愛憎四角関係
マリアが大好きで、マリアの為に生きていると言っても過言ではないセシリア。そんな彼女が、例え意識を精神の牢獄の中に囚われていると言っても最愛が傷ついて、死んだとしたら。そんなの火を見るより明らかだろう。
「ォ“ア”ア“ア“ア“ア“ア“!!!!」
家の壁をぶち壊して、セシリアが雄たけびを上げる。
決して目覚めた訳ではない。それは理性の光を灯していない真紅の瞳が物語っている。
セシリアは雄たけびを上げ終わると、その身体に漆黒の鎧を纏い出した。
赤黒く脈打つ刺々しく、禍々しい闇より深い黒の全身鎧。兜は龍を模した物。人が身に纏う鎧は、しかして人とはかけ離れた姿に形を変える。
「愛衣!?」
「あはー。怒っちゃった、てへっ」
両手足は太く鋭く、化け物に相応しい爪と拳が生える。地面を叩きつけるのは何かと思えば、棘だらけの凶悪な尻尾が大気を殴る。
漆黒の龍騎士。本来なら強さと栄光にのみ与えられる至高の鎧は、人外の化け物の物と化した。
「ウ“ゥ”ゥ“……」
「……」
そのセシリアは、以前よりは比較的鮮明な唸り声を上げて冷酷に宙を浮かぶマリアを睨みつける。
マリアもマリアで、大仰に姿を変えてしまっていた。
「……悪魔」
手足には美しくも刺々しい黒い紋様が走る。黒翼も以前より一回り大きく、雄大に。何より顕著なのは身に纏う闇の羽衣だろう。
その羽衣は魔力によって編まれた物。天女の様な羽衣ながら、黒と緻密な模様は堕ちた天使に相応しい無垢な悪意を感じさせる。
それを纏っているのが、絶対零度の表情をしたマリア。いつも母性と優しさを携えた微笑みを浮かべているマリアとは思えない程、冷酷な表情をしている。
愛娘を前にしても、彼女は笑みを浮かべる所か敵と判断する。それが何よりの、マリアがマリアではない証拠。
「経典を燃やしなさい。それこそ人に相応しい」
詠唱。それに意味は無い。しかしゆらりと掲げられた右手を指揮棒に、黒翼をはためかせると黒い羽根が弾幕と降り注ぐ。
ズドドドッ! と黒い魔力を纏った羽根は羽根とは思えない重さと鋭さで、防ぐ事など不可能。
「あぶにゃ! あはー!」
「っち」
ダキナとオフィーリアはたまらず即座に地面を蹴って、弾幕から逃れる。ダキナは勘頼りに弾幕の薄い所を縫って射程外へ。オフィーリアは物陰へ隠れようとしたが、その物陰が濡れ紙を突くように壊されたのを見て傷を作りながら射程外へ。
「ゥ“ァッ!」
しかしセシリアは、まだ変身した身体に慣れていないのか素早く動けず、両腕を盾にその場で耐え凌ぐ。
その鎧に黒い羽根が着弾すると、まるで50口径炸裂徹甲弾の様に着弾面がはじけ飛んだ。
弾け、弾け、弾け続けて両腕が吹き飛ばされて後ずさる。
セシリアの頑強な鎧とも言える肉体は瞬く間に千切れ掛けた肉片と化し、唯一急所と両足だけは真面な形を保つ。
「ァ“ア!」
黒い羽根の弾幕に耐えきれず、セシリアは龍の様に筋張った黒い翼を生やすとマリアと同じ空へ逃げた。弾幕から逃れ、言葉の代わりに唸ると傷と言う傷に吹き飛ばされた手足が逆再生する様に再形成される。
【正常な状態へ戻す魔法】を持つセシリアだが、当然の如く再形成された手足は人外の物。
空中で態勢を整え直したセシリアは、拳を握り込むとマリアへ向けて羽ばたく。
風すら切って一直線に、羽根の弾幕の中を戦闘機の様な速さと滑らかさで搔い潜って懐に飛び込む。
ゆらりと右手を翳すマリアの眼前に。
「堕ちろ」
吹きすさぶ大気の暴力。ただの空気の圧力が、豪速で飛び込んで来たセシリアをその勢いのまま再び家に叩き落した。
震える程の衝撃と轟音、そして視界が眩むほどの土埃を上げてセシリアは遙か彼方へ消えた。
「やっば」
「感謝するぞ、道化」
「ほ?」
マリアの圧倒的な力に圧巻されていたダキナは、聞きなれた声なのに聞き覚えの無い声にきょとんとした顔で見上げた。
頭上には相変わらずマリアが大きな黒翼を広げていて、絶対零度の眼差しで傲慢に見下ろしている。
そのマリアは、虫けらを見るような目をダキナに。次いで撫でる様にオフィーリアへ向ける。
「お前たちの行いが、私を目覚めさせた」
感謝を述べるが、そこに気持ちは入っていない。まるで孤高で絶対の王が臣下に礼を言う様な、酷く表面的な言葉でしかない。
傲慢で、高慢。空虚で無為な言葉を述べると、マリアは自分の蒼銀の髪を撫でる様に払う。
それだけで、セシリアが大好きだった母娘おそろいの蒼銀の髪が闇に侵されるように真っ黒に変わる。月明りさえ届かない、星の煌めきすら食い尽くす漆黒の闇に。
「キャラ変しすぎ、別人格?」
「別人格ではない。この身はマリアであり、マリアではない」
マリアは、いや、別人の様に変わってしまったマリアはこの位置こそ相応しいと頭上から見下ろしたまま口を開く。
「ここまで、ただひたすらに己の無力を嘆いていた彼女は、今わの際に力を求めた。力を手にして娘と共に居たいと。分かるか、この身に流れる娘からの悪魔の力、それこそが今の私を作り出したのだ。ふっ、堕天使に相応しい末路だな」
セシリアやオフィーリアの様なもう一つの人格が生まれた、と言うわけではないらしい。マリアの願いを、悪魔の力が叶えた結果がその反転した姿。
マリアなら絶対にセシリアを傷付けない。だからそこに居るのはマリアではなくなった物。彼女は自らに対して皮肉気に嘲笑った。
「ふーん。まぁセシリアちゃんをボコった時点でマリアちゃんじゃないのは分かってたけど。解釈違いが過ぎるなー」
それを聞いたダキナが、ダキナだけは不機嫌そうに呟く。
彼女はオフィーリアへ流し目を送る。オフィーリアはリボルバーを握りしめたまま、憎しみの種火を瞳に映していた。
「……裏切り者」
オフィーリアはオフィーリアで、千夏の精神が強くなったと言えどオフィーリアの感情が強く残っている。それは千夏の狂気に反応して、救ってくれると言った癖に救ってくれなかった、絶対に誰も傷つけないと言った癖にセシリアも誰も彼も傷つける様な事をした。
その全てが裏切られたと、オフィーリアはほの暗い憎しみの感情を燻ぶらせる。
結局、ダキナの所為とは言えマリアのした事はオフィーリアを余計に傷つけただけだった。
「ではどうする、罪人達よ。幼子の様に泣いて縋るか」
二人の強い感情を感じたマリアは、身体を向き合わせて緩く右手を翳す。挑発と宣戦布告だ。
来るなら好きに来い。やれるものならやってみろ、と傲慢なまでの自信が見える。
そんな挑発は、沸点の低い二人には効果覿面。
「はーはー。あーあ、そういう事言っちゃう。ふーん」
「っち」
完全に頭にキた二人は、武器を手に立ち向かう。
ダキナは気だるそうに首を捻りながら両腕の義手を軽く捻る様に払うと、コキンという小気味良い音と共に杭が排出され、新しい杭を装填した。
オフィーリアは虹色の髪を鬱陶し気に払って、純白のリボルバーから弾丸を落として新しい50口径炸裂徹甲弾を5発装填して、苛立ちのままに撃鉄に起こす。
二人で協力しようという気はさらさら無い。立ち位置もそれを示す様に対角に居る。しかし共通の敵は居る。間に挟まるマリアを見上げる二人はただ一人の敵を相手に始めた。
矮小な人間が戦おうとしているのを見て、マリアは嘲笑うように鼻で笑うと黒翼を広げて構える。
「死ね。裏切り者が」
開戦の号令はリボルバーの激発。一切無慈悲の殺す為だけに作られた銃弾は、次々とマリアを殺す為に撃ち出されて迫る。音速すら超えるそれは、目で捉える事は不可能だ。一発や二発なら勘頼りに弾くことも出来る。しかしガンマンの様な連射で放たれた五発全てを防ぐ事など普通なら出来ようも無い。
しかしマリアはその全てを、右腕を払うだけで弾いた。地面に突き刺さる黒い羽根を操り、一発につき一つ。たったそれだけで空中で火花が走りマリアに傷一つ負わせる事すら無く終わる。
「ちっ」
「無駄だ」
弾倉全ての弾を撃ち切ったというのに、傷どころか空中から引き摺り落とす事すら出来なかったオフィーリアは舌打ちと共に再装填しようとするが、マリアはそれを許さず、これが本当の銃撃だと教える様に羽根の弾幕をお見舞いした。
威力はとんとん、速度は劣る。しかしその量はまさに弾幕。一人の銃など比べ物にならない弾幕は、慌てて回避行動を取るオフィーリアを弄ぶように追いつめた。
一発でも食らえば終わり、必死で【未来を視る魔法】を使って避け続けるオフィーリアはそれでも避けきれず、身体に幾つもの細かい傷を作りながら岩の裏へ隠れた。
「はぁっ、はぁっ」
「どうした。その程度か」
「クソがっ」
その岩も、瞬く間に羽根によって抉られていく。人一人が裕に隠れられる程の大きさの岩は僅か数秒で壊れ、同時に再装填を果たしたオフィーリアは飛び出しざまに反撃の銃弾をお見舞いした。
当然それも弾かれて終わる。しかし攻撃と防御を両方する程器用ではないのか、羽根の弾幕は止んでただの黒い羽根がゆらゆらと空中に舞い散った。
ひとまず危機は凌いだオフィーリアにマリアが追撃しようとして、その背後の空間が揺れた。
「!?」
「ハーイ」
【認識を阻害する魔法】を使ったダキナは、存在そのものを幽霊の様に消していたことにより、完璧にマリアの後ろを取って殴り飛ばせる間合いにまで近づいていた。意表を突いたダキナは、何故か必殺の杭ではなく拳を振りかざす。
生身の拳ではなく、硬い鋼鉄の義手はマリアの頬を殴り飛ばして地面に叩き落とした。
地面に叩き落とされたマリアは受け身を取れず、苦し気に上体を起こそうと呻く。
痛みに顔を顰めていたが、頭上からダキナが杭を撃ち出す為に掌の銃口を向けているのを見てマリアは黒翼を盾にして防御の姿勢を取る。
「もう一回死んだらどうなるの? 試して——」
ガキンッと内部機構が撃鉄を落とし、火花が散る激発の音を響かせながらチシャ猫の笑みを浮かべたダキナの身体が、横合いから飛んできた木によってくの字に折れた。放たれた杭は木がぶつかった衝撃に手元が乱れ、マリアの傍の地面を穿いて土埃が舞う。
「けほっ。何が……?」
黒翼を払って土埃を晴らしたマリアは、投げ込まれた木と共に茂みの中から足だけ生やすダキナを見て眉間に皺を寄せた。何が起こったのかが分からない。少なくとも、いきなり飛んできた木のお陰で一命は取り留めた。地面を抉った威力から見て、杭を受ければただでは済まなかっただろう。
しかし安堵以上に、この木が何処から飛んできたのかが木になる。木だ、ただの木が飛んできた。そこらに生えているのと同じ木が、何か途轍もない力で引き抜かれてぶん投げられた様に、根っこが付いていて握りつぶされた箇所がある。
オフィーリアを見る。彼女は口を半開きで放心している。視線はマリアでもダキナでもなく、セシリアが吹き飛ばされた方を。
消去法的に言えば、確かに彼女しか居なかった。愛娘である、セシリアが。しかしどれだけ目を凝らしても何処にもその姿は無い。マリアによって吹き飛ばされた彼方にまだ居る。
つまり、目を凝らさなければ見えない程の彼方から成木を空中で落ちていたダキナに吹き飛ぶほどの速度でぶん投げたと言う事になる。
とは言えど、そのセシリアはまだ来る気配が無い。であれば問題は無かった。
「なるほど。やはり魔王の血は健在か」
マリアは今だ呆けるオフィーリアへつま先を向けながら、黒翼を広げる。それに気づいたオフィーリアは反射的に引き金を引くが、今更そんな攻撃が利くはずも無い。
50口径炸裂徹甲弾と言えど、5発程度の弾丸なんて弾く事は容易。すぐさま撃鉄が空の弾倉を打つ乾いた音が鳴った。
「終わりだな」
「っ……何なのよ、ほんとムカつく」
一つだけ撃ち出された羽根が、悔し気に歯を噛むオフィーリアの手からリボルバーを弾かせた。足止めにもならない銃があった所で意味は無いが、無くなって良い物ではない。リボルバーを失ったオフィーリアには武器と言う物はもう無いのだから。
あるとすれば未来を視れる魔法だけだが、それがあった所で何の慰めにもならないだろう。
セシリアが気になるのか、集中しきれないオフィーリアの足に黒い羽根が突き刺さった。
「ぁ“っ!?」
未来を視ていれば回避できた攻撃だろうが、目の前のマリアに集中しきれていなかったオフィーリアはまともに受けてしまい、身体が崩れる。
燃えるような痛みに顔を顰めるオフィーリアは、すぐさま呼吸が乱れて脂汗を滲ませた。如実に戦闘経験が無いが故に立ち直れないでいる。
だからオフィーリアは、ただ睨み上げる事しか出来ない。
そんな姿を、マリアは冷酷に見下ろす。
「ふぅ、ぐぅ……死んじゃ。お前なんて死んじゃえ!!」
オフィーリアの憎しみに満ちた怒号すら、マリアは凪いだ目で見下ろし続けた。
「裏切るなら優しくしないで! お前がやった事はただのいじめだ! お前は最低だ!!」
不安定なオフィーリアの言葉と目に、マリアは次の攻撃の手を止めた。甘んじて、その罵りを受け入れる。
それを言う権利がオフィーリアにはあり、聞かなければいけない責任がマリアにはある。
「……確かに、私のした事は最低だろう。希望を見せて絶望を与えるなど、悪魔の所業だ」
ダキナの所為とは理由にしない。例えどんな理由があろうと、救いを、愛を求めた子供にそれを垣間見せたのに与えなかったのだから。
差し伸べた手を、差し伸ばされた手に重ねる直後にすくい上げたんだ。恨まれて罵られる位は当然の事だ。
「しかし、私はお前を殺す」
だがマリアは何の感情も無くそれを言った。そこに義憤や憐れみは無い。家に虫が入ってくるから、退治しよう。そんな感じの言葉だ。
「お前も、あの褐色の女も。魔王の娘もだ。この穢れた世界を浄化するには、それが一番早い」
悪魔の力によって転身したマリアは、堕天使に相応しい理由で己のすべき事を告げる。
マリアは元々天使だった。人を救い、慈しみと愛情を以って世界の秩序を担う。そんな存在は一度は人間になったとはいえ、人の為を思う。では何故、人を滅するのか。それはそれこそが救いだからだ。
人は争い続ける。
義憤、嫉妬、享楽、愛。
どんな理由があろうと、争う限りは悲しみと憎しみを重ねる。それがどれだけ罪深い事か、それがどれだけ嘆かわしい事か。
「全ての人間を滅ぼそう。そして主の御許にて、永劫の幸せに浸るのだ。それこそが、救いとなる」
だから滅ぼす。
それが幸せだから。
堕ちた天使は根底にある人の幸せを願いつつ、堕天使に相応しい手段を選ぶ。
「安心すると言い。主の御許では、お前の望む愛も慈しみも全てを与えられる。夢の様な世界だ」
死は救済である。そんな言葉で締めたマリアは、右手を差しだした。迷い子を導く為では無く、命を奪う死神として。
だからオフィーリアはそんなマリアの目をはっきりと見て、唾を吐く。
「私の好きな言葉を教えてあげる。神は死んだ。よ、中学校からやり直しなさい」
マリアが大っ嫌いな千夏と、マリアに裏切られて大っ嫌いになったオフィーリア。初めて二人の意見が合った。
頬に付いた唾を拭って黒翼を広げたマリアを見上げながら、オフィーリアは魔法を使う。その瞬間、オフィーリアは地面を転がって逃げた。
「今更、未来を視た所で——」
余裕ぶってたマリアの表情が険しくなり、その場を飛び退いた。
間一髪で避けたのは、大量の木。まるで巨人の投擲槍の様なそれは、何十本と言う数がマリアを狙って投げ込まれた。
地面に突き刺さり地震と間違える程の衝撃が走り、その威力に生唾を呑む。
「ゥ“ゥ”ゥ“……」
「やはり来たか」
スジン……と重たい足音を響かせながら、セシリアが現れる。それはマリアを取り戻す為のなのか、殺す為なのかは分からない。
しかし今再び、セシリアはマリアの前に現れた。
「だが関係ない。ここで終わらせる」
セシリアはセシリアではない。マリアもマリアではない。ではどうなるか、単純。殺し合うしかない訳だ。
言葉は無い。必要も無い。
母娘らしく、行動は同じ。
「ゥ“ア”!!」
「その罪に罰を」
抉れるほどに強く地面を蹴ったセシリアは、マリアから降り注がれる霞むほどに大量の羽根の弾幕を真正面から駆け抜けた。
セシリアを近距離パワー型とするなら、マリアは遠距離殲滅型だ。拳の間合いにさえ入れればセシリアにも勝機はあるだろう。
近づければの話。
「ゥ“ァ”……!」
一発でも食らえば手足が抉れる威力。無策にも程がある。事実、弾幕の中を駆けるセシリアは両手で頭を守っているが、瞬く間に抉れ千切れていく。
腕が千切れて、頬が削れた。すぐさま治す。
翼が千切れる、腹が抉れる。すぐさま治す。
足が千切れて転ぶ。すぐさま治し、また走り出した。
「愚かな」
弾幕の嵐から抜け出したセシリアだが、マリアが右腕を振るうと共に放たれた大気の暴力に吹き飛ばされた。必死こいて稼いだ距離は、無かった事にされる。それでも、呻きながらふらつきながら走り出す。
自らの血で出来上がった道を、再び駆け出す。
それもただの焼き増しだ。
弾幕に身体を抉られながら、走って治して走って治して。
そしてまた吹き飛ばされる。欠伸が出る位、創造性が無い。
吹き飛ばされて、地面を膝で滑ったセシリアの顔が弾け飛んだ。
「ァ“ァ”ァ“!!」
脳が破壊されなかったお陰で、即死は免れた。即死さえしなければ治せる。しかし痛みは当然ある。セシリアは走り出すのを止めて絶叫と共に暴れ狂った。
千切れ欠けた腕で顔を覆って、のた打ち回るセシリアは傷を治すとまた走り出そうとする。
「待って! お願い待って!!」
セシリアの前に身体を引きずる様にして現れたオフィーリアが、両手を広げてマリアに立ち向かった。
セシリアは動きを止め、マリアも攻撃の手を止める。だがオフィーリアに攻撃する手段は無い。あるのは嘗てのマリアの様に、無力に懇願する事だけ。
「愛衣は殺さないで! 人間を滅ぼすんでしょ、ならせめて最後にして。今は、私の前で愛を殺さないで」
元々、世界がどうなろうと初恋の人と一緒に居られればいいと思っていたオフィーリアはどうあがいても勝てないと分かると、せめて今ここで殺すのだけはやめて欲しいと願う。
余りにも無力。嘲笑っていたマリアと同じ様になってしまった自分を、嘲笑うように表情は歪に歪んでいる。
であればマリアの答えは当然。
「否だ」
否定の言葉。最終的に全てを滅ぼすのだから、今ここで目溢しをするような優しさは要らない。何より、これは慈悲なのだ。苦痛の多い人生を終わらせ、安らかな主の御許に送ってやろうと言う堕天使の慈悲。
絶句し絶望するオフィーリア諸共、マリアは弾幕を張った。未来を視ても、避けれる事は無い。無様に殺される未来だけ。
覚悟を決めたオフィーリアは固く目を瞑って自らを抱きしめた。
「……!?」
しかし来るべき衝撃は来ず、目を開けたオフィーリアは驚愕に目を見開き表情を蒼白にさせた。
守りたいと思ったセシリアが、身を挺してオフィーリアを守っている。滴る血が、オフィーリアの頬を汚した。
マリアに背を向けて、オフィーリアを固く抱きしめている。自分の身体で傷つけない様に、ガラスを扱うように丁寧に。お陰でオフィーリアには傷一つ付かなかった。ぐちゃぐちゃに穴だらけになったセシリアの荒い息だけがオフィーリアを撫でる。
「あ……い?」
「ぃ……なつ……ぢゃン。ゥ“ォ”ォ“!!」
僅かに、セシリアの真紅の瞳に理性の光が灯る。それは余りにも弱弱しく、見間違いかと思ってしまう程。オフィーリアが手を伸ばすと、それが届く事は無くセシリアの身体が離れた。
「待って……」
セシリアの理性が完全に戻った様子は無く、ボタボタと血を滴らせながら重たく歩いてく。
朧気ながら理性を取り戻したセシリアは、地面に落ちている自身のリボルバーを拾い上げた。
中身を改める事は無い。ずっしりと掌にある重さを確かめると、セシリアは何のためらいも無く自分の頭を吹き飛ばした。
「あ……ぁ……」
止める間すら無かった。残されたのは頭を吹き飛ばされて倒れるセシリアの死体と、物寂しく山間に響く激発の音だけ。
それが止むと、次に響いたのは悲痛なまでのオフィーリアの悲鳴。
「いやぁぁぁぁ!!!!」
血の池に沈むセシリアに、自分の足に突き刺さる羽根が肉を抉る痛みすら無視して駆け寄った。縋りついて、揺さぶって必死で声を掛ける。
だがまだ生暖かい死体は、どれだけ声を掛けても叩いても何の反応を返さない。
それは前世のトラウマを刺激するには充分すぎる温かさだ。
「そんな……違う、私はこんな事がしたかったんじゃ……ぅっ……! 嫌よ、イヤ。置いてかないで、もう一人にしないで……」
「何だ……一体何が」
「お前の所為だ!!」
「っ!?」
マリアですら、突然の狂行に動揺し冷酷な表情を崩した。それが理解出来ない自殺に対しての衝撃なのか、娘が目の前で死んだことへの動揺なのかはまだ分からない。
だがオフィーリアに罵られた彼女は、呼吸を無意識に浅くした。そして言葉を発そうと口を開きかけるが、一度足りとて使われなかった左手が自分の首を押さえつけた。
「母親の癖に! 愛衣に愛された癖に! お前が愛衣を殺したんだ!」
「ぐっ、ぅぐ……!?」
まるで左手だけが自分の意思を持ったかのように、爪が食い込むほどの力で自分の首を絞めていく。声所か息すらも出来ない、何故左手だけが。そもそも、何故今まで左手を使わなかったのか。
喉に当たる、硬い感触。隙間から垂れるネックレスの鎖がその理由を物語っていた。
セシリアにプレゼントとして渡した、空色のネックレスが何時までも握られていたから。スペルディア王国で離れていくセシリアへ伸ばした手は、ネックレスだけを掴んだ。必ず返すと握っていたそれは、転身した今でも固く握られ続けていた。
「許さない! 絶対に許さない!!」
マリアはまだ居る。マリアの本来の魂はまだ存在し、抗っている。怒っている。
娘を殺したな、最愛の人を殺したな。殺してやる、絶対に許さない。
オフィーリアの悲痛な訴えと重なる様に、首を絞める手は薄れゆく意識に反して力を増していった。
「ぐぅっ、っの!!」
このままだと本当に死ぬ。明確な死が視界をちらついたマリアはたまらず自らの左腕を黒翼で引き裂いた。流石に肘から切断されれば左腕も力なく地面に落ちた。ついでに空色のネックレスも、地面をはねてセシリアの指先に届けられる。
左腕を失ったマリアは、傷口を抑えながら必死で肺に酸素を取り込み脂汗を流す。
「はぁ、はぁ……何だ、一体何が……ぅぐっ!?」
自分の左手で殺されるという結末は回避できたものの、何が起こったのか理解出来ないマリアは次いで酷い頭痛に苛まれた。内側から叩きつけるような痛み、何かを訴えるような激しさで立っていられない程だ。
「ま……さかっ!? あり、えっない……! この身、の魂は……死んだ筈!!」
死んだはずの魂が、身体の内側から脈動する。
伝わってくる。人間の底の遙か底から。知覚すら出来ない原初の始まり、心臓よりも更に深い所からマグマの様に吹き上がってくる、怒りが。
「ふざっ……けるな! 望んだのはお前だ!!」
愛と言う最も強い感情から引き出されるが故に、最も強い怒り。命よりも大切な人を殺した怒りが、抗いようのない悪魔の力と拮抗する。
腹の底から響いて来る、マリアの声。
明確な殺意。
「いまっ……! さら! 抗うな!!」
憎しみでも、復讐心でもない。獣の様な純粋な殺意だ。
ナイフの様に鋭く、氷の様に冷たい。なのに味わうマリアには地獄の業火の様な灼ける熱を感じる。
湧き上がる熱は止む所か、セシリアが一滴の血を流す度に、オフィーリアの泣き声が響く度に増していく。魂を覆う黒の泥を、削ぎ落す所か新しい真紅の泥が包み込んでいく。粉々に引き千切れた魂が、より歪な形で再び再形成されていく。
「セシリア! うるさい! 助ける! 黙れ!」
魂の殴り合いだ。吠える。吠える。ここに居ると、ここに変わらずに居ると。
絶対に助ける。今度こそ諦めない、もう二度と逃げない。
自らの存在を伝える為に、必死で吠える。それは何処か、呪いの咆哮にすら思えた。魂の咆哮。
「セシリアァァァ!!!」
願いは届く。
「ァ“ァ”ァ“ァ”ァ“ア”!!!」
絶叫。血と、肉が飛び散った。
顔の半分が吹き飛んだセシリアが、マリアの首に食らい付いた。
殺す為? 否、それが生み出した結果は血の混ざり合い。セシリアの血が、マリアの身体に注がれる。マリアの血が、セシリアの身体に溶けていく。
魂の財貨が、最も強い感情を込められた燃え滾るような血が二人の魂を繋げる。
その時、マリアは聞いた。
魂に直接殴りかかってくる、本気の声を。
——ママを返せ!!——