撫で続ける。
ヤヤの実母とは違う、優しいが遠慮の混じる指の感触に、遠い故郷の家族が脳裏を過る。
「天使とか悪魔って聞いて敬虔深くは無いけど、ショックは覚えたデス。でも……」
ぎゅっと腰に挿されたナイフを握る。
それは灰狼の一族に伝わる伝統の一品。親が手ずから鞘に魔除けの刻印を彫り、成人と同時に子に送る鞘とナイフだった。
12歳という幼さでいつ死ぬか分からない出稼ぎに出るヤヤに、生まれた時から温めたそれを旅立ちの日に父が渡した宝物。
正直、ヤヤは灰狼の教えを受け切っていない。
ヤヤ達灰狼は仲間を家族の様に大切にするとしか聞いてない、例えその仲間が信仰する神様の存在にケチ付ける様な相手でも、仲間と思うかどうかは教わってない。
「この街に来て、ずっと不安だった、寂しかったデス。それこそ、飢え死にするかと思った時もあったデス」
12歳の幼子だ。
そんな彼女が親元を、故郷を離れて出稼ぎだなんて不安になって当然。
生活が困窮し、故郷へ仕送りしなくちゃいけないという強迫観念すらあったならそれはより酷くなるだろう。
そんな時に手を差し伸べ、協力してくれたセシリアを厭う事は出来るだろうか。
「ヤヤからすれば、セシリアちゃんは神様に思えたデス。だから」
いつの間にか、マリアの撫でる手は止まっていた。
じっとヤヤを見つめるマリアに、ヤヤは真っ白な歯を見せて笑いかける。ここ数日浮かべられなかった心からの笑顔を。
「セシリアちゃんと会う事が出来て、セシリアちゃんを産んでくれて、ありがとうデス。悪魔とか天使とか関係無いデス。ヤヤはセシリアちゃんとマリアさんの友達です!」
ずっ友って奴デス! と笑うヤヤは、恥ずかしくなったのか頬を桜色に染め尻尾を勢いよく振り回しながら耳をぱたぱたと煽ぎ、一言断って先に馬車へ乗り込んだ。
同じ馬車ではあるのだが、今だけは顔を合わせるのは気恥ずかしかった。
「……いい友達を持ちましたね、セシリア」
残されたマリアは娘を受け入れてくれる良き友に、感謝が絶えず目を瞑る。
彼女にも友は居た。
だが友は悲痛な激情をぶつけて来た、それだけの事をしたのだと理解している。
許されないと。
でもそれでも傲慢にも、せめて一言で良いから、あの時の様に話せれば良いな。と思ってしまう。
遠くからマリアを呼ぶ声が聞こえる。
どうやら出発の準備が整った様だ。
「因果応報……せめて娘だけは、命に代えても幸せにしてあげないと」
深呼吸して気持ちを切り替えると、彼女は歩きだした。
これからへの期待と不安に揺れながら。一歩、しっかりと歩み出す。




