曖昧な境界線
魔王城から空へ伸びる光が、空を切り裂く。遥か彼方まで伸びるそれは異なる次元への道を開いてしまった。
空が黒く染まり、太陽すら呑み込んで異なる次元の空に移し替えた。真紅の月が顔を覗かせ、不安と狂気がこの世界を浸食する。
魔王城はこの世界と、もう一つの世界が決して相容れない様にする鍵の役割を果たしていた。固く閉ざし開かないようにする鍵として。だがしかし、オフィーリアによってその鍵は閉じる為ではなく開く為として使われ、300年前に起こった悲劇が再びこの世界に呼び戻される。
即ち、悪魔の世界と人類の世界が繋がってしまった。
「うわぁぁぁ!! 落ちてる! 落ちてるよぉぉ!!」
「セシリア! 私に掴まって下さい!」
「あはーはーはーはー! また凄い所に来ちゃったー!」
その最中、悪魔の世界を映す空から落ちるかの様に三人の女が空中に現れた。
蒼銀の髪と悪魔の証明である真紅の瞳を持つ、異世界から母親の愛情を求めて生まれ変わった少女セシリア。
魔王と元天使の血を分け与えられ、ただひたすらに母親が好きで好きで仕方なくて、だけど大切な家族や思い出を尽く奪われ続けた所為で、一時は自らの身体に流れる魔王の力に翻弄されていた。
母親の献身と、魂の中に根差した生まれる事の出来なかった姉と父親の助力で、今は元の人格を取り戻している。
同じく蒼銀の髪と真紅の瞳を持つ、セシリアの母親であるマリア。
彼女もまた神の世界を捨てて悪魔と愛し合った所為で、天使の資格をはく奪され人間へと堕ちた女。嘗ては非力な普通の女性だったが、愛娘への愛と過去の後悔を乗り越え戦いの果てに漆黒の翼という力を手に入れ再会を果たした。
そしてそこにこびり付くのは、褐色の肌にさび色の短髪でチシャ猫の様な意地の悪い笑みを常に浮かべる、両手が義手の女、ダキナ。
この女はセシリア、マリアの怨敵と言っても過言ではない。二人の育ての祖父母を殺すだけでは飽き足らず、友人すら奪った。更には何度も敵として現れ、と思えば味方として力を貸し、だがしかしまた裏切る。
構って欲しくて悪戯をする子供の様に、二人にちょっかいをかけ続けて敵だか味方だか分からない立ち位置に居る。
そんな三人は、少し前まで全く別の場所で戦いを繰り広げていた。
オフィーリアという少女は、セシリアの前世での親友であり深い愛情と依存を持った少女だ。そんな彼女がセシリアを奪い去り、誰も居ない二人だけの世界に閉じ込めていた。
しかしそれを許せないマリアが、決死の覚悟で取り返しに向かうもダキナの協力と裏切りによって、魔王の力に呑まれたセシリアと堕天使の力に呑まれたマリアの激しい戦いが起こってしまう。
最終的には、二人は互いの魂のぶつかり合いによって正気を取り戻し無事に再会を果たすも、完全に心が壊れてしまったオフィーリアは世界を滅ぼす宣言を受け仲間と合流を目指した。
ダキナの助力もあって、空間を歪ませて移動したオフィーリアの後を追う形で、同じく空間を歪ませて後を追った筈だが、蓋を開けてみれば超高高度からの大胆不敵な登場となってしまった。
「くっつくな! あっちいけ!」
「いやだよー! 離れたら死んじゃうもん!」
「死ね! 大体お前の所為でこんな事になってるんでしょ!? な~にがこのダキナちゃんに任せて頂戴よ! 何をどうやったらこんな空の上に繋がるのよ!」
「さぁ? なんか引っ張られる感じだったけど」
「暴れないで下さい! 二人も抱えて飛べる程、この翼は万能じゃないんです!」
この場で唯一翼が生えている人間は、マリアだけだ。
堕天使さながらの黒翼を生やすマリアに、セシリアとダキナは抱き着くが武器としての用途が主な黒翼は滞空する事は出来ず、減速しながらの垂直落下で地面へと迫る。
少しずつ逆撫でる髪が落ち着き、呼吸が出来る様になってくる三人は周囲を見る余裕が生まれ、状況に驚愕する。
「何これ……城から光が空に伸びてる。ていうかこの空、私の中の悪魔の記憶で見た空だ」
「赤い月。まさか、魔界とこの世界が繋がってしまっている……?」
「な~る。そりゃ空間を跨いだ移動が引っ張られる訳だ。こんな世界規模の空間の変動があれば、そっちに流されてもおかしくないか」
「感心してる場合か! ていうかなんか来る!」
魔界と繋がりが出来てしまった事は分かった。だがここにはそれだけでは無く、これを起こした敵が居る。
空から落ち続ける三人に向かって、飛行型の化け物が迫った。天使の翼の様な物を生やしているが、四肢の生えたヒルの様な化け物だ。穢れを知らない純白の翼では隠せない、醜悪な本性を形にしたような姿形。
長い首を伸ばし、顔の役割を持つ口から鋭い牙を剝き出しにして狙いを定めた。
それが十体近く。
初めて見たならば常識の外にある化け物の姿に、頭が真っ白になるだろうが彼女たちは違う。
修羅場を潜り抜けて来た彼女たちにとって、この程度は故郷の森を縄張りにする魔獣に比べれば怖くも無い。
それに初めてですらない。種類こそ違うが、製作者の性根の腐り具合が透けて見える異質な化け物は、王国で飽きる程に見て来た。それこそたった一夜で一生分と言える程に。だから肌で察した。こいつらも王国で見た化け物と同じだと。
「ダキナ」
「りょ」
先ほどまでの落下の狼狽えは一瞬で鳴りを潜め、戦士の顔つきに変わる。マリアにしがみついていたセシリアとダキナは、躊躇い無く迫り来る化け物へ向けて互いに、愛用の武器を手に空の最中へと飛び込んだ。
「弾があんまりないな」
セシリアの武器は純白のリボルバー。50口径炸薬徹甲弾を専用とする、5連装リボルバー。
少女の手には有り余るゴツい銃は、セシリアの為だけに作られた一つだけの銃だ。
凶暴な魔獣と渡り合う為の威力に耐えうる耐久性、長距離の射撃を可能にする機械時計の如き正確性、素早い再装填の為に限界まで削り落とされたチャンバーは片手一本で排莢と装填を可能にする。
破壊力と貫通力を兼ね備えた50口径炸薬徹甲弾を素早く装填したセシリアは、静かに化け物を睨みつける。その表情には空の上に居る恐怖なんて微塵も感じない。
「あはー! セシリアちゃんと共闘だー!」
ダキナの武器は両腕の鋼鉄製の両手義手だ。ただの腕ではなく、図太い杭を撃ち出すパイルバンカー内臓の義手。燃焼石の激発を利用して杭を撃ち出す。それだけ。だが単一の効果に絞ったそれは、鋼鉄すら打ち砕く威力と貫通力を誇る。
シンプルが故に、強力な武器だ。
静かに敵意を見せるセシリアと逆に、ダキナは楽しそうにチシャ猫の様な笑みを深めて高らかに笑い声を上げる。
「勝負しよ! 勝負! どっちが多く倒せるか!」
「うっさい。黙って働け」
「えー? 敗けるのが怖いのー?」
「あ“? 上等だよ」
安い挑発に簡単に乗るセシリアは、先手を譲る優しさなんてダキナに持ち合わせている訳も無く、先制の激発を奏でる。
空中でも狙いはブレない。両手でリボルバーを身中に構え、照準に化け物の一体を捉える。ふぅっと浅く息を吐いて狙いを済ませ、引き金を引いた。
落雷にも等しい轟音を上げ、並みの成人男性でも肩が外れかねない衝撃を並外れた膂力で抑えて放たれた50口径炸薬徹甲弾は、吸い込まれるように化け物の口の中に着弾した。
まるで風船が割れる様に、化け物の身体が弾け飛ぶ。その余波は周囲の数体すら巻き込んで地面に汚い染みを作った。流れる様に次へ狙いを定め、残りの4発全てを撃ち込む。
5ポイント先取。セシリアはドヤッと笑った。
「あはー、負けず嫌いで可愛い~」
後攻でダキナが動いた。後方に居るマリアを肩越しに一瞥する。当人からすればはなはだ不愉快極まりないが、それだけでダキナが何を求めているかマリアは察する。
黒翼をはためかせ、大量の黒い羽根を撃ち放つ。だが狙いは化け物では無く、ダキナの前。
黒い羽根はそれだけで岩すらも砕く威力を持つ。普通の羽根とは違うそれは、空中に於いてダキナの身体を一瞬ささえる事を可能にする。
黒い羽根を足場に、階段を数段飛ばしで登る様に化け物との距離を一気に詰めたダキナのニヤケ面と化け物の鼻先が擦れた。目の前に狂気すら感じる女のニヤケ面を突きつけられ動揺した化け物に、顎から脳天へ突き抜ける杭が突き刺さった。
一体倒したのを起点に、その死体を足場に次へ向かいながら肘を捻って流れる様に新しい杭を装填。
左右から挟撃を仕掛ける化け物に、両手の平を向けて杭を撃ち放つ。燃焼石の粉塵が爆ぜ、火花を散らしながら杭が化け物の顔面に突き刺さる。深く抉る様に突き刺さった杭は骨も筋肉も削りながら化け物の身体を突き抜ける。
3ポイント。残念ながら他の化け物は周囲には居ない、勝負はセシリアの勝ちだ。
「はっ」
「ぶー、その武器ずるくない?」
「遊んでいる場合じゃないですよ。城を見て下さい」
勝ち誇るセシリアと唇を尖らせるダキナを、マリアが素早く回収し再びなだらかに空を降りる。
目下の敵は倒したが、よくよく見れば魔王城の周囲には夜灯に群がる羽虫の様に化け物が蠢いている。あれを全て倒すのは、流石に無茶が過ぎる。
何か突破口は無いかと広く探していると、巨大な湖の中央に鎮座する魔王城の傍の湖面から、巨大なスロープが伸びている。何か巨大な何かを発射する為のスロープは魔王城の地下から伸びている様で、少なくとも化け物が群がる魔王城に直接乗り込むよりはマシな入り口に見えた。
「ママ! あそこ、あそこから入れるかも!」
「分かりました。一気に降ります、しっかり掴まっていて下さい」
進む道を見つけたマリアは、湖を割って伸びるスロープへ向けて急降下を始める。
魔王城を取り囲む化け物に囲まれない様に、滑り込むように一気に湖面の割れ目へ飛び込んだ。
飛び込んだ先は下手な田舎の村一つ入る程に広い地下格納庫。この世界の文明度合いには似ても似つかない高度な文明が窺える地下格納庫では、一隻の戦艦が今まさに空へ飛び立つ為の唸り声を上げていた。
だがその戦艦もまた、地上に比べれば少ないとはいえ化け物の侵攻を許している。とはいえど強固な作りの装甲は傷一つ作られる事は無く、頼もしくそこにある。
滞空しながら、それを見下ろす三人は圧倒的な存在感に視線を奪わる。
「これ、何?」
「さぁ。マリアちゃん知ってる?」
「話には聞いた事があります。これの正式名称は——空中要塞移動都市・ノア——もし、国が滅ぶ時に無辜の民を逃がす為に作られた、第二の国です」
兵器ではなく、民の為に作られた新しい国。それこそが、この巨大な戦艦の本当の姿だ。
魔王ファウストは魔界にて、虐げられる悪魔達に安心して過ごせる場所を与える為に国を興した。300年前に起こった人類と悪魔の戦争も、人類側の最高戦力の勇者と密命を交わし人類と悪魔の混迷極まる戦争を終わらせる為に秘密裏に動いた。
この魔王城だって、再び戦争が起こらない様にする為の城。ナターシャとエロメロイという魔王の忠臣は、魔王の意思を汲んで二度目の戦争を回避する為にこの世界に来た。
それはただ同胞を守っているだけでは得られない信頼。他などどうでも良いと切り捨て、自らの国民だけを守る王であれば、異世界の騎士はここにはいないだろう。
「優しい……王様なんだね。パパは」
「はい。夫は、優しい人です。人の痛みを分かち合える……愛おしい人なんです。セシリアの困ってる人を見過ごせない所は、夫譲りかもですね」
「言う程かなぁ」
「そっくりですよ。決して逃げない所も、絶対に助けに来てくれる所も」
「……」
セシリアに父親の記憶はない。生まれる前に袂を分かってしまったのだから。だけど、セシリアの身体には魔王の血が流れているし、魂には思いが残っている。
精神世界で出会ったあの男性は、不器用ながらも安心する暖かさを感じた。マリアとのんびり日向で寝ころんでいた時の様な、ぽかぽかとした微睡みを誘う優しさだ。
ドンッ! ドンッ!
懐古に浸っていた二人は、突如響き渡った轟音で現実に引き戻された。その音は紛れもない銃声であり、この世界において知る限り銃を持っているのはセシリアを除いて一人しかいない。
「銃声!?」
「船首からしたわ」
「師匠だ!」
「行きま——きゃぁっ!?」
漸く見つけた仲間の気配に色めき立った三人だが、飛び込もうとしたその時に船首の方から伸びた触手が三人を絡み取って引っ張った。
中に引きずり込むのが目的だったのか、触手の拘束は外れて抵抗する間も無く引きずり込まれた三人は、何の準備も無く敵のど真ん中に放り込まれしまう。
「ママっ!! 大丈夫!?」
「っつ……だ、大丈夫です……」
「あはー。こっちも心配して欲しいにゃー」
ばらばらに転がった三人だが、幸いにして目立った傷は無い。だが目的地から離れた所に連れ込まれたらしく、それが面倒だった。
周囲を見渡せば外を取り囲んでいた化け物とは比にならない数が、管制室一階下のこの広い空間に満ちている。お誂え向きの闘技場とでも言うべきか、周囲には何もない広い空間で、人間三人を蠢く化け物の群れが取り囲む。
荒い息を吐いて、爪を立てて、目の前に現れた極上の餌に舌なめずりする。
「畜生が。師匠は直ぐ上に居るってのに」
「セシリアちゃんの魔法なら、死んでも生き返らせれるんじゃないの?」
「無理だよ。私の魔法は治癒……【正常な状態に戻す魔法】死んだらどうしようもないの」
「なら、早く行ってあげて下さい。突破口は私が」
マリアが二人を制して前に出る。黒翼を広げ、毅然と前を向く。先に行けと、彼女は促した。
だがセシリアがそれに頷く筈も無く、逡巡を見せて一緒に戦おうとする。大好きな母親を戦わせたくなくて、今まで戦ってきたんだ。戦う力を手にしたと言ってもその気持ちが変わる事は無い。
それでも、師の安否が気になるセシリアだから悩んでしまう。
「でも……」
「マリアちゃんの言う通りかな。それとも意地張る?」
ダキナに促されても、状況は理解していてもセシリアの子供の部分が頑固強く頷いてくれない。ごめんなさいを言えない子供の様に唇を噛んでイヤだと全身で表現するセシリアに、マリアは振り返って見上げる。
強情な様に苦笑しつつ、頬に手を添え優しく微笑む。
「セシリア。信じて下さい」
「……うん」
大好きな人にここまで言わせたのだ。受け入れなければ恰好が悪すぎる。憤懣やるせないという表情ではあるが、セシリアは頷いた。
それを見届け、マリアは二人を先に行かせる為に正面に向き直った。
「無理やり道を開きます。一瞬なので、振り返らずに進んでください!」
黒翼を広げ、魔力で編まれた黒い羽衣を身に纏う。黒い羽衣から波及した魔力が、黒翼に熱を帯びる様に広がる。深く上体を逸らし、文字通り全力の一撃をこれに籠めるのだ。
マリアの攻撃の気配を感じ、化け物達が色めきだって襲い掛かった。
だがセシリアとダキナは一瞥もしない。ただ待つ、信じているから。
「穿ちなさい!!」
マリアが全力を籠めて黒翼をはためかせる。
耐え難い威力の暴風と、弾丸の様な速度で魔力を帯びた羽根が吹き荒び化け物の包囲網の一角が文字通り消し飛んだ。血飛沫と肉片を巻き上げながら出来上がった包囲網の抜け穴は、しかして傷を塞ぐ治癒反応の様に瞬く間に狭まり出す。
一瞬でも躊躇すれば、折角マリアが生み出したチャンスが無駄になってしまう程の、刹那の隙間。
「行ってください!」
反動で動けないマリアの声に、セシリアは突き動かされ振り返る事無く走り出した。
本心を言えば振り返りたい。だけど抉れる位に唇を噛んで堪える。
今すぐにでもここに居る化け物共を殴り殺したいが、マリアが作ってくれたチャンスと師匠の身を天秤に捧げ、必死で耐えて前へ進む。
「セシリアー!! 気を付けて!」
化け物の壁を通り抜け、壁の向こうに置き去りにしてしまったマリアから激励の声が届く。その姿はもう殆ど見えない。セシリアは返事の代わりに腕を上げた。
少しキザ過ぎただろうか。こんな時でも恥ずかしがってしまうのは、ご愛嬌。
「お友達もいると思う?」
「居る。師匠が居るなら、きっと皆いる筈」
階段を駆け上がっていると、横から【認識を阻害する魔法】で消えていたダキナが姿を現す。
悪戯好きなチシャ猫の様な笑みを浮かべているが、何処か大人しい。意地の悪い質問でもされるのかと思ったが、ダキナがそれ以上何かを聞いて来る事も無く前を向いて並走しだした。
「?」
怪訝に思って横目に見ても、ダキナはセシリアではなく先を見ている。相変わらず人を食ったような笑みを顔に張り付けているが、その目はもうセシリアに興味を向けていない。
べらべら喋られても鬱陶しいが、黙っていても変な感じだ。
だがしかし、それが今のセシリアにはありがたかった。ダキナの相手をしていられる余裕なんて無いんだ。
(既視感だ……あの時と同じ、嫌な胸騒ぎがする)
ただ一目散に走る。戦いの振動とけたたましい音。そして纏わりついて離れてくれない血の匂い。
そのどれもが、かつて故郷にて育ての祖父母であるトリシャとガンドの死体を見つけた時と同じだった。近い状況による既視感がそう思わせているのか、あるいは並大抵ではない修羅場を潜り抜け来た直感が教えているのか。
もしくは、先ほどまで聞こえていた銃声が止んだからだろうか。
セシリアの頭の中では決して認めたくない確信に近い予想と、物語の様に間一髪で間に合うかもしれないと言う希望でせめぎ合って焦りが止まない。
頼む。頼む。お願いだから間に合ってくれ、もっと早く走ってくれ。ぶつける先の無い怒りに歯を軋ませながら、セシリアとダキナは言葉一つ発する事なくただひたすらに現実から目を逸らす様に走り続けた。
だから、それを目の当たりにした時に絶望を感じなかったのかも知れない。
「ィァアア……」
元は人魚で半透明の腐った肉体で骸骨が透けて見える化け物の巨大な腕が、高く掲げられている。誇る様に、捧げる様に掲げられたその人は、化け物の背中越しでも良く見えた。
頭から血を流し、だらりと身体を弛緩させて目を閉じている初老の女性。自らを魔女と呼び、それらしい黒いローブ服の、セシリアに戦う術を与えてくれた師が。
生きているのかどうかは、ここからでは見えない。ただ、生きているようには見えなかった。
それはまさしく、予想していた通りの最悪の展開だった。
「おい」
「ィアァァ?」
セシリアの低い声が化け物を振り返らせたが、興味なんてハナから失っていたのかアイアスを乱雑に放り捨てた。
まるで人形の様に反応一つなく捨てられたアイアスは、四肢をあらぬ方向に向けた状態で倒れ微動だにしない。
それを見て、セシリアの腹の底から煮え滾る怒りがこみ上げる。顔から感情が抜け落ち、底冷えする程の冷徹さが化け物を見据える。
怒りが、セシリアの身体を変質させた。
ゆっくりと、身体が黒に染まっていく。照明に照らされる影が、人ならざる者の異形へと移り変わる。
「……」
隣に居たダキナは、癖の様に口元だけは笑みを張り付けているが、目が欠片も笑っていない。珍しく分かり易い程に、静かに怒っていた。
荒ぶる心を鎮める様に、深く息を吐いたが堪え切れなかったらしい。
自分の腕が壁を殴ったのを驚いた様な目で見下ろした後、小さく何度も頷いて握り込んだ。
「セシリアちゃん。あれ、あたしが殺して良い?」
「ざけんな。私の師匠の仇だよ」
「あたしの師匠でもあるんだけどなぁ」
「……あぁ」
ここに来ての衝撃の告白に、セシリアは目を丸くするが一度頷くとそれ以上は何も言わなかった。
見覚えがあり過ぎたのだ。薬物と錬金に造詣が深いのも、体術を基本とするのも、空間跳躍を見て驚かないどころか利用出来たのも。言葉にならない程度の違和感が、漸く払しょくされた。
「ィァ“ア“ア”ッ!!」
人魚だった半透明に腐り落ちた肉の骸骨の透けた化け物は、二人の美女に嫉妬する様な怒鳴り声を上げて腕を叩きつけた。
腐敗した肉を飛び散らせながら叩きつけられる巨大な腕を、二人は左右に別れ事も無げ無く避ける。
「嫉妬? 怖いわぁ」
「シッ」
左右に飛び退いた二人は、着地と同時に一気に踏み込む。懐を守る様に蠢く触手を滑らかに躱し、抜群のコンビネーションで左右から同時に殴った。
腹に拳を、こめかみに蹴りが。化け物の身体が大きく歪む威力で苦し気な声が漏れるが、まだまだ嫉妬心は削れないらしい。
一撃離脱した二人に、苛立たし気に地団駄を踏んで威嚇しだす。
「見掛け倒しだな」
「雑魚の雑魚かな~」
ウォーミングアップの必要はなさそうだ。身体の調子を確かめた二人は、速攻を決め込む。
化け物の向こうに居るアイアスは、まだ間に合うかもしれない。何より今の一手で良く理解した、こいつは弱い。と。
本気を出した二人の敵ではない。
「一瞬で終わらせる。それなら戻れる」
「りょ」
セシリアは一瞬だけ全力を出す気だ。持ちうる最大火力を、まだ使いこなせない最強の力を。
一つ踏み込むと、足元から影が舞い上がった。それはセシリアの身体に纏わりつき、浸透し、浸食してくる。
だから一瞬だけ。一瞬だけなら戻ってこれる。セシリアの魂の中に居る家族の力が、一瞬だけ力を貸してくれる。
「合わせろ」
「あたしの分も取っといてよ」
「ほざいてろ」
地面が叩き割れる勢いでセシリアが飛び出す。衝撃に耐えられない足が破壊と再生を同時にこなしながら飛び出したセシリアの身体が、異形へと変わる。
全身が黒に染まり、真紅が覗く。重厚な騎士の鎧に、恐ろしい龍の凶暴な爪に。銃口な漆黒の鎧には真紅の線が走り、太く鋭い尻尾が空中で身体を制御する。
黒い龍騎士。理性と引き換えに凶暴な力を、魔王の力を解放した。
「ォ“ァ”ア“ア”ッ!!」
「ィ“ァ”ア”ア”!?」
化け物は今や嫉妬心は消え失せ、生物としての本能的な恐怖に支配されていた。一直線に迫るセシリアに怯え、来るなと言わんばかりに追い払おうとした化け物の腕が、弾け飛んだ。
図太い杭が腕を貫いて壁に突き刺さっている。
「チャオ」
ダキナがチシャ猫の様な小生意気な笑みを浮かべている。アイアスを握りつぶした腕を消し飛ばされた化け物は、生き残る最後のチャンスを失ってしまった。
あるのは無防備な化け物と、もう目前まで迫って拳を振り上げるセシリアの姿だった。
「死ネヤァ“ァ”ァ“!!」
一直線に飛び込んだセシリアの拳が、化け物の顔面を殴り飛ばした。圧倒的パワーはいとも容易く一撃で化け物の頭が消し飛ぶ。
倒れ込む化け物の身体と、雨のように降り注ぐ濁った鮮血の雨。
血の雨を浴びながらセシリアの身体が人間の形に戻る。荒く息を吐いて、消耗の兆しを見せるがまだ膝を着くには早い。
駆け寄るでもなく、ゆっくりとセシリアはアイアスの元へ近づく。
「……治れ」
手を伸ばし、冷たい身体に触れる。【正常な状態に戻す魔法】が淡い光を放って温めるが、冷えた身体は冷たいままピクリともしない。
身体は冷たいのに、手のひらにこびり付いた血は生暖かくて気持ち悪い。
二度目の感触。出来れば、もう二度と感じたくなかった不快感。
「まただ」
まただ。またこれだ。助ける力を、守る力を持っているのに肝心な所で役に立たない。救って守れるのは何時だってたった一人だけだった。それ以外は、みんな守る事も救うことも出来なかった。
「ねぇ」
「黙ってて。今お前に何か言われたら……殺しちゃう」
そんな声を出すなと怒鳴るのを堪えるので、限界だった。
全ての始まりはダキナの所為だ。育ての祖父母はこの女によって殺された。今と同じ、無残な姿だった。あの時もあと少し早ければ助けられたかもしれない。
何時だってそんな後悔ばかりだ。何度も何度も味わった。大切な人にあと少し早く合流出来れば、あと少し強ければ、あと少し賢ければ。
「ふっ……ぐっ……」
腹の底で煮え滾る怒りが渦巻く。全部どうでも良くなってくる、この衝動に突き動かされるままに全てを壊してしまいたい。
ただ普通に生きていたいだけなのに、それを許してくれない全てが酷く憎い。
あァ憎い。憎くて頭がおかしくなってしまいそうだ。
化け物の声が聞こえる。酷く耳障りで、イライラする。
ダキナが悲しむ様な表情で、アイアスの身体に触れている。ふざけるな、何でお前が悲しむんだ。
うざくて、苛立たしくて、憎くて、イライラして自分が曖昧になっていく。
ドパンッ!!
「……! ひぎぃっ!?」
「セシリアちゃん!?」
何故そう出来たかは自分でも良く分からなかった。ただ身体が勝手にリボルバーを引き抜き、自分の片足を吹き飛ばしていた。
「ふっ、ふっ、ふっ」
「いきなり何してんの、頭おかしくなったの?」
「な、治れ……ふぅ。おかしくなってたんだよ」
片足が根元から吹き飛び、地面に赤い染みが広がる。燃えるような激痛が魔法によって引き始め足が正しい状態にまで戻る。今はリボルバーを持つ右手はもう自由だ、さっきみたいな勝手はしない。
もしかしたらセシリアの中に居る双子の姉が、情けない妹を激励したのかも知れない。姉は少々過激な愛情表現をするから。
だけどそのお陰で、頭は冷えた。脂汗を拭って、元に戻った足の調子を確かめながら立ち上がる。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「なんて? おね?」
ダキナに返答するよりも先に、発進準備を進めていた戦艦——空中要塞移動都市・ノア——の唸り声が落ち着き、船体が大きく揺れ出した。
立っていられない程の揺れは、この戦艦が地面から離れ出した事を証明する。
『起動準備完了。発進開始。航行に伴い、衝撃に備え下さい』
「なに、衝撃?」
「やばっ——」
咄嗟に衝撃に備えようとした瞬間、戦艦が空への発進を始めた。
エンジンが轟音を上げ、外では吹きすさぶ衝撃と熱が化け物を塵に変える。立っていられない程の衝撃と共に戦艦は地下から真っすぐにスロープを伝って遙か空の上へ飛び上がった。
一瞬の出来事だ。地面を転がって壁に頭を打ち付けている内に、化け物ひしめく魔王城から離れ見下ろす。
「いつつ……」
飛び上がった戦艦が滞空し、衝撃が落ち着いて来た辺りでセシリアは壁を支えに立ち上がる。
戦艦の外に纏わりついてた化け物は全て振り落とされ、恐らく中に居る化け物も殆どはもうマリアが片付けたのだろう。下での戦闘音はもう聞こえない。
もう安全だ。激戦の戦場から仲間たちの救出に成功。そして、この魔王城にはもう価値が無い。さっさと立ち去ってしまおう。
魔王城の上を旋回していた戦艦は、ゆっくりと背中を向ける。
「……!」
それに従って魔王城に背を向けていたセシリアは、何か視線を感じて窓から顔を覗かせた。そうして見つけた。
自分を見上げる、親友の姿を。たまらず甲板へ向かって走り出した。
「愛衣……愛衣」
化け物に囲まれ、悪魔の世界の空と繋がってしまった世界の中でオフィーリアは遠くなっていく戦艦を何時まで見続ける。
笑いながら、涙を流して。
「何で、何処に行くの? 私、ここに居るよ。悪い事してるんだよ? 何で、何で……」
顔を覆って悲しみの声を上げ続ける。構って欲しくて悪い事をする、愛され方を知らない子供の様な小さな背中だ。
だがそれも暫くすると、泣き止み顔を上げる。そこには感情の宿らない無機質な顔だけが張り付いていた。
千夏ではなく、本来のオフィーリアの顔だ。
「愛してくれないなら、要らないよね。壊しても、良いよね。ねぇ千夏」
歪み切ってしまった少女の飢えた心が、世界を包む狂気に伝播する。自分を愛してくれない世界なんて滅んでしまえというオフィーリアの願いに答える様に、魔界と繋がった空からぞろぞろと悪魔が降り注いできた。
オークにゴブリンにセイレーンにオーガ。300年前の大戦で残されたこの世界に居る魔物とは一線を画す、本物の悪魔達が。
それら全てが300年前の雪辱を晴らす機会に、この美しい世界を壊す喜びに舌なめずりした。
それでもオフィーリアの目は、化け物にも悪魔達にも向けられずに、ただずっとセシリアの姿を追い続ける。
世界を滅ぼすと口にしながら、彼女は何時だってそんな物すべてに興味を示さない。感情を見せない表情の中に、狂う程の執着を見せ続けるんだ。
「オフィーリアちゃん!!」
甲板に飛び出したセシリアが、小さくなっていく魔王城へ向かって叫ぶ。何故、何故そんなところに居る。どうしてこんな事をしたの。そんな疑問を籠めて叫んだ。
当然、エンジンの轟音にすらかき消され小さな魔王城まで届く筈もない。
それでも、柵から乗り出して声を張り上げるセシリアの声が届いたのか、オフィーリアの無機質な顔に笑顔が浮かんだ。
「やっと見てくれた」
それはセシリアとこの世界で初めて再会した時と同じ、心からの喜びの笑み。純粋で無垢な、幼い子供が親の顔を見た時の様な嬉しそうな笑みを。
戦艦は雲の向こうに消えた。それでも、オフィーリアは何時までも嬉しそうに笑顔を浮かべ続ける。