反転する日常
世界が茜色に染まる中、セシリアは馬にしがみつきながら故郷であるカルテルの街へ駆ける。
既に手足がしびれ、疲れで気怠さを覚えながらも気力で速度を緩めない。
(黒龍……確かあの時、アルさんと師匠が話してたやつだよね……)
セシリアは黒龍と言う言葉に、当時の事を思い出す。
結局、あの後日々の忙しさに揉まれてその事は頭の片隅に追いやられていた。
だからそれが何かは分からない、だが黒龍と言う言葉から想像は出来る。
そしてヴィオレットの焦りから、咄嗟に飛び出した事が間違いでは無いと街を前にして悟る。
小高い丘を越え、カルテルの街が見えてくると遠目からでも慌ただしい様子が伺えた。
西門である其処には、幾人もの避難民が大挙してセシリアの方、他の街へ避難している。
「落ち着いて! 歩くのが困難な方や子供は馬車を待ってください!!」
衛兵であろう男性の声が喧騒の中に響く。
皆が良く分かっていなさそうな、それでいて不安そうな表情でぞろぞろと街の外へ出て行く。
だがその数はあまり多くない。
恐らく、現在避難している者は殆どがカルテルに居を持たない人々なのだろう。
セシリアは脇にそれて馬から飛び降りると、人々の流れに逆流して街の中へ向かう。
「すいません、すいません! 通して、通してください!」
顔を顰める人、舌打ちする人の中をかき分けながらセシリアは街の中へ入る。
焦りによって門番に顔を見せる事を失念していたが、門番も避難民の誘導に手一杯な為セシリアに気付かない。
止められることも無くセシリアは門の前に集まった人混みを抜け、解放感と共に一息つく。
「まずは……一番近いトリシャさん達から」
マリアが今日一日、ラクネアの居る孤児院に居る事は知っている。
だが、その前にトリシャとガンドの住む妖精の宿り木が西区にある。
今すぐマリアが居るであろう東区の孤児院に向かいたいが、だからと言って祖父母と言っても差し支えない、トリシャとガンドを無視する事は出来ない。
「どうせ、教会は避難場所にもなってる筈だし」
教会や、組合所などは有事の際は避難場所にもなっている。
故に教会に併設している孤児院に向かうがてら、トリシャとガンドがまだ宿屋に居ないかどうか確認がてら寄っても問題ないと判断する。
セシリアは街道を駆ける。
今すぐマリアの所へ向かいたい焦燥を抑えながら、完全武装の衛兵達の横を抜ける。
だが一人の衛兵が、セシリアを呼び止めた。
「おい君! ちょっと待て!!」
反射的に振り返ったセシリアは、そのまま素知らぬふりをすればよかったと顔を顰める。
だが反応してしまったが故衛兵の彼はセシリアに近づいて来て、セシリアは足を止めざるを得ない。
「なんですか」
「君は冒険家だろ? 丁度良いから手伝ってくれ」
やはりかと、込み上げたため息をぐっとこらえる。
猫の手も借りたい状況なのだろう。少なくとも、一般人とは一線を画す冒険家に頼むというのは間違ってはいない。
だがセシリアは、少なくとも見知らぬ誰かよりも、家族の方を優先する。
「すいません、家族が居るんで」
「はっ!? いや、そうか、なら良い。早く街の外か避難場所に退避する様伝えろ」
街の一大事に何を!? と怒りを浮かべた彼だが、家族と言う言葉に理解を示す。
誰だって、自分の家族の安否を最優先にするのは仕方ないだろう。
薬指に指輪をはめる彼も同じ気持ちで、それでも職務に殉じている。
理解が得られたセシリアは踵を返して街の中へ消える。
トリシャ達の営む宿屋は西門のすぐそばにある。
セシリアは荒れる呼吸を落ち着け、扉に手を掛けた。
「開いてる……て事は、まだ避難していない?」
肝っ玉母さんともいえるトリシャが、避難する様な緊急事態とは言え戸締りを怠るとは思えない。
火事場泥棒か、単純にまだ避難していないかのどちらかを予想しセシリアは戸を潜る。
「トリシャさーん! ガンドさーん! 居るー?」
中に入って二人を大声で呼ぶ。
だが二人の反応は帰ってこない。
それどころか、家の中は物音一つしない。
避難している?
だが中はまるで直前まで誰かが居た様な、そんな印象を覚える。
何より、トリシャが普段使っているエプロンが傍に置かれている。
確かに避難に必要は無い。
だが、何故だか、言葉に出来ない、言いようの無い違和感を覚えた。
訝しんだセシリアは、トリシャさん達が普段寝泊まりしている一階の裏手へ向かう。
「二人ともー? 居るー? ……っ!!」
呑気に声を張っていたセシリアだが、その綺麗に通った鼻梁に、仕事で嗅ぎなれた、血の錆びついた匂いが突く。
弾かれたように目の前の、二人の寝室に飛び込む。
「トリシャさん!! ガンドさん!!」
セシリアが見たのは椅子に縛り付けられ、足元におびただしい血の池を作りながら項垂れる二人の死体だった。
死体。と表現したのは一目見てそれが致死量の出血であった事。
暖簾の様に垂れた髪の向こうからは、粘性のどす黒い血液が垂れている事。
そしてセシリアの声に身じろぎ一つ反応しない事。
「あ? ……あ……へ? ……あぁ……」
一瞬、セシリアは目の前の光景を正しく認識できなかった。
いや、身体的な意味では出来た。
血みどろの、ボロ雑巾の様に甚振られたトリシャとガンドが椅子に縛り付けられている。
だがどうして? どうしてトリシャとガンドがこんな事になっている?
そんな事は一切どうでも良かった。
漸く脳が正しく視界から届いた情報を処理すると、わなわなと悲鳴を上げる。
「いや……いやあああぁぁ!!!???」
喉を傷める様な絶叫を上げながら駆け寄った。
「治れ! 治って! !治ってよ!!」
必死で回復魔法で傷を治す。
傷はたちどころに塞がった。
剥がされた爪も、割れた膝も、裂傷を塞ぐ火傷も、殴られた痕も、千切れた指も何もかも。
万分の一、億分が一でも生きていれば死なせない。セシリアの魔法はそう言う魔法だ、致死量の出血だって無かった事になっている為、肌の色も正常な色に戻っている。
「どうして!? 起きて! なんで起きないの!?」
傷は治った、血液だって戻ってる。
にもかかわらず二人は目を覚まさない、息をしない。
セシリアは縛り付けている縄を千切り、二人を床に寝かせる。
僅かでも蘇生の確率が上がるならと、いつまでも二人をこんな態勢にしたくないと。
直接抱えて、二人の生気の無い冷たさと少しだけ残る温もりにゾッとする。
そしてそれがセシリアの冷静さを更に奪った。
「嘘……起きて!! 治って!! 治ってってば!!」
パニックになって何度も何度も魔法を行使する。
治す傷なんて無い。
正常な肉体そのものだ。
だが肉体に入っている魂が、其処に無いのであれば目を覚ます筈なんて無い。
「違う、これじゃない……えっと……心肺蘇生!」
限界までパニックになった右脳と、冷静に蘇生の知識を愛衣から呼び起こす左脳が両存し、魔法を使いすぎて怠くなって来た身体に鞭を打ってトリシャの心臓に手を当てる。
「起きて! 起きてよ!! お願いだから起きて!!!」
必死で心臓を叩く。
一瞬で良い、一瞬でも魂がそこに戻って来れば生き返る。
身体は治ってるのだ。
お願い。
お願いします。
何度も、何度も何度もはやる気持ちながら手元だけは正確に、一定のリズムと力で心臓を叩く。
そして何度もトリシャの口に息を吹き込み、命が帰ってくる事を願う。
「……っ! どうして!!」
だがトリシャは息を吹き返さない。
どれだけ心肺蘇生をしても、どれだけ人工呼吸してもダメだ。
ならばと今度は、ガンドの硬い胸板に手を当てて蘇生行為を行うが効果は無い。
冷たい、死後硬直が始まりだした遺体のまま。
「何で……一体何なの……」
ボロボロと涙を流しながら、血濡れた手で理解しがたいと髪を掻き分ける。
その所為で、セシリアの美しい髪に激情のままに書きなぐったような赤い染みが広がる。
一体どうして二人がこんな目にあったのか。
どうしてこの二人なのか。
どうして、誰が、何のために。
物盗りの行いでは無いだろう。
宿屋に入ってから、二人のいる寝室まで荒らされた痕跡は無かった。だからセシリアも直前まで気付かなかった。
二人の損傷度合いについても、同様の事が言える。
今はセシリアの魔法によって傷一つない遺体となっているが、セシリアが入室した時の姿は凄惨の一言に尽きた。
単純な人殺しと考えるには争った痕跡も無い。
明らかに、手馴れた人物の行いだ。
セシリアは気が動転してそこまで注視しなかったが、裂傷に打撲痕、焼き痕に抵抗痕など、二人が椅子に縛り付けられてから余程充分な時間を使って甚振ったであろう痕が幾つも、夥しく、何かの情報を得るにはやりすぎな、殺す事を前提とした有様だった。
当然、遺体の状態を深く見ていた訳では無いが、状況から二人が人為的に殺されたのだというのはセシリアも考え着いた。
だがその理由が分からない。
トリシャとガンドは至って普通の夫婦だ。
街で人気の食事処を兼ねた宿屋で、逞しいトリシャと不愛想で強面だが料理が上手いガンド。
子供が出来なかった事を嘆くも、セシリアとマリアを我が子の様に愛した心優しい夫婦。
私怨と言う線を挙げるには二人は不十分に思える
殺される理由なんてない筈。
「……教会とか国が?」
ただ、セシリアは先日衆目の中で魔法を使い、朝方教会から唾を付けられていた。
少なくとも、あらゆる可能性を排除した中で、そう思ってしまうのは仕方ないだろう。
だが、言われたのは今日だ。直ぐに出頭しろとも言われていない。こんな悪行を成される理由なんてない筈だ。
疑心暗鬼になり被りを振る。
今はそれはいい、絶望的だが二人の蘇生だ。
セシリアは再度、力なく心配蘇生を行う。
「お願い……起きて……起きてよぉ……」
もう家族を失う恐怖を味わいたくない。
折角、折角幸せになれたのに。
マリアを救って、戦う力を身に付けて、凄い魔法で誰だって命を救えるのに。
力だってあるのに、己の力不足を恨んだ。
何度も何度も、何度も何度も力なく心臓を動かすも、トリシャは目を覚まさない。
次第に、嗚咽を漏らしながらセシリアは冷たい胸の中に顔を埋める。
「えぐっ……なんで……なんでよぉ……」
どうしてこの二人が死ななくてはいけないのだ。
どうして奪われなくてはいけない。
どうして。
「…………どうして?……」
二人が蘇生できないと悟ると、不思議と冷静になる。
トリシャとガンドは何故殺された?
物盗りでは無い。
火事場泥棒にしては、争った痕跡も無い。
犯人は二人を拷問した。
何故?
「誰かを探していた?」
物では無いだろう。
拷問してまで引き出す物が二人には無い。
なら誰かを探していた。二人に関係のある誰かだろう。
だがこんな安さと立地が売りの店に来る客に、そこまでして情報を得ようとするような人物は居るとは思えない。
誰か、二人を殺してまで探すような人物。トリシャとガンドに縁深い人物。
「お母さんと……私?」
ぞわっと、撫でられるような嫌な予感がした。
トリシャとガンドはまだ温もりが残っている。
犯人はまだこの街に居る筈。
セシリアは帰って来たばかりだ。
なら?
なら犯人が次に狙うのは?
セシリアは酸っぱい物をこみ上げながら、口の中が異常に渇き、血の気を失せて立ち上がる。
「お母さんが危ない……」
セシリアは慌ててマリアの元へ行こうと、部屋を飛び出す。
沢山の人々が慌ただしく居る中を駆ける。
セシリアはわき目も振らず走った。
足元が崩れ落ちる様な、胃が冷え込むような感覚に襲われながら必死で走った。
誰かに肩をぶつけて縺れようと。
道が人や物で塞がってれば、傍の家の雨除けを足場に抜けて。
少しでも近道しようと悪路や裏道を駆けて。
泣きそうな、今にも壊れてしまいそうな酷い顔で。
「大丈夫……絶対にだいじょうぶ……」
大丈夫。もうあの時の子供の自分じゃない。
大丈夫。
自分に言い聞かせる様に、うわ言の様に心の中で呟きながら走った。
「…………はぁ、っはぁ、っ…………何……これ……」
だが息を切らせて、孤児院に辿り着いたセシリアが見たのは、普段通りの孤児院じゃなかった。
「どけ!! どけぇぇ!!!」
「ダメだ! アラクネアのアンタじゃ直ぐ火達磨だ!!」
「おい! 誰か鎮静系の魔法を使える奴を連れてこい!! 娼館のビビアンだ!」
茜色の世界に、一際輝く明かりと黒煙が染み広がっている。
その傍ではラクネアが、形容しがたい鬼気迫った姿で泣き叫びながら、何人もの男達に抑え込まれていた。
マリアが居る筈の孤児院。
避難所にもなっている併設している教会。
セシリアの友人も住まうそこは、生者の悲鳴すら呑みこむ炎の中にあった。
「ふざけんな! どけ!! どけよ!!!」
既に許容量を超えた現実に、セシリアの心に一つ、黒いシミが落ちた。




