表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
126/146

伝えたい事があるんです




 昏い闇の中。上下左右も分からなくなる闇の中で、髪が逆立ち肌を殴りつけてくる風だけが落ちていると理解出来る。

 落下する速度は一秒重ねる毎に増していき、しかしそれがいつまで続くのかも分からない。

 ただ乾く目を見開き、下を見続けるマリアは考える。


(咄嗟に落ちましたが、どうしましょう。翼は……魔力を流しても飛ぶ気配は無い。天使の頃とは感覚が違いすぎてどうすれば良いか)


 次の瞬きの瞬間にはぺちゃんこになって死んでいるかも知れないのに、マリアの胸中は穏やかであった。

 考えなくてはいけない事が一つだから、今はどうやってこの窮地を乗り切るかだけを考えているお陰か、耳を撫でる風の音すら思考の妨げになる事は無い。

 方法として、あるのは背中の黒翼を使って着地する事だけ。セシリアの様に壁に手足を突き刺して減速してしまえば、治す手段は無く死ぬ理由が増えるだけだから。

 何とか黒翼を使おうとするが、一瞬身体を浮かすや身体を安定させる位しか効力は無く、豪速で落下するマリアの身体を無事に着地させるにははるか遠い。

 しかい出来ない筈は無いんだ。昔は天使だった、あの時も白翼を持ち自由に空を飛んでいたから、その感覚を思い出せば出来る筈。


(いえ、同じだと思うからいけないのでは? この翼の起源はセシリアの魔力。と言う事は悪魔の力が起源、ただそれが私の天使の力の残滓に反応して生まれただけで、全く別の物だと仮定すれば)


 冷静に翼への理解を深め考えを改めて再度、黒翼に魔力を流す。今の今までやっていた感覚とは違う、翼に流れる魔力の一端まで認識し羽根一つ一つに丁寧に、しかし素早く魔力を流す。

 マリアの予想は的中。黒翼は大きく広がり、身体を叩きつける風の勢いが弱まった。


「やった!」


 黒翼をはためかせている訳ではない、黒翼に魔力を流せば大きく広げているだけで飛翔の効果を齎す。しかしまだ不慣れ、ゆっくりと下へ落ちていくだけで上へ飛ぶことは出来ない。それでも充分な成果。

 速度が落ちるとほぼ同時に、暗闇に目が慣れたマリアは地面を捉えた。本当に危機一髪だった様だ。


「よっ……とと」


 ゆっくりと着地する。そしてもう何も危険が迫ってない事を理解すると、壁に手を着いて深く息を吐くと共に安堵に胸を撫で下ろした。


「っ……はぁ」


 小さくだが、身体が震える。ネックレスを握りしめる手は強張っていて、開こうとしても手が言う事を聞いてくれない。

 覚悟は決めた。恐怖はあるが、立ち止まる気は無い。しかし怖い物は怖い、恐ろしい虫に襲われたのも奈落に落ちたのも思い返せば狂気の沙汰だ。暫く心を整える時間が欲しい、そういう思いがマリアの身体を崩しだして。


「ダメっ、ダメなんです。もう逃げない、もう諦めない、そう決めたじゃないですか」


 しかし気丈に被りを振って顔を上げる。

 逃げるな、楽な方へ行こうとするな。まだ戦える、傷も負ってない。まだ歩けるしまだ戦える、なら立ち止まっている時間なんてマリアには無かった。今は一分一秒が惜しい、早くセシリアの元へ行かなければいけないだ。

 何時の間にか震えは止んでいて、自然と一歩踏み出していた。


「飛ぶのは……まだ難しいですが、滞空する事は出来るんです。なら慣れれば飛ぶ事も出来る筈」


 上を見上げ、活路を探す。黒翼の使い方が分かった以上、もう一度この奈落を登って外を目指す事も可能な筈だ。しかしその為には慣れなければいけない、うまく出来るかは不安だがそれが現状マリアには最善手に思えた。


「っ!? まだ追いかけてきてる!」


 しかし頭上から降ってくる、大量の虫の羽音にそれも遮られた。

 不吉な音が、縦穴中に響き渡っている。黒い虫達はマリアを諦めていない様だ、執念深く降りて来ている。まだ姿は見えないが、どんどん近くなる音の群体も後少しで音の原因が顔を出すだろう。

 これで、上へ飛ぶ道は失われた。まさか黒い虫の群れを、飛ぶのが不慣れな状態で突破する事は不可能だ。

 上が無理なら、道は他を探すしかない。幸い、目の前に地続きで洞窟が続いていた。なら道は一つしかない、一目散に走り出した。


「はぁっ、はぁっ……!」


 早々に走り出したお陰で、黒い虫の姿が見える程に追いつかれてはいない。しかし音は確実に洞窟の中を走るマリアを追いかけてくる。

 今走っている洞窟も上同様、淡く光る苔が常夜灯の様な光源となって道を示してくれる。しかしこの洞窟は複雑な作りらしい、入り口は一本道だったと言うのに中に入った途端、蜘蛛の巣の様に道が分かれている。お陰でマリアは自分がどの道を通ったのかも分からないまま、追いかけてくる黒い虫の音から少しでも離れる為に当ても無く駆け続ける羽目になってしまった。

 洞窟は広くて窮屈さは感じない、しかし深く潜れば潜るほどもう二度と日の光を浴びれないのかと脳裏に恐怖が過る。

 だが弱気になるなと、走りながら被りを振って嫌な考えを頭から消し飛ばす。ただでさえ極限状態なのに、不安に苛まれて心が疲弊したらそれこそ最悪な展開だ。

 今は何も考えずにただ前を向いて、走っていれば良い。

 ただセシリアの元へ向かう事だけを考えれば良い。


「ひゃっ!? きゃぁぁぁっ!」


 注意が思考に奪われていたのと、疲れて足元が見えていなかったマリアは地面が切り取られているのに気付けず足を取られた。そのまま斜め下へ続く傾斜を受け身も取れずに流されるように転び、約5m程滑り落ちるとぬかるんだ土の上に投げ出される。

 幸いにして傾斜は湿った苔で覆われていて、擦り傷と打ち身で済んだ。痛みこそあるが酷い怪我は無い身体を、苦悶の声と共に起こす。


「うぅ、しまっ……!」


 慌てて、自分が黒い虫の群れから逃げて来たんだと思い出して警戒に顔を上げるが、マリアの耳にはあの黒い虫が群がって襲ってくる音は聞こえない。代わりに岩肌を流れる水のせせらぎだけが届く。


「水!」


 いつの間にか撒いていた様だ、胸を撫で下ろすまでもなく岩肌を流れる水を手で掬い、乾ききった喉に流し込む。


「んっ、んっ、んんっ!」


 澄んだ天然水は氷の様に冷たく、歯に当たると鋭く痛みを訴える。しかし乾いた喉を通ったら痛みよりも身体が歓喜に湧くのを感じた。これほどただの水を美味しいと感じたのは初めてかもしれない、ただひたすらに水を掬って飲み続けたマリアは、充分すぎる程に喉を潤すと擦り傷を水で洗いながら周囲を改めて観察する。


「っ染みる……しかし、また随分様変わりしましたね」


 今までは淡く光る苔が常夜灯程度にしか灯りが無く、水気の無い洞窟ばかりだったが今マリアが居る場所は真逆だ。淡く光る苔は一面中に広がって、満天の月明りの様に暗闇を照らしている。そしてそれだけ苔が生えているのも水があるからだろう、小川と言うには浅いが確かに水の一本道を作っている。

 明るくて水があるからか、今までよりはマリアの心が軽くなる。水が流れているという事は、何処かに外へ続く道があるかもしれない、なにしろ外は霊峰の麓なのだから無い筈は無い。そう思えば立ち上がるのも苦では無かった。

 このまま水の流れに従って下流へ行けばあるいは、しかし何故かマリアは源流の方をじっと眺めている。何がある訳でも、何か聞こえる訳でも無い。なのにマリアの視線は源流がある暗闇へ向けられている。

 言葉に出来ない何か、胸騒ぎと言う程ではないがある種の勘がそっちに何かがあると訴えていた。勘に従えば出口は遠くなるという予感がある、しかしマリアの足は勘に従って出口があるであろう方とは逆に進んでしまっていた。


「……」


 何故そうしてしまったのか分からない。操られている訳ではない、振り返って戻る事も出来る。しかしそうしなかった、この先を進まなければいけない、例えただの寄り道だと直感していても、意味のある寄り道であるとも勘の部分が訴えている。

 道は穏やかで、地面が滑りやすい事を除けば苦労は無かった。焦る事は無く、しかし遅すぎる事も無い。一歩一歩しっかり、普通に歩いた。

 次第に足裏に伝わる感覚は柔らかい苔から、踏み覚えのある石畳の固い感覚に変わる。空気も水気を含んだ澄んだ物から、埃っぽい乾いた空気に変わる。

 それは、景観その物が変わった事による変化だった。


「……そう。そういう事だったんですね」


 視界に移る光景に、腑に落ちた声を漏らす。胸につっかえていた何かが、漸く喉を通った様だ。マリアは何処か物憂げに、思い出を振り返る様に遠くを見ながら先へ進んだ。

 洞窟の中に忽然と残る、黒い扉をくぐる。取っ手は無く、壊れた扉は本来なら人を感知して自動的に開かれるだろう。しかし今は外れかかっていてただの板となっている。

 入り口を踏み越えると、一本の廊下に出る。朽ちかけていて汚れていたり、壊れかかっているが当時の面影を残している。大理石とも違う、白い建材。今の時代では見た事も聞いた事も無い建材だ。

 まごう事なく、魔道歴の遺跡である証拠。それを更に強固にする、道の端々に転がる遺骨達。朽ちかけているが白衣を着ているのが殆どで、何か激しい戦闘でもあったのか骨が砕けている遺骨はどれもが入り口へ向けて倒れている。

 遺骨の群れを踏み越え、マリアは更に先へ向かえば十字路に出た。頭上には案内図が設置されている。


「魔界研究棟、生体工学棟、素体培養棟」


 案内図は血がこびりついている上に廃れて久しい文字で書かれていて半分以上が読めない、しかしマリアはそこに書いてある文字を正しく呟いた。書いてある文字に違いは無いだろう、だがマリアはその三方に行くつもりはないのか、傍の受付であろう囲いの中に踏み入る。

 そこにも遺骨が転がっていて、遺骨はバラバラに散らばっている。爆発にでも会ったのだろう、骨の残骸や瓦礫が散らばる受付の中をある程度の目星をつけて漁る。

 マリアは目的の物を見つけ、それを瓦礫の中から拾い上げた。埃を被っている黒い板を手に、表面を払って起動させた。

 モーターの駆動音が黒い板から流れると共に明かりがつき、館内にピンポン。という気の抜ける音が流れた。


『おはようございます。国連魔道研究所、魔界研究課の皆さま。本日は魔道歴1345年3月14日です。皆さま、本日も事故に気を付けて一日頑張りましょう』


 館内に電気が通り、方々に人工的な灯りが灯った。同時に流れた機械的な女性のアナウンスは当時のままで数百年は経っているのに、ややノイズ交じりなだけできちんと聞こえる。

 今の技術では考えられない程、高度な文明を誇っていた魔道歴。その技術は数百年経っても未だ健在だ。


『本日の予定です。午前10時から第二会議室で博士以上の役職者による予算会議。午後14時からは国連団による定期査察があります。研究者の皆さまは、お客様をお出迎えする意識を忘れない様にしましょう』


 流れ続けるアナウンスを流しながら、マリアは手元の黒い板を操作する。使い慣れた様子で、滑らかに指を動かして何かを探している。

 電力が生きている事にも、施設が稼働した事にも注意を向けない。そうであっても可笑しくないだろうという意識があったのだろう、だからそれを前提とした探し物をしている。

 そして漸く目的の物を見つけたのか、黒い板の一スペースを人差し指で押した。


 するとすぐ目の前の床がスライドし、中から円柱型のガラス張りのエレベーターが現れた。

 明らかに隠された出入口、恐らく機密性の高い場所への唯一の道だろう。それを知っているマリアは、その先に目的地があるのか黒い板をテーブルの上に置くと乗り込もうと踏み出す。

 だが突如として、警告を示すサイレンが鳴り響き周囲は赤いライトに包まれた。


「っ何!?」

『警告。警告。生体工学棟より、衝撃感知。実験体の暴走の危険あり、職員の皆さまは焦らず指定の避難経路へ退避してください』


 電力が復帰した影響か、忙しないサイレンが鳴り響くと共にアナウンスから危険が訴えられる。無視する程馬鹿ではない、明らかな異常にマリアの動機は跳ねあがった。

 急いで乗り込もうとしたマリアを止めようと、その危険が近づく音がする。


「オ“ア”ア“ア”ァ“ァ”ァ“!!!」


 音の発生源は遠い。なのに骨が震える程の獣の咆哮が響いた。サイレンの原因はその咆哮の様だ、何処か人間の咆哮にも聞こえる雄たけびは鳴り響き続け近づいて来る。

 マリアの存在を感知しているのか、鈍く叩きつけるような足音が聞こえて来た。

 戦う必要なんてない、すぐさまエレベーターに乗り込み操作盤に触れる。早く逃げなければ件の実験体がすぐに来てしまうだろう。


『エラー。エラー。既定のIDとパスワードの認証が必要です』

「あ、IDが」


 だが早く逃げなければと焦るマリアを煽るかの様に、危機感の無いアナウンスが必要な物を訴える。パスワードはどうにかなる算段があるんだろう、しかしIDなんて持っている筈がない。ではどうするか、そこらに転がっている遺骨から拝借するしかない。

 急いで転がっている遺骨から、使えるIDが無いか探し出した。


「エミリー・ブロンド。メディカルスタッフ、違う。猫猫。臨床試験スタッフ、これも違う」


 朽ちた白衣を着ている遺骨ばかりで、どれも損傷が激しくて真面な物は見つからない。そしてそれ以上に、責任者らしきスタッフのIDもまた見つかる事も無い。

 そも、今居るのは出入口付近なのだ。恐らく何か戦闘か事故があったのだろう、それでスタッフ達は逃げ出した。それは遺骨が皆一様に出入口を向いているのが良い証拠。ならばここにある遺骨は皆、平スタッフなのだろう。

 そうこうしている内に、迫りくる足音は姿こそ見えないが目と鼻の先まで来てしまった。


 長い廊下の先、曲がり角に手が現れる。


「ア“ア”ア“ア”ア“ア”ア“」


 それは、異常に筋肉が肥大化した元人間の化け物だった。

 千切れた白衣が元はここの研究者だったのが窺える。しかしその姿は、最早人間からか程遠く獣とも似つかない。正真正銘の化け物だった。

 明らかに薬物や魔法によって変貌した身体、肥大化しすぎた筋肉は岩の様に頑強で人の肌からかけ離れ、頭部は半分に割れて触手が蠢いている。

 植物をベースとした変貌なのだろう。背中に巨大な蕾を背負い、身体の至る所から植物の蔓の様な触手が自立している。


「なっ……! 最悪です、魔界の花を人体に移植して」


 それがどうしてそうなったかを理解する。魔界にしか咲かない花を、人体に移植した結果のあの化け物だ。しかしそれが分かった所で、どうにかなる訳などない。それはもう人とは到底呼べない化け物と化しているのだから。

 理性の無い白濁した目が、マリアを捉え涎を垂らしながら雄たけびを上げる。数百年ぶりの新鮮な餌、もう我慢の限界なんてとうに越していた。


「オ“ア”ア“ア”ア“ア”!!」

「来る!」


 獣の様に四足で飛び出し、マリアを喰らおうとする化け物。

 それに対しマリアは、逃げるのを諦めて戦う事を選択した。床に手を着いたまま、大きく黒翼を広げて迎え撃つ。

 しかしマリアは攻撃出来ない。


(怖い。息が出来ない、本当に戦えるの……)


 怖いさ、震えるさ。迫りくる化け物を前に、マリアは引きつけているのではなくただ怖くて動けないでいた。

 黒い虫と対峙していた時とは違う。余計な事を考えないひっ迫した状態ではない、頭の中に様々な感情や敗けたら。という考えが浮かんでしまう。

 でも、唇を噛んで血を流すと化け物を睨みつけた。


「違う。もう恐怖を理由に逃げない。セシリアならっ逃げない!」


 大切な人ならこんな時、絶対に逃げない。戦うしか道が無いなら、迷わず戦うだろう。生きて、大好きな人にただいま。という為に。

 なら自分もそうしよう、そうする。


「はぁっ!」


 大きく黒翼をはためかせ、黒い羽根の弾幕を張る。黒い羽根を化け物の身体に一斉に突き刺さり、粘性の血が巻き散る。

 全身に突き刺さった黒い羽根は肉を抉り、内部に浸食した。化け物は怯み、動きが鈍くなったのを見て、確実に効いているとマリアは喜びを露わにする。


「ッガァァァ!!」

「っゃぁ!?」


 しかし化け物は怯んだ身体を即座に立て直し、蔓の触手を周囲の壁に突き刺すとパチンコの様に大きくしならせ一瞬にして距離を詰めた。

 咄嗟の判断が追い付かなかったマリアは、大きく腕を振りかざした化け物相手に咄嗟に衝撃に備える事しか出来なかった。異常に筋肉の肥大化した化け物の腕は、鞭の様なしなやかさでマリアの身体を打ち払う。マリアの貧弱な身体は、壁に叩きつけられ血反吐を吐いて滑り落ちた。


「っぅげぇ! ひゅっ、かひゅっ!」


 咄嗟に防御が、後ずさったのが幸いして背骨が折れるのだけは回避できた。それでも罅の一つや二つは入った音がした。泥の様な血が喉に絡んで、上手く息が出来ない。頭を打たなかったのは幸いだが、意識はあるが身体が動かしにくい。

 耳鳴りが響いて、自分の呼吸さえ聞こえなかった。


(痛いっ……痛い!!)


 痛みに意識が持っていかれそうになる。慣れている筈なんて無い、セシリアを思っていなかったら簡単に意識を持っていかれていただろう。

 それでも霞む視界で正面を向くと、化け物が大きく腕を振りかざしているのを見て必死で身体を捩じって横に転がった。

 背後で壁が叩き割られ、瓦礫に殴られながらもなんとかマリアは片膝を着いて態勢を立て直した。


「かひゅっ、ひゅっ」

「オ“ア”ァ“ァ”……」


 息も絶え絶え、たった一撃で重傷を負ったマリアを化け物は嘲りを籠めて見下ろす。

 完全に認識が弱者へと変わった瞬間だった。

 マリアは、羽根で戦える距離を取ろうと地面を蹴って後ろへ下がろうとする。


「っ!」


 しかし化け物は素早く背中の蕾から触手を放つと、マリアの足首に巻きつけて壁に叩きつけるとどうぞ好きなだけ距離を取れば良いと言うように放り放った。

 明らかに弄ばれている。死なない、立ち上がる事が出来なくなるギリギリで加減されていた。

 子供が蝶の羽を千切って、もだえ苦しむ様を無垢に眺める様に。楽しいと感じる事も無く遊ばれていた。


「……っ」


 地面を這うマリアは、それでも化け物から目を逸らさなかった。立ち上がる事もうまく出来ない、生まれたばかりの小鹿の様に身体を震わせながら血反吐を拭う事も出来ないで。

 それでも、マリアは諦めていなかった。

 武器は黒翼による弾幕。体術なんて立っているので精いっぱいな彼女に出来る筈なんて無い。頼みの綱の黒翼も仕留めるには至らない。

 今のお前に何が出来る。化け物の目はそう言っている。

 何も出来ない。それはマリアも分かっている、でも諦めてはいなかった。


「ぁ……っ……!」

(目を逸らすな。逃げるな。あの子は諦めない、あの子は逃げない。最後まで決して戦う事から目を逸らさなかった!)


 一歩を、踏み出す。

 翼を使うなら距離を取った方が有利。だがマリアは、敢えて一歩を踏み出す。前に進むしか、勝利への道は無い。セシリアなら、そうする。


 ——戦うのが怖くないかって? そりゃ怖いよ、初めて師匠に森に放り出された時に兎を殺した時なんて、吐きすぎてご飯の味なんて分からなかったし。信じられる? 私前世じゃ普通の女子高生だったんだよ?


 脳裏に、セシリアとの思い出が蘇る。他愛ない、寝る前のおしゃべりの記憶だ。同じベットで、その日は何をしたとか仕事でお客さんにビールをぶちまけたとか。そういう他愛ない会話の折り、マリアはセシリアに聞いた。

 その質問に、セシリアは答えたんだ。怖い物は怖いと。

 生きるか死ぬかの瀬戸際なのに、走馬灯とも違う思い出にマリアはほほ笑んでいた。


 ——でもね、辛くは無い。だって夢があるから。


 そう言ったセシリアの表情は、年相応に笑顔で眩い物だった。夢を語る姿を本人は知らない、それがどれだけ自分にとって凄い事なのかを。


 ——いつかママと世界を旅したい。その為に私は冒険者として稼がなきゃいけない。危険は承知、でも夢を叶える為なら頑張れるんだ。全部、ママのお陰だよ。


 トラウマがあった。怖い事も沢山あった。辛い事も沢山あった。それでも夢を諦めなかった、本人ですら忘れてしまった様な幼心に抱いた夢だ。

 その夢を聞いた時、マリアは嬉しいと思った。自分の娘が夢を語ってくれて、そこに母親もいるんだ。嬉しくない訳が無い。小さいと思っていた我が子が、いつの間にか大きくなっていた。あっという間の出来事ばかりで、振り返り切れない程に沢山の思い出が詰まっていた。


「わた……しこそ。セシリア、の、お陰です」


 さらに一歩、踏み出した。不思議と、身体の震えは止まっていてもう怖くなかった。

 化け物を見上げ、しっかりと目で捉える。よく見れば化け物は長い年月が経っていて崩れかかっている、腐敗した身体には苔が生えていたりしていて、半分以上が植物化しているのが窺えた。

 どれだけ長い年月、この廃墟に残されていたのだろうか。一体どうしてこんな姿になってしまったのか。そう思ったら、憐れみにも近い感情が湧き上がっていた。


「ア“ア”ア“ッ!!」


 化け物は理解しかねる感情に突き動かされ、大きく腕を振りかざした。

 理解出来なかった。死にかけの女、立ち上がるので精いっぱいで小突けば死ぬであろうただの女が、何故そこまで力強い目を出来るのか。その真紅の瞳に捉えられると身体が震え、逃げ出したくなった。

 でもそれは出来ない。生存本能に根付いた強者の特権が、逃げるのを許さなかった。何より、殺さなければいけないという強迫観念があった。


「っ……ふぅ」


 化け物が腕を振りかざしても、マリアの表情に焦りは無い。

 一つ息をゆっくりと吐いて、肺の中身を空にして新しい空気を取り込む余裕すらあった。頭から血が抜けたからか、思考が驚くほど鮮明になった。温かい思い出が恐怖を薄れさせた。

 もしかしたら、悪魔の力に宿ったセシリアの想いが力をくれたのかも知れない。

 化け物の動きが水中の様にゆっくりに見える。どう動けば避けれるか、どこを攻撃すれば良いのかが克明に理解出来る。

 振り下ろされる腕を、マリアはゆっくりと最小限の動きで、ただ半歩横にずれた。


「ア“ァ”!?」


 それだけで、化け物の腕は空振り地面を無意味に抉る。何故避ける事が出来た、何故そんなに落ち着いて見ていられる。何故、何故。何故そんな目で見る。

 理解出来ない感情に支配された化け物は、次の動きをすぐに取れなかった。目の前で、自分を見つめる真紅の瞳をただ見ることしか出来なかった。


「私は!!」


 攻撃を避けたマリアは、力強く拳を握る。

 そこに自分が持つ全てを籠めた。

 戦う覚悟。守る覚悟。愛する覚悟。

 覚悟を決めなければ、本当に大切な人を守る事なんて出来ない。例えその覚悟が弱弱しい物だとしても、そこに籠められた()()だけは本物。 

 唯一本物だと、絶対に偽物だと言わせない母親としての覚悟を籠めて拳を突き出す。


「あの子にまた会いたい!!!」


 突き出した拳は化け物の最も脆い部分へ当たり、その身体を吹き飛ばした。魂から生み出される魔力が、マリアの魂の雄たけびに呼応して力へと変えた。 

 敗北を打ち破る強さを、逆境に抗う力を心から吐き出したんだ。


「はぁ、はぁ……やった。倒しました」


 化け物は壁に打ち付けられ、息絶えたのか身動きしない。 

 死に打ち勝ったマリアは、喜びの余韻もそこそこに足を引きずりながら化け物へ近づき、その身体にぶら下がっているIDを手に入れる。


「アルキメデス・ターナー。国連魔道研究所所長」


 化け物は、この施設の最高責任者だった様だ。 

 IDには名前と役職、そして顔写真が載っている。しかし今や、化け物は人間だった頃の面影を残していなかった。

 どうしてこうなったのか、そんな事を考える必要も余裕も無い。 

 鍵を手に入れたマリアは、壁に手を着きながらエレベーターへ戻るとIDを翳しパスワードを打ち込む。

 そうすれば機械音声は認証を伝え、場所の指定をする事なく降下を始めた。


「……また、ここに帰ってきてしまったんですね」


 ゆっくりと降下するエレベーターの中で、身体の限界を迎えたマリアは地面に倒れた。 

 霞み閉じ行く視界は、またしても過去の映像を映し出す。マリアが初めて人間の世界に来た時の、本当の意味でマリアが知った世界の記憶だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ