馬鹿にしたような晴れ晴れとした空
セシリアは一人ベンチに座って空を見上げる。
顎が少し腫れているが、それ以外に怪我の様な物は見当たらない、至って正常な身体。
そんな彼女は虚ろな目で、どこか忌々し気に空を見上げる。
辺りには一日の始まりを迎え、慌ただしくも精力的に動き出す人々。
誰も彼もが面倒そうにしつつも、愛しい家族からの料理を手に仕事へ向かい、友人と共に学び舎へ駆ける。
誰もセシリアの事を気にしない。
たった一人の少女が絶望して居ようと、知った事では無いと世界は朝を迎え街は息を吹き返す。
「ここに居たんだ、セシリアちゃん」
一人の女性が、少し息を切らしてセシリアの元へ歩み寄って来る。
看護官と呼ばれる、治癒魔法を使える治癒士のサポートを主にこなす女性は清潔な白い服を着こみ、優しい笑顔を浮かべる。
そんな表情を見てもセシリアの表情は晴れない。
「まだ朝は寒いんだから、外に居ると風邪ひいちゃうよ? 中に戻ろ?」
一瞥するも、すぐに視線は正面に向けられる。
そんなセシリアの態度に気を悪くする事も無く、根気強く女性は語り掛ける。
「お母さんの元に戻ろ? セシリアちゃんが居れば目が覚めるかもしれないよ?」
セシリアの内心など、欠片も知らないが故に吐き出される言葉。
その言葉に唇を血が出そうな程噛み締め、腿の上で両手を握りしめる。
「後で、戻りますから……もう少しここに居ます……」
「……そう、あまり遅くならないうちに戻って来てね」
女性は反応が帰って来ただけでも良しとして踵を返す。
人の気配が無くなり暫くすると、堪える様に身体を震わせ、暫くして弛緩する。
「ごめんなさい」
呟いた声は風にかき消される程弱弱しい。
その後姿も、今にも倒れてしまいそうな程儚く小さい。
普段の明るさはそこには一切ない。
今日目が覚めて、マリアの容態を聞いた時の治癒士の言葉が何度も反芻する。
『命に別状はありません。裂傷も治癒魔法と外科手術によって塞がったので、暫くすれば薄く残る程度でしょう。打撲痕については幾つか骨や臓器にダメージがありましたが、こちらも問題は無い……んですが』
死んだように眠るマリアの手は恐ろしい程に冷たく、わずかな脈動だけがその命がある事を感じられる。
『背中に刺さっていた針の毒なんですが……どうやらバジリスクの毒だけじゃなく、他にも神経系などの毒が混ぜられていて解毒が利かないみたいです』
その言葉を聞いて、セシリアは顔なじみの治癒士に詰め寄った。
妖精の止まり木の常連でもあり、セシリアとマリアの睦まじい姿に一日の元気を貰う彼は痛みを堪える様に悔しそうに歯噛みする。
『今あらゆる伝手を使って解毒を試みてますが、相当複雑な毒なのかどこも……』
その言葉にセシリアは膝をついてしまう。
涙が出なかった。ただ乾いた笑いが零れるだけで、それが一層悲惨さを増す。
『今は独断で、知り合いの夢魔に頼んで眠らしています。少なくとも、症状の進行は抑えられるので、この間に何とか治療の目処を発たせるつもりです」
その言葉に、少しだけ希望が浮かんだセシリアは弱弱しい声で猶予を聞く。
彼は言いにくそうに逡巡しつつも、重い口を開く。
『持って半月……仮に治っても後遺症が残らない事を考えると、数日あれば良い方かと』
たったそれだけ、と力ない声が零れる。
何とか、何とかならないんですか。と縋りつくも、弱弱しく首を横に振られるばかり。
セシリアは罪悪感から眠る母に縋りつくことが出来ず、よろよろと母が眠る病室から離れる。
「ごめんなさい……」
涙ぐみながら膝を抱える。
後悔ばかりが胸中を支配する。
あの時、自分がダキナ達に着いていかなければ。もっと早くに気付いて逃げていれば。そもそも暗くなる前に教会から引き揚げていれば。
無防備で、無警戒で、無自覚で、愚かで、弱い自分が心底憎い。
今すぐ殺してやりたいほどに自分の事が憎い。
大切な愛しい母を傷つけたダキナが憎い。
失わないと、守ると誓ったはずなのに何も出来なかった自分が憎い。
ありとあらゆる怨嗟と憎悪の声が脳裏を支配し、ぶつける先の無い感情がまるで噴火寸前の火山の様に腹の底に貯めこまれる。
安らぎが欲しい、こんな負の感情を抱きたくない。
今すぐマリアの元へ行きたい。でもそれは許されない。
こんな事になった原因でもある自分が傍にいたら、その事実に耐えられない。
優しい母なら許してくれるかもしれない。でも母が許しても自分が許さない。
相反する言葉を、セシリアがぶつけ合う。
お前の所為だ。と愛衣が叫び、私は悪くない。とセシリアが啼く。
気が狂ってしまいそうな程、二つの声が泣き叫び、次第にセシリアを詰る言葉に代わっていく。
許さない、マリアが死んでしまったらお前を絶対に許さない。
「っ!?……ぅぅう………」
前世の自分が、今世の自分が人形の様な感情の抜け落ちた顔で迫ってくる。
そんな事は分かってる、だからごめんなさい。と口にしても止まらない。
心が瞬く間に擦り減っていく。
「うぇぇっ!」
病床で死んだように眠るマリア、冷たい屍と言われても信じられる位に美しくも残酷に眠る母。
そんなマリアの命の灯火が潰える瞬間を幻視して、耐え切れなくなったセシリアは何も入っていない胃を痙攣させ胃液を吐き出す。
不快感と胸を刺す痛みだけが意識を保たせる。
そんなセシリアを更に追い込むように、二人の自分の声が反芻する。
どうしてお母さんを危険に晒した。
どうしてマリアさんを守れなかった。
どうしてお母さんじゃなくてお前が無事なの。
どうして貴女はそんなに弱い。
「ごめ…ごめんなさい……」
膨れ上がる声に耐え切れず、自身を守る様に身体が汚れる事も厭わず身を縮こませる。
そんなセシリアを尚も二人は詰る。
そうやってまた逃げるの。
耳を塞いで現実から目を逸らす。
その結果が私でしょ。
愛されたいと願いながら愛される努力はしてきたの?
大切な人を守ると誓いながら何をしてきた?
「ちがう…わたしは……」
何もしてこなかった。
ここが日本じゃないと分かっていながら、ただの子供の様に怠惰な日々を過ごしていたよね。
愛衣の知識を使って何かしようとした?
貴女はただ私のお母さんと過ごす日々が楽しくて現実から目を背けてたよね。
声が一層大きくなる。近づいてくる。
「いや、来ないで…」
ねぇ、どうして。
ねぇ、返してよ。
「いや…いやぁ…」
セシリアが恨めしそうに睨みつけてくる。ごめんなさいとしか謝れない。
愛衣が泣いている。掠れる声でごめんなさいと呟く。
「私は…お母さんが…」
好きって言えるの?
守る事も出来なかった癖に。
弱いくせに。
危険に晒した癖に。
「わ…私は……」
弱いから大事な物を守れない。
弱いから全部失う。
心が弱い。
力が弱い。
魂が弱い。
弱い弱い。
二人の姿が交わり、まったく別の人物に代わる。
ニタニタと、嘲笑を浮かべるダキナ。
セシリアは泣くのを止め、呆然と見つめる。
『セシリアちゃんが弱いからお母さんが死ぬんだよ』
「ち…ちが…」
弱弱しく首を振るが、その声は今にも死んでしまいそうな程か弱い。
『お母さんもかわいそうだよね。お腹を痛めて産んだ子供が、魂は別人だなんて』
「あ…あぁ…」
言わないで。
セシリアがもっとも見たくなかった事。恐れていた事、決して知られてはいけないと思ったから、前世の記憶や知識を自ら思い返そうとはしなかった。
それを無理やり突き付けられる。
『ガワは自分の子供だろうけど、中身が他人なら最悪だよね。しかもそんな子供を庇って死ぬんだから、心底恨んでるだろうね』
「うるさい…うるさい!!」
気づいたら叫んでいた。
現実から目を逸らす為に、耳を塞いで目を閉じて。自分の殻に固く閉じこもる。
『そうやって直ぐに逃げる。弱い証拠だよ』
少しずつ、セシリアの心が黒く染まりだす。
弱いから悪い、弱いから失う。弱いから恨まれる。
そんなセシリアを嘲笑うダキナが闇に呑みこまれていく。
「弱い…私が弱いから…おかあさん…」
ぶつぶつと呟きながら立ち上がるセシリアの目は昏い。
握りしめた手から血がしたたり落ち、セシリアの善性が剥がれ落ちていくかの様にゆっくりと流れていく。
「死にたい…だめだ、今は。せめてお母さんを助けてから…」
生きていく気力が無かった。
だが無駄に死ぬつもりは微塵も無い、せめてマリアを救ってから死のう。
母であるマリアを救う。ただそれだけを思いながら死人の様に虚ろな顔を上げる
.
「お母さんを助ける…でも、どうしよう」
一秒だって時間が惜しい。
マリアを救う為に一瞬たりとて立ち止まっては居られない。
だがたった10歳の少女のセシリアに何が出来る。
この10年で得た事と言えばこの世界の常識と知識。
学び舎で、現代日本の知識を持って生まれ変わったセシリアからすれば。欠伸物の勉強に役立つ物なんてない。
前世の知識にだって、身体が石化する魔獣の毒に対抗する物だって無い。
今のセシリアは、少し精神が早熟でそこらの大人にも負けない膂力を持つ子供。
知識も権力も伝手も何もないただの子供に、大人で専門の人間すら匙を投げる事に何が出来る。
自分がただの子供だと否が応でも再認識してしまい、苛立ちだけが募る。
必死で頭を働かせる。
前世の16年間で得た知識と知恵を、今世の10年で身に付けた経験と思い出を必死で呼び起こして、何か、何かないかと。
「……冒険家…」
ふと、脳裏によぎった言葉。
前世の創作物でも多く出て来たその職業。
夢を追い、人類が踏み込む事の出来ない領域に足を運び、神話の中にしか出てこないような化け物や道具を求める人々。
前世で読んでいた創作物の中にも度々出て来た、あらゆる病や傷を治す万能薬。
もしそんな物があるならマリアを救えるのでは。
夢物語だろう。だが、今のセシリアにはこれしかなかった。
背後を振り返り、マリアが眠る治癒院を見据える。
「まってて、絶対に何とかするから」
弱いセシリアは要らない。
母を救う為なら何でもする。
絶望に浸りつつも、追い込まれた獣の様な執念を纏わせながらその場を離れる。
目指すは冒険家組合。
マリアを助ける為なら靴を舐めたって、無様に這いつくばったって身体を売ったって良い。
この命を捨てても構わないと思いながら、セシリアはふらふらと歩み出す。




