正しく間違える
「損害報告」
「汎用型魔導ブラスター義肢四本の過剰駆動につき破損。工作員フランは装備の破損のみで損傷は無し。しかし工作員ダキナは肋骨6本の骨折、内二本は肺に刺さって全治半年。両腕も粉砕され義手に転向を希望、リハビリを含めれば少なくとも1年間の作戦行動は望めないというのが治癒士の診断です」
「よろしい。作戦行動用の義肢は新しいのを用意しとく、暫くは普段用の義肢で行動してくれ。ダキナにはこちらから話を付ける、君は下がりたまえ」
「失礼します」
男性の言葉に白髪で青赤目のオッドアイ、赤目を覆う様な傷跡のある12歳ほどの少女はシャツとズボンと言った少年の様な格好で、機械仕掛けの右手を胸に、同様の左手を背中に、膝を軽く折って一礼すると退室する。
少女——フラン——が退室したのを見送り、柔和な笑顔を浮かべ整った容姿の大人の姿に成長した、青年の面影をどこかに残す彼は手元の報告書を見て面倒くさそうに顔を顰めた。
「ふぅ、まさか黒龍まで出して失敗するとは。イレギュラーと言うのは本当に度し難い」
男性ながら長い銀色の髪を一つに纏め、後ろに流して背もたれに身体を預ける姿は一般的な感性を持つ女性であれば見惚れてしまうだろう。
そしてそんな彼が顔を顰めながら見つめる報告書は、先ほど退室したフランが帰国して早々に提出した、あの日あの街で起こった事に対する詳細な報告書であった。
そして彼が見つめる箇所は、赤く強調された一人の少女についての行動記録。
「冒険家ランクはB。しかしA級を推薦される程の実力の保持者ながら、本人はそれを固辞」
調べれば、その程度の情報はすぐさま集まった。
あの街は勇成国の財源でもあり、心臓でもあった。そして多くの冒険家があそこには集まる、故に根無し草の将来有望な冒険家を勧誘する意味合いも込めて情報を集めていた。
「ふーん、死亡間近の負傷者を瞬く間に治した。まるで奇跡の様な魔法……ねぇ」
そして彼女について調べろと命令を出して、数時間経って届けられた最新の情報に目を通す。
そこには彼女の噂話と、教会の紋章が押された書類が同封していた。
「まぁ、教会の託宣にのこのこ乗るようなら御しやすいか」
つまらなそうに吐き捨てた彼は、書類を机の上に投げると席を立ち退室してどこかへ向かう。
夜も更けた現在では、豪勢な真っ赤なカーペットが引かれた廊下を歩く音は無く、彼の布地を踏む気配しか響かない。
そんな彼の正面から、一つの明かりと共にカチャカチャと鎧が擦れる音が近づいてくる。
その明かりの主は彼の気配を感じて剣に手を宛てたのだろう、金属が打ち鳴る軽快な音が小さく鳴った。
「誰だ……っ! これは第二皇子殿下、失礼致しました」
威勢よく叫ばれた声は相手を確認すると息を呑み、慌てて首を垂れ臣下の礼を取る。
巡回中だったのだろう、燃える様な赤髪のポニーテールと夜闇に浮かび上がる赤い瞳が特徴の、軍服の上から軽鎧を着込んだ腰に片刃の特徴的な剣を携える騎士の女性に彼は問題ないと手を上げる。
「構わない。君も巡回ご苦労」
「は、殿下につきましては夜分深くまでの政務、臣下を代表して慰労と感謝を申し上げます」
彼女の言葉に彼は手で姿勢を解けと伝えると、彼女は立ち上がり皇族への敬意を分かり易い程に氷の様に整った顔に滲ませる。
彼女は彼が一人な事に気付くと遠慮がちに、されど騎士としての職務を果たすべきとしっかりと彼の目を見て口を開く。
「殿下、せめて護衛の一人はお付けください。国内の膿は大方吐き出したとはいえ、未だ殿下方の命を狙う不届き者がいるやも知れません」
「あぁ、そうだな。それはそうとスーリア・ベルファスト・ローテリア、教会から勇者の仲間として認定された様だな」
皇族である彼の言葉に、女騎士——スーリア——は内心知らない筈が無いだろうに、と思いながら背筋を伸ばしてはっきりと答える。
「はっ。我らがローテリア帝国を守る騎士の身でありますが、我が剣は弱者を守る剣でありますれば世界を脅かす悪魔に対する希望の旗印として、かの話を断る理由は無く受諾致した次第であります」
「そうか、大変だと思うが頑張ってくれ」
「は! 身に余る光栄! 帝国騎士として殿下に深い感謝を!」
四角四面。というよりは些か硬すぎる答えに、彼は柔和な笑みを浮かべたまま見下ろす。
騎士。とはいえスーリアの言葉は熱くてまっすぐすぎる。
それをスーリアは本気で言っているのだと明らかで、この場に他の騎士が居れば思わず頬を引き攣らせてしまうだろう。
「それじゃ、私は陛下に用があるから失礼するよ」
「でしたら護衛を——」
「陛下の部屋はすぐそこだ、必要は無い」
「しかし」
彼の言葉通り皇帝陛下のいる執務室は、目と鼻の先だ。
とはいえ一人で歩かせるのは不用心が過ぎると逡巡するスーリアを置いて、彼は歩きだしてしまう。
「殿下!」
「問題ない。それより君も体に気を付けると良い、夜更かしは美容の敵だぞ。第1騎士団騎士団長、剣聖様?」
そう言い残して彼は足早に去ってしまう。
扉の開く音を聞いたスーリアは良かったと息を吐いて、巡回を再開する。
「殿下が期待してくれている。これはもっと精進しなくては!」
握りこぶしを作った彼女は、意気込み熱く歩きだした。
彼が一度もスーリアの赤い目を見ていない事にも、柔和な笑みを浮かべながら目だけは笑っていない事にも気付かずに。
「それで、こんな夜更けに何の用だ」
彼が目的の部屋へ入ると出迎えたのは、紫がかった長い銀髪を緩く纏め、前に流した理知的な青色の瞳を持つ女性だった。
女性はメガネを掛けながら重厚な、されど上品で豪奢な執務机で幾つもの書類に筆を走らせながら、顔も上げずに不機嫌そうな声音を突き付ける。
「先日の作戦についての新しい報告書が出来ましたので、その報告を。と」
彼の言葉に女性は筆を止め、上目遣いで視線を寄こす。だがそれは上目遣いなんて可愛いものでは無く、冷徹な美貌から疲れによるものだろう、睨みつける様に見られ常人なら新しい門を開いてしまう威圧感を誇っている。
「それよりもだ」
女性は筆とメガネを置き、鋭く彼を睨みつける。
その眼は敵を見る様な警戒心が含まれている。
「今はどっちだ」
女性の言葉は要領を得ない。
だが彼には伝わったようで彼は柔和な笑顔を浮かべていたが、一瞬深く瞑目すると、ふぅっと一息ついた。
それだけで、何処か雰囲気が変わった様に思える。
「アルです。姉上」
彼の言葉とあどけなさを思わせる苦笑に、初めて女性は肩の力を抜き、冷徹な美貌に少し柔らかさを交えた。
「そうか、お疲れ様」
「姉上こそ、こんな時間まで政務ですか、身体を壊しますよ」
「仕方ないだろう。あの屑共を一掃した所為で人手が足らないんだ、こうでもしないと仕事が滞ってしまう」
「こんな事なら、少し位残していても良かったかもしれませんね」
「馬鹿を言うな、膿は吐き出せる時に吐き出せるだけ吐き出す。でないと意味が無い」
「それもそうですね」
肩を回しながら答える女性は、目の前の姉上と呼ぶアルと気安い雰囲気で会話する。
殿下。とスーリアに言った言葉通り、目の前の彼女こそローテリア帝国の皇帝、エリザベス・ウィルヘルム・ローテリアその人。
そしてエリザベスの前にいる弟は、アルベルト・ウィルヘルム・ローテリア。エリザベスの異母姉弟である。
エリザベスは先代皇帝の皇妃の娘、アルベルトは側室の序列14番目の子。
本来ならこの場で相対する事も叶わないし、アルベルトが第二皇子と名乗る事も有り得ない。
だが実際に二人はその肩書を背負い、気安く話し合う。
この場に、二人を邪魔する者は一人もいない。
「しかし、先代の陛下とその取り巻き達の後処理だけでも大変なのに、新法案に各貴族たちの管理。本当に大丈夫ですか?」
「あぁ、だがあの屑共の後処理もひと段落ついたんだ、後はこの国を真に愛する優秀な者達が上手く回してくれるさ。というより、あのクズを陛下なんて呼ぶな、今は我が王だ」
エリザベスは父親である筈の先代皇帝をクズと呼び、ありありと嫌悪に顔を歪めながらアルベルトに長い人差し指を突き付けた。
アルベルトは苦笑し、芝居がかった仕草で腰を折る。
「申し訳ありません、未だ癖が抜けて無いようで」
「ふんっ、早く切り替えろ。それよりも、だ」
おもむろにエリザベスは立ち上がると、壁の棚から一本のワインボトルとグラスを二つ取り出した。
彼女はそれを揺らしながら、小首を傾げて可愛らしく、されど悪戯を思いついたような意地の悪い笑みを張り付ける。
「折角来たんだ、我の晩酌に付き合え」
「もう日付を跨いでますよ? 身体に触りますと思いますが」
「構うものか、どうせ子を望めぬ身体だ」
エリザベスの自虐的な、されど後悔も諦観も過ぎ去った凪の様な声音で語るそれに、アルベルトは思わず眉根を潜めてしまう。
そんなアルベルトにエリザベスは苦笑すると、一人先にソファに腰を下ろしポンッという軽快な音を立ててボトルを開けあっという間にグラスに赤黒い液体を注いだ。勿論、二つのグラスに。
エリザベスはまずは香りを味わう様に、鼻先で揺らして濃密な、されど品のある芳醇な香りを楽しみ、淵に赤く薄い唇を触れさせ陶磁の様に透き通った喉を小さく、何処か煽情的に鳴らす。
「ふぅ。あの男は酒のセンスだけは良いようだな」
その棚に誇る様に納められた名酒の数々は、エリザベスの物では無い。彼女の父親、彼女が嫌悪する前皇帝の私物だ。
酒だけでは無い、この執務室の殆どが当時のままなのは、彼女にも娘としての情があったのかも知れない。
皮肉気に呟き一息で煽り呑んだエリザベスの空いたグラスに、アルベルトはため息を吐くと新しく注ぎ、自分も対面に座る。
「なんだ、やっぱり呑みたいんじゃないか」
「姉上が呑み過ぎないように付き合うだけですよ」
「そうかそうか、まぁどちらでも良いさ」
煽る様に笑うエリザベスの目は女帝ではなく姉として、唯一残った腹違いの弟に向ける親愛を含め、酒で色づいた頬に皺を作りながらグラスを掲げた。
「死んだ兄弟姉妹、そしてクズ共の食い物になった全ての憐れな子羊たちと、生まれ変わった帝国に。乾杯」
「乾杯」
それに倣ってアルベルトもグラスを掲げれば、小刻み良い音を鳴らしてグラスがぶつかる。
鏡合わせの様に二人はグラスを煽り、気持ちの良い呑みっぷりで空にする。
呑み切ったエリザベスは勢いよく酒気を帯びた熱い息を吐くと、女帝としてでは無く一人の姉として破顔する。
「ふはは! 無礼講で呑む美酒とはかくも酔わせるなぁ!」
「確かに美味ですが、些か強くありませんか?」
「なに、下戸ではあるまい? 夜はまだ長い、付き合え」
「……仰せのままに」
小憎らしく笑うエリザベスに、アルベルトは苦笑しながら次を注ぐ。
その姿は王と臣下ではなく、久しぶりに顔を合わせた姉弟の様に穏やかで、暖かい。
「……なぁアル」
酔いが廻ったのだろう、頬を赤らめ青色の瞳は潤い、伏せれた長い睫毛に覆われた目は手元でゆらゆらと弄ぶグラスに注がれている。
いつの間にか姿勢もだらしなく崩され、ソファに横に倒れ肘を立てて身体を支えている。
王としては相応しくない態度だろう。だが時刻は既に深夜を回りこの場には二人しかいない。
そしてそのもう一人のアルベルトも、彼女の憂い気な声に視線を向けるだけで何も言わない。
いや、いつの間にかブーツも靴下も脱いで踝から先を晒しているのに苦笑を浮かべてはいるが。その眼には確かに、姉に対する気遣いと親愛が含まれている。
「我は……正しい事をしているんだろうか……」
返答を求めた物では無いのだろう。
ゆらゆらと、揺れる血の様に濃いそれは彼女の忌まわしい記憶を呼び起こし、無い筈の子宮が疼く。
何も答えず、ただ黙って傾聴するアルベルトを一瞥もせず、彼女は最後の一杯を呑みこんだ。
「あの好色王とその派閥の貴族共の所業は許せるものでは無かった、我は皇族として帝国を、帝国臣民を守る為に剣を取った。それで多くの血が流れると知っていながら」
彼女が皇帝の椅子に座ってまだ一月と経っていない。
そして、皇帝の椅子に座る彼女の手は、余りにも血に濡れていた。
彼女が王位を得た手段、それは簒奪。いや、大義名分を掲げていた以上それは起こるべくして起こる事で、それは謀反であり、正義であったろう。
彼女の脳裏には、ありありとこの国の裏の姿が浮かび上がる。闇の部分が。虐げられる者達の怨嗟の声が。
「皮肉な物よな、未来の為と謳いながら未来ある臣民達に死ねと命令したんだから。皆は今の我を恨んでいるだろうか……」
アルベルトは自分のグラスを空にすると、エリザベスのグラスを取り上げ片付ける。
エリザベスの恨みがましい視線を感じながら、彼女に背を向ける。
「俺は……何が間違ってるか正しいかは、歴史が証明すると思います」
「歴史……ね。証明する未来が残ってればの話だがな」
エリザベスは皮肉気に笑いながら、アルベルトが持ってきた資料を掲げる。
彼女はそれに目を通すと、傍の暖炉にくべた。
決して残してはいけない、極一部の関係者だけが知る情報を漏らさないように。
「なぁアル、このイレギュラーをどう思う?」
「どう……とは?」
「直感で良い、お前の意見を聞かせろ」
アルベルトは紅茶に蜂蜜を混ぜ、快眠できるようにと程よい熱さのそれをエリザベスの前に置いて、腕を組む。
「実は一度、面識があるんですよ」
「なに?」
「と言っても、五年前に一度だけですがね」
アルベルトは当時の事を思い出したのか、目尻を柔らかく下げて苦笑する。
そんなアルベルトに、エリザベスは続きを話せと目で促す。
「10歳? 位の彼女はどうやら母親が治療不可能の毒に侵されて、それを治すためにエリクシールの花を求めて着の身着のまま禁忌の森に入ろうとしていたんですよ」
「まぁ、幼子ならおかしくも無いかもな。だとしても行動派だな」
「えぇ、初めはただの無謀な子供だと思ったんですが、結構面白かったんですよ」
禁忌の森の事はエリザベスも知っている。
だからこそ10の幼子がその森に立ち入ろうとする事に、素直に驚いた。
アルベルトは肩を竦めて話を続ける。
「それで彼女、血を吐く勢いで母親を助けたいって言ったんですよ。それで思わず助力してしまって」
「……? あぁ、そう言えばお前の母親は……」
「えぇ、俺には出来なかった事をしようとしてる姿で、つい」
一瞬表情に翳を作ったアルベルトだが既に吹っ切れている様で、エリザベスは気遣し気な表情を浮かべたが深く息を吐くと「そうか」と呟くとじれったいのか先を促した。
「まぁ良い、要点を話せ」
「失礼しました。そうですね、彼女は多分悪魔と天使の混じり子ですよ、それも希少魔法持ちの」
「…………なんだって?」
猫舌なのだろう、紅茶を飲んで舌を出した彼女は暫く思考停止の後、漸く声を発した。
その顔はありえないと物語っている。
「俺も信じられませんでしたが師匠、アイアスさんが彼女の魔法を覚醒させた時に俺はこの目でしかと見たんで、確信したのは今回が切っ掛けでしたがね」
「……障害になると思うか?」
エリザベス個人としては多分にその娘に興味を惹かれたが、王としては敵かどうかが大事だった。
「どうでしょう、少なくとも野心を抱いてる様には思えませんが」
「ふむ、勇者の従者候補に名が挙がっているが、報告書から読み取る限りではその様子も無いしな」
「えぇ、あれは生粋のマザコンだと思いますよ」
「はは、子供だな」
「15は充分子供でしょう」
「それもそうか」
この場に話の槍玉の少女が居れば「マザコンじゃない」と否定するだろうが、二人の会話を邪魔する人は居ない。
解れた雰囲気だったが、酔いが醒めたのが相まって彼女の纏う雰囲気が一新する。
「兎にも角にもあれは作動実験であったからまぁ良いだろう。それより、次の作戦は問題ないか?」
「はい、潜入させたハーメルンからは順調に篭絡してるとの報告を受けています」
「なら良い、そのまま中から崩してやれ。大詰めの支度を急ぐようにアレとドクターに伝えとけ」
「了解しました」
エリザベスは立ち上がると、少しふらつきながらではあるが隣接している寝室にしっかりとした足並みで向かう。
「……なぁアルベルト」
「はい?」
扉に手を掛けたまま、エリザベスは背を向けながらアルベルトを呼び止める。
呼び止められたアルベルトからは見えないエリザベスの表情は、その少し暗い声音からは想像できない。
「……なんでもない。お休み」
「え、えぇ、おやすみなさい」
訝しむアルベルトの声を聞きながら、エリザベスの姿は扉の向こうに消える。
「…………ふぅ」
一人になったエリザベスは軍服を、シャツを、ズボンを脱いで下着一枚になると窓際に立ち魔性の魅力を放つ満月を見上げる。
「我のしている事は正しいのだろう。王として、民を、国を守る必要がある」
エリザベスは月光に照らされた己の手のひらを見下ろす。
真っ白だがペンだこや剣だこで荒れた、淑女の手とは一線を画す、傷や痕の多い苦労の染みついた手だ。
彼女にはその手が、真っ赤に血濡れている様に見えてならない。
「もう後戻りは出来ない。例え屍の山を築こうと、我は守らねばならない。それが王の務めだから」
いつの間にか、強く握っていた拳から彼女が呑んでいたワインの様な赤黒い血が滴り、真っ赤なカーペットにシミを作る。
使用人たちの仕事を増やしてしまったな。とため息をついた彼女は豪勢な天幕に覆われた雲のような布団に倒れ込む。
途端、彼女は隠していた濃い疲労の色を浮かばせ、片腕を目に押し付ける。
「……疲れる」
小さく呟いてしまった弱音は、闇に溶けてなくなる。
そしてそのまま、直ぐに穏やかな寝息だけが帳に響きだ。
時刻は丑三つ時。彼女は数時間後には目を覚まし、王としてまた働きだすだろう。
それまでは、夢も見ずに眠り続けた。
◇◇◇◇
誰もいない廊下をアルベルトは歩く。
その表情には一切の色は浮かんでいない。まるで、三流悲劇を恋人に誘われて見に来たような表情だ。
月明りが彼の左半身を照らす中、彼は割り当てられた自室に入る。
「あー! アダム―!」
入室した彼を出迎えたのは、大きなベットから飛び降りて駆け寄る拘束衣の女の子。
真っ白の服で15歳ほどの体を包み、その上からは何重にも無骨なベルトで締め上げられている。
彼女はそれが当たり前の様に気にした素振りも無く、床に広がる黒髪を揺らしながら、真紅の瞳をはめ込む大きな目を嬉しそうに細める。
彼女はアルベルトをアダムと呼び飛び着き、胸に顔を摺り寄せる。
「こら、夜に大声を発するものじゃない。近所迷惑だろう」
アダムと呼ばれた事に一切反応を見せない。それが本当の名前である様に、彼は飛び着いた少女の頭を撫でながら口角だけ上げ窘める。
「むー、別に良いじゃん! アダム夜しか会えないし、帰ってくるの遅いんだもん!」
「仕方ないだろう、今は一番忙しい時期だ。何より、この身体は皇子様だからね」
そう言いながら、彼は顔を醜悪に歪める。それは嘲笑で、その対象は己の身体であった。
少女は彼の言葉を聞きながら、口を使って彼の上着をはだけさせると白いシャツの上から胸元で光る赤い核に頬ずりする。
それは普通の人間には決してついていない人工物。
心拍に合わせて、淡い光が脈打つ血を凝縮させた宝石のような危うさを秘めた美しさの滑らかな球体。
「むー、それだって殆どアダムの物でしょー?」
「いやいや、まだ彼の意識は残ってるからね。でなくてもやる事は多いんだ、我慢してくれ」
「ぶーぶー」
可愛らしくぶー垂れる少女の頭を撫でながら彼は窓際の椅子に座ると、闇夜に浮かぶ満月を見上げる。
美しく照らされるその美貌に合わない、人間らしい醜悪な笑みを張り付けて。
「途中で撤退させるつもりだったとは言え、思わぬ収穫があったのは行幸だったな。ティア、黒龍の様子はどうだい?」
「んー、何か凄い不機嫌っぽい。絶対殺すーって唸ってる」
全身拘束衣の少女——ティア——は妊婦が我が子を慈しむように、自身の腹部を見下ろし答える。
それに答える様に、彼女の子宮から獣の唸り声が漏れ響いた。
まさかその拘束衣の下に獣でも飼っているのだろうか、そんな風にはとても見えない。
「そうか、まぁ暫くは我慢だな、当面は表に出す機会は無い」
「えー? それってティアもー?」
「まぁそうだな、というよりティアが大事な母胎なのだから当然だろ?」
「いやだー、ずーっと引きこもってて飽きたー、遊びに行きたいー」
ティアは彼の胸に飛び込むと、駄々をこね出す。
夜中に少女の「行きたいー」コールが響けば誰か一人位様子を見に来そうだが、その気配はない。
「ふむ、今の作戦が終わればひと段落つくから、その時に遊びに行けば良いさ」
「ほんと!?」
彼はティアの頭を撫でながら、穏やかな声音で諭す。
それに対してティアは無垢な少女の様に喜色を浮かべ、頷かれて跳ねて喜ぶ。
「あぁ、だから今は我慢できるかい?」
「できるできる!」
「良い子だ。そしたら今日はもうお休みだ」
「はーい! おやすみアダム―、愛してるー」
騒々しいティアはベットに飛び込むと、ものの数秒で穏やかな寝息を立てだす。
それを見送ると、彼は深いため息を吐いた。
「恋愛脳め。面倒な女だ」
冷ややかな侮蔑。
心底面倒くさそうに睨みつけた彼は、胸の赤い球体を撫でた。
「まぁ良いか、暫くの辛抱だ。あと少し……あと少しで俺は……」
楽しそうに、憎らし気に、執念に、高揚に、彼は顔を歪める。
月光に照らされる彼の胸の球体にうっすらと、茨に包まれた林檎に伸ばされた手の模様が浮かび上がった。




