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愚者の夢




 おぞろおぞろしい群れが、まるでイナゴの大進行の様に地を、空を黒く覆い尽くす。地の果てまで呑み、青空の一片までもを覆う。

 鳥を食い消し、川を干上がらせ、家屋を踏みつぶす。

 群れが出す音は地響きと羽ばたきの音。それ以外は無い。獣の鼻息も吠え声もならない。何故なら巨大な一つの生物と化した群体は、一様に生き物とは言えない化け物ばかりだからだ。


 空を覆い尽くす化け物は、虫だ。多種多様な虫の羽音が雨粒の様に殴りつけ風の囁きをかき消す。青空を喰らい尽くし、空を黒く染める。

 バッタ、ゴキブリ、蜂。あらゆる害虫と呼ばれる虫が一様に肉を求める獰猛な獣の様に目をギラつかせながら憐れな鳥を瞬きの内に骨の一片すらも残さず食らい尽くしてまた進行を再開した。 


 川を干上がらせた化け物は、元々は人魚族の女性だった化け物だ。人魚族の女性は美女ばかり生まれる。その美貌と歌声で船乗りを誘惑し、命を貰う駄賃代わりにひと時の夢を見させる。亜人ではなく、魔物のカテゴリーに分類される。

 しかし今やその美貌は見る影も無く、正真正銘の化け物に成り果てていた。

 彼女は川を通る。しかし、彼女が通った後には水は無い。彼女が全て吸い尽くすからだ。その所為で身体はどんどん膨らみ、水膨れすぎた身体は異臭を放ち血肉を腐らせてしまっている。

 肌は青白く変色し、その下の骸骨が見えた。嘗ては美しかった尾ひれの使い方を忘れ、地面を這って前へ進んでいる。


 家屋を踏みつぶしたのは、オークの化け物だ。豚面で太って醜悪で女の敵の魔物。鼻が鋭く力が強く、繁殖力も高い事から危険性も高い人類の敵だ。

 しかし今や面影はその豚面と膨れ上がった腹だけで、全くの別物に変貌している。

 植物の生命力、蛇の感知能力、鳥の筋力、馬の脚力。あらゆる生物の長所を、遺伝子を良い所取りして全く新しい生物へと変貌した。

 性能だけなら、成功と言える。このオークはあらゆる生物の長所を、オークの頑強さで耐えて受け入れる事が出来た成功例だ。しかし性能と見た目の良さが必ずしも比例する訳も無く、あらゆる生物の特徴だらけの姿は何を代表して挙げれば良いのか分からない程に、ごちゃまぜだ。


 それ以外にも沢山の化け物が居る。

 そしてそれらは尋常ならざる数で、今まさに人類が築いた壁と言う国境へ迫っていた。


「おっ……! おい! あれ……あれは一体何だ!?」

「化け物だ。見た事も、聞いた事も無い、まるでイカれた芸術家が書いた絵に出てくる化け物があり得ない数で襲ってきているんだ」

「……っ! ほっ報告! 今すぐ陛下に報告だ! あんな化け物の数、ここの兵力だけで相手出来る訳ないぞ!」


 国境警備に当たっている兵たちは、勇敢な兵長の一喝で恐慌状態から立ち直ると巣を突いた蜂の様に慌てふためきながら動き出した。

 足になる動物が怯え嘶くのを必死で抑えて、一も二も無く走り出した。

 誰もが武器を手に、一秒でも稼ぐために戦いの構えを取った。忠誠を誓う王へこの事を伝える為に、この壁の後ろに居る無辜の民を守る為に。

 この勇成国の地を、一歩たりとも化け物に踏ませないために。


 しかし誰もが声を出せない。地獄の様な訓練と戦場を耐えて、強靭な精神を持つ兵士となった彼らは、誰もが震えて生唾を呑んだ。

 口の中が渇いて、心臓が早鐘を打つ。

 まるで山が動いている様に見える。地面が割れるんじゃないかと思う程の振動が伝わる。青空を食い尽くしている様に見える。


 大量の化け物の群れは、一つの化け物に見える程に巨大だった。


 誰もが思う。果たしてこの化け物の群れに勝てるのだろうか。瞬く間に殺されておしまいなのではないか。


「う……うぉぉぉっ!! やってやる! やってやるよ!! 地獄なら腐る程見て来た! 今回だって何時もの地獄だ!」

「そうだ! そうだよな! 戦場で死ぬと思う事なんて沢山あったさ! だが生きてる! 今回も俺たちは生きて地獄を、絶望をくぐり抜けてやるさ!」


 だが男達にも兵士として、人間としての誇りがある。虚勢だと分かっていて、無理矢理笑って己を奮い立たせた。

 国境線に男たちの笑い声が木霊して、化け物の進軍にも負けない強さがあった。

 だが、ある一人の若い兵士の戸惑いの声にその笑い声が止まる。


 その若い兵士は信じられない物を見る形相で、今にも泣きだしそうな顔で前を指さす。彼の震える指先の先は、化け物の群れの先頭を指していた。

 誰もが、壮年の兵士も、百戦錬磨の兵士もその先を見て声を失わせる。


「あ……あれ……にせ、偽物……ですよね」


 そうだ。と誰一人声を上げる事が出来なかった。

 何故なら彼は勇成国の人間なら知らない者はいないから。兵士なら、誰もが剣を合わせ同じ釜の飯を食った事もあったから。

 幻覚であればどれほど良かっただろうか。だが、誰一人として彼の姿を見間違える事などあり得ない。


「勇者」

「アレックス……ガルバリオ様……」


 勇者アレックス・ガルバリオ。

 勇成国の騎士で、金髪碧眼の眉目秀麗な青年だ。本来であれば、初代勇者と呼ばれる300年前に人類と悪魔の全面戦争を止めた勇者の血を引く勇成国の王家の血筋がそう呼ばれるのだが、今代の王家の王太子であるイングリットは才に恵まれず、代わりに才能に溢れたアレックスが勇者と呼ばれるようになった。


 彼は文字通り、勇成国にとって希望の旗印となった男だった。


 そんな彼が、化け物の群れの先頭に居る。彼らを背に、自分達同胞に顔を向けている。

 誰もが彼の顔を良く見る事が出来た。良く見慣れた顔だ。戦場で見た顔だ。見間違える訳も無い顔を誰もが見て、言葉を失った。


「……」


 彼は、真っすぐに自分達を見つめている。はっきりと、自らの意思で自分達を見ていた。

 罪悪感を抱えている様子はある。だがしかし、歩みを止めない。

 彼は自らの意思でそこに居て、自らの意思で人間を、祖国を裏切ったのだと誰もが理解した。


 理解出来た彼らが出来たのは、ただ無言を貫くだけだった。喋れば、この光景が現実であると認めてしまう事になるから。いや、衝撃的過ぎて喋る事が出来なかった。

 だって彼は良い奴だから。だって彼は仲間だから。だって彼は勇者だから。

 誰もが、アレックスが裏切ったと理解してなお理解出来なかった。


「……っ。ふざける————」

「これは神の怒りである。空を喰らい、地を裂く。我が名は神罰の代行人」


 誰かが、壮年の騎士かも知れない。顔馴染みの戦友かもしれない。憧れを抱く若者かもしれない。誰かが怒りを上げようとした。

 皆の気持ちを代表し、友でも憧れでもなくなった勇者を敵と見なし自らの騎士としての誇りと矜持に賭けて剣に手をかけた。


 そんな彼らの怒りは、アレックスの詠唱に遮られる。正確にはアレックスの【紫電魔法】によって。

 アレックスの身体から、紫電の嘶きが弾ける。それは瞬く間に広がり集積した。膨大な量の魔力が広がり空気が歪む。魔力だけではない、紫電の熱と質量が彼の周囲を歪めた。

 誰かがヤバいと腰を浮かせる。逃げようとする。だがもう遅かった。


「吠えろ——ケイオスシージ」


 紫電が何十と地面を、大気を走って国境の壁へ迫った。まさしく神の怒りである雷が太く轟音を嘶かせながら周到に、一切の隙間を許す事無く同胞を、強固な壁を殴りつけた。

 紫電の嵐は一瞬にして人間を穿つ。悲鳴も怨嗟も上げる事を許さずに。

 崩れ落ちる壁の中からアレックスが現れる。仲間の焼け焦げた死体を踏み込え、彼は売国の逆徒となって今再び生まれ育った故郷の地を踏みしめる。


「……すまない」


 彼は誰に言うでもなく謝罪の言葉を口にして、歩みを止めない。終始申し訳なさそうな表情をしている彼は、目だけは何処か見えない何かを期待するかのように、底の底の方で笑っていた。

 化け物の群れが通った後、そこには何もなかった。

 アレックスは道を進み続ける。道は、彼の王の元へ続いていた。



 ◇◇◇◇



 魔王城。漆黒の堅牢な城の最上階は謁見の間になっている。魔王の玉座の最奥には大きな扉が聳え立ち、その奥には魔王の遺体が封印されていた。

 しかし今は固く閉じられていた扉は開かれ、魔王の遺体は無い。

 既にアダムによって奪取されてしまった後だから。ナターシャは戦闘によって激しく損壊した玉座の間の、崩れて大きく開いた窓に腰掛け大自然を物憂げに見下ろしている。


「……おかしいわぁ」


 ナターシャと、ここにはいない弟のエロメロイという悪魔二人の目的は魔王の遺体の回収。そして人間と魔界の戦争をもう二度と起こさない為に魔界の門を閉じるつもりで、人間の世界に来た。

 魔王の遺体を奪われ、死ぬほど腸が煮えくり返る気分だ。怒りが無意識に魔法を使わせ、彼女の周囲が甘く溶け出す。


 そんな彼女は、怒りを上回る程の思案に耽る。


「どうして敵は魔王城を奪おうとしたのぉ?」


 ナターシャはアダムと言う遺物の性格をよく知っている。何をしようとしているのかも確信を持っている。

 アダムは人間と魔界の戦争をもう一度起こす為に、魔王の肉体を手に入れようとした。魔王の肉体はいわば鍵だ。魔王の肉体に根付く【次元に干渉する魔法】があれば、異なる世界の扉をこじ開けられる。

 そしてスペルディア王国にて奪取した【天球儀】があれば、その演算能力で補助を得て世界中ありとあらゆる場所に魔界の門を開くことが出来る。


 そして何より、魔王城の真の意味をアダムが知らない訳が無いとナターシャは考える。


「魔界とつながる為ならぁ、この魔王城は寧ろ壊す筈なのに」


 この魔王城は錨だ。嘗て魔界の門が開き、この人間の世界に悪魔が侵攻を始めた時にその門を制御する為に建てられたものだ。つまり、この城がある限り魔界の門を大規模に開く事は出来ない。

 アダムもそれは承知の筈だ。戦争を起こせる程に大規模に開く事は魔王自身の魔法ですら不可能な、筈。


 何か知らない魔王城の機能を探してあらゆる資料を漁ったが、あいにくと何も見つからなかった。

 ナターシャにとって、敵が何故邪魔な筈のこの城を壊すのではなく奪おうとしたのかだけが分からなくて苛立つ。利用価値は無い筈なのに。


「も~! 分かんないわぁ、女王様もぉ知らないって言うしぃ」


 頭を悩ませすぎて疲れたナターシャは、身体を投げ出して床に寝転がる。天井を見上げながらぶつくさ文句垂れて目を瞑った。暫しの休息。瑞々しくて涼しい風が彼女の青肌を撫でれば、心地良さから眠気が襲ってくる。

 ヤバいなぁ、これこのままだと寝ちゃうなぁと思いつつゆっくりと意識が微睡んでいくナターシャの耳に固い靴底の足音が聞こえる。


「何だ、寝ているのか」

「……起きてるわぁ」


 ほんの少し心地良い微睡みを邪魔にされた不快感と、熟睡しなくて良かったと感謝して目を開く。寝転がったまま見上げればナターシャの真紅の瞳は赤髪の女騎士を映す。


 赤髪の女騎士。帝国騎士の象徴である詰襟の軍服をかっちりと着込んだ鋭い相貌の刀を持った騎士だ。

 スーリア・ベルファスト・ローテリア。

 赤い髪をポニーテールに纏め、エリザベスに対して固い忠誠を誓っている。彼女は剣聖と呼ばれる程に剣の道に生きて、その力を忠誠の元に全てを捧げた。


 敵としてナターシャとも戦った。拭いきれない罪を背負った。スーリアに騎士を名乗る事は許されないかも知れない。

 それでも彼女は刀を、軍服を捨てなかった。


「……まだ傷も癒えてないのだろう。見張りなら変わる、休め」


 目つきが鋭いからただ見下ろしているだけで睨むようになってしまう。更に物言いも命令口調なのもあって高圧的だが、よくよく見れば髪に隠れる耳が赤いのをナターシャは見落とさない。

 何より、エリザベスもナターシャも表の顔こそひどく冷たいがその内面は子供を大事に扱う良い奴なのだと言うのをもう知っていた。


「お姉さんにぃボコボコにされた人が言えるセリフぅ?」

「手加減しておいて何を今更」


 だからニヤケ顔でちょっかいを掛ければ、スーリアは顔を背けて察された恥ずかしさと負けた屈辱に赤くなる顔を隠す。

 ナターシャの悪戯心を刺激するその姿に、大いに興奮しながら飛び起きるとスーリアの手足を絡み取った。


「なっ!? 貴様何をする!」

「良いではないか良いではないかぁ」

「ひゃぁっ!?」


 ナターシャはスーリアを後ろから抱きしめる様に、動けない様に手足を絡み取り耳元に口を近づけて囁く。

 スーリアもスーリアで無理やり突飛ばせばいいのに、負い目でもあるのかされるがままでナターシャの豊満な身体を押し付けられて顔を真っ赤にして固まる。


初心な(良い)反応するわぁ。お姉さんここ最近ずぅっと戦ってたからぁ、溜まってるのよねぇ?」

「や……やめっ。あんっ」


 悪戯の範疇を超えて、ナターシャの真紅の瞳が妖しく光る。艶やかに舌なめずりしふぅっと耳に生暖かい息を吹きかければスーリアは艶めかしい声を漏らして腰を甘く震わせた。

 スーリアは剣の道一本で生きて来た人間だ。女としての人生を捨て、貴族としての矜持と剣士としての誇りだけを胸に生きて来た。故に、スーリアは処女である。何より性知識に関しては赤子並みだった。


「お、前……っ! こんな時に、なあんっ!」


 されるがままに弄ばれる。耳をはまれ、首の産毛を優しく逆撫でられ、下っ腹を甘く疼かせられる。

 スーリアにとって未知の感覚に襲われ、頭が茹で上がって正常な思考が出来なくなる。今、スーリアはこの快感から逃げたいがもっと味わいたいと思ってしまう。それが身体に現れ無意識に腰を押し付けていた。


「そう言えばぁ、弟のエロ本で見つけたんだけどぉ。女騎士はぁ弱いって本当かなぁ?」


 は! 今どこかで姉貴が甚だしく俺の尊厳と権利を侵害している気がする!

 エロメロイ覚醒。しかし悲鳴が何処かから響いた。

 

 ナターシャは行けると確信して、嗜虐的に目を細めながらスーリアの耳元で囁く。勿論、その間もアプローチは欠かさない。自らの豊満な胸に腕を抱き寄せ、太ももを股に滑り込ませて少し揺らす。

 意図して声を低く、舐める様に囁いた。


「アナル……弱いのぉ?」

「はぁっ!? ふざけるな!」


 流石にこればっかりはスーリアも怒りと恥じらいを浮かべて飛び退いた。ウゥ“と唸りながら、火照った頬に潤んだ瞳で睨む。剣に手を添えないのは敵ではないからだ。せめてもの意趣返しに睨むが、ナターシャからすれば子猫が威嚇する様な物だ。

 余計に嗜虐心を刺激されるだけ。

 流石にこれ以上はやり過ぎるかなぁとナターシャが両手を上げた所で、それを感じた。


「!!」

「殺気か!?」


 先ほどまでの和やかでお茶目な空気は一瞬で食い破られ、二人は一瞬で意識を切り替える。素早く窓際に移動し、険しく周囲に視線を配った。

 二人は外から見えない様に身をかがめ、注意深く敵を探す。


「敵は見えないわぁ」

「私もだ。しかしなんだこの殺気は。感じた事も無い感覚だ」

「気持ち悪いわねぇ。でもそぉ、これは多分……嫉妬ねぇ」


 二人共、数え切れない程の戦場を潜り抜けて来た兵士だ。戦場の空気は鼻に染み付いてるし、土の味はいまだに口の中に残っている。殺意や悪意なんて嫌と言う程感じたせいで、どういう奴がこっちを見ているか分かる様にすらなった。

 なのに、そんな数え切れない程の地獄を見て戦場を走って来た二人をして、今感じるこの殺気には冷や汗をかいてしまう。


 気持ち悪い。その一言に尽きた。感じる殺気はまるで蛇の様に巻き付いて、爛れそうな程に熱を持っているのに臓物が冷える様な冷たさを放っている。

 ナターシャは直感的に女の嫉妬だと断言したが、心当たりが無くて首を傾げた。スーリアもまた、分からないと首を振る。

 その間も殺気は収まらず、ただ真っすぐにこちらへ向いている。そして肌で感じる。近づいていると。


 とうとうナターシャはその先端を捉えた。しかし眉を潜めてスーリアを呼ぶ。


「……ねぇ? あれって雨雲かしらぁ」

「何を……っ!」


 聞かれたスーリアは思わず、その正体を理解して飛び上がった。その顔は驚愕と絶望に慄いている。

 暗雲だと思っていた物の正体を理解したから。城壁の様に立ち塞がる木々をなぎ倒す何かを、偶然捉える事が出来たから。

 唇は青ざめ、身体が震える。無意識に刀に手を当て、脂汗を滲ませて動揺のままに叫んだ。


「あれは化け物だ! 化け物の群れだ! 数えきれない程の、まるで大地その物の如き数の化け物がっ今まさにこの城へ向かっているんだ!」


 叫ばずにはいられなかった。冷静さを失う程の大群が攻め込んできている。その事実が、現実とは思えない理解しがたい巨悪が迫っている事がスーリアから冷静さを失わせた。

 空を覆う数の虫の大群が。大地が動いていると錯覚するほどの化け物の群れが、今まさに進軍してきている。真っすぐに、この魔王城へ向けてただただ真っすぐに。

 スーリアの判断は早かった。最も最適で合理的な判断を下す。


「撤退だ! あれは最早、人がどうにか出来る物ではない! 濁流、自然の暴力その物だ! 我々がどれだけ死力を尽くして強固な壁を築こうと、瞬く間に藻屑と化す程の暴力の波だ!」


 一も二も無く踵を返し、スーリアは逃走を選択した。

 戦おうなんて欠片も、微塵も思わなかった。


「待ってぇ」

「待てるか! 今すぐ陛下にお伝えし逃げねば。あれは直ぐにここへ来るぞ! あれは枯れ野原に火を放つが如く瞬く間にここを土塊に変えるぞ!」


 スーリアはナターシャの静止を一蹴して走り出してしまった。彼女はもうここから一秒でも早く、己の主を逃がす事だけしか考えられなかった。

 残されたナターシャは、その背を見送る事無く真っすぐに化け物の群れを見下ろす。隠れるのを止め、堂々と姿を現してその先頭にいる少女と目が合う。互いに、視線が合うのを感じた。


「随分とまぁ、堕ちる所まで堕ちたわねぇ。お姫様ぁ」


 化け物の群れの先頭に、居る。少女が。

 その少女は、虹色の髪と瞳を持つ人外の美しさを持つ一国の姫だった。

 名をオフィーリア・ラインハルト・スペルディア。

【未来を視る魔法】と宝石の擬人化という亜人の先祖返りの人外の美貌を持つ為に、宝石姫とまで呼ばれるスペルディア王国の王女だ。


 前世では千夏と呼ばれていた、異世界転生者である。前世では初恋の女の子に告白する事が出来ず、目の前で死んでしまった事が切っ掛けで精神を病み、再びこの世界で同じように転生した初恋の女の子と再会を果たすも拒絶された事で歪みは狂気と憎しみへと変貌し、今や世界を滅ぼす徒と成り果てた。


 遙か遠くに居る二人は、確かにお互いを認めていた。ナターシャは理解する。あれはもう手遅れだと。その目は、堕ちた者の目だと。憐れみすら浮かべてしまう愚者の目だ。

 ナターシャの憐れみを感じたのか、オフィーリアから発せられる殺気はより濃密になって襲い掛かる。


「気に入らないわぁ」


 だけどナターシャは逆に睨み返す。どうしてそんな風に堕ちて、そんな感情を向けてくるのかを女として理解出来たからこそむかっ腹が立った。

 真っ先に逃げを選択したスーリアとは逆に、ナターシャは極めて非合理的で感情的に判断を下す。


「捻くれたクソガキの根性ぉ、お姉さんがぶっ潰してあげる」


 勝算なんて万に一つも無い。それでも、ナターシャは自分の気持ちを最後まで信じる事の出来なかった子供から目を逸らさない。

 背を向け戦いの準備へ向かうナターシャの背中を見届けたオフィーリアは、薄く笑った。嘲笑うかの様に。酷く酷薄に。


 そぅっと口を開いて、指さしてオフィーリアは背後の化け物達へ命令する。


 ——全部壊しちゃえ。


 悲鳴の様な絶叫が開戦の狼煙となる。全てを壊せ、その願いを叶えるべく化け物達は走り出した。

 壊して、壊して壊しまくる。まるで、癇癪を起す子供の様に滅多矢鱈に。その光景をオフィーリアはただ笑って見ていた。昏く淀んだ虹色の瞳に、光の一切を消し去ったまま。


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