守ると誓った。たった一つの思い
その日、マリアは嫌な胸騒ぎで目を覚ました。
まだ日が顔を出したばかり、青みがかった空の頃。
じわりと嫌な汗を滲ませながら、ゆっくりとマリアは身体を起こす。
「……またこの胸騒ぎですか」
微かに震える手で、掻き毟りたくなる胸のざわめきを抑える。
暫く深呼吸して、漸く落ち着くと隣で眠る愛娘が寝返りを打つ。
その姿を見て、マリアの空色の瞳に慈愛の笑みが浮かぶ。
「もう、お腹出して。風邪ひきますよ」
「むにゃ……まま……」
「あらあら…」
シャツと下着一枚と言うあられもない恰好で眠るセシリアは、大胆にはっきりと筋肉の浮いている腹部を晒している。
それをマリアが隠すと、セシリアはだらしなく笑みを浮かべ幸せそうに寝言を漏らしてマリアの方に寝返りを打つ。
マリアは愛娘のそんな姿に微笑みながら、肌触りの良い自身と同じ蒼銀の髪を撫でる。
「……結局、この五年の間に言えなかったですね」
マリアは悲し気に微笑みながら、自分の勇気の無さに呆れた。
悪魔と天使の子である事、父親が嘗て魔王と呼ばれた存在である事、マリアが元天使で堕天使として人間に堕ちた事。
言う機会なら幾らでもあった。
でも後一年、一か月、一日とあと少し、あと少しだけまだ何も知らない子供であって欲しいと思い、口籠ってしまった。
セシリアが成長するに比例してその膂力が増す度、その真紅の瞳を見る度、言わなければと言う気持ちが大きくなった。
それでも言えなかったのは、セシリアとマリア共に平穏に過ごしていたからだろう。
幸い何かあった訳では無い。
セシリアは珍しい髪と目の、美しい少女だとしか認知されていなかった。
だがつい最近、マリアは言いようの無い不安が襲う様になった。
それだけでなく、セシリアが遠くへ行ってしまうような悪夢も見る事もあり、余り夢見の良くない日々が続いていた。
元々、マリア達親子は抱き合って眠っていた為、寝つき自体は良いのだが一度離れてしまうと悪夢を見始める。
マリアがセシリアの頭を撫でていると、セシリアの目が薄く開かれ真紅の瞳が覗いた。
「……まま?」
「起こしちゃいました?」
「ん」
寝起きでぼうっとしながらも、セシリアは小さく首を振り否定する。
そして薄く真紅の瞳を覗かせると、何を思ったか両手をマリアに対して広げる。抱擁を待つように。
「おいで」
「……」
優しく微笑みながら、囁かれマリアはすとんとその腕の中に納まる。
それだけで、不思議と心が満たされ胸騒ぎが無くなった。
「よしよし……すぅ」
「セシリア……ごめんなさい」
あやされながら頭を撫でられ、マリアはとろんと眼を細まると、安心感から再び夢の中へ羽ばたく。
こうして一緒に居られるだけで良い。
この子に何事も無く、穏やかに幸せに過ごして欲しい。
折を見て、冒険家を辞める様に伝えよう。
貯金もある。
いつか、世界を旅する事でもできればいいな。
セシリアの温もりに包まれながら夢想する。
次に目が覚めるまで、マリアは悪夢を見る事は無かった。
◇◇◇◇
太陽が完全に顔を出した昼前、セシリアは辺境の街カルテルの東区の通りを歩く。
昨日と同じ格好だが、ガンベルトとホルスターは外されており、化粧が施され髪形も下ろしっぱなしではなくハーフアップに纏められている事から、これから仕事に向かう意思が無い事が伺える。
セシリアは黒のコートを片手に持ちながら、見慣れた孤児院の扉を叩く。
「あ~い」
「おはようございまーす、セシリアでーす」
「あいあい……今開けるよ……」
気怠そうな酒焼けした声と共に扉が開かれる。
中からは相変わらず谷間や引き締まった腹部を出す様に、シャツを着崩したラクネアがぼさぼさの頭で疲れ切った顔を出す。
5年経ってるのに変わって無い姿に、セシリアは苦笑を浮かべながら挨拶する。
「おはようございます、コートの修繕をお願いして良いですか?」
「おはよ。直ぐに使う?」
「出来れば明日までには」
「おっけー、ちょい割増ね」
アラクネアの糸を編まれて出来たコートの修繕を、ラクネアにお願いする。
流石に一から作り直すのは出来ないが、ちょっとした修繕位なら製作者では無いラクネアでも出来る。
セシリアは言われた通り代金を払う。
施しではない。仕事に対する適切な対価だ。
馴染みでもある孤児院の力になりたいセシリアは、こうして少ないながらも孤児院の経営に力を添えている。
元々困窮してる訳では無かった孤児院だが、贅沢を出来る余裕も無かった。
セシリアも微力ながら援助する事で、今日も沢山の孤児達に満足な生活をさせてあげられる。
コートと代金を受け取ったラクネアに、セシリアは幾つか困ってることは無いか問うも、特にない。寧ろ無茶はするなと大人から言葉を貰う。
そこでハイさよなら。とはならず、玄関先で二人は幾つか近況を交えた雑談を展開する。
「ヤヤちゃんはいます?」
「あの子は早朝に出て行ったよ。ったく、偶には休めばいいのに」
孤児では無いというのにヤヤを心配する姿に、褒められた事では無いが孤児院に泊まる事を勧めたセシリアは安堵した。
ラクネアの向こうでは、孤児院に引き取られている子供たちの姦しい声が響き渡ってる。
「ラク姐さーん! 赤ちゃんが泣いてるー!」
「今行くからあやしといて!」
「ラク姐ちゃーん!」
「ちょっと待ち……こら! 叩いちゃダメだろう!」
孤児院の子供は赤子から年少まで、沢山の子供たちが居るが、誰も彼も不幸には見えない。
そんな子供たち相手に、ラクネアと老齢のシスターだけが親代わりとして育てている。
ラクネアはめんどくさそうにため息をつくも、その口元が綻んでおり慈愛の色が浮かぶ。
「相変わらず、皆元気ですね」
「そう思うなら、遊んでいっても良いんだよ?」
ラクネアとしても、セシリアが子供たちの相手をしてくれると助かる。
セシリアだって子供たちと遊ぶのはやぶさかでは無いが、今日は先約があった。
「今日はお母さんとデートがあるんで、また今度」
「けっ、マザコンめ。そんじゃ、コートは明日取りに来てな……あっ! マリアに、明日用事無かったら飯食おうぜって聞いといて!」
「はーい」
少ない知人であるラクネアになら、マリアを託しても問題ないと信用している。勿論、帰りは必ず迎えに行くが。
ラクネアと別れ、今日のメインイベントであるマリアとのデートを思い、鼻歌を歌いながら待ち合わせ場所の中央通りの噴水前に向かう。
態々家から一緒に出ず、待ち合わせを決めたのはセシリアが言い出しっぺだ。
「待ち合わせって恋人みたいだよね~」
世界で一番幸せだというような、嬉しさの滲み出るはにかみ姿はまさに恋する乙女。
だがそこにあるのは無上の親愛。
マリアとずっと一緒に居たい、色んな思い出を共有したい。
そんなプラトニックなラブが溢れる。
普通の恋の様な肉体関係を持ちたい、結婚したいといった気持ちは一切ない。
だが無意識にか、付き合い始めた恋人の様なイベントをこうして自ら望む辺り、マザコン極まると言えるだろう。
そうしてスキップしながら噴水広場へ向かうと、遠目からでもはっきりと見える。寧ろそれ以外眼中にも入らない、愛しい母の姿を見つける。
マリアの存在を認識し、花咲いた笑顔を浮かべ突撃しようとしたセシリアは、マリアの様子がおかしい事に気づき足を止める。
「止めてください!」
「っち、うっせえな。黙ってついてこい!」
「いや! 離して!」
三人の男に囲まれているマリアは、余程強引なナンパなのか、苛立たし気にしつつも興奮を滲ませる男達に無理やり手を掴まれ、傍の裏路地に連れ込まれそうになっている。
必死で抵抗するマリアだが、マリアの細腕では敵う訳も無くなす術も無く半ば引きずられている。
その姿を見て、母の嬲られる姿を幻視してセシリアは怒りが一瞬で振り切れ、奥歯が噛み砕かれる音が頭蓋に響く。
どす黒く視界が染まる気配すらした。
セシリアはクラウチングスタートの様に身を屈めると、地面を踏み砕きながら数歩で30m程の距離を詰める。
「ぺぎゃ?」
飛び込んだ勢いのまま、一番手前にいた男のこめかみに膝を突き立て男の頭蓋に軽快な音を響かせる。
男はそのまま錐揉みしながら弾き飛び、ピクピクと痙攣しながら泡を吹いて気絶する。
「な、何すんだてめぇ!」
「セシリア!?」
突然飛び掛かってきて、仲間の一人を蹴り飛ばした無表情のセシリアに驚いた男は反射的に掴んだ手を離し、セシリアは身を翻してマリアを取り返す。
男達から距離を取ると、マリアをお姫様抱っこしたセシリアは安心させる様に微笑む。
「大丈夫? お母さん」
「え、えぇ」
「そっか、ならよか……」
無事だという言葉に安堵しかけたセシリアだったが、マリアの白く綺麗な細い左手首に余程強く掴まれたのだろう、輪を描くようなあざが出来ているのを見つけ目を見開く。
「治れ」
迷わず魔法を使いマリアの痣と自身の歯を戻すと、セシリアはマリアを下ろして男達に近づく。
大事な、愛しの母を脅えさせただけでなく、怪我までさしたのだ。セシリアの中から良識も法も消し飛び、男達への殺意だけを溢れさせる。
お前ら、私のお母さんに何してんだ。という言葉がありありと伝わる。
「な、なんだよてめぇ!」
「ダチに何しやがる!」
「黙れ」
完全に瞳孔は開かれ、無表情でセシリアは一歩踏み込むと一瞬で男の一人に肉薄し、そのがら空きの鳩尾に拳を突き立てる。
余りの衝撃に呻き声の一つも出せず、男は胃液と唾液をぶちまけその上に倒れ込んだ。
「な、なんなんだよぉ!」
最後に残ったのはマリアの腕を掴んでいた男。
あえて最後に残していたセシリアは、恐怖を刻みつける様に腰を抜かす男に一歩一歩、近づく。
セシリアは一言も言葉を発しない。一切の表情を浮かべない。瞳孔の開ききった真紅の瞳だけが太陽に背を向け影差す顔の中で光っている。
「や、止めてくれ……悪かったから……謝るから……」
情けなく命乞いする男に欠片も反応を見せず、その距離を詰め切ると、セシリア右足を高く天に掲げる。
真紅の瞳は腰を抜かす男の股の間に注がれている。
男はセシリアが何をしようとしているのか悟り、最後の役割を果たそうと股間を濡らす。
「やめ……やめてくれぇぇ!!!」
「セシリア!!」
「っ!?」
ゴガッ!
マリアの声がセシリアの目測を誤らせ、セシリアの踵は男の股間の僅か手前の石畳を踏み抜く。
土埃が晴れると、余りの恐怖に男は泡を吹いて気絶していた。
セシリアは男達に一瞥もくれずに振り返ると、悲しさを含ませた厳し気な表情のマリアを捉え、にっこりと微笑む。
「大丈夫だよ、殺してはいないし、いざとなれば治せるから……ほら」
セシリアが手をかざすと、傍の三人が淡く光る。
少なくとも、これで三人の外傷は無くなっただろう。
セシリアは最早興味を無くしたと、一瞥すらしないでマリアの元へ小走りで寄る。
「ごめんね、怖い思いさせて。絶対にお母さんは守るから、私が守るよ、怖い思いもさせない。守るよ、絶対に守るから」
褒めて褒めてと言う様に、セシリアは無邪気に微笑んだ。
その姿は、自分が何か悪い事をしたとは欠片も思っていないが、真紅の瞳は昏く濁っている。
まるで強迫観念に潰される様に、普通とは様子が違いすぎる。
そんなセシリアに、マリアは悲しそうに微笑みながら頬に手を添える。
「落ち着いて下さい、私は大丈夫ですよ、怖い思いもしてません。大丈夫、大丈夫です」
ゆっくりと、水が染み広がる様に。暖かく、穏やかに囁きかける。
あやされて、大丈夫と優しく囁かれ続けて、セシリアの瞳に理性の光が戻る。
それを見て、マリアは内心ほっと安堵した。
「でも、あれはやりすぎです。いきなり殴りかかるなんて野蛮すぎですよ」
「でも、あいつらはお母さんを」
「でもじゃないです。それにセシリアは女の子なんですから、あんまり危ない事はしちゃだめですよ?」
「むぅ……」
諭されてセシリアは不満げにする。
だが冷静になった為、マリアのお叱りをきちんと受け止める。
幾ら治せるし、殺す気は無かったとはいえいきなりあれはやりすぎたと反省する。
「……ごめんなさい」
「分かってくれれば良いんです。それと、助けてくれてありがとございます、嬉しかったですよ」
「うん、任せて、お母さんは私が守るから」
誇らしげに薄い胸を張るセシリアに、マリアは微笑みながら助けて貰った時から落ち着かない胸の鼓動を鎮める。
いつもまにか大きなって細くて柔らかいのに逞しく、助けて貰った時に腕の中から見上げたセシリアの横顔に、年甲斐も無く心を跳ねさせた。
だが周囲の人の気配に僅かに表情を曇らせると、マリアはセシリアの手を取る
「ささ、早く行きましょ」
「あ、うん!」
マリアは足早にその場を後にしようとする。
周りで見ていた人々の喧騒に居心地の悪さを覚えて。
彼ら彼女らの目に、僅かに畏れの色を混じっているのを見逃さなかった。
マリアはもう時間が無いのかと泣きそうな微笑を浮かべ、繋いだ手を握りしめた。
心配させまいと気持ちを切り替え、デートへ赴こうとした二人の前に一つの影が阻む。
「見つけましたわ!!」
二人を阻んだ影は一人の少女。
その少女は、美しくも派手な印象の少女だった。




