天使は祈らない
『座標固定。出力調整まであと五分』
無機質な自動音声が響く室内。
転移の準備を始める魔法陣を背にしたマリアは、水死体風の化け物と向き合っていた。それらは白く濁った眼をマリアへ向け、水気交じりの音を口から漏らして、粘ついた何かを落としながら救いを求める様にマリアへにじり寄る。
「はぁ!」
マリアは、一切の躊躇い無く黒翼の弾幕を浴びせた。
最早彼ら、いやそれらはただの動く肉の塊だ。だから救いを求める様に手を差し伸ばされても取る必要は無い。もし救いがあるとすれば、これ以上人としての尊厳からかけ離れた姿にならない様に、一思いに殺してしまう事だろう。
それを分かっているのか分かっていないのか、マリアはそれらから目を離す事は無く慈悲深く慈悲の無い攻撃をした。
「ぎゅぷ」
「ごぼァ」
黒い羽根による弾幕は、水死体風の化け物達を事も無げに排除する。元々、歩くだけで身体にこびり付く肉が滴るような乏弱性だからか、少なくとも個々の戦闘力は高くないのが見て取れた。
生憎と数と生命力だけは鬱陶しいが、手を伸ばしながらゆっくりと近づいて来るだけの化け物相手なら、このまま弾幕を張り続けていれば時間の問題であろう。
「数が多い……!」
とは言えど、水死体風の化け物の数が多い。十体や二十体だと思っていたのに、戦闘音に引き寄せられたのか暗闇や扉の方から続々と現れてくるではないか。
それに黒い羽根に簡単に四肢が千切れるのに、息絶える気配は無く地面を這って迫る個体も居る。僅かずつではあるが、マリアは圧されている事に歯噛みした。
だからと言って、マリアの戦意までは気圧されない。
「だったら!」
このままでは埒があかないと察したマリアは、上体を仰け反らせて黒翼に勢いをつけてはためかせた。
魔法的効果で身体を浮かせられるとはいえ、そも翼とは大気を殴り自由を目指す物だ。等身大の黒翼が大きくしなって大気を殴れば、当然生み出されるのは超質量の空気の塊と突風。
周囲の機材を巻き込んで、化け物達は皆一様に壁に叩きつけられ骨が折れる音を一斉に奏でた。
「よし!」
想像以上の効果に、力強く拳を握ったマリアは警戒を解かないにしても僅かに肩の力を抜いた。次が来ても同じように戦えば大丈夫、近寄られさえしなければ充分に戦える。
まだ息はあるも呻くだけで動けない化け物達を見据え、マリアは魔法陣を確認する為に後ろを振り返った。
「後3ふ——」
「ケカッ」
「——!?」
端末を確認したマリアは、耳元で聞こえた甲高い泣き声に反射的に腕を払いながら振り返った。
しかし振り払った腕は空を切り、耳元で鳴き声を上げたソレは大きく後ろへ後退していた。
「……! また新しいのが」
「ケカッ! ケカカッ!」
嫌悪感に顔を歪ませるマリアに対し、黒板を爪でひっかいた様な鳴き声を上げて嘲笑うのは上半身が猿で、下半身が蜘蛛の合成獣だった。上半身の猿の部分は一般的な大きさで茶色の体毛を生やしていて見覚えがあるが、下半身の蜘蛛の部分はそれだけで1m以上はある大きさだった。
恐らく、アラクネア種と組み合して作られたのだろう。後天的に作られたと分かるほどはっきりと、腰を境い目に分かれている。
この施設の異常性を象徴する様な姿は、しかしてマリアを見て漸く遊び相手を見つけたと喜んでいる様にすら見える。
「でも、関係ありません。例え何が来ようと、私は生きてセシリアに会うんです」
『転移魔法陣起動まで、三分。安全の為、電源は落とさず各種機材に注視して下さい』
背中で機械音声を聞きながら、マリアは猿とアラクネアの合成獣に対し黒翼をはためかせた。マリアに戦いの技術は無い、読み合いや探り合いなんて分からない。出来る事と言えば、気を抜く事なく攻撃し続ける事だけ。
鋭く走る黒い羽根の弾幕は、瞬く間に猿とアラクネアの合成獣へ迫った。
「ケカッ」
合成獣は音も無く地面を蹴ると、天上に坂さまに張り付いてマリアの攻撃を避けた。
避けた合成獣は、お返しとばかりに大きく膨らんだ腹部の尻から汚らしい色をした液体を噴き出した。
明らかに触れてはいけない液体。マリアは大きく横へ、綺麗とは言い難い転ぶような姿で避けた。
ジュウゥゥ……。
汚らしい液体は幸いにして魔法陣には掛からなかったが、埃を被った機材に当たるとその機材は鼻につく刺激臭と共に溶け出した。
一呼吸の間に機材は元の原型を留められず、文字通り残骸となった。
それを見て、マリアは生唾を呑み込む。黒翼の攻撃を避けたのも、致命的な攻撃方法を持つのも、ほんの一瞬でも気を抜けば今度は自分がこうなるだろう。その光景を想像して背中にうすら寒い刺激が走る。
「ケカカッ、ケカカッ」
合成獣は天井に逆さに張り付きながら、猿らしく頭の上で両手を叩いて喜んでいる。
明らかに馬鹿にされている。それを睨んだマリアは立ち上がって、大きく上体を逸らした。そっちがその気なら、こっちもやり返してやる。
「ふんっ!」
全力で黒翼で大気を殴って、空気の塊を放った。今度は羽根とは違って視覚的に捉えられない、その上広範囲だから地面に降りて避ける事も出来ない。さぁどうする、気持ち的にはこれでダメージを受けてくれと願う。
だが合成獣は、大量の糸を自分の足に吐き出した。大量の糸は糊のように手足を白く染め、天井に固定すると身体を丸くした。
最早一つの塊となった空気の暴力に晒されて尚、合成獣の身体は天井に張り付いたままだ。突風に紛れた瓦礫が合成獣の身体に刺さるのが、その威力を物語っているだろう。
しかし合成獣は最後まで天井から動く事は無かった。
「ケカ——!?」
「はぁっ!!」
どやっと言いたげに顔を上げた合成獣は、その鳴き声を出し切る事は無く眼前に迫った拳に目を見開いた。
避ける間すらなく、顔面のど真ん中にマリアの拳が叩き込まれ突風すら耐えきった糸を千切らせながら地面に叩きつけられる。
マリアは学んだのだ。ただ黒翼だけを使うんではダメだと、必要であれば体術も使わなければいけないと。
「まだぁ!」
「ケカァ!」
「くっ」
追い打ちを掛けようとしたマリアに、合成獣は溶解液を吐き出してそれを阻むと逃げる様に距離を取った。
今度は身軽に避けたマリアは、乱れた髪を払いつつ息を整えた。
(何でしょう。身体は痛いのに調子が良い)
憎々し気に睨みつける合成獣から目を逸らさず、マリアは冷静な気持ちで居た。
身体は節々が痛みを訴えるが、頭ははっきりしているし力が湧き上がる。何故かは分からない、だが今では黒翼の痛みももう無かった。意識せずとも、身体の一部の様に溶け込んでいる。
(馴染んだ? そう言えば、咄嗟に手が出てしまいましたが身体強化もしていないのにあんなに動けたのも、この黒翼が馴染んだからでしょうか)
合成獣は相変わらず睨んだまま、警戒心強く距離を縮められないで居る。逃げるべきか、戦うべきか。そこには確かに迷いが感じ取れた。
それなら好都合。マリアからすれば、転移魔法陣が完成するまでの時間稼ぎが出来ればいいんだ、必ずしも決着をつける必要は無い。だから隙だけは見せない様に睨みつけて、互いに睨み合うだけの時間を重ねる。
「ケカッ。カッ」
合成獣はその場で足踏みして、苛立ちも露わにしている。マリアが気に食わない、だけど理性が逃げたいと訴える。でも逃げるのは気に食わないから、その場で威嚇する事しか出来なかった。
『起動完了まで一分。安全の為、魔法陣へは立ち入らないで下さい』
あと少しだ。あと少しこの息苦しい空間を耐えれば新鮮な空気を取り込める。
いい加減この埃の籠った湿気の酷い空気は吸いたくないと肺が文句を言っている。
だがやはりと言うべきか、マリアもセシリア同様に思った通りに物事が運ばない星の元に生まれていた。
「——この音、まさかここまで追いかけて来て」
静寂の中に、不快なカサついた音が小さく響く。それはついさっきまで嫌と言う程聞いた、虫が地面を這う音。一つや二つではなく、群体であると察せられるほど沢山の音だ。
それはどんどん近づいてきて、マリアはその執念に慄いて後ずさった。
「ケカカッ!」
その恐れを、合成獣は好機と捉え喜びの声を上げて飛び掛かった。
目を血走らせ、半狂乱に涎を垂らしながら飛び掛かる合成獣に、マリアは一拍遅れて迎撃の為に黒翼を広げるが。
「あっ!」
一瞬の遅れは致命的な隙だ。合成獣が吐き出した糸が迫り、マリアは顔を逸らして避ける。それだけで、迎え撃つチャンスが無くなって懐に入り込まれた。
合成獣はマリアを押し倒し、動けない様に手足を押さえつける。ご丁寧に素早く糸が手足に吐き出された。
「ケカカ」
「離してっ! 離してください!」
押し倒されたマリアは抵抗激しくするが、地面に糸で手足を固定されピクリとも動かせない。一瞬でマリアの顔に焦燥が浮かび、それでも何とか脱出しようと試みるも、押し倒されている所為で黒翼は使えない上で拘束されている。
合成獣は顔を殴られた仕返しが出来て嬉しいのが、醜悪な笑みを浮かべた。それは、まさしく下心から生じた下種の笑み。
合成獣はマリアの襟を掴み、勢いよく引き裂いた。
「きゃぁ!?」
「ケカカ! ケカカカ!」
豊かな双丘とそれを包み込む白い下着が露わになって、マリアは羞恥に悲鳴を上げる。合成獣は毛と汚れ塗れの手で、引き裂いたマリアの服を弄びながらニヤケ顔で舌舐めずりした。
さて、この上質なメスでどう遊ぼうか。完全に勝者の余裕を見せた合成獣は顔を赤くしながら睨みつけるマリアに、更なる辱めを与えようと下着に手を掛けた。
「っ!」
上の下着が剥がされ、まろび出る。マリアは今度は唇を噛んで声を抑えたが、その身体は合成獣が何をするつもりなのかを察し細かく震えていた。
それでも意思だけは強く、諦めて足るものかと抵抗する。
(胸を出された位で何ですか! 絶対に諦めてやるもんか!)
合成獣はさてどうやって遊ぼうかな、とそっぽを向いてこめかみを掻いている。好都合だ、見られていないなら何とか出来る。
手首は固定されているが、指先は動かせる。何とか手を這わせてガラス片を掴んだ。
(気づくな。気付くな!)
鋭いガラス片に手が傷つき血を流しながら、それで糸を切ろうとする。手首を動かせないからやりにくいが、少しずつ糸が千切れる感触はある。
あと少し、もう少しだ。このまま余裕ぶっていろ。片腕でも自由になったら今度はマリアの番だ。
「ケカ?」
かさかさと虫が這う音は、地面に倒れているマリアには鮮明に聞き取れた。それはさっきより近くなっていて、地面が僅かに震えているのが肌で感じられた。
それは合成獣も同じなのか、音に片眉を上げて出入口の方を見た。
余程気になるのか、ゆっくりとマリアの上から退くと出入口の方へ向かった。
(急いで、急いで! アレが来る!)
音の正体を知るマリアは、必死でガラスを握り込んだ。所長の化け物や、目の前の合成獣よりももっとヤバい。あの黒い虫の群れは絶対に相手出来ない、絶対に相手しちゃだめだ。
焦燥と恐怖で涙を浮かべながら、ブチッと音を立てて糸が千切れる。やっと右手が解放された。
「ケカァァァ!!」
右手が解放され、身体を起こしたマリアは合成獣の悲痛な悲鳴に顔を上げた。その真紅の瞳が見たのは、合成獣に群がる黒い虫達だった。
洞窟の中で、嫌と言う程追い回された黒い虫。見るだけで不快感が湧き上がる、あの虫を成人並みの大きさにした奴だ。
それが四~五匹、合成獣に群がってその身体を食い千切っている。
「キィィィ!」
「ケカァァ!」
合成獣も激しく抵抗し、溶解液を黒い虫に撒き散らせるがそもそも数が圧倒的に違いすぎる。一匹倒した所から更に一匹増えて群がっていく。
次第に合成獣の姿は黒い虫に包まれて見えなくなると、合成獣の悲鳴の代わりに肉が千切れる音が響いた。
「……っふぅ」
それを、マリアは息を殺して眺めていた。黒い虫たちは、合成獣や水死体風の化け物を喰らう事に夢中でマリアに気づいていない。衣擦れ一つ立てない様にゆっくりと、息を殺して残りの手足と地面を固着させている糸を千切った。
左手のも千切って、右足も自由になった。後は左足だけ、大丈夫、落ち着いて、慎重に、焦らない。
(あと少し。もう! なんでここだけこんなに固いんですか!)
左足だけ、やけに太く糸が張り付いている。ガラス片で傷をつけようにもなかなか切れ込みが入らない。最後なのも相まって、苛立ちが募る。
だからと言って音が出るような、大きく作業も出来ない。はやる気持ちを何とか抑え、慎重に慎重を重ねて作業を進めた。
『転移魔法陣の準備が完了しました。係員の指示に従いご利用下さい』
「あっ!?」
待ちに待った転移魔法陣の準備が完了したアナウンスが流れた。しかしあと少しだけ待っていて欲しかった、だってその所為で黒い虫たちは一斉にマリアへ意識を向けたのだから。
もうなりふり構ってられない。マリアはガラス片を放り捨てると全力で足を引っ張った。
「ふんっ! んん~~!!!」
抜けろ! 抜けろ!
黒い虫たちは一度逃がしたマリアを捉え、腐肉から口を離すと一斉に走り出す。カサカサと黒い虫たちの足音を響かせながら、虫たちはどんどん近づいて来る。
「早く! 抜けて!!」
全力で、足の骨が外れるんじゃないという位全力で、寧ろ足が引き千切れて抜けられるならそれで良いと言わんばかりに必死で足を引っ張った。
ブチブチッ!
「んひゃぁ!」
願い叶って糸が千切れ、反動にマリアは後ろへ転がった。完全に自由になったマリアは、縺れながら魔法陣の中へ飛び込み、端末に表示される【転移開始】のボタンを勢いづいて押した。
魔法陣が眩く輝き、転移の兆候を見せる。黒い虫たちは怯えた様に足踏みし、魔法陣の中に入り込めない。
それを見て、間に合ったと確信する。
「これで——」
ガウン!
「え!?」
逃げられる。その筈だったのに、突如周囲の明かり全てが暗転し、オレンジ色の常夜灯に包まれた。
当然、魔法陣も輝き処か反応一つ立てる事無くただの模様へと姿を変える。
それは希望に縋っていた心を折るには、充分すぎる程の暗さだった。
『非情電源に切り替えます。職員は落ち着いて、電力が復旧するまでその場を動かないで下さい』
追い打ちをかける様に、アナウンスは非情な現実を告げる。
どうやら、数百年と経ったこの施設は転移魔法陣を使うには不十分だったようだ。
その結果、どうなるかと言うと。
「……うそ」
ぽつんと、物言わぬ魔法陣の中に残されたマリアは呆然と呟いた。
これを頼りにここまで来たのに、これが使えないのではどうすれば地上に戻れるというのだろうか。それ以上に、未だ警戒心強く足踏みしている黒い虫に囲まれている状況は、袋小路というよりは詰み。の状況だ。
逃げる事は出来ない。もう一度起動する為に何が出来る訳でも無い。ガタガタと、状況を理解した途端マリアの身体は激しく震え出した。
「キィ」
黒い虫達は、未だ警戒して魔法陣に踏み込まない。それでも触覚を揺らして前のめりになっている辺り、それが無くなるのもそう遠くないだろう。
戦うしかない。でもそれが無謀である事は、マリアが一番わかっている。黒い虫達はどれだけいるのかも分からない、白い床なのに端まで一切が黒く埋め尽くされている。その全てを、マリアが倒す?
無理だ。
抵抗虚しく、食い殺されるのが目に見えている。
「っ……ふぅっ」
喉に熱い物がこみ上げて、視界が滲む。手足が震えて、平衡感覚が危うくなった。
嫌だ。死にたくない。
そんな思いばっかり湧き上がって、心に罅が入る。
「……イヤ」
小さく漏らした声は、弱弱しい泣き言だ。でもそれを発したマリアの目は、真っすぐに前を見据えてゆっくりと立ち上がった。
「絶対に……嫌だ」
何が嫌か。黒い虫達は分からないだろう。
分からなくて良い。これはマリアの気持ちなんだから。
嫌だ。もう二度とセシリアに会えない事が、死ぬ事より嫌だ。
マリアの心を埋め尽くすのは、死への恐怖よりもセシリアの事だけ。セシリアに会えなくなってしまうのが嫌だから、死にたくないと。だから諦めたくないと。
無謀な事は理解している。勝てる見込みは万が一にも無い、生き残る確率も同様。
だからと言って、もう諦めて泣くだけの弱い母親にはもう戻らない。
そういう覚悟を、決めたんだ。
「諦めない。諦めるなんてもういや!!」
力強く吠え、全力の攻撃を放つ。
黒翼のはためきによる、突風と羽根の弾幕。この二つは、未だ足踏みしていた黒い虫達の虚を突いて、モーゼの様に一本の道を作り出した。
「キィ!?」
黒い虫達は突然の事に驚きながら、風に吹き飛ばされ散らばる。
ただでさえ魔法陣の様子に慄いてた所への反撃、完全に黒い虫達は浮足立って冷静さを失った。
マリアは黒翼を広げ宙へ浮くと、慄く黒い虫達をその真紅の瞳で見下ろした。
「我。神の代行者たる天使が願う」
瞑想するように、瞳を閉じて両手を胸の前で組んだ。
鈴が鳴るような静かな声は、虫達の騒音に負けずに響き渡る。天使であることを捨てた人間が、人間ですら無くなった悪魔が、祈る。
「神の寵愛を拒む悪に、貴方の慈悲を」
マリアの周囲を、黒い魔力が揺蕩う。
それはさながら天女の羽衣の様に、彼女を包み込んだ。
「くっ」
苦しそうな表情を浮かべ、脂汗を滲ませる彼女はそれでも祈るのを止めない。
定着しだした黒翼から、鮮血が噴き出した。天使の資格たる白翼を失い、反逆の証拠である黒翼を生やす彼女に天使の力を使う事を神は許さないのか。
(やはり、もう私には天使の力を使う事を主はお許しにならないと言うのでしょうか)
黒い魔力は霧散しかけ、力の兆候が失われ出した。
起死回生を賭けての行動は、無礼者への罰しか齎さないのかも知れない。
否!
(だから何だって言うんですか!!)
唇を噛みちぎって、痛みで弱気をかき消す。
力強く目を開き、現実から目を逸らさない。神が許さないから、人間だから、悪魔だから。だから何だと言うのだ。そんなの、諦める理由にはならない。
(許しなさい!! 赦す事しか出来ない神なら、黙って仕事しなさい!!)
「我が愛は不変なり! 我が愛は神の愛に勝る絶対と誓う!!」
血を吐きながら、自らの想いを吠えて力を願った。
薄れていた黒い魔力の羽衣はマリアの想いに比例してその姿を濃くし、強固な物へと変わる。
しかしそれ以上に、マリアの身体は至る所から血が噴き出して如何にその力が身体に負担を掛けているのかが窺えた。
それでも、マリアは祈るのを止めない。最早祈りは形だけ、その胸中はさっさと力を寄越せバカ野郎! だ。
「故に聞き届けよ! 許容せよ! 神の敵と成っても愛を貫く我が覚悟を!」
マリアが力を使える可能性は低い。確率だけで言えば、ごく少数点以下の確率だ。
悪魔が、人間が神の力を使うというのはそういう事。
でもゼロではない。子供が大人に喧嘩で勝てる様に、人間がドラゴンに勝てる様に。ゼロではないなら可能性はある。
ならば掴み取る! 一にも満たない可能性を、たった一回の命を賭けたチャンスで絶対に掴み取る!
「討ち滅ぼせ奇跡の翼撃! ダークラプチャー!!」
奇跡が、強い想いが。願いが届いた。
黒き羽衣は鮮血を浴びた黒翼に力を与える。
放たれた幾百もの羽根に、黒い魔力を帯びて黒い虫達を蹂躙した。
逃げる事は叶わない。一つ一つが巨人の落撃にも等しい衝撃と破壊力を以って、黒い虫の身体を粉みじんに変えた。
暴力の黒い豪雨は、一瞬で状況を変えると共に場を混乱に陥れる。
「キィ……」
それはまさしく神の断罪。
一切の慈悲なく行われた断罪に、黒い虫達は本能で宙に浮かぶマリアに恐怖を覚えさせた。逃げようとする虫もいる、だがそう思ったのを最後に悲痛な鳴き声を上げて死んでいった。
絶対の実力差に、部屋を埋め尽くすほど居た黒い虫の数は目に見えて減っていった。
「キィ!!」
しかし中には、恐慌状態に陥ってマリアを殺そうと飛び掛かる虫もいる。最早何故自分がこんな行動をしているのかも理解出来ない、虫風情にそんな知性も無いかもしれない。だが虫の本能は、マリアを殺さなければ自分が殺されるとだけは理解していたから必死の悲鳴を上げながら牙を開く。
「邪魔です!」
決死の覚悟を決めて跳んできた虫の身体は、地面に突き刺さった羽根から伸びた黒い柱に貫かれ、穴だらけの身体から白い液体を溢れさせながら地面に落ちた。
それを皮切りに、残った黒い虫達も一斉にマリアへ飛び掛かる。もう誰も彼もが、真面な思考を出来なかった。殺さなければ殺される、死にたくないと一心にマリアを殺そうとする。
「っ! 近すぎる」
一斉に飛び掛かられて、マリアは思わず攻撃の手を緩めて後ろへ下がった。
黒翼で撃退するには、距離が近すぎる上に数が多すぎる。何より黒い虫達は一つの塊となって飛んでくる。どれだけ追い込まれても集団を作る本能は残っているのか、それは巨大な一体の黒い虫にも見える。
「はぁっ!」
マリアが一瞬前まで居た所は、黒い虫に呑み込まれた。黒い羽根で攻撃しても、触覚を形成している十体程度の黒い虫が飛び散るだけで、すぐさま元の形に戻った。
天井が低い所為で黒い虫が届かない高さまで逃げられない。広さだけはある室内を、マリアは低空飛行で追いかけっこを繰り広げながら攻撃を続けた。
(行ける! でも流石に数が多い。もっと、もっと強い一撃を与えられれば)
黒い魔力を帯びる黒い羽根の威力は充分だ。でも後一つ足りない。個々の黒い虫を砕くには充分だが、群がって一体の黒い虫となったコレを止めるには火力が足りなかった。
飛んで逃げながら、マリアは考える。
もっと、もっと力を。
真紅の瞳は力を求める心に反応し、輝きを放つ。それは、蝋燭が最後の最後に見せるきらめきにも近い。
飛ぶのを止め、地面を滑りながら着地したマリアは黒い虫と向き合い魔力を練った。
再び黒い羽衣がマリアを包む。今度は一度目より更に強い、黒い光を放つ。
「もう一度! ダークラ——!?」
詠唱を言い切る事無く、マリアの身体が膝から崩れ落ちる。黒い羽衣も、霧散し飛沫と化した。
一瞬何が起きたのか理解できなかったが、胃を揺さぶられる様な吐き気と倦怠感が、魔力が限界である事を理解させた。
皮肉にも、先に限界を迎えたのは心よりも身体だった。
「キィィィィィィ!!!」
鬱陶しく飛び回っていた、恐ろしい程の反撃を見せたマリアが膝を着いたのを見て黒い虫は嬉々として飛び掛かる。
まるで黒い津波だ。目を凝らしてみれば大量の黒い虫が居るのが分かるが、常夜灯程度の明るさしかない室内では、巨大な化け物にしか見えない。
「ふっ! あぁ!!」
碌に力が入らない身体を、死ぬ気で動かして黒い虫の抱擁を躱した。
地面に広がっていた白濁した血液と、合成獣の血肉に塗れて転がるマリアは、嫌味の一つでも言ってやりたい最悪の気分になりながら立ち上がる。
「うぷっ……」
気持ち悪い。立っていられない。
でも諦めない。もう一度魔法を使う事は出来ない、身体が拒絶する。
だからって諦めて良い理由にはならない。
「魔法がダメなら」
拳を握る。何の役に立つこんなもの。
息を吐く。勝つためなら何でもやる。
「キィ!」
群れからはぐれた黒い虫が飛び出してきた。カサカサと地面を猛スピードで這って、飛び掛かる。
マリアは握り込んだ拳を、真正面から口の中に叩き込んだ。白い血液が弾け飛び、食道の不快な感触が伝わる。
気持ちが悪すぎる。黒い虫はまだ息を残していて、口の中に叩き込まれたマリアの腕を食い千切ろうとする。
「いっ!! がぁっ!」
マリアは虫の食道を掴むと、千切りながら引き抜いた。白い血液を噴き出しながら絶命する虫を蹴り飛ばし、黒い虫の群体へ引き千切った食道を投げつける。
「キィィィアアア!!」
マリアのせめてもの抵抗に、黒い虫は怒りに震えるような絶叫を上げて駆け出す。
それから逃げる事無く睨みつけ、マリアは負けじと吠えた。
「来なさい!! 私は絶対に生きて、あの子に伝えるんです!」
微塵も負ける事なんて考えていない。
震える身体を叱責し、逆に一歩踏み出してやった。
考えるな。ただ、生きて合う事だけを考えろ。心から愛する娘の事だけを。
会って、伝えなくちゃいけない事がある。
母として、マリアとして。
「キィィィィ!!」
「うあぁぁぁっ!!」
ズッドォォォォォォン!!!
今まさに殺し合おうとした両者の間に、天井を突き破って何かが落ちて来た。
さび色の、ベリーショートの髪が揺れる。
鈍い金属色を放つ、二つの義手から蒸気が吐かれる。
土煙の中から、悪戯が成功した様な、チシャ猫の様な笑顔が覗いた。
突然の事に、互いの動きが止まって落ちて来たその人影を凝視した。
それはゆっくりと立ち上がって、特徴的な笑い声が響く。
「あはーはーはー」
人を小ばかにしたような、間の抜けた笑い声。
道化の笑い声の主は、まるで舞台挨拶を控えた役者の様に両手を広げた。
スポットライトの様に、頭上の穴から月明りが照らされる。
「いつもニコニコ貴方の斜め後ろで嘲笑う~、ダキナちゃん! デス! あはっ」
緊張の場面にそぐわない登場の挨拶をした彼女のさび色の瞳と、驚きに見開かれる真紅の瞳がかち合う。するとさび色の瞳が今度は見開かれる。
「おっぱいまろび出た痴女がいる~!!」
暫く、部屋中に彼女の笑い声が響いた。




