それを愛と呼ぶには
カッと音が付きそうな勢いで、セシリアは目を覚ます。見慣れた日本人であった頃の天井、見慣れた愛衣の身体。瞬時にまだここは自身の精神世界なのだと理解する。
理解したら行動は早く、明確に。
跳ねる様にベットから退くと、素早く制服に着替える。勿論学校へ行くためではないが、この格好が一番落ち着くからだ。勝負服とも言える。
シャツの襟もとを少し開けてスカートを膝上に調整し、最後にリボンを締めると、一つ息込んで部屋を飛び出した。
階下からは、みそ汁の柔らかい匂いと包丁の小気味いい音が響いて来る。扉を開けてリビングに入れば、キッチンに居る大好きなマリアと目が合った。
「あら」
マリアはセシリアに気付くと、一人で起きて来た事に驚いて僅かに目を開くが、直ぐに愛情をたっぷりと感じられる微笑みを浮かべた。
「おはようございます。今日は早起きですね」
「うん、おはよ。今日もママが大好き!」
「まぁ、急にどうしたんですか? ふふ、お小遣いは上げませんよ?」
穏やかなままだが、大好きと言われて気分が良くなったのか眦を下げると背を向けた。背中は上機嫌さを雄弁に語り、形の良いお尻が少し揺れている。
セシリアはニマニマとした顔で、足音を殺してマリアに抱き着いた。ぎゅっと後ろから、恋人がする様に首筋に顔を埋めて。
「きゃ!?」
「んふー」
マリアはしゃもじとお茶碗片手に、顔を真っ赤にして固まってしまう。そんなマリアの反応すら楽しみながら、セシリアは首筋にキスをした。
「ぁん……セ、シリア……くすぐったいです……」
マリアは恥ずかしさから抱擁から抜け出そうとするが、頭一つ分は身長差がある所為でセシリアの腕の中に収まったまま、艶めかしい声を上げながらいじらしく身悶えするばかり。
マリアの首に自分の物である印を付けると、こちらを見上げる潤んだ空色の瞳とかち合う。表情はキスが終わって安堵しているのに、その目は物足りなさを訴えている。まるでこれより先を期待する様に、じっとセシリアを見上げるマリアの薄く開いた唇にセシリアはついばむ様なキスを落とす。
「ちゅ」
「んっ」
意外にも、抵抗は無かった。いつの間にかマリアの身体はセシリアと向き合っていて、豊かな胸が潰れる程に身体を密着させて全身で受け入れていた。
これは夢だから、セシリアの心の中の世界だからこんなに上手くいく。全てが望み通りに行く。現実だったらこうはならないだろうから、せめて夢の中でだけは虚構の幸せに浸る。
(可愛いなぁ)
「はぁ、ぁむ」
「ぁあ、もっと……」
ついばむ様なキスはやがて舌を絡めた熱いキスに変わり、水音と熱い吐息だけが朝の空気に溶け込む。
息継ぎすら惜しくて、唇を重ね合わせて互いの呼吸で生きながらえる。
今感じてる熱が、自分から発せられるのか相手の物なのか、それすらも分からなくなる位に互いの熱で溶けてしまいそうだった。
「はぁ、はぁ……」
「あ……」
やがて息も荒く、唇を離した二人は熱の籠った瞳だけを見つめ合いながら離れた。銀色の橋がまるで名残惜しいとばかりに繋がり合って、それが断ち切れるまで抱き合ったままだった。
だが呼吸が出来る様になって、熱が抜けていくと正気に戻ったのはマリアの方。
「はっ!? わ、私は一体何を!」
自分が何をしたのかを思い返し、マリアは驚愕の表情を浮かべながらセシリアを突き飛ばしてリビングを飛び出してしまった。
残されたセシリアは、苦笑を浮かべてマリアの後を追いかける……訳ではなく、唇に残った感触を味わいながら玄関から外へ出た。
「んっ! ん~、っふぅ。さて、今回も頑張るか」
満足そうに伸びをして、セシリアは頭上を見上げる。
そこには忌まわしい黒龍が鎮座して、セシリアを見下ろしている。この精神世界に於いて、それはトラウマであり悪魔の力の仮初の姿である。
セシリアのもう一つの人格であり、双子の姉の魂曰く黒龍をどうにかしないと現実には帰れないらしい。
とはいえど、この世界では身体は愛衣の身体な所為で戦う力は無い。ロケットランチャーを使っても傷一つ付けられない相手にどう勝てと言うのか。
「おい! トカゲ野郎!!」
この精神世界に来てから、口が悪くなった自覚はあるがそれでも一言いってやらにゃ気が済まず、勢いよく指を指して睨みつける。
黒龍は傲慢に鎮座しながら、真紅の瞳を胡乱げに細め顎を上げて見下ろしてくる。
「お前が私の、お父さんの力だって言うならさっさと言う事聞け!!」
言ってやった。と言いたげに感慨深く言い放ったセシリアに、黒龍はあからさまに呆れた様子で目を細めていた。数え切れない程、無謀にも挑んできたと思えば馬鹿らしいほどの宣言をしてくる。
そんな子供みたいな宣言で、はいそうですかとなる訳も無い。
「GRR……」
「ぴぎゅ!?」
もういいやと言いたげに黒龍が尻尾を払えば、セシリアの身体は残像を残して道路に面して吹き飛ばされる。
人形の様に受け身の一つを取ることも出来ず、四肢があらぬ方向に向いたセシリアの首が、背中越しに黒龍を見上げあっさりと息絶えた。
恨めしそうに見上げる真紅の瞳を一瞥し、黒龍は暇つぶしに街を破壊と悲鳴の地獄に落とし始める。また次の朝が来るまで。
さて、またしてもあっさりと死んだセシリアはと言うと。
「よし! 帰って来た!」
『帰って来たじゃないわよ!!』
「ふぎゃ!」
真っ白な空間。セシリアが黒龍に殺される度に帰ってくる、精神世界での安全地帯。ここに帰って来たセシリアはガッツポーズで空を仰ぐが、その背中に一切無慈悲のドロップキックが叩き込まれた。
それはもう完璧なドロップキック。プロレスなら大歓声間違い無しのドロップキックを背中に叩き込まれたセシリアは、顔が削られるんじゃないかと心配になる程、地面に倒れて滑った。
ドロップキックをカマした張本人、セシリアと全く同じ容姿をしているが、唯一瞳の色だけは以前の様な空色の瞳をしている。
彼女はこの真っ白な精神世界の住人。生まれる事が出来なかった双子の姉であり、愛衣の残滓である。
端正な顔立ちは、呆れと怒りで悪鬼の様な表情となってセシリアを見下ろしていた。
『馬鹿なの!? 馬鹿でしょ!! 何で黒龍と、トラウマと向き合えって言ってんのにあっさり死んで……っ! 何してるかと思えばお母さんとイチャイチャイチャイチャ……羨ましい!!』
死体蹴りなんて生易しい物ではなく、倒れるセシリアの背中を足跡が着くくらい強く足蹴にする。
ぐえっと呻き声が漏れても、もう一人のセシリアは蹴り続ける。やっとそれが終わったのは、セシリアがボロボロになった頃だった。
途中から嫉妬交じりになっていたのは気のせいでは無いかも知れない。
「いたた……やりすぎだって、ほんとに死んじゃうよ」
『死んだら私がセシリアになるから良いじゃない』
「良くないって、あたた……」
ボロボロになったセシリアは身体を起こし、もう一人のセシリアと向き合う。もしチャンスがあれば本気で入れ替わろうしているが、なんだかんだそうせずにこうして力を貸してくれるのだからお人よしなのは姉妹らしいと言える。
不機嫌そうな顔で腕を組んでいたもう一人のセシリアは、呆れ切ったため息を吐いた。
『いい加減何とかしなさいよ。現実じゃ色んな事が起こってる気がするわよ?』
「う~ん。確かに、ママも心配だし」
もう一人のセシリアの言う通り、このまま精神世界に囚われているのは腹に据えかねる。マリアがスペルディア王国で怪我をしてからどうなってるかが気になる以上、出来る事ならさっさと抜け出したいというのは紛れも無い本音だ。
しかし、そう出来ないからまだここに居る訳で。
「な~んか、あと少しなんだけどなぁ」
腕を組みながら倒れ、空を仰ぐ。黒龍に恐れを抱いている訳では無いのに、何故無力なままなのか。力の権化である黒龍に、力で対抗できれば良いがセシリアの力は使えない。
あと一つ、後一つ何かが足らない。喉元まで出かかっているだけに、言葉に出来ない苛立ちが湧く。
「よし! もう一回行ってくる」
腹筋を使って勢いよく起き上がって、セシリアは再び意気込む。快活な笑顔を浮かべているが、握り込んだ手は震えている。
夢の中とは言え、大切な人が死ぬのは、自分が死ぬのは何度やっても慣れない。痛いし怖いし苦しい。
それでも格好つけたがりの妹に、姉は苦笑で応える。
『次で丁度百回目ね。文字通り百回忌になるかしら、おめでとう』
「やめてよ縁起でもない。死ぬのって怖いんだよ?」
『死者に言ってもねぇ。あ、諦めても良いのよ? その時は私がセシリアになるだけだから』
「うわ、これから頑張ろうってのにさいてー。ホント意地悪な私」
意地悪な優しさにセシリアは安心した様に笑い、純白のリボルバーをこめかみに突き付ける。死ぬ事が、二つの精神世界を行き来する唯一の出入口。
怖さは、理由にしない。
「行ってきます」
もう何回も交わしたこの挨拶は、いつも返事が無かった。さっさと行って来いと顎を上げられるだけ。それでも欠かさず言い続けて来た。
いつ最後になるか分からないから。
もう一人のセシリアは背を向けてしまって、今回も挨拶はなしかと肩を竦めたが。
『……お帰りは言わないわよ』
背を向けているが蒼銀の髪から覗く耳は真っ赤になっていて、素直じゃない様子にセシリアは思わず吹き出してしまった。
もっと突き放せばいいのに、それをやろうとしない優しさが分かってしまう。
なんだか肩の荷が軽くなったセシリアは、引き金を引いた。
◇◇◇◇
『きゃー! 超可愛いー!』
『は、恥ずかしいよコレ。ホントに魔法少女のコスプレ?』
『大丈夫似合ってるって! 対魔忍魔法少女! よっ、流石の愛衣!』
『やっぱりエッチな奴じゃん! もう、千夏ちゃん止めてよ!』
懐かしい記憶の風景を、第三者の立場で眺めている。
まるで幽霊の様に彼女たちのすぐ傍で、映画の様にスクリーン越しに。それが夢だと直ぐに理解した、だってこの夢は今見ている彼女は、前世ではそこに居たんだから。
今とは違って、絶世の美女という容姿では無かった。一重が嫌いだった、直ぐにカサつく唇が嫌いだった。ごく普通の容姿で、取り分けて誇りに思う容姿では無かった。
化粧をして、身だしなみを整えて、漸くそこそこ満足いく容姿になって多少の自信を持つ。でもそれで良いじゃないかと、程ほどの自己肯定感を持つ、ごく一般的な少女だった。
間違っても、宝石の様な輝かしい虹色の髪も純白の肌も彫刻の様に整った顔立ちもしていない。
紛れもなく、目の前で親友と楽し気に話す前世の自分とは似ても似つかない。
ぼんやりと眺めていると、目の前の光景は目まぐるしく移り変わっていく。
桜舞う入学式で、初めて愛衣に会った時。
一目惚れした彼女の、後ろの席になった時の気恥ずかしさ。
勇気を振り絞って声を掛けた時の、嬉しそうにはにかんだ彼女の笑み。
一緒に出掛けて、趣味を共有して自分色に染まっていく彼女への喜び。
その全てが輝かしい大切な記憶で、もう二度と訪れる事の無い夢。
(そうだ、あの頃はまだ自分の気持ちを分かっていなかったんだ。ただ、愛衣と一緒に居られるだけで嬉しかったんだ)
初恋だった。でも女同士でそういうのは気持ち悪がられると、拒絶されたら怖かったから無意識におどけて絡んでいた。
寂しそうにする愛衣の為になりたくて、友人を紹介した事もあった。それで嫉妬もしたし、だけど愛衣の一番の親友は自分なんだと思ったら愉悦感に浸れた。
そう、一生その想いを胸に隠して置けばよかったんだ。
そうすれば今でも日本で、一緒に居られた筈なんだから。一緒の大学に行って、もしかしたら一緒の会社に就職して、あの上司は嫌いとかあの新作スイーツが美味しいとか、そう言う下らない話をしながら平凡で何よりも代えがたい時間を重ねられたかもしれない。
もしかしたら、結ばれたかもしれない。
(いや、それを壊したのは私だ。私が全部悪いんだ)
でも、そんな仮定の話をしても意味が無い。もう、意味なんて無いんだ。だってその未来を壊したのは、前世での千夏自身なんだから。
後悔は、してもしたり無い。あの時ああしていれば、あの時そもそも遊びに誘わなければ、あの時告白なんてしなければ。
全ては後の祭り。自らの犯した罪に、じわじわと炙られ続ける。
『イヤァァァ!! 何で!? 愛衣! 起きて! 死なないで!』
『……あ……り……とう』
『ダメ! ダメッ!? 救急車! 誰か愛衣を助けてよ!!』
(そう。悪いのは全部私、だからこれは私の所為なんだ。愛衣が傷つくのも、こんなクソみたいな世界に生まれ変わったのも、全部私が悪いんだ)
神様ってのは何処までも残酷で、皮肉屋で、慈悲深いらしい。
もう一度、日本人に生まれ変わらせてくれたらよかったのに。今度は優しくて愛情をたっぷりくれる両親の元で、幸せに過ごしてくれればまだ良かったのに。
でも生まれ変わったのは、文明が現代日本の足元にも及ばない剣と魔法のファンタジー世界。物語の様な世界に生まれ変わった事に、喜びは無かった。
ただ愛衣にまた会える、それだけが喜びだった。狂喜でもあった。
それに比べたら、この世界に対する愛着も喜びも無く、寧ろこんな危険な世界に愛衣が生まれ変わっている事に恨みすらあった。
世界か愛衣を選べと言われたら、迷わず愛衣を取る。世界を滅ぼして愛衣を手に入れられるなら、喜んで世界を滅ぼすだろう。
それ位、この世界に対する思いは低い。
(だから次は……次こそは)
何故ならこれは罰だから。きっと地獄なんだろう。愛衣を殺したのは千夏だ、千夏の無知が、浅慮が、愚かさが招いた初恋の死。
故に許さない。世界も神も、人も自分も。
◇◇◇◇
朝の爽やかな日差しが閉じた瞼を刺激し、目を覚ます。
水気を帯びた空気は、肌寒さを覚えるが身震いする程ではない。普通なら心地良さを覚え、鳥の囀りに微笑みながら今日も一日頑張ろうと思えるだろう。
「……おはよう。愛衣」
しかしオフィーリア(千夏)はそんな気分には成れない。陰鬱とした気持ちで、抱きしめる最愛の人に挨拶を告げる。せめて心配させない様にほほ笑むが、帰ってくるのは本当に生きているのかと心配になってしまう様な、消え入りそうな呼吸だけ。
オフィーリアは冷えた指先で、前世から様変わりしてしまった初恋の人の蒼銀の髪を梳くように撫でた。
柔らかくて気持ち良い。何時までも撫でていられる。寧ろ撫でていたい。
「愛衣。愛衣……」
ここに居るんだ。初恋の人が、心から大好きな人が、我が身を犠牲にしても生きて欲しい人が腕の中に居る。
それを確かめる様に、噛みしめる様に抱きしめる。弱弱しい鼓動も、控えめな体温も全てが心地良い。彼女の生きている熱を感じられる、彼女の身体を温められる。それだけで、オフィーリアの心は歓喜にむせび泣き満たされるんだ。
『本当に?』
例え幻聴が聞こえて来ても、それは変わらせない。
『それが愛衣の幸せだと思ってるの?』
うるさい。と心の中で毒を吐く。これこそが愛衣の幸せだ。もう辛い目にあう事も無い、痛い思いをする事も無い。平穏に、静かに生きる。それこそ幸せじゃないか。何が悪い、この世界は優しくない。文明は日本より遙かに低い、壁の外に一歩出れば凶暴な獣が沢山いる、壁の中に居ても悪意は降りかかる。
なら、一生この安寧とした籠の中で心穏やかに過ごすのが、何よりじゃないか。
何も間違った事はしていない。なにも可笑しくない。
抱きしめる腕に、力を籠める。
『そうやって自分勝手にやったから、前世で愛衣が——』
「うるさいっ!!」
だが幻聴の、その言葉だけは許せなかった。
憤怒の形相で、枕元に置いてあったコップを背後へ投げつける。そこには見慣れた自分の姿がある。前世の、日本人であった頃の千夏の姿が。
しかしそれはオフィーリアが生み出した幻覚だ。投げられたコップは、千夏の身体を通り抜け後ろの壁に当たって転がる。
千夏の幻覚は、睨みつけるオフィーリアに何故か憐れみの視線を向けている。それが苛立たしくて、オフィーリアは髪を掻き毟りながら千夏の前に立ちはだかった。
「死人が口出しするな!」
『死人って……でもそれを言うなら、そっちこそ死人じゃん』
千夏の幻覚の言葉に、オフィーリアは口を噤んでしまった。反論しようとする言葉は頭の中で喚き散らされているのに、それが言葉に出ない。
目を見開き言葉を詰まらせるオフィーリアに、千夏は酷く寂しそうな、憐れむ様な表情で囁く。
『愛衣は死んだ。千夏も死んだ。ここに居るのはただ記憶を持っただけの別人、セシリアにはセシリアの幸せがあるの。彼女はセシリアとして幸せを掴もうとしているじゃない』
囁き声は、酷く鮮明に響く。
オフィーリアの冷え切った心を、ナイフで切り刻むように傷つける。
幻覚だと言うのに、酷く優しくない。幻覚なら幻覚らしくオフィーリアの全てを肯定すれば良い。そうすればオフィーリアの心の平穏は保てるんだから。
歪な形で均衡を保つ、結晶の心が。
『なのにオフィーリア、アンタはそれを認めない。道理の分からない子供みたいに喚いて、自分の気持ちを押し付けるばっかり。前世から、何も変わってないじゃない』
震えるオフィーリアの虹色の瞳は、まるで死んだように色を無くしていく。ゆっくりと、まるで言葉の毒が心を犯していくかのように、暗く染まっていく。
オフィーリアはゆっくりと、震わせながら唇を開いた。
「……消えろ」
表情の一切を無くしながら告げる。類まれなる美貌も相まって、出来が良すぎる人形が喋っている様に見える。
それ程までに、感情と言う感情が見えない。気付けば、身体の震えが止まっていた。
『オフィーリア……まだ間に合うよ、まだ正しい形に戻せる。それ以上先に堕ちたら、もう——』
ドパンッ!
千夏の願う様な声は、激しい激発の音に遮られた。幻覚である千夏に傷を与えることは出来ない、しかし彼女は驚いた表情で固まった。
銃弾は千夏の胸を通り過ぎ、後ろの壁に穴をあけている。
オフィーリアの手には、セシリアが15歳の誕生日祝いに貰った純白の50口径リボルバーが握られている。
「いい加減にして」
ドパンッ!
唸るような低い声で、オフィーリアは二発目の弾丸を千夏の身体に打ち込む。
幻覚である事を鑑みても、自身の前世の姿に、人間に何の躊躇いも無く引き金を引けるオフィーリアの目は、理性の光を失っていた。
「これ以上、私を追いつめないで」
ドパンッ!
最早正気ではない。いや、最初から正気なんて無かった。
恋に狂い、血の涙を流す彼女にそんな物は慰めにもならなかった。
「どうして分かってくれないの」
ドパン!!
誰もオフィーリアを理解してくれない。誰もオフィーリアに救いの手を差し伸べてくれない。
ただ理解してほしいんだ。間違っていない、君は正しいと。その苦しみは当然だ。その悲しみは必然だ。その痛みは……仕方ないんだと。
「アンタは良いよね。もう死んでるんだから、幸せだった記憶がある。でも私は!? オフィーリアは何なの!?」
ドパン!!
涙が、流れていた。
その涙は千夏か、オフィーリアか。千夏の後悔に狂わされたオフィーリアの人生に、どっちが涙を、何の涙を流しているのか。
「お父様は私を見ない! 自らの後悔に沈むだけ。お母様は国の事しか知ろうとしない! 優しく抱きしめて貰った事なんて無い。私が王女だから! 私が人間じゃないから! 私がおかしいから!」
ドパン!!
セシリアが嘗て、セシリアであった魂と愛衣の魂が定着したように、転生の弊害は一つの器に二つの魂が交じり合っている。
それが正常に交じり合えば問題ないだろう。だがオフィーリアの場合は、それが出来なかった。千夏の後悔と、オフィーリアの寂しさ。この二つが近しくて遠い負の感情に共鳴し、決して交じり合う事が無いのに惹かれ合い、互いに傷つけあって離れる事も近づくことも出来ない。
それはまさしく、オフィーリアの心の叫びであった。
「ならこうするしかないじゃない! 正しい愛し方なんて教えてもらった事なんて無い! 何が正しいの!? 何がダメなの!? 教えてよ! 私に愛を教えてよぉ!!」
ドパン!!
オフィーリアの心からの悲鳴が響き渡り、弾切れのリボルバーを引き続ける寂しい音が鳴る。
息を切らして顔を俯かせるオフィーリアの、痛ましい姿に千夏は傷ついた様な寂しげな表情を浮かべると、目を伏せてその姿を消してしまった。
幻覚が消え、残されたのは力なく項垂れるオフィーリアだけ。その手から力無くリボルバーが落ちていった。
答えは返ってこない。オフィーリアの心の悲鳴に寄り添ってくれる人はいない。大好きな人が傍に居るのに、決して冷えた身体を温める事は無い。
誰もいない。一人ぼっちの身体を、自分で抱きしめるしかなかった。
「うぅ……何で、何で誰も分かってくれないの」
虚しさか、寂しさか。涙を止められない。
何があれば、この心を引き裂く痛みを無くせる。何をすれば、この心は満たされる。知らないんだ、オフィーリアは愛を。
親から愛を貰った事は無い。父は過去に生き、母は国と言う未来にしか生きていない。王女と言う立場上、信じられる相手と出会う事も無かった。ただ一人の王女としての立場と、宝石人という先祖返りの類まれなる容姿で崇拝されていた。最も、理解から程遠い感情しか周りには無かった。
だから千夏の心に縋った。
千夏は恋を知っている。それはガラスの様に透明で、夕陽の様に輝いていた。触れられない程の熱を孕んでいて、それを知らないからこそ思わず手が伸びてしまう。
だが仕方ない事なんだ。子供が愛を求めるのは当然、それを得られないで育ったのだから千夏の気持ちに酷く惹かれても仕方ない。
その憧れが、羨望が、嫉妬が魂の揺らぎを強くする。
「いえ、私はオフィーリアじゃない。千夏よ、私は人間なの。化け物じゃない」
オフィーリアは自分に強く言い聞かせる。違う、私は千夏だ。オフィーリアじゃない。宝石人なんて亜人ではなく、人間だ。オフィーリアなんて異世界人ではなく、日本人だ。親の愛を求めていない、初恋の人の心が欲しいだけ。
最後の約束を、言えなかったあの一言を言いたいだけ。
だが言い聞かせれば言い聞かせる程、その乖離が酷くなる。認めなくちゃいけない、千夏は死んでオフィーリアになった。千夏の後悔はただの記憶で、悲しみを超えていかなければいけない。
だがそれは出来ない。まだ15歳でしかないオフィーリアにとって、その方法はどちらかの死でしかないから。セシリアの様に馴染み合う事はもう出来ない程、オフィーリアと千夏の魂は歪んで結びついてしまったから。
「愛衣。愛衣、何処に居るの? 置いてかないでよ……」
オフィーリアは救いを求めて、自らが千夏である事を証明したくてセシリアを探す。だが目の前のベットでセシリアは眠っているのに、盲目患者の様に覚束ない足取りで手を彷徨わせる。
まるで、盲目にでもなってしまったかの様だが、視野狭窄に陥った訳でも視界に異常がある訳でも無い。正常に目の前の風景を脳が処理している。
「あ、愛衣?」
手が、セシリアの指先に触れて初めて存在を思い出す。だが瞳孔の開いた虹色の目は、セシリアの存在を認識しても光を灯さない。
「誰……」
呟かれたのは、そんな陳腐な言葉だった。本心から、セシリアを愛衣と認識する事が出来ていない。微塵も、愛衣だと思っていない虚しさの呟きだった。
だがそれもつかの間、すぐさま自分が何を言ったのか理解すると嫌悪感に顔を歪め頭を掻き毟る。
「っ!? 違う! 何を言ってるの私は、この子は愛衣よ。愛衣はここに居るじゃない!!」
限界なのが、一目で分かる。
セシリアは愛衣であると言い聞かせる千夏の魂。セシリアは愛衣ではないと理解しているオフィーリアの魂。それはたった一夜、傍にいるだけで悪化し続けている。現実から目を背け続ければ続けるだけ、オフィーリアは壊れ続けていく。
セシリアを手に入れても、それは止まらない。寧ろ、ただの人形の様に眠り続ける所為で決して心が手に入らないと分かっているから質が悪かった。
「……は?」
そうやって不安定な状態で居ると、オフィーリアの虹色の瞳が淡い光を放った。無意識の内に【未来を見る魔法】が起動し、これから起こる事態を教えさせる。
一体どんな未来を見ているのか。オフィーリアの未来視の魔法は、基本的には自身が干渉しても変わらない絶対の未来を見せる。天災や争い、どれだけ尽力し回避しようとしても変える事が出来ない確実な未来ばかり。
その、絶対に起こり得る未来の景色を見たオフィーリアの顔色は瞬く間に青ざめ、呆然と虚空を眺め続ける。
「っ!? ぅっおぇ!?」
その未来に耐えられなかったのか、胃の中身を全て吐き出してしまった。
自らの吐しゃ物を拭う事もせず、ただ違う、違うとうわ言を零し続ける。
きっと幸せな未来では無いのだろう。オフィーリア自身が不幸になる未来でも無いのだろう。
きっと。誰も幸せになれない未来なんだろう。
オフィーリアは身体を強く抱きしめる。そうしなければ、崩れ落ちてしまいそうだから。
オフィーリアは涙を流し続ける。そうしなければ、耐えられなかったから。
「助けてよ……」
陽の光は、彼女に届かなかった。