戦士たちの楽園
朝露を煌めかせながら、朝日が窓から差し込む。小綺麗な執務室内に万年筆を走らせる心地良い音が鳴っていたが、音の主は朝日に気付くとため息をついて筆を置いた。
「んっ……ふっ……はぁ。もう朝なのね」
部屋の主は座り心地の良い高級椅子に座りながら、凝りを解す為に肩を回す。疲労感によって気怠い頭を回せば、金色の豪奢な立て巻きツインテールが振り子の様に揺れる。
そして知らずの内に皺が寄ってしまう眉間を、大振りの宝石が嵌められた指輪を付けたしなやかな指で解せば気の強そうな猫目から輝かしい翡翠が覗く。
その仕草は、まだ20にも満たない少女にしてはやけに板に付いていた。
「少し、休憩した方がよろしいですわね」
彼女は席を立ち、背後の窓を大きく開ける。早朝の涼し気な風に肌を撫でられつつ、詰襟の軍服の襟を開いて深緑の青い匂いと瑞々しい空気を肺に取り込む。
質実剛健な詰襟の軍服に、自己主張の強い立て巻きツインテール。気の強そうな猫目の16頃の少女。彼女の名はクリスティーヌ・フィーリウス・ローテリア。
争いの絶えないローテリア帝国のフィーリウス公爵家の次女にして、放蕩なれど義侠心の強い誇り高い少女だ。
「ふふ、魔王城と言えどこの光景は堪らないですわ」
彼女が居るのは、嘗て300年前に人類を滅亡の憂いに瀕させた異世界からの侵略者の前哨基地——魔王城——の最上階に近い位置の執務室の窓を開け放ち、窓枠に座って見下ろすは360度見渡す限りの美しい湖面とその外へ広がる深緑。
嘗て人類の敵であった悪魔達の城とは言え、当時を知らない若者からしたら美しい光景を見してくれる古城でしかなかった。
そう、今彼女が居るのは前時代の遺物である魔王城の最上階に近い一室。何故彼女がここに居るのか、それは彼女がつい前日までここで死力を賭して戦っていたから。
早朝の輝かしく美しい世界に目を細めていたクリスティーヌの手元に、折り紙で出来た鳥が舞い降りた。
これは、と目を瞬かせていると折り紙で出来た鳥は挨拶する様に羽根を広げると人間の咳払いの音を奏でる。
『おはよう、クリスちゃん。無事な様で何よりだわ』
「おはようございます、義姉様」
折り紙で出来た鳥から聞こえたのは、クリスティーヌの義理の姉であり勇成国の王妃レフィルティニア。王妃として玉座から動けない彼女だが、こうして遠く離れていても連絡を取り合う手段を持ち得ているのが彼女が王妃たる由縁の一つである。
離れてまだ数日しか経っていないが、懐かしさすら覚える声にクリスティーヌは口元を緩めるが、彼女の声が硬い事に背筋を伸ばす。
『本当なら貴女に労いを籠めて可愛い所をあげつらいたいけど、そんな事をしている場合じゃないから単刀直入に行くわね』
良かったと内心ため息をつく。レフィルティニアは王妃として相応しい人物だと評価しているが、義理とはいえ妹となったクリスティーヌをそれはそれは可愛がる節がある。迷惑とは言わないが、徹夜明けには堪える愛情だからこそそれが無いのには安堵する。
そしてレフィルティニアは義姉としてではなく、王妃として対話を望もうとしている。それを察したクリスティーヌも帝国貴族として対話を果たす。
『正直、報告を聞いても信じられない気分だわ。いえ、現皇帝エリザベス・ウィルヘルム・ローテリアが戦争を望んでいるという所ではないわよ。前文明以前の魔道歴の遺物が、意思を持ち世界滅亡への切符を配っているだなんて』
「ですが義姉さま。それは全て真実ですわ」
『えぇ、えぇ。勿論疑っていないわ。だってその先手としてこの勇成国が選ばれたのだしね』
全ての始まりは、ローテリア帝国の女傑エリザベス・ウィルヘルム・ローテリアが皇位を簒奪した事から始まった。彼女は全文明である魔道歴にて作られた【アダム】という遺物の協力を得て、まず初めにセシリアの故郷である勇成国の辺境の街に帝国にて長く封印されていた黒龍ファフニールを起動実験がてらに襲撃した。
勿論、その場に居たクリスティーヌとヤヤ達を含む街の兵士達は抵抗を図るも、その圧倒的強さの前に為す術も無く、出来た事と言えば自分達の身を守る事と死体の処理位。
悲劇は終わらず、セシリアの育ての祖父母であるトリシャとガンドがダキナによって殺され、数多くの友人も殺された。
ダキナはそれだけに留まらず、マリアを誘拐した後、セシリアとのタイマン勝負にてマリアを殺害。結果、セシリアはその時初めて父親である悪魔の力に目覚めると共に暴走する力のままにダキナを撃退、果ては産声に惹かれた黒龍までもを撃退するも。街は半壊、数え切れない程の死傷者を生み出して辛くも勝利をもぎ取ったのだ。
『勇成国の次はスペルディア王国。まさか周辺諸国が一同に集まる催しの最中に、化け物を用いて強襲を図るなんて。お陰で、息子には大変な思いをさせてしまったわ』
「その説に関しては、その場に居ながら守り切れず。謝罪のしようもありませんわ」
『何言ってるのよ、五体満足目立った怪我も無い。貴女が居たからこそ、私はあの子をもう一度抱きしめる事が出来たのよ。お礼を言いこそすれ、謝られる事なんて何一つないわ』
次はスペルディア王国にて、王国の奥深くに隠されていた魔道歴の遺物の一つ【天球儀】を強奪する為に行われた戦い。
新皇帝として大陸三強を筆頭にした、宣誓式。年に一度の祭りに併せて多くの周辺諸国が集まった場にて、人間の身体を繋ぎ合わせた化け物を大量に放ち混乱に乗じてエリザベスは目的である【天球儀】の強奪を果たしたのだ。
彼女がやった事はそれだけだ。しかし10数年前に冤罪で処刑された令嬢の父親の復讐が、王国の騒乱を強調する事となった。内部協力者としてエリザベスを手引きした後、かの父親は異形と変わり果てても尚、スペルディア国王を殺そうとした。しかしその目論見は、代表使節として赴いていた勇成国の王子であるイングリットとクリスティーヌによって阻まれる。
そしてクリスティーヌの預かり知らぬ所ではあるが、オフィーリアによって誘拐されたセシリアとマリアも同刻、同じ場所にて戦いに巻き込まれていた。
彼女はまたしてもダキナと戦うだけでなく、悪を滅ぼす事を命題とした異端審問官ベルナデッタとの三つ巴の戦いを繰り広げ、命の危機と宝物を壊された怒りで再び暴走状態となった。
最終的にセシリアはオフィーリアに奪われ、マリアもまた異形と化して後を追いかけた。
そして【天球儀】という超高度な演算遺物を強奪したエリザベスは、次の目標として今クリスティーヌが居る魔王城を目指したのだ。
『でもそうね、一番悩ましいのは魔王の復活なのよね』
「その通りですわ」
しかしその目論見は、クリスティーヌの歴史から導かれた推理とナターシャ、エロメロイ両名の協力を以って何とか食らい付いた。
クリスティーヌとヴィオレット。ナターシャとエロメロイ。ヤヤとフラン。この6人で魔王の遺体と魔王城を奪われまいと邁進し、それぞれが死闘の果てに突然の協力者も併せて魔王城を奪われる事だけは回避できた。
しかし、アダムによって300年前に人類を滅亡の淵にまで追い込んだ魔王の遺体を奪われる所か、その再臨を許してしまった。幸いにして本調子ではなかったお陰で、退ける事は出来たがその代償は大きい。
『とりあえず事の成り行きは分かったわ。貴女の要望通り、この事は各国へ通達の後に然るべき対応を取るわ』
「お願いしますわ。流石に、これ以上はワタクシの手には余りますもの」
レフィルティニアの快諾に胸を撫で下ろす。断られる事は無いと思っていたが、それでも一個人には扱いきれない課題を王妃の立場に居る人間が直ぐに頷く保証も無かった。が、それも杞憂に終わる。
『何? 今大事な話を——えぇ、そう。分かったわ。ごめんなさいクリスちゃん、今日はここまでで良いかしら』
「勿論ですわ。お忙しい中、ご助力下さり感謝致します」
『気にしないで。それじゃあ、次は抱擁とキスが出来るのを期待してるわね』
何やら忙しそうな雰囲気で会話を切り上げたレフィルティニアに苦笑しつつ、音声のみの相手に頭を下げて会話を終える。
兎にも角にも、これでクリスティーヌに出来ることは全て終わった。不完全燃焼を残しつつ椅子に深く身体を預けてため息を吐いた。そう、ここから先はクリスティーヌ達だけではもうどうしようもない。何故なら、こちらはもう碌に動ける人材が居ないのだから。
タイミング良く、ノックの音が鳴った。入室の許可を出せば、青色の肌に真紅の瞳を持つ煽情的で官能的な女性が姿を現す。
「ご機嫌よぉ。お話は終わったぁ?」
「えぇ、ご機嫌よう。ミス・ナターシャ。如何して?」
クリスティーヌの前に現れたのは、300年前に人類と争った異世界の住人。悪魔と呼ばれる人種の女。悪魔の共通点として青い肌、黒白目に浮かぶ真紅の瞳。
彼女個人の特徴としては、癖ッ毛混じりの長い黒髪。眠たげな眦に涙黒子、妖艶な唇。何より特徴的なのは、黒いビキニと身体を締め付ける沢山のベルトというファッション。それによって彼女の非常に男受けする欲情的な身体が惜しげも無く晒されている。
彼女の名前はナターシャ。魔王の遺体の回収、魔王の意思を果たす為にクリスティーヌ達に協力している悪魔である。
「皆の治療がひと段落ついたからぁ、いちぉ報告しとこうと思ってぇ」
彼女は特徴的な眠そうな間延び声で、もう大丈夫と告げた。それを聞いてクリスティーヌは心の底から安堵する様に脱力する。どうするのかと問われれば、席を立ちあがって肩にかかるツインテールを払った。
「エリザベス陛下に会うがてら、様子を見に行きますわ」
虹色の宝杖を手に、クリスティーヌは崩した襟元をきちんと整え部屋を出る。ナターシャを隣に歩かせながら、そうだと声を掛けた。
「貴女は動いてて平気ですの」
「心配してくれるのぉ? うれしぃ。お姉さんはぁこれでも近衛師団の長だったからぁ、軟な鍛え方はしてないわぁ。むしろぉそっちこそ大丈夫なのぉ?」
「問題ありませんわ」
「……そぉ」
クリスティーヌの見えない壁を感じさせる言葉に、ナターシャは目を細めた。
何も言わず、杖を突いてゆっくりと歩くクリスティーヌのすまし顔を見つめ続けたが、クリスティーヌは前だけを見たままそれ以上何も言わない。お互い仲がいいとも言えないから会話が途切れたまま、人の気配がひしめく場所へ辿り着いた。
元は大食堂の様な広い部屋で、何人もの修道士達が忙しなく駆け回っている。手に持つのは血塗れの包帯や桶。使い終わった治療器具に掃除用具なんかを持っている人もいる。
その内の一人に、クリスティーヌが声を掛ければ弾けるような笑みを浮かべた。
「クリスティーヌ様! ご機嫌よう」
「まぁ、ご機嫌よう。その挨拶、帝国の生まれですの?」
「はい。と言っても、没落した貴族の生まれで、縁あって教会の信徒となっていますが」
帝国式の礼をしてきた年若い修道女に、同郷の懐かしさを感じて穏やかな挨拶をしつつ、彼女の案内で室内に踏み込む。
中では、クリスティーヌと共に戦った仲間たちがベットに寝かされている。
沢山の管に繋げられ、見た事も無い技術の設備でボロボロの身体を懸命に治そうと尽力している修道士達が居た。
「それにしてもこの城の設備は凄いですね。私達だけじゃ治せない状態でも、この設備のお陰で峠は越えましたよ」
「そりゃぁ遙かに栄えた時代の技術だからねぇ、これでもほんの一部分なのよぉ?」
「ほへぇ、そりゃ文明が滅びるのは納得ですね」
「お二人共、怪我人の前ですわ」
クリスティーヌはまず、一番手前に居た二人の少女の傍に近づいた。
「ヤヤちゃんとフランちゃんですね。この二人は傷は多いですが、命に別状はありません」
「むにゃぁ」
「……ぅう」
二人いるが、ベットは一つとなっている。その理由は、気持ちよさそうに眠る灰色の狼獣人の少女と白髪の同じ顔の三つ子が白髪の四肢が無い少女に抱き着いているからだ。
案内人曰くどれだけ離そうとしても、頑なに離れようとしなかったから。幸い比較的軽症な為、その状態で置いといたらしい。
灰色の狼獣人の少女の名は、ヤヤ。まだ12歳ながら帝国山間部にある狩猟民族の生まれで、故郷の為にはるばる出稼ぎに来た家族思いの優しい女の子だ。彼女もまた正義感が強く、命がけで今日まで共に戦ってきた。
「ふふ、涎を垂らして気持ちよさそうですわ」
そんなヤヤが離したくないと抱きしめるのは、四肢が無い異様な見た目の白髪の少女、フラン。彼女も12歳ながら、四肢は無く代わりにと魔道歴の技術を使った義手義足を用いて戦う、元々は敵であるエリザベス側の人間だった。
彼女の際たる特徴として、傷跡に覆われる右目にはめ込まれた赤い石。これはただの義眼では無く【賢者の石】と呼ばれる超高度な魔力供給装置であるが、その燃料はフラン自身の大量のクローンの命。それはフランの罪の結晶であった。
彼女は【賢者の石】と魔力を撃ち出す義手義足で以って、エリザベスが大切だからこそクリスティーヌと共に戦う事を選択した。
「ぅう……重い……あつい……」
そんな彼女は今、ヤヤに抱き着かれクローン体であるシスターズ達に抱き着かれ負傷とは別の要因で悪夢を見ているらしい。
まだ12歳という幼い身で、死への恐怖に打ち勝って戦ってくれた勇気を労ってクリスティーヌは少女達を撫でて次へ向かう。
そこではヤヤ達と違って明るい喧騒に満ちていた。
「いででで!! もっと優しくしてくれっしょ!」
「男だろうが、我慢しなさい! 君、そこの塗り薬を取ってくれ」
「ちょっ! 今女を近づけ——」
『エロメ? また私以外の女の子と一緒に……』
「ひぃっ!? ヘルベリアちゃん! 俺は何もあぎゃぁぁぁ!!」
怪我人の筈の青年の悲鳴が木霊するが、周囲は気にも留めない。それ位、日常と化す頻度でそのやり取りが起こっている様だ。
クリスティーヌが訝しみ、ナターシャがため息をついてしょうがなく仲裁に入る。
「ヘルベぇ、いちぉ愚弟は怪我人なんだから優しくしてあげなさぁい」
「姉貴……!」
『いやよ。エロメは私のなんだから、姉と言えど容赦しないわよ』
「あっそぉ? でもぉ周りには迷惑かけちゃ駄目よぉ」
「姉貴……」
騒動の原因は、ベットで悲鳴を上げる青い肌の青年の枕元に浮かぶ黒い女。
まずは青い肌の青年から。エロメロイと呼ばれる悪魔、彼はナターシャの実の弟である。年の頃は20代に見えるが、彼もナターシャと同様300年前の人類と悪魔の戦いに参加した戦士の一人であり、忠実なる亡き魔王の意思を継ぐ臣下。
全身包帯塗れでボロボロだと言うのに、お調子者の空気をそのままに姉と同じ黒髪をきちんと中分けでセットしている。肌の色と糸目から覗く真紅さえなければ、彼もまた普通の人間と変わらない様にしか見えない。
おーのー! なんて悲鳴を彼が上げる原因は、ヘルベリアと呼ばれた黒い女だ。
『……まぁ良いわ、夫の家族と仲良くするのは良妻の嗜みだもの』
「ありがとぉ」
「ほっ」
ヘルベリア。それはエロメロイが武器として使う影を形にした漆黒の鎌の名前と同じだ。その姿形も、影が女の形をとっている。
その正体は戦争時代に死んだエロメロイの恋人。死して尚こうして魔法と化してでも恋人と一緒に居ようとする執着が、ヘルベリアという女を作り出した。
嫉妬心と執着心の強い女の尻に敷かれるエロメロイだが、彼もまた命がけで戦い抜いた仲間の一人。
元気に喋っているが、魔王城を奪われまい為に単身奮闘し、指先一つ動かせない程の重傷を負っているのが今だ。頑張った証拠として、魔王城は誰にも奪われずエロメロイはベットから動けない。
軽口を叩けるのが奇跡。なんて思う程、エロメロイは全身余す所なく傷だらけなのだ。
「怪我人の傍で騒ぐんじゃねぇ!!」
「はぁい」
『……ごめんなさい』
「やっと静かになったっしょ……」
傭兵にしか見えない強面の修道士の一喝によって、ナターシャもヘルベリアもしゅんと肩身を小さくして静かになる。それを見届けたエロメロイは静かに毛布の中に沈むのだった。
しかし包帯を変えようと妙齢の修道女が近づくと、またヘルベリアが騒ぎ出してナターシャが笑ってエロメロイが悲鳴を上げる。病室の一角は非常に微笑ましくなっていた。
「何を騒いでおりますの」
それを横目に、クリスティーヌは一際治療機材が並べられているベットに視線を落とした。
足裏に大量の配線を感じながら、聞こえるのはピッピッという機械音と消え入りそうな呼吸音。ヤヤとフランの様な安堵する寝息でも、エロメロイの様な騒々しさもない。本当に、耳を澄ませて注意しなければ聞き逃してしまいそうな程の呼吸音。
酸素を吸入する機械が無ければ、彼女は呼吸すら出来ないだろう。
クリスティーヌは、神妙な面持ちでベットで眠る彼女の爪の剥がれた指先を撫でる。
「ヴィー」
そのベットで眠るのは、クリスティーヌのただ一人の侍女であるヴィオレット。
明るい紫のボブカットに、切れ長の鋭い眦。眠る姿すら女が惚れる美人顔で、並大抵の努力では得られない鍛錬の結晶である鍛え上げられた長身の身体が美しい、クリスティーヌが心も体も許すただ一人の親友だ。
案内してくれた修道女が、気を利かせたのか状態を伝えて踵を返した。
ベットに眠る4人の中で、ヴィオレットが一番状態が酷いらしい。
魔王城の治療機材のお陰で一命は取り留めているが、いつ状態が悪化しても可笑しくない。致命傷こそないが、失血と全身の傷が酷く意識を取り戻すかも、仮に目が覚めても歩ける様になるかどうかすらも分からない程の傷だと。
筋肉どころか、神経すらズタボロのヴィオレットは反応一つ返す事無くただ生きるのに専念している。
修道士たちが見つけた時には、一人で倒れ心臓が止まっていたと言う。
クリスティーヌは傍にあった椅子に腰かけ、ヴィオレットの寝顔を眺める。
「ヴィー。よく頑張りましたわね」
辛い事を任せてしまった。爪は剥がれて、優しく髪を梳いて肌を撫でてくれた指は見る影もない。綺麗な顔には跡になる傷が出来てしまっているし、もう二度と傍らで見守ってくれる事も出来ないかも知れない。
労い、後悔に目を瞑った。そうしないと我慢する事が出来ないから。
クリスティーヌとヴィオレットの関係は、ただの主従では語れない。親友であり、姉妹であり、恋人でもある。
クリスティーヌは美しい物が好きだ。見た目だけでなく、その生き様や心の美しさを最も好む。
数多くの美しい物を見ていた中でも、ヴィオレットは最も美しかった。思えば、それは恋は盲目という話だけだったのかも知れない。だからこの状況は、想像していたのにも関わらず耐え難い痛みを齎した。
後悔しないかと言われればそんな訳が無い。今だって湧き上がる後悔の言葉を、謝罪を必死で歯を食いしばらなければ溢れてしまうだろう。だがそれはクリスティーヌの矜持が許さない。
もし。なんて物は考えた所で仕方ない上、それは必死で戦ってくれた仲間への侮辱に当たる。
誇り高い帝国貴族として、一人の女としてそんな行いは許容出来ない。
それにここは病室だ。怪我人を前にして泣き言を言うのは相応しくない。
だから、クリスティーヌは何も言わず固くヴィオレットの手を握って何時もの鬱陶しい位に自信たっぷりに胸を張る。枝毛一つ跳ねていない豪奢な縦巻きツインテールをたなびかせて笑う。
「後は任せない。このクリスティーヌ・フィーリウス・ローテリアが美しく未来を守ってみせますわ」
宣言と共にヴィオレットの薬指に軽くキスをした。
帝国に古くからある伝統で、必ずこの言葉を貫くと言う宣誓の儀式だ。大体に於いて、婚姻の証明に使われる。
知らない筈がないクリスティーヌは、最後にヴィオレットの頭を撫でて部屋を後にした。
「女帝さんの所ぉ?」
「えぇ、案内して下さいまし」
廊下にはナターシャも居て、壁に背を預けている。クリスティーヌが来ると次の目的地へ先導を始めた。その後をクリスティーヌが続こうとして、壁に手を着いた。
「? だいじょうぶぅ?」
「っ……」
立ち眩みなのかクリスティーヌは額を抑え、目を瞬かせる。心配し立ち止まるナターシャに手を突き出すだけで返事が出来ない。
だがクリスティーヌの呼吸は乱れてないし、顔色も悪くない。精神的な理由で言葉が出来ない様だ。
一度強く目を瞑り、被りを振って立ち直った。
「——えぇ、問題ありませんわ。陛下の所へ行きますわよ」
心配そうなナターシャの後ろを着いていくクリスティーヌは、杖を突いて歩き出す。ゆっくりと、地面がある事を確かめながら歩くように覚束なかった。
その力強い翡翠の目が、片方から光が失われていた。




