希望
クリスティーヌの視力を犠牲にした決死の一撃。それは確かに強力な魔法で、魔王城に侵入していた化け物の尽くを宝石に作り替え辛くも勝利を納めたかに思えた。
しかし化け物の大群を率いてたオフィーリアには【未来を視る魔法】があった。それによりクリスティーヌのこの反撃は予期され、化け物の軍勢のほんの一部を消費させただけに終わった。
第二波。と言うよりは本命の軍勢が先程までとは比べ物にならない数と質で、クリスティーヌ達を追いつめる。
「はぁ、はぁ……弱音を吐きたくはないけどぉ、これはちょっとピンチかも知れないわぁ」
「ぜぇ、ぜぇ。泣き言を言うな、このまま殺し続けて死体の壁を築けば少しは休めるかもしれんぞ」
廊下のど真ん中で防衛線を敷いていたナターシャとスーリアは、今や傍の部屋に立て籠もって荒い息を整えるのに精一杯の様子で焦燥を募らせている。
唯一の出入口である扉は、ナターシャの毒の壁が侵入を阻むが如何せん数が多すぎる。次から次へと飛び込んでくる化け物の圧力に負けない様に、全神経を注いで毒の壁を保たせるのに精一杯で直前の戦闘で負った傷口が開いても片手間に治療する余裕が無かった。
そしてスーリアも抑えきれずはみ出して来た化け物を刀で処理するが、刀が血脂に塗れすぎて斬るに特化した武器なのに突くか叩き潰すことしか出来ないなまくらと化した愛刀に苛立ちを覚える。
完全に袋小路に追い詰められ、かといって打開策は無い。無理やり突破する体力も無く、もう一度クリスティーヌの【宝石魔法】に頼る事も出来なかった。
この中で、最も消耗の激しいのが彼女なのだから。
「フィーリウス、聞こえるかフィーリウス」
「…………えぇ、まだ……大丈夫、ですわ」
エリザベスに介抱されるクリスティーヌは、壁を背に座り込んだ状態で意識を保たせるのに尽力している。
クリスティーヌは【宝石魔法】にて、生まれの実家から拝借した虹色の宝杖の力を引き出して大技を披露した。が、その代償としてクリスティーヌは視力を失い、魔力すらも使い果たし死の一歩手前の様な酷い顔色となっていた。
もう一度同じ事をやれと言うのは死ねと言っているのと同義だし、立って歩くのすら難しい状態なのは明らか。
「クソッ。スーリア、何か武器は無いか。我も戦うぞ」
「いけません陛下! どうかご自愛くださいませ、病が悪化します」
「そんな事を気にしている場合ではないだろう。何とかしなければ、我々は終わりだぞ」
焦り、何とかしなければと言う気持ちが先行するばかり。だがその何とかが、思いつかなかった。無理やり外へ出られても、そこから向かう場所が無ければ自殺するのと同義でしかない。
せめて、何かきっかけがあればと思わざるを得ない。
「おい悪魔。何かないのか、ここは高文明の遺物があるのだろう」
「……」
だから待つ。まだその時ではない。この城に居るのはナターシャ達だけではないのだから。
この絶体絶命の状況を打開する一手を齎してくれるのを、ひたすらに待つしかなかった。
だが、敵は待ってくれない。
「クソ! 数が多すぎる! これ以上は抑えきれないぞ! もっと気張れ悪魔!」
「っ……! 言われなくてもぉ!」
毒の壁を突破する化け物の数が増えて来た。ナターシャの体力が切れかかっているのと、化け物の自らを省みない物量に許容量が上回る。瞬く間に肉も骨も溶かすナターシャの毒でも、濁流の様に押し寄せる化け物の数に毒が薄れていく。
そして毒の壁が薄れていけば、露払いをするスーリアの負担が増える。なまくらに化した刀では、一体を殺すのに時間と体力を大いに消費しなくてはいけなかった。
「ダメだ、これ以上は持たんぞ! 床を壊して下へ行くべきだ!」
「下へ行ってぇ、何処へ行くのよぉ」
「何処でもいい! もっと強固な守りがある場所だ!」
一息つく暇も無く戦い続けるナターシャ達がもう限界だ、逃げるべきだと決意した時、城が揺れる。
地面ではなく、城が大きく揺れたのだ。慟哭の様な低い唸り声を響かせながら、魔王城を震わせる。
「な、なんだこの轟音は!」
「来た……来たわぁ! やってくれたのねぇおばあちゃん!」
それはナターシャが待ちわびていた何かだった。この振動が、唸り声が何かを彼女は知っている。待っていた。待ちくたびれていた。
歓喜の声を上げたナターシャは、待ちきれないとばかりに地面を踏みつけて穴を開ける。
もうこんな所に居る必要は無いし、進むべき道が見つかった瞬間だ。
「さぁクリスちゃんはぁ、お姉さんがぁ背負うからぁ逃げるわよぉ」
「ちゃんと説明しろよ悪魔! 陛下、飛び降ります。お手を」
「あぁ、悪いな」
「ぅう……」
クリスティーヌを抱き上げ、脱出の支度が整う。
出入口を塞いでいた毒の壁が消え、化け物達が待っていましたと言わんばかりに大挙してなだれ込んでくる。
だがその爪が、牙が届くよりも先にナターシャ達四人は無事に床に開けた穴の中に飛び込んだ。階下に降り立ち、またすぐに穴を開けて飛び込む。最短距離で下へ、この鳴り響く唸り声の様な振動の元へ真っすぐに。
そこにこの絶体絶命の状況を切り開く切り札がある事を、ナターシャは知っている。
「この先に何があるのか知ってるのか!?」
「最高の切り札があるわぁ、空中要塞移動都市・ノア。魔王様が作った第二の楽園がねぇ」
◇◇◇◇
ナターシャ達が降りて行った穴を、オフィーリアはただ見下ろす。その穴は深く、光の届かない穴の奥はもう既に彼女たちの姿を覆い尽くしていた。
「……まぁいいや」
態々追いかける様子も無く、化け物達が次々をなだれ落ちていくのを興味なく一瞥したオフィーリアは、踵を返して魔王の玉座に向かった。
彼女の目的はそもそも、ナターシャ達を殺す事ではない。あくまでついでだ。
本来の目的は、魔界との道を塞ぐこの魔王城の破壊。その為に、彼女は懐から一本の短剣を取り出す。
目の前には、魔王の遺体が眠っていた棺がある。
「確かこれを、魔王の棺に突き刺す」
指示された事は簡単だ。今手の中にある、装飾の無い簡素な短剣を魔王の棺に突き刺せば後は勝手に事が為すらしい。
オフィーリアは疑わし気に短剣を眺めた後、魔王の棺に突き刺した。
「……何も起こらないじゃ——」
刺した瞬間に何か起こるのかと思ったが、何も起こらない。首を傾げて短剣に手を伸ばした瞬間、足元に紋章が広がった。
輝かしく美しい紋章は、瞬く間に大きく広がり魔王城を包み込んだ。だがそれは今出来上がった物ではなく、元々あった物だ。短剣は、この魔王城に刻まれた最大の機能を露わにしたに過ぎない。
『警告。魔王城の機能に不正アクセス検知。魔王城ノ全キノウを完全テイ止マd——』
魔王城の本来の役割。魔界との道を塞ぐ機能。
それがまさに壊れようとしている。いや、今まさに壊れた。
ガラスが割れる音が鳴り、紋章が砕け散る。そして、一筋の光が空へと伸びた。雲を裂き、空の向こうに繋がる。別の世界の空に。
割れた空の向こうに、水が張ったような空の向こうに、真紅の月が見えた。
その空を、オフィーリアは眺める。ただ無機質に、何の感動も恐れも無く、何処までも詰まらなさそうに眺め続けていた。
◇◇◇◇
「見えたわぁ! 飛ぶわよ!」
「やっとか! 陛下、失礼します。衝撃に備え下さい」
同刻、地下へ向かって床に穴を開けながら真っすぐに落ちていたナターシャ達は漸く目的地に辿り着いた。
地下格納庫にある、巨大な戦艦。空中要塞移動都市・ノアが。この絶体絶命の状況から抜け出す為の切り札が、発進する為の準備をしている状態でそこにある。
「動かせない筈だったのにぃ、あのおばあちゃんが直したのかしらぁ」
「次から次へと、魔道歴の文明技術は想像すら出来ない程だな」
甲板に着地した四人は、一先ず到着できた事にほっと息づく。
「おい! 起きろフィーリウス!」
「…………」
エリザベスの悲鳴の様な怒声が響いた。他の二人が声に気づけば、エリザベスがクリスティーヌを抱えて呼びかけている。
腕の中のクリスティーヌはもう意識を失っていた。ただ気を失っているのではなく、魔力という生命力が枯渇した事による気絶だ。それもただ疲れたからではなく、命を削って戦った反動だ。
実際にクリスティーヌの顔色は死体と見間違うほどで、呼吸もしていない。すぐにでも抜本的な治療が必要な重体だ。
しかしこの地下格納庫も、上と状態は対して変わらないらしい。
「一息つく時間くらいは欲しいわぁ」
「どうする。この船の中に入れば良いのか」
「入れればねぇ。一番近いドアまで1分はかかるわよぉ」
甲板に立つ四人を取り囲むように、そこら中から化け物が姿を現した。文字通り四方八方を取り囲む。それに、上からも化け物が落ちて来てダメージを受けている筈なのに動き出した。
最後の力を振り絞って、戦艦の中に入るしか道はない。
ナターシャとスーリアは残った力を振り絞って、前を向く。
「余裕は無いわぁ」
「一点突破しかあるまい。陛下、申し訳ありませんがその娘をお願いします」
「あぁ分かってる。おいフィーリウス、まだ死ぬなよ。我の目の前で子供を死なさせないでくれ」
素早く示し合わせた二人は、クリスティーヌを背負うエリザベスを背中に化け物の群れの中を突っ切る。
上での防衛線の経験が活きたのか、はたまた自分達より若い子供に負担を強いてしまった自らを悔いる気持ちが力に変えたのか、二人の進軍は荒れ狂う突風の様に血潮を上げながら少しも緩める事無く進み続ける。
「じゃっまぁっ!!」
ナターシャはもう碌に魔法を使うことも出来ない程に、魔力が無くなっている。青い肌が白くなっている彼女は、魔法ではなく自らの四肢を巧みに駆使して化け物を処理する。
飛び込んでくる相手の身体を滑るように受け流しながら、首の骨を叩き砕く。横合いからエリザベスを狙って手を伸ばす化け物の首に飛び掛かり、両足で挟み込むとそこを支点に一回転して頭蓋を地面に叩きつけた。
「我は帝国最強の剣の家、ベルファスト家の名を受け継ぐ者! 畜生の牙爪が防げるのならば防いでみろ!」
スーリアの刀もまた、壊れかけのなまくらだ。切ろうとすれば落としきれない血脂が骨に届く前に刃を止めるだろう。
それでも、スーリアの剣撃は衰えを見せない。最も柔らかい所を、関節の隙間を、骨のつなぎ目を、急所を、スーリアは経験と直感だけを頼りに見極めて芸術的なまでの繊細さで切り捨てる。
力ではなく、技こそが彼女の剣術なのだ。
「着いたぞ! 早く中へ!」
一歩先に扉へ辿り着いたスーリアの後を追って、ナターシャとエリザベスは飛び込むように扉の向こうへ入り込んだ。それと同時に、スーリアは身体で押し込むように重たい金属扉を閉じ切る。
コンマ数秒の差で、化け物達が追い付いて扉にぶつかって苛立たし気に叩くが、壊れる様子は無い。
扉の向こうは見るのも躊躇う程に地獄だが、中は安全な様だ。皆一様に息を荒げながら漸くの休憩を堪能する。もう指一本動かすのも億劫だった。
「ぜぇ、ぜぇ……で、次は、どうするんだ」
「はぁ、ふぅ……この、船の中にいる人たちと合流してぇ、ここからおさらばよぉ」
「げほっ、こひゅ……! はぁ、はぁ、早くしよう。フィーリウスがもう限界だ」
それでも碌に休息も取らず、ふらふらの身体で立ち上がる。時間は有限だ、特にクリスティーヌにとっては。この場の全員にとっても、早くこの危機的状況を脱した方が良い。
壁を支えに立ち上がる一行は、もう歩くだけで限界だった。
だから、物陰からこちらを狙う化け物の目に気づかなかった。
「!! ナターシャ!」
「なぁっ!?」
戦艦の中は安全だという勘違いから、奇襲への反応が遅れた。
「縺薙s縺ォ縺。縺ッ縲り憶縺?※繧薙″縺ァ縺吶?」
飛び掛かって来た人型の化け物に、ナターシャが組み伏せられる。黄ばんで歪んだ歯がナターシャの眼前に迫り、ギリギリでせき止めるが徐々に力負けしていた。
突き飛ばす力すら、今の彼女には無い。
「縺薙s縺ォ縺。縺ッ縲り憶縺?」
「※繧薙″縺ァ縺吶?」
「中にまで侵入していたか! 陛下! 私の後ろに!」
スーリアが助けようと一歩踏み出すが、それを阻むように他の人型化け物が道を塞いだ。ゆらゆらと物陰から姿を現す。
剣を手に戦う姿勢を見せるスーリアだが、自分の身体の状態は良く分かっている。剣を握る手の感覚がもう無い。上手く握れなくて、力が入らなかった。
「ふぎぃっ……! くっさいわ、ねぇ!」
「待ってろ悪魔! 今助けてやる!」
ナターシャは組み伏せてくる化け物をギリギリで押し留めるのに精一杯で、スーリアも敵中を突破するのに時間が掛かる。
今度こそ、本気のピンチだ。死ぬかもしれないではなく、死ぬ危機。
「陛下!?」
スーリアの脇を、エリザベスが飛び出した。傍に落ちていた鉄パイプを手に、素人丸出しの姿で縺れる様にナターシャへ向かって走り出している。
それに気づいた化け物の一体が、エリザベスに食らい付くが偶然躓いた事で掴みかかられるのを回避できた。服の一部が千切れ、鋭く伸びた爪が肌を傷つける。
前のめりに転んだエリザベスは、それでも歯を食いしばって立ち上がって走るのを止めなかった。
「我を! 舐めるなぁ!!」
いつまでも騎士の後ろで震えて蹲っているだけの女ではない。自らの力で呪縛を打ち破り、未来を掴み取るべく立ち上がったプライドがあった。
そんなプライドが、今ここで走り出さねばいけないと吠えるのだ。
我武者羅に振り上げた鉄パイプを、化け物の後頭部に叩きつける。
「縺斐a繧薙↑縺輔>」
だが女の細腕だ。殴られた化け物は何のダメージを受けた様子も無く、聞き取れない唸り声を上げてナターシャを襲うのを止めない。
エリザベスも諦めが悪い女だ。一度でダメなら、何度でも抗う。
「この! さっさと! 死ね! 気色悪い! 化け物が! 『帝国スラング』!!」
ひたすらに怒鳴りながら、殴って殴って殴り続ける。型振り構わずに殴る様は優美とは言い難いが、エリザベスはそれでも殴るのを止めない。
化け物の首がひしゃげ落ちて、漸くその身体が力無く倒れた所でエリザベスは荒い息を吐きながら歪んだ鉄パイプを離す。
「ごほっ、げほっ!」
「助かったわぁ」
激しい運動で病に侵されているエリザベスは膝を着いて咳込み、残った力を全て吐き出してしまう。
ナターシャも立ち上がる素振りを見せるが、直ぐに膝を着いてしまう。次々と姿を現した化け物に追い詰められるスーリアを助けに行ける程の体力は無かった。
化け物の数は増していき、碌に身体に力の入らない身体でどうにか出来る数でもない。
「クソ……これはもう」
倒れ伏すクリスティーヌをかばいながら抵抗を見せるスーリアだが徐々に境界線は縮まり、やがて彼女の背中は壁を感じる。最早これまでと悟ったスーリアは、刀を納めクリスティーヌの身体を投げられるように持ち上げた。
「陛下! この娘を頼みます!」
化け物の頭を超え、クリスティーヌを放り投げた。ナターシャが受け止め、背負う物が無くなったスーリアは最後の務めを果たす。
懐から一つの筒を取り出す。ピンを引くだけで、中に詰まった燃焼石の粉末に火が付き衝撃と爆破を齎す手りゅう弾だ。敵はスーリアの周りに居る、目の前に居る。それをどう使うのかを分からないエリザベスとナターシャでは無かった。
「待て! 待つんだ!」
「行っちゃダメよぉ! 巻き込まれるわぁ!」
「離せ! 離してくれ!!」
止めようと飛び出すエリザベスを、スーリアが止める。残った全ての力を腕を掴む手に籠めなければ、止められない程の力でエリザベスは飛び出そうとする。たった一人最後まで共に居てくれた騎士を、最高の騎士を失う事に皇帝の仮面を取り繕う事も忘れて懇願した。
その必死な呼び声に、差し伸ばされる手にスーリアは微笑みを浮かべた。
「陛下。宿願、果たし下さいませ。御身の理想は我ら帝国臣民の悲願でございます」
敬愛する主君が自らを思ってくれる。必死で止めようとしてくれる。ただの剣ではなく人として思ってくれた。それだけで、スーリアの心は満たされた。
もう何の憂いは無い。惜しむべくは、これから先を共に歩めない事だろう。だが、生きてくれればそれで良い。
主君を守って死ぬは騎士の本懐だ。
「ローテリア帝国に。栄光あれ」
共に帝国の腐敗を正す為に立ち上がり、正義と秩序を取り戻す為に剣を取った。そして世界から争いを無くし全ての人が等しく平和を享受できるように、最後の悪となる覚悟を決めた。
許されない事も沢山した。許される気も無かった。全ては未来の為に、未来で子供達が安心して眠れる世界を作る、ただその為だけにスーリアはここまで付いて来たんだ。
理想の礎となれるなら、スーリアに躊躇いは無い。
「スーリア! 我を一人にするな!!」
エリザベスは一人の友として、手を差し伸べる。親に置いて行かれる子供の様な縋る目をしている。
スーリアはそれが嬉しくとも、窘める様な眼差してそれ以上を口にする事は無かった。忠君としては、主君には最後まで毅然と振舞って貰わなくては困るのだ。剣の一本が失われた所で足を止められてはいけない。
だが気持ちは受け取る。
帝国人として、最上の敬意を表す敬礼を送る。笑顔も忘れずに。どうかその理想を果たし下さいませ。願いはそれだけだった。
ピンを引き抜く小さな音が鳴った。
皇帝の絶叫が響く。
騎士は微笑みを絶やさない。
戦士は敬意を表した。
「化け物よ、しかと刮目しろ! これが人の強さだ!!」
誇り高き騎士の最後は、華々しい爆発に彩られる。
誇りも矜持も無い化け物が、炎と衝撃に食い殺された。衝撃と轟音が響き渡った。
顔を伏せたエリザベスとナターシャがもう一度顔を上げた時、そこは土埃に包まれている。一縷の希望を捨てきれずに言葉なく目を見開く二人だが、もう結果は分かっていた。
「スーリア……」
「……スーリア・ベルファスト・ローテリア」
土埃が晴れたそこには、一本の刀が横たわっていた。化け物達の血肉が塗れても、それにだけは触れる事を許さないと言うように、それだけが静謐に眠っている。
もう化け物は居ない。スーリアの覚悟が、三人を救ったのだ。
「……いくわよぉ」
「スーリア……すまない。すまない……我が、我の所為で」
項垂れ戦意を消失してしまったエリザベスの腕を掴み立たせ、クリスティーヌを担ぎ上げる。誇り高き騎士が作ってくれた時間を無駄にしては、彼女が報われない。
敵はもう既に中に侵入している。早く安全な場所まで行かなければいけなかった。
ナターシャは不甲斐ないエリザベスを叱責したい気持ちを唇を噛んで堪え、無理矢理歩かせる。泣きたいのは自分だって同じなんだ。
前へ進み続けるナターシャの前方から、こちらへ向かってくる足音が響いた。
それは今まで聞いた化け物の足音とは違う、厚い靴底が硬い地面を蹴る音だ。人間が駆け寄ってくる足音。警戒する体力も無いナターシャは、それでも一応エリザベスを後ろに傍に落ちている角材を拾い上げる。
注意深く足音に目を凝らすナターシャの眼前に、ショットガンを腰だめに構えたアイアスが姿を現した。
知った顔にナターシャの手から角材が滑り落ちる。
「アンタ……!」
「良かったぁ、無事だったのねぇ」
仲間だった安堵からナターシャの身体から力が抜け、膝を着こうとするのをアイアスが辛うじて支えた。ここまで激しい戦闘をしていた筈の身体は酷く冷たかった。典型的な魔力切れの症状、しかもかなり重度の。生きているのが不思議な位の重体だ。
死体を触っている様な感覚を覚えたアイアスは、腕を掴む手を握り直して身体を支えた。視線を死にかけの戦士から、倒れ伏す帝国貴族、皇帝に向けて訝しんだ。おおよそ想像はつくが、一応聞く。
「あの刀の騎士は?」
「スーリア……すまない、すまない……」
「……そういう事よぉ」
「……祈りは要らないね。帝国人は神を信じないから」
アイアスは黙とうを捧げ踵を返した。そういう気分ではないが、合流出来たのは喜ばしい。
アイアスの足は悲しみに囚われる事も無く淀みなく進み、銃声の鳴り響く方へ近づく。音はどんどん近づき、最後の角を曲がった所でその現場に着いた。
そこでは防衛線が築かれている。瓦礫をバリケードに十字路のど真ん中で、たった五人の神官達が銃を手に化け物相手に戦っているのだ。
ありったけの弾を惜しみなく撃ち続け、互いに強固な信頼と連携を頼りに四方から押し寄せる化け物達を一歩たりとも近づかせない様に必死で戦い続けていた。
「ばあさん! どこ行ってたんだ、もうここは限界だ!」
「年寄りは忘れ物が多いんだ。移動するよ」
「良し! お前ら移動するぞ、船首へ急ぐぞ!」
船底に女達と怪我人を避難させたアイアス達は、囮になる意味も兼ねて指令室のある船首へ移動している最中だった。そして魔王城を後腐れなく立ち去る準備が出来た今、再び移動を再開する。
アイアスを先頭にナターシャ達を守りながら神官達が移動を始めるが、一人のまだ垢抜けてすらいない神官がバリケードに張り付いて銃を通路の奥に撃ちまくっている。
「おい! おいってば! 聞こえてないのか!?」
「来るな、来るな、来るな」
仲間たちの声が届いていない。初めての戦闘による恐怖と興奮で、彼の視野は完全に目の前から離れていない。弾が無くなるまで撃って、無くなったら慌てて装填してまた撃って。
ただただ死にたくなくて、化け物が近づいてこれない様にひたすらに撃ち続ける。それに気づいた最後尾の神官が近寄ろうとするが、天井を突き破って何かが取り残された彼を掴んだ。
「イ“ィ”ア“ア”ア“ァ”ァ“ァ”ァ“ァ”」
「ひぃっ!?」
彼を掴んだ腕は水膨れた肉の塊の腕。半透明の薄い肉の向こうに骨が見える元は人魚族の女だった化け物の大きな腕だ。
死にたくなくて最後まで抵抗していた彼は、半狂乱になって掴む腕に弾丸を撃ち込み続けるが離される気配は無い。
やがて撃鉄が空の薬莢を叩く空虚な音が響く。
「うわぁぁぁぁっ!! イヤだ! イヤだァァァ!!」
半狂乱で泣き叫ぶ彼は、何か武器を探すようにしたら滅多にバタつく。そしてその手が身体に巻きつけられた爆弾のピンに触れると、何の躊躇いも無くそれを引いた。
彼は見てしまったのだ。頭上に、自分を喰らう為に大きく開いた化け物の口があるのを。化け物に食われて死にたくない、もう怖い思いをしたくない。
その一心で彼は爆弾を起爆させた。
ドッン!!
「イ“ィ”ィ“ァ”ァ“ア”!?」
化け物の腕を丸々吹き飛ばす爆弾は見事、食わせる肉片一つ残さずに彼に安らぎを与えた。
残された面々はそれぞれ自らの辿る結末を突きつけられ、恐れ、怒りながらも通路の奥から更なる化け物の進行を察して先を急ぐ。
急いで船首に行けなければ、船底で震えて隠れている女達や怪我人の方へ行ってしまうかもしれない。それだけが、彼らを前に進ませる。
だが足を止めて、しっかりとバリケードを築いて、敵の動線を狭い通路で制限する。そうした状況で初めて彼らは対等に戦える訳であって、一度動いてしまえばその拮抗は崩壊する。
「あ“っ!?」
天井に張り付いていた細い身体に、長い首の化け物が一人の神官の首に食らい付いた。四肢を生やしたヒルの様な姿の化け物の牙は、深く食らい付いている。
一番後ろに着いていた彼は、背骨を食いつぶされたのか血の混じった泡を吐き出しながらピクピクと痙攣して宙づりになっている。
「っち!」
「うわぁぁぁ!!!」
アイアスがショットガンを撃ったのを皮切りに、残った神官達は阿鼻叫喚のままに乱射した。弾丸の嵐に晒され身体中を穴だらけにした化け物が地面に落ち、宙づりになっていた神官の死体が地面に転がる。
船首までは対した距離じゃないのに、たった短い間にもう二人も死んだ。それだけで荒い息遣いだけが木霊する空間に沈鬱な雰囲気が充満する。
それを破ったのは、アイアスの鋭い叱責だった。
「ぼさっとしてんじゃないよ! 死にたくないなら、死ぬ気で前へ進むんだよ!」
アイアスの怒声に背筋を伸ばした神官たちは、死にたくなくてその言葉に従った。仲間の遺体に充分な祈りを捧げる時間も無く、後ろ髪を引かれながら先へ進むアイアスを追う。
だがその足取りは重く、自分達もああなってしまうと言う気持ちが身体に圧し掛かる。死にたくないないと言う気持ちはあるが、その一方で彼らの顔には死を覚悟した物の影が差し込んだ。それは、意味のある死を迎えたいと。
こんな風に、ただ怯えて逃げるような死ではない。誰かが生きて置いてきて仲間を救う為の死を望む。それは皮肉にも、今まで誰かを救う為に生きて来た彼らの生き様の終局だった。
そうして一行はただ前を向いて走って、撃って、走って。ただただ前へ進み続けた。
化け物達がたちどころに姿を現し、道を塞ぎ、希望を断とうとする。
必死に足掻き、恐怖を噛み殺し、生きようとする彼らの邪魔をする。
生きたい。
生きてまた笑い合いたい。師と仰ぐ人に再会し、こんな事があったと自慢したかった。
「ぎぃっ!? ここは僕が!」
だが現実は非情だ。ただ生きたいと言う望みすら化け物達は叶えさせてくれない。人間をただの肉としか見ていない化け物達は仲間がどれだけ死のうと気にせず、ただただ殺そうとしてくる。
「行っ“て“!! は“や“く“!!」
走って、撃って、走って、走って。
ただ前へ進むために。少しでも多くの化け物を道連れにして、船底で隠れている残された人たちの方へ行かない様に。
また走って、走って、走り続けて。
「道は俺が!! あとは頼んだぞばあさん!!」
化け物に背中から圧し掛かられ、自爆した。
閉じた扉を抑え込もうとして、押し切られて大量の化け物に囲まれて自爆した。
進む道の先に化け物が待ち構えていれば、自ら飛び込んで自爆した。
誰も彼も躊躇いなど見せなかった。皆して死にたくないと最後まで目が訴えていても、アイアスが生きて皆を救ってくれると信じて、意味を求めて死んでいった。
年寄りが若者を犠牲にして生き続け、意味を託されて生きてしまった。
「はぁ、はぁ。くそったれが、どいつもこいつも年寄りより先に死にやがって」
船首に辿り着いたアイアスは、息を荒げながら管制室のドアを蹴破ってナターシャ達三人を放り込んだ。
投げ出されたナターシャはうめき声を上げて身じろぐが、文句を言う余裕すらもう無い。エリザベスは虚ろに謝罪を口にしているし、クリスティーヌは意識すらない。
アイアスは背後から迫ってくる化け物達の足音を聞きながら、懐から手紙を取り出した。三枚の手紙だ。それをナターシャの傍に置く。
「遺書なんてガラじゃないけど、これ位の我儘は許してくれよ」
管制室の扉はそう頑丈ではない。救いがあるとすれば一本道なだけだ。
誰かが外で化け物を止めないと、扉はあっさりと破られるだろう。しかし誰かとは、この場では一人だけを示す。
もうアイアス一人しかいなくて、彼女は管制室の中に入る事は無く扉を閉めた。手を翳し【物質に干渉する魔法】を使い、扉を壁と固着させる。
これで、アイアスが死んでも少しは持つだろう。
アイアスとて死ぬつもりは無い。だが、アイアスを信じて死んでいった若者達の様に、身体に巻きつけた爆弾を確かめ、アイアスはため息をつく。
手元のショットガンの残りの弾を確かめれば、もう大した残弾は残っていない。誰かが助けに来てくれるなんて都合の良い奇跡など信じない。
徐々に近づいて来る化け物達の音を聞きながら、アイアスはここにはいない家族を想って薄く笑った。
口を開けば、マリアマリアとマザコン極まるセシリアの屈託の無い笑顔。
その隣で幸せそうに目を細める、こっちもこっちで娘大好きなマリアの微笑み。
そして悪戯好きで寂しがり屋な、どっかに旅立って手紙一つ送ってこない薄情な一番弟子の姿。
「イ“ィ”ィ“ァ”ァ“ア”!!」
化け物が群を成して一目散にアイアス目掛けて迫ってくる。
扉を背に、瞼の裏に浮かぶなんて事ない日常を映していたアイアスは現実に向き合った。託された思いに辟易としつつも、いつものしかめっ面を浮かべて不機嫌に睨む。
ショットガンを力強くスライドし、毅然と立ち塞がった。
「年寄り舐めんじゃないよ。こちとら意地張って生きて来てんだ」
ショットガンの激発が、化け物達の数え切れない程の咆哮すら食い破っていく。
彼女は決して、最後まで目を逸らさない。逃げ出さなかった。何より、諦めなかった。
誰かが繋げて来た希望の糸は、必ず次へ託す。未来へ。それが大人の役割だから。