甘い匂い
青々とした大空が遠くの方から黒く淀んでいく。魔界の空気がこの世界にはとっての毒の様にゆっくりと広がっているのだ。見ているだけでも不安になる淀んだ空の色は、この世界の滅びが迫っているのだと恐怖心を煽られる。
「セシリアちゃん、何作ってるデス?」
「皆の移動用の装備と、私の新装備」
「ほぇ~」
そんな事はまるで気にした様子も無く、空飛ぶ戦艦こと空中要塞移動都市・ノアの発着場は戦いの前の賑わいを見せていた。
身ぎれいな格好に着替えたセシリア。黒のYシャツに緩く垂らした真紅のネクタイ、黒いスキニーパンツに脛まで覆うブーツ。そして黒のロングコート。
これまたまぁ中二病スタイルな恰好ではあるが、故郷で冒険者家業をしていた頃の仕事着を見つけたセシリアは真っすぐにこれに袖を通していた。
黙々と真剣な様子で工具を手に作業をするセシリアの横で、灰色の狼尻尾をゆらゆらしながらほげーっと見つめるヤヤも、新しい服に着替えているが元のスタイルのまま。
黒いTシャツの上に胸元までの丈のジャケットを着て、快活さの象徴であるホットパンツからはスパッツが覗いている。幼い身体には不格好な大きなデザインの靴は彼女のお気に入りだ。
「よし、こんなもんかな。ヤヤちゃんちょっと乗ってみて。その窪みに両足を置く感じで」
「デスデス」
「そしたらちょっと魔力流して貰える?」
レンチを片手に額を拭ったセシリアは、ひと段落ついた装備をヤヤに預ける。
それは黒一色の塗装をした、一枚の板の様な物。先端にかけて細くなっているが、大人一人が横になっても丁度良いサイズで板の中央には足を嵌める為の窪みがある。
海で波に乗って遊ぶ、サーフボードと酷似したデザインだ。唯一違う点は、底の部分に魔法陣が刻まれている事。
言われた通りにボードの上に乗ったヤヤは、窪みに足を嵌めこみ魔力を軽く流す。
するとボードはゆっくりと地面を離れ、ふわりと浮き始めた。
「おぉ~! ヤヤ、浮いてるデス!!」
「さっき倉庫を漁ってたら見つけたんだ。『海に飽きたサーファーの次の波は空だ! 空中滑走用エアーボード!』だって」
「デス!!」
慣れていないからふらふらしているヤヤだが、山育ちの灰狼の運動神経は直ぐに慣れを見せ、危なげなく宙に浮いたエアーボードに順応を見せ真新しい装備に目をキラッキラに輝かせ尻尾を忙しなく回すようになった。
「ひゃっほーデース!!」
順応が早すぎて地面を滑る様に空中を滑空するエアーボードで周囲を駆け回り、周りで支度をする女神官達に悲鳴を上げさせながら歓喜の絶叫を上げて遊びまわる。
そんなヤヤを横目に苦笑を浮かべ、残りの人数分の空中用エアーボードの整備に戻った。
「魔道ブラスター出力制限・10%」
「にぎゃー!!」
周りの皆様を驚かせていたヤヤは、鼻先を掠める光線に驚くと奇怪な悲鳴を上げて墜落して茂みに突っ込んでいった。
光線の出所を見れば、突き出した右手の義手から排熱の煙を上げているフランがジトッとした目を感情の乏しい顔に張り付けてる。
「ヤヤ。危ない」
「あ、フランちゃん。新しい手足見つけたデス?」
「シスターズが持ってた古いのを修理した。それより、皆びっくりしてる」
「ごめんなさいデェス……」
茂みから顔を出したフランはぺたんと耳を垂らして謝罪すれば、フランは満足げに頷いた。感情の乏しい無表情のままだが。
そんな彼女の四肢は生来の物ではない。
金属と歯車によって出来た鋼鉄の四肢。しかもただの四肢ではなく、魔力を光線として撃ち出す機構を備えた魔道ブラスターという武器。
機械の四肢を持つフランの戦闘服は、肌にぴったりと張り付く服とも言えない黒い布だ。四肢の結合部で切れた胴体と股だけを覆うぴったりとしたそれは、高い隠密性と伸縮性を誇っている。些か刺激は強い見た目をしているが、フランにそれを気にした様子は無い。
落ち込むヤヤの頭を撫でながら、フランはじっとセシリアを見つめる。視線に気づいたセシリアと視線がかち合うが口を開く事は無い。
二人とも視線を合わせたまま、何処か見覚えはあるが思い出せないと言った内心の言葉を目に浮かべ、結局思い出せないままヤヤがフランの手を引いた事でかち合った視線がそれる。
「……」
「?」
「それじゃ、またデス! セシリアちゃん!」
「うん。またね」
フランは何も言わず目を伏せる様に会釈すると踵を返していった。何を言いたかったのか分からず首を傾げるセシリアに、二人分の足音が近づく。
「よっ」
「セシリアさん、こんにちは」
エロメロイとヴィオレットだ。
青肌に黒白目に浮かぶ真紅の瞳を持つ悪魔のエロメロイ。彼は黒髪の前髪を持ち上げ、パーカーに緩いズボンと言ったお気に入りの服装に身を包んで、軽薄さとも取れるへらへらとした笑みを浮かべて背中を軽く叩いた。
ヴィオレットも切れ長な瞳を優しく細め、肌を見せないクラシックなメイド服に几帳面に身を包んだ姿で、セシリアの手を取って再会の挨拶を分かち合う。
「お前が傷を治してくれたんだって? ありがとっしょ」
「挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。皆を助けて頂きありがとうございます」
口々に、心からの感謝を告げられたセシリアはむず痒さに何とも言えない表情を浮かべて頬を掻いた。
素直に感謝を受け入れるには、何もしていない。後からのんびり来て、傷を治しただけ。誰一人助ける事も出来なかったし、訳も分からないまま事態が進んでいったのを見続けただけ。
感謝を告げられる程の事をした覚えはない。
曖昧な笑みで頬を掻いたセシリアが視線をついと逸らしていると、背骨が軋むほどの衝撃が走った。
「ったぁっ!?」
「あ、わり」
痛みに顔を顰めながら、恨みがましく振り返ればエロメロイがへらへらと笑いながら手をぴらぴらと振っている。だがよく見れば、彼の目は一切笑っていない。飄々とした雰囲気で道化を演じながら、彼の魂には血と泥が染み付いてるのだ。冷ややかな目がそれを物語っていた。
ぞわりと恐怖が産毛を撫で生唾を呑んで強張るセシリアを他所に、エロメロイは整備が終わったばかりのエアーボードを手に取ると感心の嘆息を漏らした。
悪魔の目から見ても、上々な出来らしい。
「下らねえ事で腐んなよ。魔王様は、お前の父親は最後まで腐んなかったっしょ」
それだけ言うとエアーボードを持ったまま何処かへ去ってしまった。残されたセシリアとヴィオレットは、顔を見合わせる。
「彼なりの、激励だったんではないでしょうか」
「……だからって父親を引き合いに出すのは、逆効果でしょ」
エロメロイの言いたい事を理解しているヴィオレットは苦笑を浮かべて擁護したが、セシリアは思春期の娘の様にむすっとした表情でそっぽを向いた。
セシリアからすれば腐っているつもりは無いが、そう見えると言う事はそうなんだろう。認めたくはないが。
「セシリアさん」
呼ばれて顔を向ければ、ヴィオレットは真剣な眼差しで、膝を折って視線を合わせている。激励とも違う、身を案じる眼差しだ。
油で汚れたセシリアの手を厭う事無く取って額に当てた。
「死なないで下さい」
震える声で紡がれる、心からの願い。自分自身だけでなく、誰も彼もが死んだと覚悟をした戦いを終えた後だから、死と言う恐怖の余韻が残っている。それはスラム上がりのヴィオレットをしても声を震わせる恐怖だった。
「貴女が死ねば、お嬢様が悲しんでしまいます」
「そうかな」
「そうです」
気恥ずかしくてお茶を濁そうとしても、明確な言葉に逃げるのを許されない。ヴィオレットの目はそれだけは許さないと鋭く突き刺して来る。腐っても迷っても良いが、逃げるのだけは許さない。
そういう目が、セシリアの背筋を正させた。
「私はお嬢様の幸せを一番に願っています。その為には、誰も死んではいけないんです。お嬢様が大切にしている物も、友人も。皆が居て初めてお嬢様が笑えるんです」
それはセシリアの願いにも近い願いだった。マリアが幸せであればそれでいい、マリアが笑って居られる為に戦うセシリアの願いに。
そして、そこに自分が含まれていないのも。献身的なまでの愛する人への奉仕。それがセシリアのヴィオレットの共通点。違うのは、大人と子供な事。
「だから、死なないで下さい。私達全員が生きて初めて、勝ちと言えるんじゃないですか」
その言葉に、セシリアは答えられなかった。生きたくない訳ではない、死ぬつもりも無い。ただ、そこまでの自信を持てないだけだった。
それでもそれだけで充分と受け取ったのか、ヴィオレットは何も言わなかった。
「また、マリア様と一緒に4人でお茶をしましょう」
非礼を詫びる様に頭を下げ、立ち去って行った。
残されたセシリアは、握られた手のぬくもりを惜しむ様に握りしめると被りを振って作業に戻った。余計な事を考えるには、時間が足らない。次の作戦まで時間が無かった。
「……ただの理想だ」
いや、そう思いたくない強情な子供心が信じさせなかった。それを信じるには弱すぎた。勝利の経験の無さが、希望を抱かせる強さを与えてくれなかった。
雑念を払うように作業に没頭していたセシリアの耳に、呼び出しを示す単調な音が刺さった。
今セシリアの耳に納まっている小型の機械は、遠距離での会話を可能にする通信機だ。現代日本の記憶があるセシリアはそれが無線だと分かったが、この世界の人間には馴染みのない魔道歴の遺物の一つ。
この戦艦しかり、過去に見た実験施設しかり如何に魔道歴の文明度合いが高いかを垣間見て、感心するより以前に文明が発達した先は異世界も地球も変わりないなと呆れてしまう。
呼び出しに応えれば、通信機越しにマリアの声が聞こえた。
『セシリア。準備の方はどうですか』
「もう殆ど終わったよ」
『分かりました。こちらの準備も済みましたが……大丈夫なんですか? こんな作戦』
作戦と言われて頭を切り替える。今はこの作戦の事だけを考えなければいけない。その為に準備を進めているのだから。
心配そうな声のマリアに空元気で応える前に、ナターシャの気だるげな声とクリスティーヌの凛とした声が間に割って入る。
『大丈夫よぉ、その為の人選だからねぇ』
『それに、これが現状できる一番の最速で最善の策なのは確かですわ』
今から行う作戦。それは魔界からの侵攻が始まったこの世界を救う、救助作戦。
スペルディア王国にはヤヤとフラン。ローテリア帝国にはエロメロイとヴィオレット。そして勇成国にはセシリアが。
それぞれ戦場となる三大国にエアーボードで急行し、事態を最も深く知っている面々が向かう事で事態の安定化と戦況の統率を図り、恐らく既に戦場と化している首都での救助活動をする。
その後に、この戦艦で大規模な収容を行う。そういう作戦だ。
この作戦はセシリアがエアーボードを発見した事から始まり、クリスティーヌとナターシャが磨き上げた現状の最善手である。
救助活動という案は、一番最初に出て誰一人反対が出なかった。
「二人の言う通りだよ。それよりママの方は大丈夫なの? こんな大きい戦艦の操作なんて」
『え、えぇ。私の方は、船の操縦と言っても航路設定と速度調整位なので……あのナターシャさん、やっぱり私もセシリアと一緒に』
『それはぁもう話したでしょぉ、この船の力を使うにはぁマリア様が必要だってぇ』
作戦立案時は当然、一人になるセシリアと共にマリアが赴こうとしたが、他人がこの戦艦を動かすことは出来ても敵を倒す為の兵器を使う為にはマリアの存在が必要不可欠だと言われれば受け入れざるを得なかった。
力が無ければ、この戦艦はただ空に浮く鉄の塊に過ぎないのだから。
しかしどうしても心配が勝るマリアは、土壇場になっても受け入れがたい姿勢を見せてしまう。
「大丈夫だよ、ママ。まだ死ぬつもりは無いからさ」
『セシリア……』
そういう心配性な所は、愛されていると思えるからセシリアは好きだ。口元がにやけるのを頬の肉を噛んで抑えつつ、出来るだけ心配させない様に元気な声で答えた。
通信機越しのマリアは不安そうな声だが、鼻を啜る音の後によしっと意気込むと元気な声に変わる。
『分かりました! セシリアが現場で一生懸命頑張るなら、私もここで出来る精一杯をします!』
明るく前を向くマリアの姿を脳裏に過らせ、成長を垣間見た喜びに包まれる。
以前までのマリアなら常に後ろ向きで、一歩下がった所から見送る性格だった。負い目からの消極的な姿勢が際立っていたが、一皮剥けたと言うか元の性格に戻ったと言うか。
「強くなったね」
『はい? すみませんセシリア、丁度ノイズが入って聞き取れなくて』
「うぅん、こっちの話」
環境だけでなく、心まで変わってしまった物だなと他人事の様に思えてしまった。喜ぶべきなのに、何処か胸に寂しさが過る。これが子供の成長を見送る親の気持ちなのだろうか。
(イヤだなって思うのは我儘だよね)
そうあってほしくないと思う気持ちは、頭を振って払った。それはいけない事だ。成長を妨げ、ずっとそばに居て欲しいと言う気持ちは何時か歪み、最終的に狂ってしまう。
そうなってしまった人を見て来たから、そういう気持ちを否定した。
『そろそろ勇成国の首都が見えてきます。改めてセシリア、準備は良いですか?』
どうやら暢気におしゃべりしている時間は終わったらしい。ここからはセシリア一人で強襲し戦わなければいけない。
準備が終わった証拠に工具を放り、懐のリボルバーを確かめ身体の調子を整える。
エアーボードに足をかけ、新しい二つの武器を手に取った。
「何時でも」
全長20㎝。最大重量10㎏。長距離での狙撃ではなく頑強な装甲を貫き破壊する為の弾を撃ち出す、対戦車ライフルを両手に担ぐ。
アイアスが遺した銃をセシリアが改造したのだが、兵器とも言える武器を使えるのはセシリアだけだ。
銃を手に外を見下ろすと遠くに巨大で美しい湖面の上に建つ勇成国の首都が見える。だが嘗ての美しさは鳴りを潜め、今や黒煙と血潮に塗れた戦場の中心地になっているそこに、今から向かわねばならないのだ。
恐怖と緊張を鎮める様に深呼吸し、己の成すべき事だけを考える。
戦争なんて大っ嫌いだ。戦う事も嫌いだ。痛い事だっていつまでも慣れない。自分が死ぬ時のあの足元から這い上がってくる悪寒と喪失感は、思い出そうとするだけで身体が震えてくる。
「世界とかそういうのはどうだっていいんだ」
だけど、戦わなければ大切な人も物も守れないと言うのなら。
「でも、もう一度会いたい友達がいる」
再び親友と出会い、仲直りする為なら。
「もう少しだけ頑張ろう」
自分と言う人間を嫌いにならない為に、本音を心の奥底にしまい込む。
『ミスセシリア。これは貴女だけにお話ししますわ』
エアーボードの整備をしたのはセシリアだが、サーフィンの経験はない。地面に浮くボードの感覚には慣れるまで時間が掛かりそうだ。ふらふらとボードの上で姿勢を整えながら、クリスティーヌの話に耳を傾ける。
どうやら秘密の話らしい。他の面々には通信が入った様子は無い。クリスティーヌの声は低く、重要な話らしい。
『本作戦は救助活動が主ですわ。それぞれに渡した手紙が、各国王室への通行証明となりますの。ですが、既に戦線は開かれている可能性が高いですわ。その場合は、最優先で王太子イングリッド・ブレイディア殿下を救いなさい』
話を聞いてセシリアの眉間に皺が寄る。それは雑多な平民より高貴な血を優先しろと言う意味なのかと勘繰って黙ったのが伝わったのか、クリスティーヌは含む様な笑みの声を漏らした。
『選民思想からの要求ではありませんわ。勇成国の王太子は300年前の人と悪魔の大戦を終わらせた勇者の血筋を引く、英雄の末裔。既に二度目の大戦が起こった現状、旗印が必要なんですわ……だから』
「あぁうん。分かったよ」
別にそれが嫌だななんて思っていない。そんな風に詰る程、世の為人の為に生きている訳では無いのだから。どちらかと言えば、見殺しにしろと言われた風に感じて少しイラついただけで、そういう理由ならそうなんだろうと思う程度には興味が無かった。
最後には弱弱しく、言い訳がましい理由を並べる自分を嘲る様に喋るクリスティーヌを遮って、承諾する。そうすれば、通信機の向こうのクリスティーヌから安堵のため息が漏れ聞こえた。
「でもあんまり期待はしないでね。確約出来る程、強くは無いんだから」
『充分ですわ。お願いしますの』
期待に応えられる程の自信の無さでそう答えたが、クリスティーヌは微塵の躊躇いも無くお願いと言った。それはセシリアを信じているが故の、芯の通った信頼の声。
クリスティーヌは嘘はつかない。
自らの矜持に従い、己の道を進む。何処までも真っすぐで眩しい存在だから、そんな彼女が全幅の信頼を以てセシリアを頼る期待は、重たかった。
「それじゃ、行ってきます」
背中に圧し掛かった期待の重さにため息を零したいのをぐっと堪え、地上へ向けて一歩を踏み出す。
大空の中へ飛び込んだセシリアを迎えたのは、強烈な風と胃が浮くような浮遊感だった。落下の圧よりも地上へ落ちるセシリアを押し留めようとするような強烈な風の圧が、エアーボードなど無くとも空を飛べそうな気はするが、現実は刻一刻と地上の様子が鮮明になっていく。
暫くは自由落下に身を任せ、恐怖に暴れ狂う心臓を意識的になだめ続ける。
まだだ、まだ早い。今エアーボードを起動したのでは強襲の意味が無くなってしまう。安全よりも、速さが優先された。
二度目の高高度からの落下なのが幸いし、まだ幾分かの余裕は保てた。それでも、徐々に鮮明になっていく勇成国の首都の惨状を前にすると、それも剥がれていく。
「甘い匂いがする」
勇成国の首都から上がる黒煙に混じった匂いが、無意識にエアーボードを起動させた。垂直に落下していたセシリアの身体が、エアーボードの機動力が生まれた事によって減速し空気を波として首都の上を滑る。
悲鳴はそこかしこから聞こえる。だがそれ以上に、もう二度と嗅ぎたくないと思った甘い匂い。人が焼けた時に感じる、特有の匂いが充満していた。
これを嗅ぐのは二度目だ。故郷で燃え盛る教会の中に飛び込んだ時、地下に避難していた子供達の死体を前にした時に感じた、死の匂いがここにも沢山ある。
見渡す限り、生存者の姿は見えない地獄が眼下に広がっている。
もう避難をしている余裕は無いと大通りを眼下に、エアーボードで空を滑るセシリアの目には沢山の死体と、それを貪る化け物の姿を捉えた。
「魔獣じゃない。スペルディア王国で見た、化け物だ」
首都を襲っているのは獣や魔界の住人ではない。スペルディア王国にて大量に現れた、人の身体を繋ぎ合わせた化け物。それがゾンビの様に徘徊し、さっきまで生きていた住人を貪り、次の生者を求めて彷徨っている。
助けたいと、助けないととセシリアの中の良心と正義が訴えるが、クリスティーヌの言葉を思い出して目を逸らす。自分の力量は分かっている、ここで苛立ちをぶつける様に化け物を殺した所で、自分のこの苛立つ気持ちを慰めることしか出来ない。
目の前の全てを守り救うなど、セシリアには不可能だった。
本当に、心の底から自虐と共に幸いだったのは、生きている人の声が耳に届かない事。もし、助けを求める声が耳に入ってしまえば、酷い罪悪感に苛まれていただろう。
だから、遠くから聞こえる悲鳴や戦闘の音を無視して、真っすぐに高く聳え立つ王城へ飛び込んだ。そこからは戦闘の音が、少年の絶叫が聞こえたから。
最も分かり易い助けを求める声に縋って、後ろから聞こえてくる音を振り払って。
荘厳なステンドグラスを突き破って、セシリアは勇成国の王城の中に飛び込んだ。だが彼女の目に映ったのは、立った二人の人の姿だけ。
血だまりに倒れ伏す狐の尾を持つ少年の背中と、それを見下ろし血濡れた剣を携える金髪の男の姿。
「君は!?」
血濡れた剣を持つ男アレックスが、ステンドグラスを突き破って現れたセシリアに驚愕の声を漏らすが、それに対するセシリアの返答は両手に持つ対戦車ライフルの激発だった。
地の底から響くような二発の轟音。空間すら歪ませる衝撃を持つライフルの二発の弾丸を、アレックスは飛び退いて躱し土埃が舞う。
エアーボードの上で射撃したセシリアの身体は、衝撃に空中に投げ出されるが危なげなく両足で着地するとその勢いのまま倒れる狐尾の少年——勇成国の王太子・イングリット——の身体に触れ、まだ息がある事を確かめるよりも先に【正常な状態に戻す魔法】を使った。
「……っ! 傷が……あ、貴女は」
「勇成国の王子だよね、クリスティーヌさんに言われて助けに来た」
「クリス、叔母様が」
お互い初対面ではあるが、悠長に挨拶をしている余裕は無い。イングリットは短い返答を信じ、再び立ち上がった。
敵が目の前に居て、それが世界最強の勇者の呼び声を持つ男なのだから。
互いに武器を構え、向かいに佇むアレックスに戦意を見せる。
「まさか、君が現れるとは……」
土埃が晴れた向こうには、アレックスが驚いた様子で立っている。だが傷一つなく、驚いた声を出した癖に、その表情は無気力な陰に覆われていた。
長い付き合いでもないが、開口一番に告白された記憶のあるセシリアはかつての面影とは一転したアレックスに訝しみつつ、この騒動の元凶だと理解し懐かしさよりも先に銃口を突きつける。
「あれ、この国の騎士で勇者なんでしょ。敵って事で間違いないんだよね」
「はい。アレックス殿に何があったのかは分かりません。ですが、彼を止めなければいけない。協力して、くれますか?」
「その為に来たんだよ」
互いにアレックスから目を逸らさないまま、共同戦線を結ぶ。それだけが、この惨状を納める最善の手だと信じて疑わないから。
堕ちた最強を前に、二人の身体は震えていた。だが、決して目だけは逸らさなかった。