恋する乙女
辺境の街、カルテルを一望できる丘の上でマリアは手足を縛られ、芋虫の様に地面に投げ出されている。
俯いて垂れた蒼銀の髪の向こうで、長い睫毛に縁どられた垂れ目がちの瞳が、肌寒い風に撫でられた事でゆっくりと開かれた。
「……っ!?」
マリアは自分の手足が縛られている事に驚き、身じろぐ。だが相当硬く縛られているのかビクともしない。
いたずらに腕を痛めるだけだ。
「あ、起きた?」
「っ!? ……貴女は」
その軽い声の方顔を向けると、マリアにとって、否、マリアとセシリアにとって因縁深い女性の姿を捉え目を見開く。
「お久~元気してた~?」
マリアの目の前、小岩に腰かけた褐色の女―ダキナがまるで、久しぶりに友人に会ったかのようなフランクさで手をひらひらと振っていた。
5年前、忘れもしないあの夜に出会った、ダキナだ。
地肌なのだと分かる褐色肌、唇が浮く白い口紅。
当時と同じかは微妙だが、両サイドを刈り上げたベリーショートの錆色の髪に、両耳と口元にはピアスがジャラジャラと付いている。
大胆に胸元を開いたシャツを着たダキナは、血の付いたナイフを弄んでいる。
その姿を見て、ずきずきと鈍く痛む頭で直前に何があったかを鮮明に思い出す。
今日は一日、ラクネアと共に孤児院で子供たちの相手をしていた。
理由としては、マリアがそうして一人で居ない事がセシリアを安心させるからと、セシリアもアイアスも居ない状況で一人でいるのは寂しかったから。
マリアは寂しさを紛らわすために、友人であるラクネアと共に騒がしくも楽しく孤児院の子供達と遊んでいた。
だが陽が傾いて来た頃、突然街中に警報が鳴り響き、何事かと慌てるもそれが避難を要する警報だと察し慌てて子供達を地下室に避難させた。
その後ラクネアは外に遊びに出ていた子供達を探しに、マリアは年老い始めて来たトリシャとガンドの様子を見に別れた。
そこまでは良かった。
何事も無く。というとおかしいが、少なくともマリアに直接の被害は無かった。
ただ街中がハチの巣を着いたように、誰も彼も訳も分からず避難していただけだから。
マリアが息を切らしてトリシャ達の住まう宿屋へたどり着くと、言いようの無い違和感を感じた。
それが何かは始め分からなかったが、店に入ってから悟った。
誰もいないのだ。
宿屋とは言え食事処も兼ねている筈の其処は、普段なら呑んだくれた常連の一人か二人位は、トリシャに文句を言われながらも居座っている筈なのに。
その上、肝心のトリシャとガンドの姿も無い。
避難した。という考えは施錠されていなかったり、避難の為に必要な物を持ち出した形跡の無さで一蹴された。
おかしい。
そう思いながらマリアは静かに踏み込んだ。
何故だか、声を上げない方が良いと思って。
纏わりつくような、重く、不快な温もりを含ませる空気の中、マリアは二人が過ごす部屋の戸に手を当てた。
そこで……そこで……。
「ねー、無視しないでよー」
「っぐぅ!?」
たがそこで、背に走る衝撃にマリアの思考は途切れた。
余程耽っていたのかダキナに呼ばれていたことに気付かず、無視されていると思ったダキナの苛立たし気な踏みつけが、マリアの肺の中の空気を強制的に吐き出させる。
そのまま土についた汚れをこすりつける様に、ダキナは踏みにじり、マリアが苦悶の表情を浮かべている姿を無感動に見下ろす。
「聞いてるー? 聞いてよ、可愛い可愛いセシリアちゃんは、ちゃんと今日帰ってくるのー?」
ダキナの言葉に、マリアは痛みに悶えながら考える。
セシリアが目的なのか、たったそれだけの為に5年ぶりにマリアの前に現れ、トリシャとガンドを殺したのか。
痛みと恐怖に身体を小さく震わせながら、キッと睨み上げる。
「一体、何が目的なんですか」
「ちゃんと質問に答えてよ……まぁいいや」
はぐらかして、少しでもこの状況から打開するため気丈に問うと、ダキナは不貞腐れた様に脚を離すとマリアの正面に移動する。
「まずここに来たのはお仕事だからでー、貴女を攫ったのはセシリアちゃんの為かなー」
その言葉に眉間の皺を深める。
仕事。と言うのが何を指しているのかは分からないし、聞いたところで答えが帰ってくるとも思わない。
問題は二つ目だ。
やはり彼女の目的は娘か、なら私は? 私は何のためにこうして縛り捨てられている。
詳細な目的は分からない。
少しでも情報が欲しい。この状況を抜け出せる情報が。
「娘をどうするつもりですか、それに仕事って一体何なんですか」
「あーあー、一気にまくしたてないでってばー、答えられる事には答えてあげるから」
マリアの言葉にダキナは鬱陶しそうに手を払う。
そこにあるのは余裕で驕り。
少なくとも、直ぐに殺される事は無いと安堵する。
「仕事って言うのはこの街をぶっ壊す事」
「!?」
呆気からんと告げられた言葉に驚愕を浮かべる。
その反応に気を良くしたダキナは、口端を吊り上げながら語り続ける。
「守秘義務があるから詳しくは言えないけど、あたしの仕事はこの街を壊す為のお手伝い」
「それじゃ……娘を……どうするつもりなんですか」
街の一大事の原因の一端が彼女だとは分かったが、マリアの不安はそれよりもセシリアに関するところが大きかった。
その質問に、ダキナは待ってましたと言わんばかりにマリアの前にしゃがみ込む。
「えへへー、実はねー? あたしセシリアちゃんに恋しちゃったみたいなの」
「…………は?」
まるで恋する乙女の様に、邪気の無い白い歯を見せる満面の笑みを受かべて告げるダキナの言葉に、大きく目を見開き、頭が真っ白になる。
何故? そうなら何故こうして縛り上げられている? 何故トリシャとガンドを殺した?
怒りや困惑が心を乱すが、母親としての本能がそれを無理やりねじ伏せた。
ぐるぐると騒乱する思考を何とか宥めて、ゆっくりと口を開く。
「セシリアに……何をするつもりですか」
「んー? セシリアちゃんにはなにもしないかな」
には。
その言葉を信じるにはダキナの事を知らなすぎる。
だけれど、セシリアに恋をしたと放った時の表情は、少なくとも嘘をついている様には見えなかった。
(ごめんなさい……セシリア……)
芋虫状態のマリアが出来る事は、口を開く以外に存在しない。
腔内が乾いてく中、竦む心を叱責する。
「…………セシリアが狙いなら……あの子はいませんよ」
「ん?」
マリアが選んだ選択は自己犠牲だった。
セシリアが狙いなら、何も出来ない母親が出来る精一杯の抵抗をしよう。
ダキナはマリアの言葉に片眉を上げる。
必死で、嘘がバレない様にと願いながら着き慣れていない嘘を重ねる。
「あの子は、先日世界を見たいって飛び出していきましたよ……確か、最初は王国の方へ行くって言ってました」
調べれば分かってしまうだろう。
もう、仕事から帰ってきてもおかしくない時間だ。
だがそれでも、少しでも時間が稼げれば、少しでも信じてこの街を離れれば。と自分がどうなってしまうのだろうと、先の事は意識して考えない様にして。
「ふふ、いつの間にか大人になって……いつ帰ってくるんでしょうかね」
溢れそうになる恐怖を、唇を噛んで堪える。
気丈に笑って嘘を気取らせない。
あたかも、本当に娘が旅立って悲しむように。
「だから……探した所で無駄ですよ……」
「ふーん」
無理やり挑発的に笑うマリアに、ダキナが訝しむように片眉を上げたまま組んだ腕のまま指で二の腕を叩く。
だから頼む。信じてくれ、少しで良い、信じてセシリアを街の中で探そうとしないでくれ。
「それで? だから見逃してくれって?」
「言ったら逃してくれるんですか?」
「まさか」
マリアは怯えない。
気丈に、無理やり、笑みを浮かべて己を騙す。
大丈夫、セシリアが街に帰ってもここに来る筈なんてない。だってここは街の外れなのだから、ここにマリアが居るなんて知らない筈。
絶対に来てなんて欲しくない。
「いやー、愛されてるねー、セシリアちゃんは。ほんと羨ましーや」
「ちょっ! 何するんですか! 離してください!」
「どうどう、暴れない暴れない」
ダキナはうんうんと頷きながら、マリアを抱き上げ近場の樹に縛り付ける。
思わぬ形で立ち上がる事は出来たが、瞬く間につま先が地面に掠る程度に吊り上げられる。
まるで見せつける様に。街から誰かが来れば、その人がいの一番に捉えるのはマリアだと。
まるで掲げる様に。これから家畜を楽な姿勢で解体する様に。
まるで誇る様に。戦士が戦場で将の生首を晒す様に。
「嘘はダメだよ嘘はー」
「!!」
吊り上げられたマリアを前に、ダキナはにやにやとしながらナイフを弄ぶ。
マリアの拙い嘘など、バレバレだったのだ。
嘘がバレたと悟ったマリアは悔しそうに唇を噛んで俯く。それを見てダキナの口元に弧が引かれる。
「貴女の役目はきちんとあるから、そこで見ててよ。丁度メインディッシュも来たし」
「え? ……!!」
ダキナの視線を辿る。
そして捉える。
誰よりも大事で、守るためなら命だって惜しくない。
誰よりも愛しくて、目に入れても痛くない。
誰よりも想うから、今だけは見たくなかった我が子。
「ぜぇ、ぜぇ……」
「セシリア……」
「うひゃー、セクシーだねぇ」
手足を覆う部分の服は焼け落ち、いつも恥ずかしがりながらも決して脱ぐことは無い銃を隠す意味もあるコートは脱がれ、ガンホルスターとリボルバーが焼け落ちた真紅のネクタイと同じように晒されている。
汗と煤に塗れ汚れ切って、素足は傷だらけに肩で息を切らせた、顔面蒼白の今にも死んでしまいそうなセシリアが立っていた。
「どう……してここに」
どうして来てしまったのか、どうやってここを知ったのか、なぜそんなボロボロなのか、今だけは見たくなかった。今だけは来て欲しくなかった。
それなのに、その疲れ切った、汚れ傷ついた姿を見て安堵してしまう。
あらゆる感情がないまぜになって、何を口にすればいいのか分からなくなってしまう
「ぜぇ……おかあ、さん」
マリアが生きていた。
その事を確認できて、セシリアは泣きそうな笑顔を浮かべて傷だらけの素足を進ませる。
何故縛られているのか、どうしてここに居るのか。隣にダキナは居る事にも気付かずに手を伸ばす。
「無視はお姉さんかなしーなー」
「っ!! お前!」
「お前じゃないって、え~っとなんて名乗ったっけ? プリシラ? アマリリス? ん~、ダキナか!」
牙を剥くセシリアに、ダキナは呑気に頭を掻いている。
今の発言を聞くに、偽名を沢山使っている様で、今名乗っているダキナすら本名かは怪しい。
だがそんな事はどうでも良い。
セシリアはほぼ反射的に懐から銃を抜き放つと、両手で狙いつける。
「今すぐお母さんを解放しろ、さもないと殺す」
「なにそれ? 初めて見る武器だけど」
反射的に銃を構えたが、そもそもこの世界に銃は存在していない。
ダキナには、セシリアが黒い武器かもしれない何かを向けている事しか分からないだろう。
「……いや、別に警告する必要は無いか」
セシリアは別に治安維持の人間では無い。
相手が人間だから反射的に警告したが、相手は怨敵だ。
トリシャとガンドを殺し、孤児院に火を付けたであろう、そしてマリアを浚った敵だ。
殺すのは躊躇われるが、腕の一本や二本を潰した所で即座に止血すれば死ぬことは無いだろう。
折角の奇襲の一撃を無にするのは惜しい。
セシリアは狙いを胴体から逸らし、右足へ向ける。
「死ね」
殺したいという思いだけは口にして、死なないなら、と躊躇いなく引き金を引く。
激発の衝撃が大きく腕を撥ねあげさせ、肩が嫌な音を立てて後ずさる。
普段は元の膂力と、身体強化によって反動を抑えているが、魔力が底を尽いて意識が朦朧としている今では、疲労も相まって反動を抑えきれない。
だが弾丸は狙い通り、突然の轟音に目を剥くダキナの右足に向かう。
着弾すれば根元から吹き飛ぶだろう。
「うひゃぁ! びっくりした! なにこれ、魔法? いや、弓、炸裂系の魔法を付与したクロスボウかな?」
「な!?」
だが着弾したのはダキナの脚では無く、背後の木。
大きく幹に穴を空け、倒れる木を物珍し気に眺めるダキナを確かに狙ったはずだ。
なのに、何故かダキナの位置が横にずれている。
人一人分のずれだ。
だがいつ避けた? セシリアは銃撃の瞬間もきちんと目を開いていた。
ダキナに避けた素振りは無かった、にも関わらずダキナの位置がずれている。
まるで、はじめからそこに居たかのように。
「くそ!」
「おっとそこまで、それが何かは気になるけど慌てちゃダメだよ?」
「っ!」
再度銃撃しようと、背を向けるダキナを再び狙いつける。
だが彼女は軽やかに身を翻すと、傍に吊るされているマリアの首筋にナイフを当て盾の様に抱き寄せる。
その真っ白な喉に刃を立てられ、薄っすらと血が流れる。
その光景に殺意が溢れ、目を見開くも歯を食いしばって抑える。
そんなセシリアの表情を見て、ダキナはうっとりとした表情を浮かべた。
「逃げて、セシリア……」
「お母さん!?」
マリアは首筋にうっすらと赤い線を引きながら、セシリアに笑いかける。
「逃げてください……私は大丈夫ですから」
何が大丈夫なのか。
今にも泣き出しそうで、身体は小刻みに震えている。
それでも、セシリアさえ無事ならそれでいい。
セシリアには傷ついて欲しくない、勿論、誰かを傷つけても欲しくない。
ダキナはセシリアが狙いだと言った。ならば、これからセシリアに何か危害を加える事は容易に想像がつく。
この状況で、一番波風立たない選択は、恐らくセシリアがマリアを見捨てて逃げる事だろう。
溢れそうになる涙を堪え、気丈に笑う。
限界まで目を見開いて、こちらを凝視するセシリアに向かって、精一杯、普段通りの笑顔を心がけて。
「なに……言ってるの?」
「逃げて衛兵さんを呼んで下さい、それで安全な所に避難してください」
その言葉を聞いて、セシリアがその通りにすると思うのだろうか。
否。
大切な母を捨て置いて、逃げるなんて出来るはずも無かろう。
瞳を揺らすセシリアは、歯を食いしばって怒りの色を浮かべる。
「ごめんお母さん、そのお願いは聞けない」
「セシリア!!」
「お母さんは黙ってて!!」
どうして言う事を聞いてくれないの。と叫ぶマリアを黙らせ、ニヤニヤと嗤っているダキナを睨みつける。
「お前、何が目的だ」
「だからお前じゃなくてダキナだってー、ま、偽名なんだけどね」
「チッ、答えて。トリシャさんとガンドさんを殺したのはお前なの、孤児院に火を着けたのも? どうしてお母さんを浚った」
「待って待って、捲し立てないでよ……そうだな、こうしよう」
ダキナはマリアの傍から離れ、セシリアの前に踊りだす。
そのまま、警戒するセシリアを前に、徐にナイフを地面に突き立てると拳の調子を確かめる様に身体を解しだした。
「もう少し立てば花火が起こるから、それまでダンスしようよ、それ次第で答えるって事で」
「ダンス……」
それが言葉通りの意味で無い事位は分かる。
セシリアは引き金に掛けた指が自然と折れるのを感じるが、マリアと射線が被っているのを見て指を外す。
そも、魔法か何かで初撃を外したのだ、今こうして相対してる中で撃ったって当たるとは思わない。
「ほらほら、そんな無粋な物は仕舞ってさ、拳で語り合おうよ。青春で奴?」
相手はシャドーボクシングで誘っている。
正直に言って、今のセシリアは瀕死と言っても差し支えない。
傷こそ無い物の、火事場の中を駆け抜けた所為で爆発しそうな鈍痛が頭に響いてる上、魔力が尽きかけている為、徹夜明けの様な眠気と気怠さが襲っている。
魔力も碌に練れない現状だ。
立っているのが不思議な程。
だがチャンスではある。
ここでダキナを倒すにしろ、倒さないにしろ、隙を見てマリアを奪還する事も可能だ。
人質さえ確保できれば後は逃げたって良い。
怨敵に背を向けるのは業腹だが、マリアの安全が最優先である。
「……分かった」
「セシリア!!」
「はいはい、お母さんは黙ってましょーねー」
「ん!? んーんー!」
銃を懐のホルスターに仕舞い、拳を構えたセシリア。
マリアは悲鳴を上げるも、布を猿轡代わりにされ声を封じられる。
ダキナは楽しそうに、肩を回しながら笑顔を浮かべてだらんと拳を構えた。
「待っててお母さん、絶対助けるからね」
「んー! んんー!!」
セシリアは笑みを向けると、集中する様に深呼吸して倒れそうになる身体に鞭を打つ。
両者の準備が整った。
夕焼けの中、街を背に二人は拳を構え合う。
そこにあるのは悪意と怒り。
お前だけは絶対に許さないと、セシリアは真紅の瞳で睨みつける。
「それじゃ、花火まで踊ろうか」
その言葉を皮切りに、セシリアは地面を蹴って殴り掛かった。




