神秘の残滓
セシリアがマリアを救ってから三日が経過した今日。
セシリア達は街の外壁を背に森の中を朗らかに歩く。
顔を上げれば木々の向こうには雲一つない満天の、まるで二人の内心を映したかの様に穏やかで、晴れやかで爽快な青空。
セシリアはつい数日前まで、空を見上げる余裕すらなく青空に苛立すら覚えていたのに。と苦笑する。
「ホントにママも来るの?」
「はい、セシリアがお世話になったようですし、私もお礼が言いたいですし」
「そっか」
驚く治癒士にセシリアの魔法で治した事。
マリアには委細合切全てを話したうえで、アイアスに言われた通り森へ赴いた。
セシリア達はこれから危険な森に入ると言うのに、まるでピクニックにでも行くかの様な気楽さで森の前に立っている。
「えっと、これを鳴らせば良いんだっけ?」
セシリアはポケットから、アイアスに貰った音の鳴らない鈴を取り出して半信半疑に振る。
鈴の音は鳴らず、寂しい一陣の風が二人の前を過ぎる。
「これは……大丈夫なんですか?」
「多分……?」
確証を持てないセシリアは、騙された? と小首を傾げた瞬間、シャン。と鈴の音が鳴ったと思うやいなや、目の前の空間が歪みだす。
「どうやら、無事に目的は果たしたようだね」
「魔女さん!?」
突然虚空から現れたアイアスに、セシリアは目を剥いて驚く。
アイアスは不遜に鼻を鳴らすと、一切驚いた様子の無いマリアに視線を向けると、その表情を引き締めた。
マリアは微笑を浮かべて会釈する。
それに対してアイアスはセシリアを一瞥して一つ頷くと、背後の空間のゆがみを指す。
「立ち話もなんだから、とりあえず場所を移すよ。ついてきな」
「え!? それ、入って大丈夫なんですか?」
明らかに危なそうな空間の歪み、好奇心と物怖じするセシリアにアイアスは鼻を鳴らす。
「大丈夫だよ、寒いんだから早くしな」
「行きますよセシリア」
「え? うん」
笑顔だが、硬い声のマリアにセシリアは促され虚空に足を運ぶ。
セシリアはマリアが、目の前の魔法の様な物を見て目を輝かせていると思ったが、実際はその逆で普段との様子の違いに小首を傾げる。
セシリアはすっと姿を消すアイアスの背を見送る。
生唾を呑みこみ、無意識にマリアとの繋いだ手に力が籠り、その手が握り返される。
「大丈夫ですよ、お母さんが付いていますから」
「……うん!」
それだけで緊張がほぐれ、理由も無いのに大丈夫だと思ってしまった。
セシリアは深呼吸すると一歩踏み出す。
虚空の歪みに足を踏み込んだ瞬間、視界が歪み意気込みに反しあっさりと一瞬で景色が変わる。
「っ!? うっ!」
だが内臓を直接握られて激しくシェイクされる様な、臓器の全てを揺すられる様な衝撃にセシリアはアイアスの家に着いた途端、口を押えて膝を突いてしまう。
「大丈夫ですか。ゆっくりと、落ち着いて下さい」
顔面蒼白で、吐き気を抑えるセシリアをマリアが介抱してると、徐々にセシリアも平静を取り戻す。
だがそれでも、気持ち悪さに立ち上がれないセシリアは喋る事も出来ずマリアに身体を預ける。
「その子が昨日寝た部屋があるから、そこに寝かせるかい」
「お願いします。セシリア、立てますか?」
コクリと頷くセシリアを、部屋へ運びベットに寝かせるとマリアは前髪を撫でる。
「初めての空間跳躍は酷いと数日寝込む事もありますから、今はゆっくり休んでください」
セシリアはその言葉を、虚ろな頭で聞く。
(初めてじゃなかったんだ、ママ)
そう言えばと、セシリアは自身が生まれる以前のマリアについて何も知らないな。と重くなって来た瞼の中で考える。
頭を撫でられた安心感で、眠気に耐えられなくなったセシリアは眠りにつく。
「寝むったかい」
「はい」
「場所を移そうか」
そんな二人の会話を最後に、セシリアは意識を落とす。
◇◇◇◇
セシリアが眠る部屋から出た二人は、最も遮音性の高いアイアスの工房に足を運ぶ。
アイアスは部屋の扉を意識して締め切り、中の音を外に漏れない様にすると背筋を伸ばした。
「お会いできて光栄です。主の子、御使いの天使よ」
アイアスはマリアに対して胸に両手を当て膝をつく。敬意を込めた最上位の礼に、マリアは複雑そうに苦笑を浮かべる。
「止めてください、私は堕天した身。最早天使ですらないただの人間なんですから」
「だとしても、我ら信徒は貴女様方主の御子に最上の敬意を」
「……そうですか」
敬まれる事に眉を顰めるマリアは、ため息をついてそれを流す。
未だ膝まづくアイアスをそのままにしたまま、マリアは笑顔を消し硬い表情を浮かべる。
「貴女がそうするという事は、セシリアの事もご存じなのでしょう」
「はい、私の魔法を使って魂に干渉したが故おおよそは。貴方様の御子にご無体を働いた事、如何様な罰でも受ける所存です」
断頭台で首を晒すかのように首を垂れるアイアスに、マリアは近づくとその頭に手を添える。
アイアスはビクリと肩を小さく跳ねさすが、来るべきその時を顔を伏せたまま待つ。
アイアスはその時を戦々恐々と待っていたが、マリアが傍から離れる気配に閉じていた目を開く。
「あれは娘が望んだ事ですから、貴女を責める様な真似はしません」
その言葉にアイアスは思わず顔を上げてしまう。
慌てて顔を伏せるも、一瞬見たマリアは微笑を浮かべており思わず安堵し、冷や汗が垂れた事に気づく。
「それに、先ほども言いましたが私は既に堕天した身。確かに天使の魂を宿してますが、この身は貴女と変わらぬ人間ですから、貴女を害す気はありません」
マリアの言葉に嘘は無い。
もし無理やりセシリアを覚醒させていたのなら、その時は何をしてでも報復しただろうが、セシリアが自らの口でそうすることを願ったと伝えていた為、思う所は無かった。
「それよりもお願いがあります、アイアスさん」
「! わたくしの名を」
信仰の頂点に近い存在のマリアに、自身の名を呼ばれ慄くアイアス。
そんなアイアスにマリアは微笑を向ける。
「娘がお世話になった方ですから、感謝する上で名前を知る位は礼儀でしょう?」
元とはいえ天使に名を口にして貰った上感謝を向けられるなんて…。
アイアスは歓喜に涙ぐんでしまう。
「御身の寛大なお心に深い感謝と尊敬を。して、私如き老骨に貴女様の願いが務まるとは思いませんが、何を成せと?」
「そこまで気構えないでください。娘の事をお願いしたいのです」
「貴女様のご息女を? 共におられないのですか?」
マリアの言葉を、マリアがセシリアの元を離れるが故だと解釈したアイアスは困惑の色を浮かべるも、マリアは首を横に振って否定する。
「別に離れる訳じゃないですよ?ただ、私ではセシリアの力にはなれないんです」
「そんなことは……」
「言ったでしょ? 私は既に堕天した身、魔力すら練られない非力な人間なんです。そんな私では、あの子に待ち受ける困難を切り抜く力にはなってあげられない」
「それはどういう……」
悲し気に微笑んだまま、マリアは頭を下げる。
その突然の行動に、アイアスは目を剥いて勢いよく立ち上がる。
「おやめください! わたくしの様な下界の人間に貴女様が頭を下げるなんて!!」
「天使であることを捨て、人となった私には頭を下げる事しか出来ません。そしてそんな私の所為で、あの子にはこの先幾つもの辛い試練が待ち延びている。だから、どうかお願いします、あの子に戦う術を」
「分かりました! 分かりましたから頭を上げてください!!」
アイアスの悲鳴混じりの懇願に、漸く頭を上げるマリア。
こうして相対するだけでも一生物の幸運なのに、その上で頭を下げさせるなんて、信仰心を持つ者には耐えられない光景だ。
頭を上げた事で安堵したアイアスの身体は、無理な体勢をつづけた所為で節々が痛みだす。
マリアはそれに目敏く気づき、席に座る事を促すも同席するなんて。と遠慮するアイアスに、マリアは無理やり席に着かせる。
席について腰や膝の痛みが治まって来たアイアスは、同席という栄誉に緊張しながらも話を戻す。
「私はしがない錬金術師です。戦いに精通している訳では無いので、戦闘の技術を教える術はありません。あるとすれば魔法や魔力の使い方に錬金術、それと体術の基礎程度しか師事出来ないのですが……他の武芸者で無くてよろしいのですか?」
「他の方ではあの子の事を説明しなくてはいけなくなる、それは避けたいんです。それにアイアスさんは娘の事を知って尚、力になろうとしてくれたんですよね?」
アイアスは照れくささで口籠ってしまう。
先日、セシリアの魔法を覚醒させたときにセシリアのある程度は推察したがが、それはそれとして自らが手を施して魔法を覚醒させた子供を、そのまま放置する気は無くこうして呼び込んで魔法や魔力の指導をしようと考えていた。
そんな折マリアと対面しセシリアの魂に干渉した影響か、魂に干渉できるアイアスの魔法に依る物か、一目見てマリアを天使だと理解した。
マリアが天使だから、セシリアがその子供だからと言った打算ではなく、アイアス自身の人の好さによる行動。
故に、それを指摘されると気恥ずかしさが湧いてしまう。
「それよりも、お聞かせいただいても構わないでしょうか」
「……セシリアの事ですよね」
すっと表情を引き締めたアイアスは、真剣な表情でマリアにセシリアの事を問う。
マリアの願いを聞き入れる事自体に文句は無い、だがセシリアに将来訪れる困難や、どうしてそこまでするのかと言った疑問がある。
ただの天使の子であるなら分からないことも無いが、そこまで言う事でも無いとアイアスは思う。
マリアは一息深呼吸し、瞑目し口を開く。
「あの子は……天使と悪魔の子なんです」
「なっ!? いや、そう言う事でしたか」
どうしセシリアに困難が迫るだなんて言ったのか、その時に備えようとしたのか。アイアスは未だ己の手に残るセシリアの魂の感覚を思い返し頷く。
「といっても、あの子は私が堕天し人になりこの世界に降りてから産んだ子ですから、基本的には人間です。ですがその魂は……」
「天使の子と言うだけでも問題なのに、悪魔との子になれば、未だこの世界を諦められない悪魔達が彼女を狙うやもしれない……と。天界に招くという選択肢は?」
アイアスの意見にマリアは弱弱しく首を横に振る。
人にとって、天界とはまさに神の住まう場所、天国、極楽浄土その物。そこなら安全そのもので幸せなのでは?と誰もが思う。
「あそこは一度人の世を知った者には地獄と変わりません。何も知らない無垢な魂だからあの純白の世界に耐えられる、セシリアを天界に連れていくという事はその魂を浄化してしまう」
「……そうですか」
マリアが語った事実にアイアスは神妙に頷く。
幸せとは人の価値観に基づくものだからこそ、誰かの幸せは誰かの不幸と言われる。
それを差し置いて誰もが幸せになれる世界など、個人の一切を排除した世界に他ならない。
敬虔な信徒はそれでいいと思うが、アイアスには残酷だと思った。
未来のある子供を、将来危険があるからとその未来を閉ざしてしまうなど、誰に出来ようか。
「……分かりました。不肖の老骨ながら、持てる全てを持ってその願い叶えましょう」
アイアスは深く目を瞑り熟考すると、しんとマリアの空色の瞳を見据え頭を下げた。
その答えにマリアは安堵し、倣う様に頭を下げようとしたがまた話が途切れては困ると目礼だけで済ます。
「よろしくお願いします」
マリアは自分が手ずからセシリアの力になれない事に複雑な思いを抱くも、目の前のアイアスが信用に足る人物だと見込んで愛する娘を託す。
大事な話がひと段落ついて、二人はひと心地つく。
「そういえば、天使の血が貴女様だとすれば悪魔の方はお父君が?」
「無理しなくて構わないですよ、あなた達は悪魔に敬称なんて付けたくないでしょう」
「王国の人間や聖職者ならそうでしょうが、生憎私は錬金術師ですから。信仰として主を讃えてますが、悪魔だから嫌悪しようとは思いません。悪魔より悪魔らしい人間だっていますしね」
アイアスは人生で一番丁寧に紅茶を入れ、喜んで貰えた事に緊張がほぐれ多少気軽に雑談を交わす。
そんな中で、アイアスはふとセシリアの父。マリアの夫の悪魔の事を気にしだす。
ほんの些細な興味だ。
アイアスの質問に、マリアは特に気負う事も無く、今日の晩御飯を言うかの様な気軽さで答える。
「そうですか。夫の名でしたね」
アイアスは後に、その質問をすべきでなかったと後悔する。
「私の夫は……あの子の父は、ファウストです」
その名は嘗て人魔大戦にて、魔王と呼ばれた悪魔達の王の名前であった。




