救いようが無い
態々未来を視なくても、今日来ると確信があった。
シンプルだが華のある、王族が着るに相応しいドレスに身を包む。動きやすく、破れにくい素材で作られたそのドレスは、血の様に濃い赤色で体型がはっきりと分かるデザインだ。
だがその艶やかで華のあるドレスには、些か物騒すぎる装備が着けられている。とはいえど、それを着る者の容姿と相まって似合わないと言う事は無かった。
「愛衣、ちょっと借りるね」
セシリアが使っている太いガンベルトが、今はオフィーリアの腰に巻き付いている。右手で引き抜けるようにホルスターが付いていて、左手側には予備の弾が十分な数がある。
後ろ腰にはポーチが付いていて、中には手りゅう弾や応急道具が入っている。
それを一つ一つ改めながら、ベルトの調整を終えたオフィーリアは純白のリボルバーを手に取った。
「でもリボルバーって。愛衣らしいけど」
弾倉を横にずらし、一発一発五十口径炸裂徹甲弾を装填しながら苦笑する。前世で愛衣をヲタクの道に引きずり込んで、一番彼女がハマったのが銃を撃ちまくって戦う母子百合物だった。
前世では良く、やっぱりリボルバーはロマンだよ。なんて熱く言われた物だが、まさか剣と魔法のファンタジー世界で銃を作り出すとは、何ともヲタクらしいと言える。
千夏としては、リボルバーよりは剣の方が好きだったからどっちが強いとか何とか語り合った思い出がある。
装填を終え、ホルスターに納めると準備は済んだ。
変わらずベットで眠り続けるセシリアに近づいて、オフィーリアは額にキスを落とす。
結局、眠り姫を目覚めさせるにはキスでは足りなかった。
「それじゃ、行ってくるね」
名残惜し気に挨拶をして、オフィーリアは愛の檻から外へ出た。
朝の朗らかな日差しと、若葉の苦みと涼しみのある匂いが肺を支配する。これで雨の一つでも降っていたらそれらしいのに、空は澄広がった青空でいっそ煩わしさすら感じられる。
「この辺りもちゃんとしないとね」
玄関から庭園まがいの花壇、門代わりの柵の手前でオフィーリアは立ち止まる。この家を用意するのに力を掛けすぎて、周囲の手入れを怠ってしまった。家自体は綺麗にしたが、周りにはどうしても手が足りなかった。
浅く息を吐きながら、憂い顔で思案する。セシリアが目を覚ましたら庭の手入れでもしようかな、綺麗な花を植えて小さな畑でも作るんだ。
朝の弱いセシリアを起こして、二度寝したいとごねるのを窘めながら庭でのんびり過ごす。ペットを飼ってもいいかもしれない、前世でも動物は飼った事は無かったから、折角だから異世界らしく狼とか馬とか。
子供はどうしようか。女同士で子供は出来ないし、身寄りの無い赤子を貰って育てるのも良いかも知れない。
最初は女の子で、次は男の子。苦労は多いだろうけど、その分だけ幸せは味わえるはずだ。セシリアはきっと良い親になれるだろう、でも子供と同じように遊んで自分が窘める役になるかも知れない。
あぁでも、それはゆくゆくで良いだろう。今は新婚気分を味わいたい。二人っきりで、外の世界の一切を排除して甘く蕩ける生活が待っているかも知れない。
結婚式も上げたい。二人だけの結婚式、形だけでも良いから二人が結ばれる儀式をしたい。神さまは嫌いだから教会は無しとして、青空の元の花畑の中でとか。きっと綺麗なんだろう、セシリアは今世でも絶世の美女だからウエディングドレスが映える。
そうして二人だけで、永遠の愛を誓って優しい口づけを交わして。
「来たわね」
でもそんな空虚な妄想は、不快な侵入者によって遮られた。
正面を改めて見れば、森の中から一人の女性が現れる。
見間違える事なんて無い。忘れる事なんて無い。世界で一番嫌いで、羨ましくて、憎らしい女がそこにいる。
「オフィーリアさん」
大好きな人と同じ蒼銀の髪。大好きな人と同じ真紅の瞳。大好きな人とそっくりの、ボロボロの姿。
マリアは、満身創痍と言える姿でオフィーリアを真っすぐに見据える。
「憐れみすら覚える姿ね」
その目が嫌いだ。いっそ憎々し気に見てくれればいいのに、何処か安心したような、憐れみすら無い目が嫌いだ。
その顔が嫌いだ。大好きな人の大切な人なのだと、自分ではどうしたって変えられない事実である血縁という事が、初めから勝てないんだと言われている様で嫌いだ。
その姿が嫌いだ。簡単に折れてしまいそうなのに、大好きな人と同じようにどれだけボロボロになっても足掻き続けるその姿が、まるで愛の深さの違いを見せつけられている様で嫌いだった。
前に会った時は弱弱しい姿で怯えるばかりだったのに、この短い間でそんな姿を微塵も感じさせない強い意思を秘めた目をしているのが、心底腹立たしい。
怒ればいいのに、マリアは心配する様な表情を浮かべている。
「貴女こそ。ちゃんと眠っていますか?」
マリアの嫌味ではない本心から心配そうな声に、オフィーリアは気だるげに首を捻る。
今自分はどういう顔色をしているのだろうか、寝不足による倦怠感で身体は重い。顔色もきっと悪いだろう。
この世界に来てから、鏡を見る事は無かった。鏡を見れば嫌でもオフィーリアの姿を見てしまう、それは自らを千夏であると言い聞かせているオフィーリアにとっては何よりも苦痛。
幸いにして王族と言う立場故、自らを崇拝する使用人に身の回りの事を全てさせていたから不便は無かったが、今はそれも居ない。マリアが思わず心配してしまうのも無理からぬ程に、酷い顔色なのだろう。
しかしだから何だと一蹴して、オフィーリアはホルスターからリボルバーを引き抜く。マリアが死んで、セシリアの心を手に入れられればこの苦痛も全て無くなる。
悪夢を終わらせるには、これしか方法を知らなかった。
「どうしてここが分かったの。とは聞かないわ、どうせあの褐色の女に聞いたんでしょ」
セシリアのリボルバーを持っているのを見て顔を強張らせつつ、やはりここにいると確信を得たマリアを冷たく眺めながら聞けば、意識をマリアの背後へ向けた。
やはりダキナが助力したのか、あの時殺せば良かったと思いつつ、決着のタイミングを得た事で安堵する。きっとこれ以上、時間を置いていたらオフィーリアは完全に壊れていただろう。マリアを殺してもオフィーリアの心に平穏が訪れる確証も無いのに、マリアを殺せば良いと無為に思う。
だがマリアは、いつまで経っても身構える事はしない。ただ真っすぐに、オフィーリアの目を見る。
「オフィーリアさん。私は貴女を傷つけたくありません」
ここまで来て、まだそんな綺麗事を言うマリアにオフィーリアは思わず鼻で笑ってしまった。
今更そんな事を言われて、そうだね話をしようか。なんてなると思っているのだろうか。もし本気で思っているなら、バカが過ぎる。
ドパンッ!
「っ!」
返事代わりにマリアの足元に一発銃弾をお見舞いする。足元は五十口径炸裂徹甲弾によって大きく抉れ、その威力とオフィーリアの心情を物語らせた。
冷ややかな目でマリアを一瞥し、オフィーリアはため息を吐く。
「気に食わないのよ、アンタが」
オフィーリアは、何処か他人気に心情を吐露した。大して面識がある訳でも無いのに、嫌いと言われて傷ついた様に表情を曇らせるマリアを見て、やっぱりそういう所が嫌いだと改めて眉間に皺を寄せる。
「何が傷つけたくない、よ。傷つきたくないの間違いでしょ」
撫でる様に視線を横へずらせば、木の上でダキナがニヤニヤ鑑賞しているのを見つけた。足を組んで、顎を手で支えながらこれからどうなるんだろうと楽しそうにしている。目が合えば、ダキナはぴらぴらと手を振って来たが無視。そこから一歩でも先へ行くなら銃口を向けられるのはダキナになるが、動かないなら放っておいて構わない。
再び視線をマリアへ向ければ、彼女は黙って続きを待っている。
「あの子がどれだけ傷ついたと思ってるの。全部アンタの所為、アンタが弱くて意気地なしだったから愛衣が傷ついてでも戦わなければいけなかった。そうよ、アンタは愛衣の優しさを貪るだけの害虫よ」
ふと、何でこんな事を言っているんだろうと首を捻る。語るつもりなんて無かった、顔を見た瞬間に引き金を引いて全てを終わらせようと思っていた。
でも口を開けば、悪意が吐き出される。その度にオフィーリア自身の胸から鋭い痛みが走るのは、何故だろうか。
「愛衣は傷ついてでも守ろうとした。母親ってのはただ産むだけじゃないわ、あの子が求めている母親は……優しくて、強くて、どんな時も我が子の為に抗い続ける。そんな愛情深い母親なのよ」
だからオフィーリアは優しく尽くした。力で守ろうとした。この世界の未来に抗う為に、世界から切り離されたこの家に籠った。
なぜなら約束したから。私のママになってと告白されたから、愛衣が愛情を求めているならそれを捧げなければいけない。それだけが、千夏に残された唯一の願い。
「だから!!」
胸の痛みに耐えかねて、オフィーリアは金切り声を上げておしゃべりを切り上げた。ここ最近酷く鳴り続ける頭痛を誤魔化す為に頭を掻き毟って、撃鉄を倒して睨みつける。
オフィーリアは今、おぞましい程に歪んだ表情をしているだろう。なのに、マリアは泣きそうな顔で唇を噛む。
「私が愛衣の母親になる。それが私の愛よ」
「私は」
オフィーリアの言葉に、マリアは静かに口を開いた。
ゆっくりと一歩を踏み出して、近づく。銃口で狙いつけられても恐れは無く、前だけを見据えている。
「私は——」
ドパン!
「あぐぅっ!?」
何かを言おうとしたマリアの右足が、吹き飛ばされる。人間相手には過剰すぎる威力は簡単に足が無くなった。
悲鳴を嚙み殺して蹲るマリアに、オフィーリアは顔色一つ変えずに見下ろしてまた撃鉄を落とす。言葉通り、もう会話なんてする気は無かった。
足を撃ったのは単純に反動で狙いが逸れたからだ。でももう分かった、次は外さない様にしっかりと両手で狙いつける。
ドパンッ!
「っぅ!」
次弾を黒翼で辛うじて弾いた。代償に黒翼が削れて血が噴き出すが、残った片翼を支えにマリアは息も絶え絶えに立ち上がる。
マリアは何を言うでもなく、恨みがましい目で見る訳でも無く、俯いたまま更に一歩を踏み出した。
「ちっ」
ドパン! ドパン!!
しぶとく立ち上がるマリアに舌打ちを鳴らし、オフィーリアは続けざまに引き金を引いた。
マリアは震える手を翳して、抗う。
「弾いて!」
迫る2発の銃弾に、マリアは散った羽根と血を操って銃弾に当てる。技術に劣る抵抗は、僅かに射線を逸らすだけで銃弾はマリアの左腕と片翼を吹き飛ばした。
右手と左足以外が無くなり、血の海にマリアの身体が沈む。それでも急所は外した。
そしてこれで5発。リボルバーを再装填する必要がある。この隙に、羽根を飛ばされればオフィーリアもあるいは。しかしマリアは俯きそうになる顔を上げ、前だけを見て、歯を食いしばる。
「あ……貴女の、言う、通り。卑怯者、です」
息も絶え絶えで、ほんの少しでも気が緩んだら意識が飛んでしまいそうなのを必死で耐えている声だ。
マリアは反撃する様子は欠片も無く、言葉をつづける。右腕で土を掴み、地面を這って進む。
その姿は、オフィーリアの再装填する手を止めさせる程に異様だった。
「私はっはぁ、逃げっるばかり……ぜぇ、でした」
死に体の筈だ。手足は無くなり、血の海に沈んでいる。反撃する事も出来ない程に死にかけ、息も絶え絶えで放っておいても死ぬ。
なのに、オフィーリアは彼女から目を逸らせない。
更に這う。
その身体は、いつの間にかオフィーリアが居る門の手前まで進んでいた。
見上げられる真紅の瞳は、弱言に反して揺らぎが無い。
「げほっ……逃げ、たっ事がぁっ、セシリアにぃっ!? 向かって、しまった。はは、親失格……です」
マリアの手が、オフィーリアの足首を掴む。縋るようにも、逃がさないと食らいつくようにも思える手に、言いようのない悪寒が走る。
「っ!?」
オフィーリアの【未来を視る魔法】が、数秒先の未来を教えた事で正気に戻ると共に後ろへ大きく飛んだ。
死に体のマリアが、オフィーリアに向けて攻撃する未来を視る。傷つけたくないと言っておきながら、結局暴力に頼るのか。
(なによ、結局その程度なんじゃない)
失望感が、胸に隙間風を吹かせる。どうして苛立つのか、どうして歯ぎしりしてしまうのかが分からない。分からないから、余計イライラしてしまった。
慌ててマリアからの攻撃に備えたオフィーリアだが、いつまで経っても攻撃の手は来なかった。
マリアは、払われた手を伸ばし続けている。
(未来が……外れた?)
オフィーリアは、自身の未来視の魔法が外れた事に衝撃を受けて硬直した。
【未来を視る魔法】が外れた事は無い。この未来視の魔法は絶対に外れない、何をしても変えようのない未来だけを見せる。確かに、戦闘の最中で直近の未来なら確実性は多少は落ちる。でも今まで一度足りとて外した事は無かった、呪いの様に変えようのない未来ばかり見せられてきた。
「でっ……でも。それでっも……!」
「ありえない! 未来視!」
離れたオフィーリアへ近づこうと、再び立ち上がろうとするマリアを拒絶する様に再び未来を視る。
確かに、未来は戦う姿を映す。マリアは娘を取り戻す為に相手を傷つけ、オフィーリアは初恋を守る為に傷つける。互いに傷つけ合う未来を見せる。
だが目の前の現実は、全く逆だ。
マリアは決して傷つけようとしない。手を伸ばし続けている。相手を傷つけて欲しい物を手に入れようとせず、大切な人の為に母親として胸を張れる事をしようとする。
どうしても、理解したくなかった。
「何で」
「憧れで……ありたい……」
マリアが、立ち上がった。
残った左足を地面に食い込ませるように踏みしめ、傷だらけで片方しかなくなった黒翼を右足の代わりにして、血だらけの左手を伸ばす。
優雅とは程遠く、余りにも弱弱しい姿。目指している憧れとは程遠いかも知れない、誰が見ても頼りない姿かも知れない。
「ふざけないで!!」
未来を否定する現実から逃げる様にオフィーリアは叫んだ。ふざけた理想を弱弱しく突き刺して来るマリアへ、未来を叩きつける。
「そんな事の為に愛衣を巻き込まないで! 私は見たの! これから愛衣はもっと辛い戦いに呑み込まれる! 沢山の人が死んで、沢山傷つく。そんな未来から愛衣を救いたいから! もう二度と傷ついて欲しくないから私はここに居るの! 愛衣はここに居るの!」
オフィーリアは、未来でセシリアが戦う姿を見てしまったからそれだけは許せない。セシリアは自分から戦いに行ってしまう。それは大切な人を守る為に、誰かの為に。
前世から何も変わっていない。口では嫌だ嫌だなんて言いながら、その時になったら誰よりも先に飛び出していく。
自分が死ぬと、傷つくと分かっていて縋りつく手を振り払って前へ行ってしまう。
「もういやなの! 目の前で愛衣が死ぬのは! 貴女には分からないわよ! 大切な人が腕の中で冷たくなる怖さが、何の役にも立てない無力さが、だったらこうするしかないじゃない!」
自分以外の誰かの為に。
私を置いて。
すぐ傍に傷だらけの手があるのに。
「貴女は良いって言うの!? 愛衣が傷つくことが、死んでしまう事が! それとも私と同じように閉じ込めるつもり!? それなら私でも良いじゃない!」
オフィーリアの痛ましい叫びに、マリアは泣きそうな表情を浮かべて前へ進む。前へ、前へ。大丈夫、今すぐ傍に行くからねと安心させる様に不細工な笑みを浮かべて手を伸ばした。
激痛で意識が飛びそうなのに、失血で目が霞んでいくのに。ボタボタと血を滴らせながら、それでもただ真っすぐにオフィーリアだけを見つめながら、名前を呼んだ。
「オフィーリアさん。千夏さん」
その名前を呼ぶ。今の千夏、前のオフィーリア。どちらがどちらで、この願いは、想いはどちらの物なのかすらもう分かっていない。
この世界に千夏は存在しない。でも確かに千夏の想いは残っている。
でもその想いをオフィーリアは知らない。どうしてそんなに強く思えるのだろう。
「ありがとう、ございます」
「…………やめて」
千夏はオフィーリアを認めない。認めてしまえば、自分が千夏ではないと認める事になるから。
オフィーリアは千夏を認めて欲しい。それを知りたいから、生まれた時から知らなかった感情を、愛を知っている彼女に教えて欲しい。
「きっと……沢山っ、悩んで苦しんで。あの子の為を思ってっごふっ……! あの子が、これ以上傷つかないよう……に、してくれたんですよね」
「……いや。やめて」
逃げようと後ずさる千夏を、オフィーリアが押し留める。ダメだ、ダメなんだ。その手に触れてしまったらもう離せない。逃げないと、耐えきれなくなる。
オフィーリアは寧ろ縋る様に手を伸ばす。千夏は怯える様に逃げる。
足が動かないから、逃げたくないから距離が縮まる。
震える手で、無意識に弾倉に一発新しい弾を込めようとする。指先が震えて力が入らなく、上手く装填されない。
「でも……分かりたくない」
そう言われた瞬間、オフィーリアの手だけはまるで別人の様に滑らかに装填を終えた。一発の弾丸すら込められなかったのに、ほんの一瞬で熟練のガンマンの様に五発全て装填した。
腰の辺りでくすぶっていた銃口が、腰だめのままマリアへ向けられる。引き金に指が掛かるが、何か見えない力によってそれ以上先へは行かない。
「血が流れる……心が傷つく……それは、分かっています」
マリアが、オフィーリアの目の前にまで来た。血だらけの身体で、片翼も左腕も右足も失っていながら、必死に立って傍に居る。
マリアの変わってしまった真紅の瞳は優しさに潤んでいて、オフィーリアだけを見てくれている。
決して目を逸らさず、純粋な眼で見守ってくれる。
「ふぅ……っ。信じたいんです、あの子を守ると誓った私を。例え何が起こっても、逃げなかったあの子を」
マリアが残った右手を広げる。痛みに顔を顰めそうになりながら、精いっぱいの不細工な笑みを浮かべた。安心させようとしているんだろうけど、不格好が過ぎて笑ってしまいそうな顔だ。
マリアは抱擁の姿勢を保ったまま、待ち続ける。それは、誰にも愛されなかったオフィーリアにとっては耐え難い衝撃を与えるに足る。
引き金を引こうとする千夏と、愛情を求めるオフィーリアがせめぎ合っていた。
一歩、気づけば踏み出す。
「いや……お願い」
今ここで引き金を引かないと、もう耐えられなくなる。
今ここで抱擁を受け入れないと、もう戻れなくなる。
知りたい。知りたくない。
『ダメ、止めて』
『いやよ。やっと愛して貰えるのに』
『そうよ、そうするべきよ』
『違う。そんなの愛じゃない。ただの同情だ』
『分からない。私には分からないよ』
二つの魂が、決して交わり合う事の無い二人の魂が互いに悲鳴を上げる。
また一歩勝手に踏み出すのに、その表情は酷く怯え切っている。
「やめて。助けて」
ほらまた、まるで二人分の人格がある様に正反対の事を言って、今度は一歩引きながら縋るような目を向ける。
引き金は、まだ引けない。
コップに並々注いだ水が表面張力で形を保っている様な、精神状態は完全に乖離を見せた。それによってオフィーリアは予想外の行動を取った。
「やだ、やだ……!」
「っ!? ダメ!」
マリアへ向けていた銃口を、自分の顎に突き付けた。怯えた様子で、縋るような目を向けながら逃げようとしている。
そう、逃げようとしているんだ。
ここまで狂的に初恋に縋りながら、苦しみから逃れたくて逃げる事を選択した。
それは許されない事だ。狂うなら、最後まで狂わなければ。例え誰にも理解されない事でも、最後まで成し遂げられないならそこに至る全てが無に帰す。
そうなったら、千夏の恋心もオフィーリアの執着も全てが意味が無くなる。
思わずマリアは手を伸ばして、止めようと前へ出た。しかしオフィーリアの姿を見て足を止める。
「分かんないよ……もう、どうしたら良いか分かんないよ」
涙を流しながら、縋る目で訴えていた。そこに狂気は無い、ただ不安と恐怖に押しつぶされそうな少女が助けを求める様にマリアを見ている。
だから、マリアは意を決して頷く。間違っていなかった、これで正しかったんだと確信を得て唇を結ぶ。
「聞いて下さい。貴女は、いえ、私達は間違いばかりでした」
言葉で尽くす。
決して刺激しない様に、だけど嘘だけはつかない様に。
マリアが近づくそぶりを見せると、オフィーリアの怯えは増して引き金に掛かっている指に力が籠った。
「恐怖に屈して逃げてしまった。楽な方へ逃げてしまった。それは、私達が背負うべき罪なんです」
言い終えて、マリアは血反吐を吐いてむせ込んだ。息も絶え絶えで、震えが悪い意味で止まる。
限界は近い。どれだけ強い意志を持っていても、二つの手足と片翼が千切れて止血も出来れていない今の状態では、耐える事も出来ない。
はやる気持ちを抑える様に息を吸って、言葉を尽くす。
「でも、罪は償えます。間違っても、正す事は出来ます」
救いの手を、伸ばす。
オフィーリアはその手を、呆けた様に見つめた。今まで一度も、救いの手を伸ばされた事なんて無かった。千夏の頃はその手を払って自責の渦の中に沈んでいた。
でもオフィーリアにはそれすらも無かった。生まれてから今日まで、一度も無かった。だから、初めてだった。
初めて対等に居て貰えた。初めて感謝を伝えられた。初めて救おうとしてくれた。
「だから一緒に、ごめんなさいをしましょう」
そこに、オフィーリアが求めた愛がある。
それに気づいたらもう、止まれない。
「わた……私は……」
『お願い、止めて。ヤダ、ヤダヤダやだ!! 置いてかないで! もう一人にしないで!』
千夏が必死に引き留めようとしてくる。縋りついて、泣き喚いて懇願して。でもオフィーリアの身体は、マリアへ向けてよろよろと近づく。
あと少し、あと少しで救われる。愛される。愛せる。
愛が、本物がそこにある。
「愛されたい……」
縋りつく千夏の手を振り払って、オフィーリアはマリアの手に触れた。指先を、握られる。初めて誰かに触れて貰えた温もりは、恐ろしい程の熱を孕ませる。
ベットの上の人形を撫でるのとは大違い。独り善がりのおままごとなんて比べ物にもならない。
これが人の温もり。これが他者からの愛情。全てが、心地良くて頬を綻ばせた。
釣られて、マリアもほほ笑む。二人は今、確かに気持ちを通わせた。
「マリアさん……私……」
「オフィーリアさ——」
ここからやり直そう。その言葉を言い切る前に、火薬が炸裂し金属が悲鳴を上げる耳障りな音が弾けるとマリアの胸に血飛沫が飛んだ。
「——こひゅ?」
オフィーリアも、マリアも目を丸くして何が起こったのか理解出来ずにマリアの胸に突き刺さる血濡れた杭を見つめる。
そう、杭が突き抜けている。
背中から、心臓を穿つ短い杭が。
それが何で、誰の物かを悟るのは背後から響くけたたましい笑い声で漸く悟った。
「あはーはーはーは!!!」
特徴的な間延びした笑い声。腹の底から心底嘲笑っているのが分かる、それでいて子供の様に純粋さを混ぜ合わせた感情。そしてチシャ猫の様な憎たらしい顔。
黙って成り行きを見ていたダキナが、感動的な場面に最悪の乱入を噛ましてきやがった。
「ダ……キナ、さ……?」
「あはーはー!! その顔さいっこ!!!」
何故、と信じられないと言わんばかりの表情で振り返りながら、ダキナを見れば指を指されて笑い返される。
本気でマリアは信じられなかった。
窮地を救って貰い、ここまでの手助けをしてくれた。憎い相手ではあるが、ダキナの生い立ちを聞いて同情もしてしまった。少なくとも、ここまでの行いは全てダキナの良心からの物だと思っても可笑しくなかったんだ。
なのに、ここに来ての裏切り。
「ほんっと、マリアちゃんってバカだよね」
道化の笑みを見ながら、マリアの身体がゆっくりと地面に倒れる。
繋いだ手が外れ、血の海に沈む。
霞む視界が涙を流し叫ぶオフィーリアを映し、遠くなる音の中に悲鳴を聞き届ける。
それは、千夏のあの忌まわしい記憶を呼び起こすには充分すぎる程に同じだった。
「ば~か♡ ざ~こ♡」
身体を動かそうにも、心臓を破壊されたマリアに指先を動かす力も無い。薄れゆく意識の中で、ダキナの腹立たしい声とオフィーリアの泣き声を聞いて、意識を手放す。
歯を食いしばって。
「ま……だ……しね……」
生への執着ではなく、やるべき事への心残りが目覚めさせた。
新しい手足を生やし、黒き羽衣を纏った悪魔の堕天使が。
その手足には黒き紋様が走り、その黒翼は雄大で荘厳。身に纏う黒い羽衣は触れる事すら許されない悪の塊。
それは、最早マリアでなくなってしまった。
非情なまでの冷徹な、一切の命あるものを滅ぼす絶対の敵と化す。
そして一人の堕天使の目覚めは、黒き獣と呼応する。
「ォ“ァ”ア“ア”ア“!!」




