帰る場所
妖精の止まり木に帰って来たセシリアは、表の戸口が絞められている事に首を傾げる。
既に陽は高く、いつもなら暇をした常連達がトリシャに文句を言われながら談笑している筈なのだが、中からは物音ひとつしない。
この宿で10年近く住み込みで働いているセシリアは、こういった場合裏口から入る様に言われていたのを思い出して、鉢裏に隠してあった裏口のカギを拾い中に入る。
「……ただいま」
誰も居ない家。トリシャのカラッとした逞しい笑顔も、ガンドの仏頂面も無い。
「と、トリシャさん? ガンドさん?」
震える声を張っても返事がない。
物寂しい空間に木霊するだけ。
その光景に、既視感と共に前世の記憶と感情が強く思い返されていく。
一人で取った冷たい食事、母親の嬌声を聞きながら冷たい布団にくるまった夜、愛衣の事を見向きもせず出ていった母の後ろ姿。
辛い記憶を振り払う様に頭を振る。
あの優しい人たちがセシリアを捨てる筈なんて無い。自己嫌悪に拍車がかかるのを抑える。
締め付けるような胸の痛みに、服の上から胸を握りしめて堪える。
「……お母さんのお見舞いに行ってるんだよね」
きっとそうだと自分に言い聞かせるようにして、足取り重くセシリア達親子の部屋へ向かう。
住み込みで働いている親子の部屋。
ベットは一つで、毎日二人抱き合って眠るその部屋は、セシリア達親子の思い出の数々が染みついている。
壁にはセシリアが幼少の頃書いた、マリアと二人で手を繋いでいる拙い絵が貼られている。
衣装棚には数こそ多くないが、お互いがお互いを思って送った服が仕舞われている。
他にもいくつもの思い出を鮮明に思い起こせるような、幸せな記憶が染みついた品々が飾られており、アリアの現状が脳裏によぎり胸が張り裂けそうになり、セシリアは胸元のネックレスを強く握りしめる。
「嫌だ……」
果てしない、執念にも似た拒絶感が湧き上がる。
「お母さんと離れたくない……」
やっと手に入れた母親。
やっと掴んだ幸せ。
死して漸く手に入れた物をもう失いたくないと、歯を食いしばる。
「私はお母さんが好き……」
あの笑顔が好き。
あの温もりが好き。
大人なのに子供の様にはしゃぐ姿が好き。
セシリアの全てを包み込んでくれる母性が好き。
セシリアはマリアとの思い出の品々を撫でる。
一つ、また一つと魂に深く刻み込むように丁寧に。
その表情はあらゆる感情を内包した、泣いている様にも笑っている様にも見えた。
手がガンドに貰ったナイフの上で止まる。
ゆっくりとそれを手にすると、驚く程セシリアの手に馴染む。
「……死にたくないなぁ」
死にたいと思っていたのに、死んでもいいと思っていたのに、こうして思い出に触れるとそう呟いてしまう。
後悔と罪悪感だらけの中で、浅ましくもアリアとの未来を思ってしまう。
間接的な加害者だと思うセシリアにそんな資格は無いのに、どうしてもそう思ってしまう。
「お母さん……マリアさん」
痛みを堪える様に目を瞑り、万感の思いを込めてネックレスを握る。何が大事なのか、強く思う。
暫くそのままの、まるで祈るような姿勢を保っているとやがて眼を開く。
「……行こう」
少しでも動きやすい様にとシャツとズボンに着替え、ブーツを履きバックを背負う。
馬鹿だと思う、無謀だとも思う。死ぬだろうと思う、行きたくないとも思う。
頭の中にあるのはたった一輪の花。
夢や理想の様なそれを求めて、セシリアはナイフを腰に挿して準備を整えるとドアに手を掛け、振り返る。
「さようなら……」
振り返ってその言葉を呟くと、セシリアとして生きた10年間の思い出が溢れ来る。
辛い記憶が一つも無いその思い出が、胸を裂かんばかりに締め付ける。
例え生きて帰ってこようと、もうここに戻って来ることは無いと思った。
自分の浅慮が原因でアリアは命を脅かされている。自分にマリアの傍にいる資格は無い。
まるで死に場所へ向かうかの様に、それでいて決意を秘めた確かな足取りで部屋を出ていく。
◇◇◇◇
カルテルの街の北区。そこをセシリアは辺りをきょろきょろと見渡しながら歩く。
目的地は禁忌の森、その奥にあるとされる万病薬の元の花。
セシリアは服の上からネックレスを握りしめながら、外へ出る門へ向かう。
煤に塗れた男達や大量の資材を積んだ馬車を避けながら街道を進むと、視界の向こうに街の外へ出る門が見えだす。
時間が時間だからだろう、外へ出る人の数の少ない為並ぶことも無く門番の前に出る。
「お嬢ちゃん、外に出るのかい?」
「はい」
門番は眉間に皺を寄せる。
見た目10歳の子供が、禁忌の森に足を踏み入れる事はまずない。
例外として冒険家はあるが、それでも彼は森に入って帰ってこなかった子供を知ってるから嫌な気持ちになる。
「お嬢ちゃんは冒険家かい? そうなら証明用のタグを見せてくれるかい」
「……冒険家ではありません」
「それなら通すわけにはいかないな」
その言葉に歯噛みする。
なら冒険家になってから出直そうと踵を返そうとするが。
「仮に今から冒険家になってもお嬢ちゃんの年齢じゃ外には出れないぞ、精々街の中の依頼をするのが関の山だ」
「冒険家になっても外に出れないんですか?」
セシリアは八つ当たり気味に眉をひそめて門番に聞くと、門番は神妙に頷く。
「大人なら成り立てでも構わないんだが、子供は人道的な観点から一人で街の外へ行くことを禁止されている」
「……どうにかならないんですか」
門番は首を振ると、セシリアは苛立たし気に顔を顰める。
子供だからダメ。自身への嫌悪感の塊になっているセシリアは歯噛みする。
正面からがダメなら他の抜け道を探すべきかと、考えるセシリアの思考を読むかのように門番は釘を刺す為、セシリアは踵を返そうとする。
「おや? さっきの女の子だ」
踵を返そうとしたセシリアの耳に届いたのは、朝の冒険家組合でセシリアに助力した青年が剣を腰に携えて立っていた。
その姿を見てセシリアは、どうしてもトラウマのロンを連想してしまい警戒が先立つ。
「何? もしかしてあの花でも探しに行こうとしたの?」
「……だったら何だって言うんですか」
ぶっきらぼうに答えたセシリアに、青年は相も変わらず端正な顔に柔和な笑顔を張り付けて向き合っている。
「諦めなよ、あんなものおとぎ話の産物だ。助けたい人でもいるんだろうけど、禁忌の森は君みたいな子供が入って良い場所ではない。諦めて残り少ない時間を一緒に過ごした方が有意義だと思うけど」
「貴方に何が分かるって言うんですか!」
その言葉にセシリアは歯を剥いて吠えてしまう。
その余裕の笑みが苛立つ。正論が腹立つ。分かっている様な言い方が腹立たしい。
ため込んでいた鬱憤をついぶつけてしまう。
「大切な人の為に必死で足掻いちゃダメなんですか! 赤の他人が、そうやって分かったような口を挟まないでください!」
子供の癇癪をぶつけられても青年は笑顔を崩さない。心なしか目が笑っていない様にもセシリアは思えたが、その笑顔が苛立たしく感じてしまう。
ひとしきり吠えて冷静さを取り戻すと、息を荒げながらも他人に八つ当たりしたことで、バツの悪さを感じて顔を背ける。
「で?」
青年はセシリアの八つ当たりなどどこ吹く風と言わんばかりに、笑顔を張り付けたまま首を傾げる。
怒られるか、子供の癇癪に機嫌を損ねてしまったかと思ったセシリアはその反応に目を丸くしてしまう。
「大切な人の為に足掻くのは結構だけど、君に何が出来るの?」
青年は教師が問題の答えを聞くかの様に、静かに質問を投げかける。
「そ……それは」
「何も出来ないよね? 何も出来ないくせに、君のエゴで他人を危険に晒すの? 受付嬢さんにも言われたよね? 君が森に入って魔獣を怒らせて、街に被害が出たらどう責任を取るの? 取れるの?」
「……」
まごう事なき正論にセシリアは悔しそうに俯いてしまう。
「気持ちは尊重するけど、力も覚悟も無いなら諦めた方が良い」
青年はそう言って歩き出す。
もはやセシリアに一瞥もくれない。
一体何を思ってセシリアに話しかけたのだろうか。善意か悪意か、はたまた街へ危険を持ち込みたくないが為なのか、セシリアには判断がつかない。
何も言い返すことは出来ないが、それでもセシリアは引くわけにはいかなかった。
「それでも!!」
お互いに背を向け合ったまま、セシリアは叫ぶ。
「私はお母さんを救いたい! 力だって無いし馬鹿でただの子供だけど……お母さんには死んでほしくない! お母さんを救えるなら死んでもいい!!」
振り返って青年の背に吠える。
力も何もないが、覚悟ならしたつもりだ。
マリアを思うこの気持ちだけならだれにも負けない、ただマリアが死ぬその時まで何もしないくらいなら死んでも良いとすら思っている。
「……例えそれで他の人が死ぬことになったとしても?」
青年は肩越しに振り返り非情な問いを放る。
セシリアはその瞳を見据え、迷いなく頷く。
「例え悪魔に魂を売ったって良い。化け物になったって世界中に恨まれたって良い、私はお母さんを助けられるなら何でもする」
青年は身を反転させ、セシリアと向き合う。
その眼は、セシリアの覚悟を見極めるかのようにじっと目を合わせる。
暫く見つめ合って、青年はふぅっと肩の力を抜くと寂しそうに笑う。
「眩しいな」
「え?」
その呟きは小さすぎてセシリアには届かなかったが、その表情は羨むように寂しく笑っていた。
「良いよ、君を外に連れてって上げる」
「……え!?」
青年のまさかの掌返しにセシリアが驚いていると、青年は門番に手早く話を付け許可が出た事を伝える。
あれよあれと言う間にセシリアは街の外に生まれて初めて踏み出す。
「一般人でも一定ランク以上の冒険家が同伴すれば外に出れるからね、ルールはルールだから門番も口を挟めないよ」
青年は呆然と門を振り返るセシリアに説明をするが、セシリアはあまりの掌返しに開いた口が塞がらない。
「……どうして」
「ん?」
「どうして私を外に出してくれたんですか」
意図が分からず、距離を取って警戒しながら質問するセシリア。
先日他人を信用して痛い目を見ただけに、腰のナイフに手を宛がいながら睨みつける。
青年はそんなセシリアをさして気にした様子も無く、腕を組む。
「憐みって言ったら……怒る?」
セシリアは青年に言葉が、自身に向けたものでは無い様な違和感を覚えた。
だがそんなものはどうでも良いと、被りを振る。今は少しでも幻の花を手に入れる可能性が高まるなら何でもよかった。
充分な時間を取ると、セシリアはナイフに手を宛がいながらではあるが警戒を少しだけ緩める。
「外に出してくれたことはありがとうございます、でも」
「あぁ、お別れはしないよ? 君を助けようとは思わないが無暗矢鱈に魔獣を刺激されるのは本意じゃないから」
セシリアの警戒から察したのか、言葉を遮り青年は一歩詰める。
距離を詰められセシリアの肩が僅かに跳ねた為、青年はそこで止まる。
「それに別に俺にメリットがないわけでも無い。もし本当に君が求める花を見つけられたら、俺も大成出来るしな」
冗談めかして言う青年の言葉に、セシリアは瞑目して悩むと肩の力を抜く。
「分かりました、でも信用できないんで先導してください」
「かしこまりました。お姫様」
青年は恭しく演技がかった騎士の様な礼をし、腰の剣に手を掛ける。
「それじゃ行こうか、奇跡を求めて」
「よろしくお願いします」
セシリアと青年はお互いの名前も知らず、森の中へ踏み込んだ