甘美な絶望
月明りだけが照らす中、大通りと裏路地を隆起した土の壁が塞いでいる。たった一枚、高さもそれほどでもない、大人なら手を伸ばせば乗り越えられる程度。
そんな土壁の下で女性が倒れ伏している。
雲から月が顔を出し、淡い光が其処を照らすと、女性の蒼銀の髪がまるで星の様に煌めく。
しかし美しさとは別に女性はまるで愛玩動物の様に、片脚を土壁に挟まれ、ナイフを構えた露出の多い女に頭を踏みにじられている。
「ほら、セシリアちゃんを助けたいなら早くしな」
にやにやと嘲笑う女―ダキナ―に、女性―マリア―は傍にいる愛娘であるセシリアを一瞥する。
セシリアは顎を蹴り上げられ気絶してるのか、目を瞑っている。
それだけが、命ある事だけが確認できて安堵し、マリアはワンピースの袖に手を掛ける。
まるで人魚が岩場で休むかの様な姿勢で、ゆっくりとワンピースを脱ぐと、下品過ぎない豊満な、少女と女の中間の様なシミ一つない白磁の肌が月明りの元に晒される。
羞恥か寒さか、ほんのりと赤みが挿したその姿に、ダキナは感心したように口笛を吹く。
「凄い綺麗じゃん、子供を産んだ平民とは思えないや。もしかして元貴族様とか?」
「………」
きゅっと唇を結んだマリアの反応に気を悪くした素振りも見せず、ニヤニヤと笑い続ける。
「何してるの? 早く脱ぎなよ」
「……脱ぎました」
マリアはその言葉が何を指しているかわかってはいたが、せめてもの抵抗としてとぼける。
そんな些細な抵抗すら楽しいのか、しゃがんでナイフをその肌に擦り付ける。
冷たい、肌に刺さる鉄の感触。
ほんの少し角度を、力を込めれば激痛が襲い掛かる凶器。
震える身体を抑え込むマリアに、態とゆっくりと、撫でつけ、下に滑らせる。
「ダメだよ抵抗しちゃ、悪い子にはお仕置きするよ?」
「っ!」
ナイフの先には眠るセシリア。今ここでダキナが手を離せば、ナイフはセシリアの心臓に突き刺さる。
マリアは震える身体で、胸を覆う下着に手を掛ける。
「ひゅーすっごいおっぱい。これで娘を育てたの?」
「……」
「答えろよ」
「っ! ……そう……です」
恥ずかしさで顔を逸らすマリアを、ダキナは睨みつける。
満足のいく反応が返ってくると一転して嗤う
「へー、じゃあ娘を生んだ其処も、早く見せてよ」
「……」
「ちっ」
反応の悪さに苛立つ。
この状況で操でも立ててるつもりか? しつこいのが嫌いなダキナは面倒くささが勝って、一瞬このまま殺そうかと思ってしまう。
本当はもう少し遊ぶつもりだったが、面倒くさくなって予定を早める。
マリアの耳に空気を切る音が届く。
一拍遅れて、それがナイフを振った音だと気づくと、太腿に強烈な熱と痛みが走る。
「あっ! つ!?」
ナイフによって下着を縛っていた部分が切られ、形の良い側臀部に真っ赤な一文字が走り血が溢れ出して来る。
「あたしさぁ、しつこいのもめんどくさいのも嫌いなんだよ。物事は基本的にぱっぱぱっぱと行きたい訳、分かる? だからあんまりじれじれしてると……殺しちゃうよ?」
「ひっ!?」
傷口を脱いだワンピースで抑え、真っ白なワンピースが血に染まっていくのを眺めながら、耳元で囁かれた悪意に脅える。
そんなマリアの反応に気を良くしたダキナは、後方にいるロンに魔法を解くよう命令する。
ロンが何かを呟くと、淡く発光し地鳴りと共に壁の一部、マリアの脚を挟んでいた部分が開き解放される。
「さてと、どーしよっかなー」
足が解放されたマリアは、直ぐにセシリアの傍に這いずり片膝を立てて抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫。お母さんが絶対に守りますから」
「……お……かぁ……さん? っ!?」
肌に伝わる温もりに目を覚ましたセシリアは状況を思い出し身体を起こすと、脚から血をダラダラと流す母の姿に悲鳴を上げる。
「お母さん!? ち、血が!!」
「大丈夫です、傷は浅いですから落ち着いて下さい」
マリアは、涙目になりながら詰め寄るセシリアを落ち着かせる。その姿は絶望的な状況にも関わらず折れていない。
「起きちゃった? 寝てた方が幸せだったかもしれないのに」
「お前! お母さんに何を!」
「やめなさい!!」
「おか…さん?」
怒りに歯を剥いて、ダキナに詰め寄ろうとしたセシリアは大声を受け狼狽える。
「そうそう、子供を窘めるのは親の仕事だよ……ねぇ!!」
「うぐっ!」
「お母さん!」
セシリアに迫るダキナの豪脚を、マリアがセシリアを抱き込むことで代わりに受ける。
母越しに伝わる衝撃に悲鳴を上げて、マリアの腕の中で拘束を解こうと悶える。そんなセシリアをマリアは、背中を蹴りつけられながら絶対に離さない様に固く抱きしめる。
「いつまで持つかなぁ? ほらほら、どんどん重くなるよ?」
「っ! っぐ!! がぁ!?」
「お母さん! 止めて! お願い!!」
音が鈍くなり衝撃が強くなる。
背中を踏みにじられ、脇腹を蹴り上げられ、骨がきしむ音が響き肺の中の空気が吐き出されようとも、決して抱きしめる手を緩めない。
寧ろ強くする腕の中で悲鳴が上がる。
その悲鳴に、甘い快感が背骨を伝わり頬を高揚させながら、恍惚とした表情をダキナは浮かべる。
「可愛い悲鳴……最っ高……」
ひときわ強くマリアの背中を踏みしめて快感に身悶える。月を背にしたその姿は狂気すら浮かび、恐怖を呼び起こす。
「もっと聞かせてよ、可愛い悲鳴を、さ!!」
「あぁっ!!」
「いやぁっ!」
手にしたナイフを大きく振るとマリアの美しい背中に赤い線が走り、まるで天使の翼の様に激しい鮮血を上げる。
その血を浴びながら、ダキナは手に残る柔らかな肉を割いた感触を楽しみながらナイフに着いた血を舐めとると、満足そうに目を細める。
「お母さん! おかあさん!!」
「だい……丈夫です……お母さんが守りますから」
「いや、いやぁ! お願いします!! 止めてください!」
悲鳴をBGMに、ダキナは上機嫌に鼻歌を歌って見下ろす。
セシリアの悲鳴には弧を描いたまま答えない。ただ火照った身体を冷ますかのように黙している。
「おい」
「あ? なによ邪魔しないでよ」
水を差され殺気すら飛ばしながら睨みつけるダキナに、ロンは冷や汗を流しながら生唾を呑む。
「こっちに誰かが近づいて来てる、まっすぐだ。地面から伝わる感じだと4人はいるぞ」
「っち、会敵予想時間は?」
「おおよそ2分」
「なら、最後の仕上げだけやっちゃおうかしら」
土魔法を使えるロンは地面から伝わる衝撃から、邪魔者の存在を伝える。
ダキナは予定を繰り上げ、腰の背嚢から細長い針の様な物を取り出す。
「ほんとは持ち帰って色々楽しみたいけど、今ちょっと立て込んでてねぇ。だ・か・ら、セシリアちゃんへ私からのプレゼント」
まるで飴でも投げ渡すかのような気軽さで、投げられた針はマリアの背中に突き刺さる。
「うっ!?」
針が刺さって暫く、意識を失うマリア。
「これはね、バジリスクの胆嚢から抽出された毒を塗り込んだ貴重な一品なの。他にも色々混ぜ込んでるけど、一番の効果は石化」
「せき…か?」
マリアの拘束が緩んだ事で、身を起こしたセシリアはその背を確認する。見れば針が刺さった所を起点に徐々に肌が鈍色に変わっていく。
「ゆーっくりと、何日もかけて段々と身体が石になっていくの。最初は身体が鈍くなるだけなんだけど、徐々に肌が硬質化し血が鈍り、筋肉が動かなくなると後はもう病床の人」
「嘘…」
震える声で呟く。
一息に死ぬでも無く、徐々に自分の身体が動かなくなっている絶望を味わわせる言う言葉が、一言一言が心に暗雲を重ねる。
「あ、でも安心して? あたし達は明日にはここを発つから、暫くは会うことは無いかもね」
「待って! ……待ってください……お母さんを…助けてください」
身体を揺する事も出来ず、ただ手を添えて無力感に苛まれていたセシリアは踵を返そうとするダキナの背に、悲鳴混じりの懇願を上げる。
演技がかった仕草で振り返るダキナは、嗜虐的な笑みを浮かべて。
「あら? それが人に物を頼む態度?」
「……お願いします……お母さんを助けてください」
膝をつき地面に額を押し付けて懇願する。
何もできない無力感と絶望感、敗北感も屈辱も感じる余力も無い。
ただ母を助けたい一心で懇願する。
失いたくない、もう何も失いたくない。幸せな日常も愛しい母も、今度失ったら自分を保てないと自覚している。
母の死を幻視しただけで、足元が崩れ落ちる様な喪失感に襲われる。
そんなセシリアに見せつける様に、ダキナは地面に液体が入った薬瓶を置く。
「貴重な毒だからねぇ、当然解毒薬も希少なの。高いし、早々手に入る物じゃない」
「あっ!?」
「だから簡単にはあげられないのよねぇ」
それを取ろうと手を伸ばしたが取り上げられ、虚しく空を切る。
「お願いします!! 何でもしますから! それを!!」
「おい! 来たぞ!」
ドタバタと足音が聞こえ、ロンが声を上げると名残惜しそうにダキナは一歩下がる。
「欲しかったら取ってみなさい」
「あ……」
ダキナは後ろに下がりながらビンを放り投げる。
宙に浮いたビンを手に取るために、セシリアが腰を浮かせて手を伸ばす。
あと少し、あと少しで手が届く。
「ダーメ♪」
悪魔の声と共に目の前で、ビンが乾いた音を立てて破裂する。
ダキナの投げたナイフが宙に浮くビンを迎撃した。飛沫が飛び散り、希望が断たれる。
「あ…あぁ……!」
地面に散らばった破片や薬液を震える手でかき集める。
しかしそれは虚しく隙間からこぼれ落ち、破片が手に刺さって血が滴らせながら寂しく残った水滴と破片だけを握りしめる。
「あぁ、その顔! 最高!! 目の前で希望が潰えて絶望に染まるその顔! 濡れるわぁ……はぁ。それじゃ、またねセシリアちゃん。貴女にまた会える日を楽しみにしてるわ」
ダキナは恍惚とした表情を浮かべながら宵闇の中に姿を消す。
それと入れ違いになる様に背後の土壁が音を立てて崩れ、衛兵であろう男達がなだれ込んでくる。
「大丈夫ですか!? 悲鳴があったと通報があって来たんですが……っ! 大丈夫ですか! 酷い……急いで治癒士の元へ!!」
衛兵たちはただならぬ状況に顔を強張らせ、裸で倒れ込んで背に針を刺すマリアを慎重に運び出す。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
衛兵に話しかけられても、セシリアは呆然と薬液が飛び散った地面を見つめる。
どれだけ話しかけられても、まるで屍の様に生気を失った目で。
セシリアは衛兵に抱きかかえられ、その腕の中で意識を失う。
深い深い暗闇の中に。




