現実逃避
愛衣の母親は優しい人だった。
忙しくも将来有望な企業の注目株に踊り立つ父親と、美しく優しい母親に囲まれて愛衣は幸せだった。
少なくとも10歳になるまでは、愛衣は母親が自分を愛している物だと思っていた。
だからテストで満点を取る事を要求され、家庭教師を付けられ一年先の予習をしても文句を言わなかった。
ピアノに華道や書道など様々な、美しくある習い事をしている所為で友達と遊べなくても母親が自分を愛していて、期待しているからだと思えば我慢できた。
我儘は一つも言わなかった。
例え校庭で泥だらけになって遊ぶ同年代の子を見ても、可愛らしい流行のアニメキャラクターのグッズを見せられても、それを母親に言うと良い顔をされなかったから。
最初に狂いだしたのは、父親が海外出張しだしてからだったと愛衣は記憶している。
元々、余り家に帰ってくることの少なかった父親は、長期の海外出張があると偶々早くに帰って来た食卓で母親に言っていた。
それに対して不満を零した母親に、父親は仕方の無い事だと申し訳なさそうに言って、母親が激怒したのが切っ掛けだった。
母親は父親を愛していたのだと今なら分かる。父親への愛があるから、触れ合う機会が無くなって顔を会わせる機会すらなくなった事で母親はそれを失った。否捨てた。
代わりに『良い母親』である事に固執した。
世間体を、見目を繕いだしたのだ。
その結果、愛衣は完璧を求められた。
テストでは100点を取る事を当然とされ、習い事でも幼子の良ではなく。その道の大人が評価される良を求めた。
出来なければ母親は愛衣を叱責し、夜が明けるまで机に向かわせピアノを弾かせた。
その内、愛衣は子供心に気付いてしまった。
母親が自分では無く、優秀な娘である愛衣を見ている事に。
そうなると心から笑えなくなった。曖昧な、お茶を濁すような歪な笑みしか浮かべなくなった。
そうすると母親は愛衣に対して当たりが強くなった。
『可愛げが無い』と家事すらしなくなった。
娘に愛されていない。という事が母親の心を傷つけたのだ。
そうして残ったのが着飾った虚栄心だけ。
父親である夫の愛を疑い、娘との愛を捨てた。
愛されたい。そう思った母親は家を空ける事が多くなった。
幸か不幸か、そうすると習い事に行かなくなった愛衣は心に余裕が生まれた。それでも母親は愛衣に目もくれず、自分で食事をするようにと出前を取って愛衣に一人で食事を取らせた。
そんな生活が暫くして、母親が珍しく上機嫌で帰ってきた。
愛衣は嬉しくなって笑顔を浮かべて玄関で出迎えた。が、そこにいたのは見知らぬ男。柄の悪い、如何にも遊んでいますと言った風貌の男の腕に、胸を押し付ける様に抱き着く愛衣の母親。
『あれ? 正美さん娘いるんすか』
『そうよ、言ってなかった?』
『いや、聞いてねぇっす』
『だとしてもどうでもよくない? あ、晩御飯はこれでコンビニとかで適当に済ましてね』
『うっわ、ネグレクトっすか。草っすね』
男と愛衣の母親は、呆然と紙幣を手にする愛衣を余所に家の奥へ進んでいった。
現状を理解できないながらも、愛衣は食事を取るために近所のコンビニに一人で買い物に行った。
奇しくも、それが初めてのお使いで。その時の店員の顔を愛衣は一生忘れる事は無いだろう。
自宅に戻り、愛衣は一人リビングの机の上で食事を取る。既に愛衣の舌は出前やコンビニ飯で麻痺していたから、母親の手料理を思い出せなくなっていた。
食事を終え、愛衣は自分がオール5評価の通信簿を持っていた事を思い出す。
愛衣の記憶には、まだ良い成績をとれば褒めてくれる優しい母親が居た。だから愛衣はランドセルから通信簿を取り出すと、母親が居るであろう夫婦の部屋へ向かった。
扉越しに聞こえる物音。愛衣は一切の疑いを持たず扉に手を掛ける。
ゆっくりと、中にいる人物には気付かないであろう速度で、だからこそ聞いてしまった、聞こえてしまった。愛衣にとっての呪詛を。
『あっあっあん!』
『おら! 不倫する悪いママにお仕置きだ!!』
その肉を叩くような、水音混じりの音と母親と男の声。
それが何を意味しているのか幼い愛衣には分からなかった。が、本能的に理解しているのか、ドアノブに掛けられた手が離れ一歩後ずさる。
そんな愛衣に届く最後の言葉。
『娘と旦那に悪いと思わねぇのかっよ!』
『どうでもいい! あの人も愛衣もどうでもいいのぉ!!』
その言葉がまるでナイフの様に愛衣の心の一番柔らかい所に刺さり、消化が始まったばかりの胃が痙攣して、喉に苦くて酸っぱい物が込み上げ、愛衣は口を押えてその場から駆け出した。
「っえぇっぅえっ!!」
便器に向かって胃の中身を全て吐き出した愛衣の顔は、涙と鼻水で酷い物になっていた。
胃の中身をすべて出したのに吐き気が止まらない、痛い位辛くて涙がボロボロと溢れてしまう。
「っぅぅうぅっ……」
辛くて辛くて、死んでしまいたいくらいなのに声を上げて泣き声を上げる事すら出来ない。
そのまま愛衣は何十分もトイレで涙を流し、漸くそれが枯れた頃にふらふらと立ち上がり、未だ嬌声の漏れる部屋を通り過ぎて自室のベットに潜り込んだ。
壁越しに薄く聞こえる嬌声を聞きたくなくて、愛衣は頭まで毛布を被り包まって眠りについた。
翌日、愛衣の母親は愛衣を起こすことなく、男と家を出ていった。そして夕方ごろに帰ってきてまた嬌声を上げる。
そんな日々が三日ほど続き、愛衣は自室から出なくなった。
四日目、愛衣の父親が一時帰国してきた。
幸いだったのは母親と不倫相手が外出していた事。休日にも関わらず人気のない自宅を訝しんだ父親が愛衣の部屋に入ると、そこには虚ろな目でベットに寝転がる愛衣の姿が。
父親が駆け寄って声を掛けると、蚊の鳴くような声で「お……とうさん?」と呟いた後、愛衣は初めて声を上げて泣いた。
枯れるほど涙を流した愛衣はうつらうつらとしながらも、事情を聞いた父親に母親が知らない男と部屋に籠っていた。と告げる。
それに対して烈火の如く怒りを露わにした父親は、愛衣を眠らせて自分達夫婦の寝室に向かった。そしてそこで幾つもの不倫の証拠を見つけ、その日の内に妻を呼び出し事情を問いただした。
それに対して母親は「だって貴女が私を愛してくれないから!」と逆上し、怒鳴り合い喧嘩した。
が、結果的に母親は親権を願うことも無く家を出ていき、父親は仕事にかまけすぎたと後悔し、離婚届だけだして慰謝料等は要求せずにその姿を見送った。
それから愛衣は暫く平穏な生活を送っていたが、16歳の初夏に千夏に会うまで友達も作れずにただ浪々と日々を過ごした。
◇◇◇◇
「……さいあく」
じんわりと汗が滲む不快感と、夢見の悪さで目が覚めた愛衣は夜が更けている事に気づき、ソファで眠ったせいで痛む身体を起こして浴室で身体を清める。
携帯を手に幾つかの通知を見てみれば、父親から今日も遅くなるという旨の連絡が入っており、愛衣は手馴れた動きで「気を付けて」とだけ伝えた。
食欲が沸かず、勉強をする気力も湧かない愛衣は夕方に借りた漫画を読み進める。
内容は愛衣の好きな母子物で、異世界を舞台に勇者によって母親を奪われた娘が銃を手に魔王となり戦う、派手なガンアクションを主体としたもの。
それを読み進めながら、愛衣は虚しさと共に夢想する。
母親がもっと愛情深ければ。そうではない、愛情はあった、それ以上に自分への愛を渇望した寂しい人だったのだ。
母には向いていない人だった。
もっと、無上の愛を我が子に注ぎ命すら差し出してでも守ろうとする様な、そんな母親が自分に居れば、愛衣は例え何をしてでも母を守り愛しただろう。
「……もし、本当に異世界とかがあるなら。私も生まれ変われないかな」
一冊読み終わった所で、何となくスマホで銃の作り方を調べた。
単純な好奇心だったが、勉強が得意な愛衣はその知識を余すことなく吸収して。
「なんかマジで道具さえあれば作れそう」
妄想の世界に銃が加わったのはヲタクの性だろう。