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神は死んだ

 


 どうしてマリアがこの施設を知っているのか、それを語るには彼女が初めて人の世界に降り立った時まで遡らなければいけない。

 300年前の人魔大戦より以前、まだローテリア帝国も勇成国もスペルディア王国も存在しなかった時代の、魔道歴と呼ばれた時代の話だ。

 人が空を飛び、国を隔てた友と声を交わし、果ては空の向こうまで暴かれた人類の最も栄光輝かしい時代だった。不可能や未知という言葉は存在しない、神の存在すら人の叡智によって形骸化していた。


 しかしそんな時代であっても、神は存在していた。

 曰く、神は自らの代理人たる天使を地上に遣わしたとされている。穢れを知らぬ純白の翼を背に生やす、神の言葉を代弁し神の怒りを代行する、天使を。


「——ぃぃぃぃぃやああぁぁぁ!!!」


 その天使は、情けない悲鳴を上げながら頭から落ちていた。

 絶対の正義。絶対の象徴たる筈の天使が、美しい顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、背中の翼の存在を忘れてしまった様に落ち続ける。


「とーまっーってー!!!」


 地面が近づくにつれ、何とかお尻を下へ向けるとぎゅっと胸を抱きしめながら大きく翼を広げて減速を図った。

 止まれなければ死ぬ。それだけは嫌だから全力で抵抗すれば、ギリギリ、地面にお尻が触れる直前の紙一重でマリアの身体が止まった。


「ふぅ……きゃぁ!?」


 ほっと胸を撫で下ろした所で、気が抜けて地面に尻から落ちる。臀部から腰に掛けて衝撃が走ったが、それだって雲の上から落ちるのに比べれば遙かに柔らかい痛み。

 弱弱しく痛みを訴えるお尻を撫でながら、マリアは立ち上がって乱れた髪を整えた。


「いたた。全く、いきなり放り出すなんて主も酷いです。翼なんて天界じゃ殆ど使わないのに」


 主である神に文句を垂れつつ、マリアは祈る。

 おぉ我が主よ、どうかこの迷える子羊にお導きを。

 そう願えば、何処からとなく風が吹いた。温かい撫でるような風が、背中を押す。どうやら、主はあっちへ行けと言っている様だ。

 主示しを得たマリアは、それに従い先へ進む。


「主はその目で人の世を見ろと仰られましたが……今更、私が見た所で何か意味があるのかしら」


 ぼやきながら進むが、そこには不満が滲んでいる。

 人の世界は、既に神を必要としてない。偶像としての価値すらなく、ただそこに居るだけ。人々は皆、惰性で形骸化した神を信じていた。

 それをマリアは神の世界から見ていたから知っている。もう人の世界に神は不要なのだと。

 では何故。と思う。

 何故神は人を罰さない、何故神はただ見守る。何故、神はマリアに人の世界へ行けと言ったのか。

 分からないが、それでも神の言葉は絶対。歩む足だけは止まらない。

 とは言いつつ。


「あっ! 鹿さんです! こんにちは」

「へぇ、こんな所に珍しいお花が咲いてるんですね。元気に育つと良いですね」

「これは何の木でしょうか。きゃあ!? いきなり変な汁を出して……うへぇ、べとべとして気持ち悪い……」


 目に移る物全てに興味を惹かれ、その歩みは遅々として進まない。

 あっちへちょこちょこ、こっちへちょこちょこ。気づけば人気の森の中まで迷い込んでいた。

 神の世界から見ているのでは知る事は出来ない。自然に直接触れる感覚を楽しみながら、好奇心のままに進むマリアはふと人の話し声を捉える。


「——!!」

「——!? ——!!」


 人気の無い森で、人の話声はよく響く。何やら怒号が飛び交っていて、喧嘩でもしている様に思える。

 初めての人間との接触。もし困っているなら助けた方が良いだろうし、それでなくても気になる。とりあえず様子を見てみようと、マリアは恐る恐る声の方へ近づいて、木の影から顔を覗かせた。


「どーすんだよ! こんな森の中で事故ってよ!!」

「そんな事言ったって、行けって言ったのは主任じゃないですか!」

「俺はあっちの道を行けって言ったんだよ! 森の中で護送車を横転させろとは言ってねぇ!!」


 どうやら無理な道を通って事故を起こした様だ。

 重厚な護送車は横転し、黒煙を静かに放っている。怒鳴り合っているのは、白衣の上から防弾着を着ている二人の男。研究者なのだろう、しかし今は研究者らしい理性は無く、ただ突然のトラブルに頭を抱えている。

 どうしてこんな森の中で、しかも明らかに普通とは違う護送車を運転していたのか。危険な犯罪者を乗せるような護送車だ、一目で分かるそれは明らかに異常だった。


(ど、どうしましょう。声を掛けるべきでしょうか、いえ、でも確か他の天使がああいう人間は危険だって言っていましたし……)


 あわあわしながらマリアは悩む。困っている人が居れば助けようと思うが、研究者は危険だと他の天使から聞いた話を思い出して踏みとどまる。

 でもやっぱり助けた方が良いかな、でも明らかに普通じゃないし。と足踏みしていたが、やがて一つ深呼吸して頷く。


(いえ! 私は天使なんですから、困ってる人が居たら助けないと!)

「よし!」


 目の前で困っている人が居たら見捨てられない。マリアは握りこぶしを作ると意気込んで一歩踏み出して。


 ガァン!!!


「…………はい?」


 金属が千切れ吹き飛ぶ音がしたと思ったら、マリアの傍の木に鉄製の扉が突き刺さった。鉄の扉は内側から殴られた様にひしゃげていて、深々と木の幹に突き刺さっている。

 一体ほんの一瞬目を離した間に何があったのか、呆然と硬直していたマリアは研究者達の悲鳴に顔を上げた。


「オォォ……」

「ひぃっ!」

「出て来たぁ!?」


 横転した護送車の中から、漆黒の禍々しい黒騎士が唸り声を上げて現れた。全身はおどろおどろしい漆黒の甲冑で、真紅の瞳だけが爛々と輝いている。

 真紅の瞳に射貫かれた研究者達は、腰を抜かし怯え切っている。

 黒騎士は疲れ切った様に、重たく一歩を踏み出す。動きは緩慢、ふらついていて危うい。ゆっくりと腰を抜かす研究者に近づく。


「くっ来るな!!」


 近づいて来る黒騎士に、主任と呼ばれた研究者は腰から玩具みたいな銃を取り出し引き金を引く。

 弾丸の代わりに、配線の付いた弾頭が黒騎士の身体に当たり。神経を狂わす電流が黒騎士の身体を流れた。


「グッ! ァ“ァ“ア“ア“!?」

「おい! 早く鎮圧しろ!」

「はっ、はい!」


 テーザー銃の電流に、四肢を踏ん張って堪えている黒騎士にもう一人の研究者はスタンバトンを取り出すと、それで勢いよく黒騎士の頭を殴りつけた。

 頭への衝撃、そして更なる過剰な電流に黒騎士は血を吐いて倒れそうになるも、何とか踏ん張って地面へ倒れる事だけは堪えた。

 黒騎士が反撃できないと分かれば、研究者たちは目に見えて態度を変えると威圧的に怒鳴りながらスタンバトンで殴り続ける。


「この! 実験体の癖に生意気なんだよ!」

「なんなんですかこいつ! 全然気絶しない!」


 殴って、殴って、殴り続ける。

 黒騎士の身体は白煙を吐き、血が地面に滴る。それでも黒騎士は歯を食いしばって耐え、殴り続ける研究者達を睨み続けた。

 研究者達は次第に殴るのが楽しくなって、醜悪な笑みを浮かべる。

 楽し気な声に、鋭い一声が響く。


「貴方達! それ以上の暴行はやめて下さい!」


 研究者達は手を止め、黒騎士までも突然大声を上げて現れたマリアを注視した。

 突然現れた女。それもただの女ではない。絶世なんて言葉では言い表せない程の美女、まず男たちはその美貌に目を取られ、ややあってその背中に純白の白翼が大きく広がっている事に目を剥いた。


「あ……あ」

「魔物であろうと、悪戯に痛めつけるなど人のする事ではありません!」


 目を見開いて、呆然と見つめる男達の様子に驚いて声も出ないと判断したマリアは、威圧的に白翼を広げながら腹から声を出してゆっくりと距離を詰める。

 ゆっくりと、刺激しない様に。喉が小さく震えるのを隠して、ぎゅっと拳を握って浅く息を呑む。

 主任と呼ばれた研究者の酒に酔ったような虚ろでしかし、ギラギラと輝く目を困惑交じりに見据えて口を開く。


「その魔物を解放してあげて下さい。今ならま——」

「天使ダァァァァァァ!!!!」

「ひぃっ!?」


 マリアが手を伸ばした所で、主任と呼ばれた研究者は奇声を上げて飛び出した。完全に理性を失った目は血走り、涎を垂れ流して歓喜に狂ってマリアへ飛び掛かる。

 突然の強行にマリアは情けない声を漏らして、飛び掛かってくる研究者に反射的に翼で殴る様に煽った。


「ぴゅ!?」


 天使の象徴たる白翼は、ただ飛ぶためだけの翼ではない。それは武器であり、防具でもある。故に、反射的に飛び掛かる研究者に対して攻撃という洗礼を浴びせる。

 突風なんて生易しい風ではない。膨大な質量の空気の塊が研究者の身体を押しつぶし、吹き飛ばす。

「しっ、主任!?」


 慌ててもう一人の研究者が、主任に駆けよるがその姿を見て「あぁ」と小さく零した。

 四肢はあらぬ方へ向いていて、首がねじれている。口から泡を吹いて痙攣に混じって中途半端に酸素を吐いているが、ギリギリで生きている。

 自分の身に何が起こったのかを理解していないのか、恍惚とした表情のまま痙攣している。


「あ~あ、これじゃ死んだ方がマシですね」


 慌てて駆け寄ったにしては、主任の状態を見てもう一人の研究者はやけに落ち着いた様子でため息を吐く。

 膝に手を置いた状態で軽く項垂れ、一息入れて腰を伸ばすと今度はマリアへ顔を向けた。


「いや~、すみません。うちの上司がご無礼を働いて」

「え、あ……え?」


 胸の前で手を縮こまらせているマリアに、研究者は人当たりの良い笑みを浮かべて近づいていく。

 目の前で人が、しかも知り合いが死にかけていると言うのに研究者はまったく気にした様子も無くマリアへ近づくのだ。

 ごく普通に近づいてくるものだから、気持ち悪さが勝ってマリアは後ずさる。何より、自分が人を殺しかけたという意識が身体を蝕む。


「大丈夫ですよそんなに怖がらなくて、僕はこれでもれっきとした国連の魔道研究者なんですよ。だからうちで丁重に保護しますから」


 ゆっくりと、耳障りの良い言葉を安っぽい笑顔に張り付けて近づく。ずっと右手を背中に隠して、ゆっくりと。失敗した主任と同じ轍は踏まない様に。

 動揺して思考の回っていないマリアは、それに気づけないでいた。


「それより! あの人を助けないと!」

「そんなの——」


 目の前の男の傍を通り抜けようと踏み出して、マリアは主任の元へ向かおうとする。殺そうと思った訳ではない、咄嗟の事に力加減を誤っただけなんだ。早く助けなければいけないと気持ちが逸るマリアが横を抜けると、男は待っていましたと歯を剝き出しにして笑った。


「後で良いじゃないですかァ!!」


 ずっと背中に隠していた右手を高く掲げる。その手にはスタンバトンが握られていて、電流を帯びている。 

 彼も、天使を目の当たりにして飢えた獣の様に目をギラつかせていた。

 それにマリアが気づいた時には、足掻きようがない状況だった。男はただ手を振り下ろすだけでマリアを気絶させられる。マリアは振り返り様にそれを目端に捉えただけ、どうしようもない。

 振り下ろされる手を見て、マリアは固く目を瞑った。


「ぷぎゅ!?」


 だがマリアの身体にスタンバトンが叩きつけられる事は無く、代わりに男の奇怪な悲鳴が鳴った。

 目を瞑ったマリアには何が起こったのか分からないが、耳には腐った果物を潰した様な生温い音が届く。

 恐る恐る目を開ければ、さっきまで暴行の限りを尽くされていた黒騎士が、男の頭を握りつぶしている姿を捉える。


「ひっ」


 頭を握りつぶされ、返り血を浴びる黒騎士。その姿にマリアは悲鳴を漏らし、腰を抜かす。

 黒騎士は男を放り捨てると真紅の瞳でマリアを一瞥し、ややあって主任へ向けて左手を翳す。

 そうすれば、主任の周囲の空間が切り取られた様に少しズレた。

 黒騎士は掲げた左手に力を籠め、ゆっくりと閉じていくと主任の周囲の切り取られた空間も比例して小さくなり、最後に力強く握り込めば主任は手の平サイズのキューブへと変貌してしまう。


「ァア……」


 ガクン。と疲れが限界である事が一目で窺える様に、膝を着いて動きを止めた。

 ただただ何が起こったのか分からず、恐怖に腰を抜かして動けないマリアを傍に黒騎士はゆっくりと息を吐くとその黒鎧は粒子となって消えた。


「……疲れる」

「に、人間?」


 黒騎士の代わりに姿を現したのは、黒髪の男だった。青年とは呼べない程度に成熟している、長い黒髪の男。顔は俯いていて見えないが、その身体に刻まれた幾つもの裂傷や打撲痕は夥しい程に彼の人生を物語っていた。

 まさか黒騎士の正体が人間だとは思っていなかったマリアが困惑の声を零せば、彼は垂れた黒髪の向こうに真紅の瞳を覗かせた。


「…………」

「あ。あのぉ、何か?」


 じっと彼はマリアを見続ける。

 何を言うでもなく、何かその視線に感情を込めるでもなく。ただ彼はマリアを見ていた。

 少なくともいきなり攻撃して来たさっきの研究者達とは違い、敵意は感じないマリアは流石に恐怖も薄れて来てお尻の汚れを払いながら立ち上がった。


「おっほん! 始めまして、人間よ。私は神の御使い。神の言葉を説き、神の怒りを体現する存在です。貴方に何があったのかは分かりませんが、安心してください。私が貴方を救いましょう。まずはその手で殺めた彼らに祈りを捧げましょう」


 大きく白翼を広げ、神々しさすら思わせる姿で慈悲深く指を組んで祈りの姿勢を取る。

 大変遅まきではあるし、今更な感じはするがマリアの下界とのファーストコンタクトなのだ。ここは一つ天使らしい事をしようと言う気持ちでマリアはそれっぽく振舞う。

 しかし返事所か、反応一つ帰ってこない。訝しんで薄らと片目を開ければ、彼は何故かマリアに背を向けて横転した車を起こしているではないか。


「え!? ちょっ! ちょっと待って下さい!」

「……何だ」


 慌ててマリアが駆け寄れば、彼は鬱陶しそうに顔を顰める始末。

 あり得ないと絶句する。天使だぞ? 神の御使いだぞ? お目に掛かれる機会などないのだからもっと喜ぶべきだろう。流石にさっきの研究者みたいに狂喜千判されるのは嫌だが、それでももっと何かあるだろう。


(こっ、これが現代の神離れ!!)


 ナチュラルにショックを受けて現実逃避するマリアを尻目に、彼はさっさと車に乗り込むとエンジンを掛け出した。

 その音に正気を取り戻したマリアは、慌てて開いた窓枠にしがみつく。


「待って下さい! そんな身体で何するつもりですか、手当てしないと!」

「うるさい。邪魔だ。消えろ」

「消えません! 私は天使なんです! 困ってる人は見捨てられないんです! ちょっ!? せめてとまっ止まって下さい!」


 縋りつくマリアを無視して、彼はアクセルを踏み込むとモーターは唸り声を上げて護送車はどんどん速度を増していく。窓枠に縋りつくマリアは、足が半端に浮いて走っているんだか飛んでいるんだか良く分からない、非情に面白可笑しい姿で必死の懇願を送る。

 折角の美しい顔が、風に押されて形容しがたい顔になる。その顔は、リードを引かれながらも帰りたくないと踏ん張る柴犬みたいだ。


「……はぁ」

「むぎゃ!?」


 彼はため息をつくと、ブレーキを踏み込んで護送車を急停止させた。 

 感性の法則に従ってマリアは顔面から地面に投げ出され、お尻を上げた態勢で痙攣して痛みに悶える。

 彼は誘うように突き上げられる、形の良い臀部へ絶対零度の視線を送りながら窓枠から気だるげに顔を覗かせた。


「天使と言ったな、お前」

「うぅ、急に止まるなんて酷いです。天使じゃなかったら死んでますよ……え? あ、はい。天使です」


 マリアの答えに彼は何か考え込むように斜め下を眺めると、ややあって護送車から降り立つ。

 鼻頭を抑えるマリアに近づき、きょとんとした表情の彼女に手を差し伸べた。

 何故手を差し伸ばされているのか分からない、が、起こしてくれるんだろうと期待したマリアはその手を取る。彼は一瞬だけ酷薄に笑うと、その手を勢い良く引いてマリアを引き上げた。

 彼の真紅の瞳と、マリアの空色の瞳が交じり合ってしまう程にかち合う。


「困ってる人は見過ごせないんだろう?」 


 血の様に濃い真紅の瞳は、陽の光に照らされて淡く輝く。そこに、濁りは無い。純然たる一つの色だけがあって、それは触れてはいけないと思ってしまう。でも、だからこそ。


「なら、良い事をしよう」


 それを知りたいと思えた。



 ◇◇◇◇



 ポーン。という間抜けた音がマリアの意識を浮上させた。

 いつの間にか眠っていたらしい。時間にすれば分もあるかどうか、薄らと目を開けたマリアは正面が開いているのを見て痛む身体に顔を顰めつつ、壁を支えに立ち上がる。

 エレベーターから出たマリアを出迎えたのは、明らかに戦闘の後が残る広い部屋。

 正面には一枚の分厚いガラスが隔たれ、その向こうとこちら側が絶対に相容れない世界を作っている。


「……ふぅ」


 ガラスの前で、マリアは心を落ち着かせる為に息を吐いた。

 その行為に意味は無い。強いていうなら、過去を振り返って黙とうを捧げている。しかしそれだって意味が無いのはマリア自身も理解していた。ここにあるのはただの物で、祈った所で誰も救われない。ガラスに張り付く埃を手で拭えば、その向こうには沢山の白骨が転がっている。

 ここまでの道のりにあったのと同じ白骨の群れ。唯一違うのは、どれも子供の白骨な事だけ。それだけで、観察出来る様に作られたガラスの向こうの大部屋の意味が分かるだろう。


「あの時は……助けてあげられなくてごめんなさい」


 無意味に、謝罪する。

 初めてファウストと出会った時、マリアは彼に連れられてここへ忍び込んだ。その目的は目の前の少年少女達を救うため。非道な実験の材料にされる彼らを助ける為にマリアは一度ここに来ていた。

 しかしそれが成功しなかったのは、マリアの沈痛な面持ちと謝罪の言葉が証明する。


「あの時は……いえ、あの時も覚悟が無かったんです。天使として正しい事をするべき。救いを求める人を助ける。ただ漠然とそう思っていただけの私は、人を殺めてでも貴方達を助けるという覚悟が無かった」


 当然だが、囚われた子供達を助けると言う事は、邪魔者は排除する必要がある。では排除とは、一人二人なら殺さずに拘束できるだろう。しかしここはその邪魔者の巣穴。当然、無血開城など望めない。

 その結果が、目の前の骸だ。

 でもそれはもう過去の事。どれだけ悔やんでも、どれだけ思い返しても変わる事は無い。結局、救う事が出来なかったという事実は変わらないのだ。

 だから。


「でも、もう私は謝りません」


 次に顔を上げた時には、そこに後悔の色は無かった。

 悔やんでいる場合でも、立ち止まっている訳にもいかない。もう終わった事、どうしようもない事だから。

 開き直ったと言うと語弊はあるかもしれない、しかしその表現が最も適しているだろう。申し訳ないという気持ちはある。出来ればこんな冷たいガラスの檻の中ではなく人らしく埋葬してあげたいという気持ちもある。しかし今はその時ではない、今は先へ進む時だから。


「私はもう、間違えたくないから」


 一歩ガラスから離れる。

 力強く前を見据え、骸から目を逸らさない。その先を、真っすぐに見つめて黒翼をはためかせてガラスを叩き割った。

 過去をそのままに残して囲い続けたガラスは、祝福の煌めきの様に骸に降り注ぐ。図らずも、ガラスの破片は一本の道を形造りそこへマリアはゆっくりと踏み出した。

 その道の先には、廃棄物を地上へ運ぶ空間転移を用いた移動設備があるのを知っている。沢山の検体や資材を運ぶ為の頑丈な設備だ。施設その物が生きているなら、それも生きている筈だと、間違いないと直感している。

 迷いのない足並みで、マリアは自らの罪の間を進んだ。


「何時か、この全てが終わったらまた来ます。だからそれまでは……」


 せめての手向けに、黒い羽根をそれぞれの骸へ送った。慰みにはならないだろうが、寒さは凌げるだろう。

 ガラスの向こうの部屋の壁際に辿り着くと、そこには扉の様に穴が開いている。当時のままで良かった、これで閉まってたら上まで端末を取りにいかないといけなかった。手間が省けて重畳。


「良かった。まだ使えそうですね」


 扉を抜ければ、目的の移動設備はすぐに見つかった。

 搬入の為に大きく目立つ作りで、一目でそれと分かる様にご丁寧に『搬入用転移陣』と書かれたプレートが入り口に張られ、地面に幾何学模様の魔法陣と補助設備が散らばっている。

 試しに傍の端末に触れば、端末の起動と共に紋章は光を放った。


『座標の入力を確認。ご使用の際は注意事項を留意し、安全に気を付けてご利用下さい』


 操作自体は簡単だ。地上と入力すれば勝手に座標を計算し、ピックアップしてくれる。後はその項目を押せば、魔法陣が輝きだしてマリアを地上へ送る為の準備を始めた。

 後は待つだけ。大丈夫、マリアは待つのには慣れている。暇つぶしに疲れた身体を休めても良いし周囲を散策しても良いだろう。


「でもその前に」


 魔法陣に向き合いながら、マリアは死角へ向けて黒翼をはためかせた。照明の影に黒い羽根は吸い込まれ、そこに隠れ潜んでいた何かに、肉に突き刺さる鈍い音が鳴る。


「ァ“ァ”!?」


 その音の正体は、水が張ったような苦悶の声を上げて影から飛び出して来た。

 それも元人間。しかし今は新鮮な水死体の様に身体は膨らみ、異臭と粘ついた気色悪い何かを撒き散らしている。

 両目に刺さった羽根に、顔を抑えながらよろよろと歩き寄ってくる水死体風の化け物に、マリアは再び黒翼をはためかせて止めを刺した。


「ブブッ」

「ごぎゅ、ぎゅに」


 しかし水死体風の化け物は一体では終わらず、影の中からよろよろとその姿を一体、また一体と現す。

 彼らも、上で出会った所長の化け物と同じだ。襲われ、死の間際に咄嗟に手を取ったのが不完全な実験材料。死にたくないという一心でそれを自分に使った結果が、目を逸らしたくなる化け物の姿。いや、もしかしたら自己意思は無かったのかも知れない、死んだあと、何かの薬品に浸かって死体が勝手に動き出したのかも知れない。

 それはマリアには知る余地も無い、が。


「私はもう逃げません。だから戦います。何が来ようと」


 どうでも良い事だった。

 戦おう。それだけが、この素晴らしくも残酷な世界で唯一の愛を貫く証明になるから。

 その頭上で、何かが這いずり回ってる音を響かせながら。


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