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母親の覚悟




 夜闇の森の中を、ただひたすらに走り続ける。安定も、速さも無い。表現としては無様と言う言葉が最も近い。

 時に根に足を取られ転びそうになり、枝に服を裂かれ苦悶の声を上げ、前を見るのではなく地面を見ながら走っている。


「はぁっはぁっ」


 息を切らし、ただただ走る。逃げていた。

 ダキナに言われた言葉が、闇に紛れて纏わりついて来る。


 ——だってマリアちゃんは。


「はぁっ! はぁっ!」


 破裂しそうな鼓動の音で幻聴を遮られれば良いのに。聞きたくない、それ以上先を聞きたく無くて無我夢中で走り続ける。

 でも声は張り付いて、逃げる事を許してくれない。


 ——自分の娘に恋してるんだもんね。


「うるさいっ!」


 どれだけ走ったか、衝動のままに駆けていたが、もう走る事も出来ない程に疲弊すると滝の様な汗を流しながら木の幹に手を着いて立ち止まった。

 耳に張り付く幻聴を遮って声を荒げれば、幻聴はピタリと止んだ。しかしその代わり、マリアの声は闇夜の森に寂しく吸い込まれ不気味な静寂が今度はマリアを包みこむ。


「はぁっ、かひゅ、ひゅっ!」


 ただ息を整えるのに必死だ。元々、大した体力がある訳でも無い。しかも今は身体の変化に体力を奪われていて、尚更体力が無い。

 青い顔で、苦しそうに喘いでいる。えずいてむせ込んで、座り込んで充分な時間を掛けて漸く真面に呼吸が出来る様になった。


「げほっ……はぁ、はぁ。うぅ、違うんです……私は、セシリアをちゃんと母親として……」


 だが息が吸えるようになって思考に余裕が出来ると、彼女は力なく蹲ってしまった。

 ダキナに言われた言葉が、彼女を追いつめる。

 自分の娘を、母親としてではなく一人の女として恋している。自分の事を母親として慕ってくれている娘に、その母親は純粋とは言い難い想いを抱いている。

 それは決して許されない想いで、罪悪感が心を抉る。


「違う……違うんです。そんな訳……」


 ——アオォォーー……ン。


「ひっ!」


 しかし罪悪感に胸を痛めている場合ではない。今マリアが居る場所は、夜の森の中。人ではなく獣の領域で、蹲って嘆いている様な女など格好の獲物でしかない。

 それに夜の森というのは、全てが怖いと感じる。

 風に撫でられた葉が奏でる音は、遠ければ遠いほど何かの声に聞こえる。獣声など、尚更。木の幹が顔に見えれば、暗闇に浮かぶ小動物の眼光もある。暗闇の中では何が起こるか分からない、それが一層の恐怖を覚えさせ踏み出すのを躊躇わせるのだ。


「い、今は先を急がないと……」


 だがマリアは、怯えながらではあるが立ち上がった。そう、今はマリアの気持ちなんて関係ない。セシリアが苦しんでいる、それだけは分かる。だから助けなくちゃいけない、それは母親の責任。我が子が苦しんでいるなら、救わなければいけない。

 ふらふらとした足取りで、前へ進む。

 だが無我夢中で走った代償は、正しい道筋を見失ってしまった。


「一旦戻って……?」


 このままじゃただの迷子だ。ダキナに会うのは嫌だが、せめて走って来た道を辿って戻ればまだそこからセシリアが居る場所へ向かえる。

 足を止めて振り返ったマリアは、何か気配を感じて怪訝な表情を浮かべた。


「音が……無くなった」


 あれほど鳴いていた鳥の声も、葉擦れの音も無くなって静寂が返って来た。

 嫌な予感がする。胸がざわついて、うなじがひりつく。覚えがあった、獣が発するあの殺気。怒りも悲哀も無い、明確な殺すというあの意思を。

 がさりと茂みが鳴り、マリアは小さく悲鳴を上げて怯えた。


「クゥン……」

「……っ。なんだ、さっきの赤ちゃん狼さんでしたか」


 だが茂みから顔を出したのは、先ほどダキナに餌付けされた狼の子供だった。

 よちよちと歩きながら、僅かに警戒心を見せるが好奇心に勝てないのか、黒い鼻をすんすんと小さく鳴らしながらマリアを見つめる。

 相手が可愛らしい魔獣の子供だと分かったからか、マリアは安堵のため息を零す。相手が分かれば、胃が重たくなるような恐怖も薄れた。

 マリアがしゃがんで手を差しだせば、魔狼の子供は遊んでくれるのかと思ったのか指先を鼻先で擽った。


「ふふっ、親狼さんの傍に居なくて良いんですか? 怒られちゃいますよ」

「クァン!」


 顎を撫でれば、子狼は気持ち良さそうに目を細めてされるがままになった。警戒心が無いのは、子供と言うのもあるが親から大切に育てられたからだろう。

 灰色の尻尾を揺らしているのを見て、尻尾の付け根を撫でれば未知の快感に平伏した。


「まぁ。なんだかヤヤちゃんみたいですね」


 灰色の狼だからか、その反応はヤヤにそっくりだ。まだ平穏だった日々の懐かしい思い出を思い返して、マリアはほほ笑む。

 あの頃は何も恐れる事が無かった。ただ日々を和やかに過ごし、セシリアがどんな大人になって旅立っていくのかを楽しみにしていた筈だったんだ。

 だけど今は、その平穏はもう無い。殺すか、殺されるかの境界に立っていた。平穏とはかけ離れた、非日常の中に。


「クンッ!」

「あっ」


 マリアの撫でる手が止まったのを恨めしそうに見ていた子狼は、耳をピンと立てると茂みの方へ走り出した。どうして突然と驚けば、顔を上げた先に親狼が居る。

 親狼は足元に纏わりつく子狼を窘める様に鼻で突いて、うなじを噛んで持ち上げた。あっちこっち好奇心のままに走り出す子狼は、まだ遊び足りないとでも訴えているのか悶えるが、親狼から叱責の唸り声が飛ぶと静かにぶら下がる。


「えっと……その……」


 親狼は腰を浮かすマリアをじっと眺めていたが、特に何をするつもりも無いのか反転すると走り去っていく。

 親子の姿を、マリアはじっと見つめていた。

 親が子を窘め、危ないと思えば牽制する。マリアには出来なかった、親の正しい在り方。

 自分は親として何か出来ていただろうか。我が子を守り、正しく育て、正しく向き合う。親として、正しくあれただろうか。


「……せめて、最後位は……親らしい事を」


 力なく被りを振ると、とぼとぼとセシリアの元へ歩き出す。戻るのは止めた、今はただ前へ進まなくてはいけない。

 だがそんな歩みは、まるで現実の厳しさかの様にすぐに挫かれた。


「——きゃあ!?」


 踏み出した一歩が、地面が崩れマリアの身体が深い穴の中へ落ちた。ぬかるんでいた地面が、先日の雨で脆くなっていたらしい。

 月明りの届かない闇の中に、深い深い闇の中に、堕ちていった。

 空へ伸ばした手は、遠くなる月と星へ伸ばした手は。届かない。



 ◇◇◇◇



 血の様に真っ赤な月が浮かぶ世界。その世界の住人達は、皆肌が青かったり角が生えていたり、そもそも人型では無かったりする。

 人の世界ではない、人が悪魔と恐れる者たちの世界。魔界と呼ばれている。


「マァリア様ぁ!」

「きゃっ! もう、ナターシャさん。急に飛び込んでこないで下さい、驚いちゃいますよ」

「ごめんなさぁい」

「ほら、この子達もびっくりしたって怒ってます」

「お腹の赤ちゃんがぁ? ごめんねぇ」


 魔界で、まだお腹が大きい頃のマリアがナターシャと戯れている。在りし日の思い出。生まれる我が子を心待ちにし、友と家族と幸せな日々を過ごしていた日々。

 その背中には、天使の証である純白の翼が生えている。幸せの象徴だ。


「凄いわぁ、ここに赤ちゃんが二人も居るのねぇ」


 ナターシャはマリアのお腹を、慈しみを籠めて撫でながら未だ信じられないと感慨深げにほほ笑む。生命の神秘と言うのは尊い、いつか自分もこんな風になるんだろうか、なれたら良いな。でもそれ以上に親友の幸せな姿に心から嬉しい。

 そんな心の声がありありと伝わる雰囲気のナターシャに、マリアも釣られてほほ笑む。


「ねえねぇ、悪魔と天使の赤ちゃんってぇどうなるのかなぁ? 半天半魔かなぁ」

「どうでしょうか、双子なので片方ずつかも知れませんよ」

「そっかぁ! 何でも良いけどぉ元気に生まれるんだぞぉ……あ!」


 マリアのお腹を撫でていたナターシャは、遠くに血を分けた弟のエロメロイを見つけると毒の触手を放った。

 真面目にお仕事中のエロメロイは真剣な表情で部下に指示を出していたのに、突然襲い掛かって来た毒の触手に驚く間もなく首根っこを掴まれ引っ張られた。


「ぎゃァ溶ける! 買ったばっかのパーカーが溶けるっしょ!」

「ちょっと弟ぉ、マリア様に挨拶しなさいよぉ」

「もっとやり方あるっしょ! ちわっすマリア様、お久しぶりっしょ」

「え、えぇお久しぶりです。その……大丈夫ですか?」

「何時もの事なんで大丈夫っしょ」

「言葉遣ぃ!」

「ぎゃァ!! 溶ける! エロ漫画みたいになっちゃう!」


 エロメロイとナターシャのやり取りは、騒々しいが仲の良さが窺える姿にマリアは思わず口元を手で覆って笑いだしてしまう。

 エロメロイも本気で抵抗する様子は……いや、半裸になった辺りからは本気で毒の触手から逃げ出している。

 誰も止める様子が無いのは、いつもの姉弟の戯れだから。戯れと言うには激しすぎる遊び姿に誰もが笑い声を上げていると、一人の男が近づいてきた。


 その男を見て、笑っていたその他大勢は気を引き締め礼をして、ナターシャもエロメロイも遊ぶのを止めると最上級の礼節を以って頭を垂れた。


「いつも楽しそうだな、二人とも」

「はっ。陛下がこの国を作り上げた功績を、我が姉に享受して頂いておりました」

「ちょっとぉ。んんっ、愚弟がお耳汚しを失礼しました。ご尊顔賜り、誠に光栄でございます」


 二人が頭を垂れ敬愛を捧げる相手は一人だけ、魔界に作り上げたナターシャ達の国。差別された者たちが、虐げられた者たちが集まって出来た平和な国。

 飢える事も無い、寒さに怯えて寒空の下で眠る事も無い、暴力に晒されることも無い。

 安住の地を作り上げてくれた、一人の王に最上の敬愛を皆が捧げる。


「貴方!」

「マリア、危ないじゃないか動いちゃ」

「もう、心配しすぎですよ。少しくらい動いた方が良いんですよ?」

「そ、そうか? でも何かあったら……」


 その王も、一人の父親らしく初の我が子に情けなくも可愛らしい姿を見せる。それを馬鹿にする者など一人もいない、皆が微笑ましく眺め祝福した。

 純白の天使に抱擁を交わし、キスをするのを許されるのは一人だけ。彼女を愛し愛される夫。魔王ファウストだけ。

 白と黒が穏やかに寄り添う。その姿に天使だ悪魔だと言った言葉は要らない、夫婦という言葉だけで良い。


「なぁ姉貴、どんな子が生まれるかな。やっぱ美形だよな」

「当たり前でしょぉ、それにきっと物凄い元気な子よ。上の子がしっかり者で、下の子がおバカちゃんねぇ」


 ナターシャとエロメロイは、寄り添う二人を眺めながら祝福した。


「ねぇ貴方」


 愛する夫に膨らんだお腹を撫でられながら、親友に見守られながらマリアは夢心地に呟く。


「私、幸せです。貴方が居て、友が居て。こうして我が子を宿す事が出来た。これ以上ない位、幸せです」


 神の御許に居ては知る事は無かった幸せ。天使としてではなく、人として、母としての幸せ。

 それを知る事が出来たマリアは、きっと世界一の幸せな母だろうさ。

 その幸せが、我が子にも等しく注がれますように。願いを込めて、マリアは愛する夫の手と共にお腹を撫でる。


「きっと、大変な事も辛い事も沢山あると思います。でも大丈夫ですよ、私はお母さんですから。絶対、何があっても貴女達の味方です。愛していますよ」


 無上の愛を注ごう。自分が貰った愛を、何倍にもして我が子を愛そう。絶対に手放したりなんてしない、だって母親なんだから。

 この時、マリアは既に母親としての覚悟を決めていた。何があっても母親であると。どんな形であろうと愛すると。


 だから。



 ◇◇◇◇



 ぽたっ。と、頬に水滴が当たる感覚に意識が浮上した。瞼を開けるのも辛い、ざらついた土の感触が頬を撫で、再び手放してしまいそうな意識の糸を必死で手繰り寄せた。

 冷たくて、苦い地面に横たわっていたマリアは痛みと倦怠感に包まれる身体を重たく起こす。


「っ……!」


 割れるような頭痛に苦悶の声を上げ、軋む肋骨の悲鳴を無視して久方ぶりの酸素を肺に目一杯取り込んだ。どれだけ意識を失っていたのか、酸素を取り込むと肺が鋭い痛みを訴え、僅かな血と土を吐き出してむせ込む。

 それでも生きている。痛みと口の中の苦みが、今はまだ生きているんだと実感させた。


「げほっ、ごほっ……はぁ、はぁ。生き……てる?」


 呆然と周りを見渡す。

 暗い穴の底。豊かな苔とぬかるんだ土が、落下の衝撃を和らげてくれた様だ。頭上を見上げれば、登るには到底難しいとしか思えない高さがある。試しに傍の壁に触れれば土は柔らかく、殊更登るのは不可能だ。

 まるで落とし穴だ。幸先が悪い事この上ない、これではセシリアの元へ向かう所では無かった。


「登る事は出来ない……なら」


 遠い月を見上げていたマリアは、ゆっくりと正面を向く。そこには穴があった。道、と呼ぶほど上出来ではない。天然の洞窟だろう。

 うっすらと緑色に発光する苔が、街路灯の様にそれが洞窟である事を象っている。どれだけ続いているかも分からない、ただ分かる事はそこを進む以外に方法は無いという事。


「セシリアなら迷わない、頑張れ私……」


 闇の恐怖に竦むマリアは生唾を呑み込むと、意を決して一歩を踏み出す。立ち止まっている時間は無い、意味も無い。

 月に背を向けた彼女は、あっという間に闇の中に消えていった。


「苔が……光っている。どういう原理なのでしょうか」


 そんなマリアを出迎えたのは、完全な闇にならない程度に淡く光っている苔達。灯りとしては心許ないが、それでも闇の中を歩かなくて済むだけまだまし。

 それにセシリアと違って冒険家でもないマリアは、こういった光景に胸が躍るのを否定できないでいる。

 あれ程さっきまでは気分が沈んでいたのに、吐きそうな自己嫌悪に襲われていたのに。今だって身体は痛いし、口の中の土をゆすいで冷たい水で喉を潤わしたい。出口があるかも分からないのに、不満と不安は幾らでも湧いて出る。


「こういうのも、冒険家のお仕事をしているセシリアなら分かるんでしょうね」


 なのに、心が躍ってしまう。元々好奇心の強い性格なのもあるが、未知に興奮を覚える人の性なのだろう。

 疲弊した身体で、景色に目を取られながら先へ進むマリアの歩みは迷い無かった。

 だがふと、素朴な疑問が浮かぶ。


「そういえば、この洞窟は動物が居ないんですね」


 洞窟を進んでいたマリアは、動物の気配が何もしない事に疑問を浮かべる。セシリアから冒険家の仕事を聞くのが好きだったマリアは、おかしいと思う。

 例えどれだけ閉塞空間だろうと、動物と言うのは必ず居る。洞窟なら蝙蝠やネズミ、それでなくても危険な魔獣が住んでいる事があると。なのに今マリアが居る洞窟を見渡しても、ネズミ所か蝙蝠すら居ない。耳を澄ましても聞こえるのは自分の心音と風の呼び声だけ。

 冒険に明るくないマリアでも分かる、何かがおかしい。


「確か、セシリアが以前言っていた事が」


 思案しながら進むマリアは、こういう状況の事をセシリアから聞いた覚えがあった。しかし思い出そうにも、大分昔の事だからかなかなか記憶から引っ張り出せない。

 喉元まで出かかっているのに、あと少しが分からなくてもやもやする。


「何か……そう、あの時セシリアが初めてお仕事で怪我した時で……」


 珍しく森以外で仕事をしたセシリアが、怪我を隠して帰ってきて怒ったのを覚えている。あの時セシリアは何故怪我したのかを話していた筈だ、それは洞窟の奥にある鉱石を取りに行った仕事で、順調に仕事をしていたセシリアは慢心していたと言っていた。

 アイアスのお叱りと勉強を隣で聞いていたから覚えている。


「思い出しました! 異常に危険な魔獣の縄張りだと、小動物も寄り付かないって!」

「キュル」


 やっと思い出せて喜色に跳ねたマリアだが、思い出すのが遅かった様だ。

 マリアの声が洞窟に反響するが、明らかにマリア以外の虫の様な唸り声が背後から聞こえる。しかもご丁寧に、着地する音とセットで。

 さび付いた人形の様に、マリアはぎこちなく背後に降り立った何かを見る為に振り返る。

 今、マリアの脳裏では、騒がしく鳴り響く警鐘と共にセシリアの言葉が蘇っていた。


 ——普通はどんな魔獣でも、小動物とは共生関係を築いてるんだよ。でも危険すぎる、例えば気性が底なしに荒いとか居るだけで周囲に害を撒き散らす魔獣なんかの縄張りには、何もいない。だから周囲から小動物が消えたら、それはマジでヤバいから気を付けなきゃなんだって。


「……ごめんなさいセシリア。今思い出しました」

「キュルル」


 振り返ったマリアは、淡く光る苔に照らされたそのマジでヤバい魔獣を見て硬直した。

 それは人並みの大きさを持つ黒い虫、と表現するのが最も相応しかった。触覚があって、羽があって、八本の腕は鋭い鎌の様で。肉なんて簡単に裂けてしまいそうな牙の生える口からは、酸性の涎が溢れていて地面が嫌な音を立てて溶けている。

 見るだけで不快感に鳥肌が立つ、そんな虫がじっと黒い眼球でマリアを捉えている。


「キュルルッ!」

「いやぁっ!」


 黒い虫はマリアを餌と完全に見なすと、耳障りな声を上げてカサカサと地面を這いながら猛スピードで距離を詰めてくる。 

 余りの気持ち悪さに、マリアは黒翼をはためかせて鋭利な羽根の弾幕を張る。豪雨の如く放たれる黒い羽根は、鋭利な刃物となって黒い虫に突き刺さった。


「キィィィ!!」


 黒い虫は耳障りな悲鳴を上げてのた打ち回った。突き刺さった身体から白い液体と酸性の血が溢れて、胴体を晒してのた打ち回る姿は不快の一言に尽きた。

 黒い虫の甲高い悲鳴は洞窟中に響き、いつまでも木霊し続ける。断末魔というには、長く何か意味を持つ様に感じた。


「き、気持ち悪い」


 その醜悪な姿と声に、嫌悪感をむき出しにしたマリアはせめてその断末魔だけでも止めたくて再び大きく翼をはためかせ、黒い羽根で胴体をめった刺しにする。

 流石に効いたのか、黒い虫はか細い声を上げて絶命した。

 漸く耳障りな絶叫が止むと、ほっと安堵のため息を吐いて改めて黒い虫を観察した。


「これが、魔獣? こんな恐ろしい化け物とセシリアは戦っていたんですか……」


 黒い虫はマリアより頭二つは大きい。裂けた腹からは何かの肉が溢れていて、肉食である事が窺える。酸性の血液は触れればそれだけで危険だし、そうでなくても牙や八本ある手足は鋭くて、体術を中心としたセシリアならその脅威に苛まれながら戦わなくてはいけないだろう。

 改めて冒険家という職業の危険を知ったマリアは、己を奮い立たせるためにネックレスごと拳を握り込む。


「いえ、それより何かおかしい。本当に一体だけなのでしょうか」


 立ち上がって周囲を警戒するマリアは、一抹の不安が過った。確かに黒翼が生えてマリアは戦う力を手にした、だが実際にマリアに戦う事が出来るかと言えば、そうではない。まだこの黒翼の使い方も分からない、経験も技術も無いマリアが危機察知能力の高い小動物すら寄り付かない環境に居る黒い虫を倒せた事がおかしいんだ。

 一体なら脅威ではないかも知れない、だが複数体なら? 群れなら?

 その不安は、まさに今現実の物となる。


「……まさか」


 音が洞窟の奥、マリアが歩いて来た方からする。群体の音、無数のカサカサと言う音が、一つの不協和音としてマリアに先じんじて届いていた。

 それは音を聞くだけで分かる、二つや三つなんて可愛い物ではない、何十という音が重なった音で、まごう事無く今殺した黒い虫が地面を這う音だと。

 遠くの方で灯りとなっていた淡く光る苔が、闇に包まれる。闇その物が迫っている様に。


「キィィィッ!!」

「ひぃっ!?」


 気づいた。それが闇などでは無い事に。闇の様な黒い外皮を持つ、この虫が濁流の様に一つの生命体としてマリアへ駆け寄っていた。

 数える事など無意味、壁中に洞窟中に隙間の一つも無い位に大量の黒い虫が群がっている。

 反射的に悲鳴を上げながら羽根を撃ち出したが、先頭の黒い虫に刺さるだけで焼け石に水。瞬く間に迫りくる虫の濁流に、マリアは即座に踵を返すと必死で走り出した。


「はぁっ、ひぃっ!」

「キィィィッ!!」 


 背後から迫る不快な音。その正体が見るだけで鳥肌が立つ黒い虫の群れで、マリアを喰らおうと狙っている。

 捕まれば生きたまま嬲り食われ、物言わぬ肉塊となるのは確実だろう。

 だから必死で走る。乾いて唾液も出ない口で必死に酸素を取り込み、痛む身体の悲鳴を無視して逃げる。

 こんな所で死ぬわけにはいかない。死にたくない。ただ思うのはそれだけ、焦燥と疲労の中で走り続ける。


「キィッ!」


 一体、元気の良い黒い虫が羽根を羽ばたかせて飛び掛かって来た。左右に避けるのも、足を止めて迎撃するのも不可能。ほんの少しでも足を緩めれば、黒い虫の濁流に呑み込まれてしまう。

 肩越しにそれを凝視するマリアは、生への執着に支配された脳裏で考える。


(どうすれば……! こんな時セシリアなら!)


 セシリアならどうするか、そう思ったら意識するより先に身体が動いていた。

 いつも見ていたから、セシリアが努力する姿を。何度アイアスにぶん殴られても、決して折れずに立ち向かっていた姿を。

 そう、見ていた。セシリアが戦う姿を、その全てをつぶさに見ていたから、大切な人を守る為に戦う姿を、意思を。その思いはマリアの身体に刻まれていた。


「はぁっ!!」


 思いっきり地面を蹴りながら背後を向き、目鼻先まで迫りくる黒い虫の咢を顎を逸らして避けるとその隙だらけの土手っぱらにつま先を叩き込んだ。

 完璧な姿勢、完璧な位置に入ったサマーソルトキック。黒い虫が天井に叩きつけられるのを視界の端に捉えながら、マリアは翼をはためかせて着地の衝撃を消す所か、ジェット機が低空飛行で旋回する様に速度を緩める事無く再び走り出した。


(動けた! 出来た!)


 戦える。それを感じ取ったマリアは喜びを浮かべる。自分は弱くない、もう弱い母親ではない。守れる、抗える。弱った心にその喜びは麻薬の様に彼女を奮い立たせる。

 しかし背後から追いかけてくる黒い虫の濁流に立ち向かおうと思う程、まだ愚かでは無かった、だから逃げる。

 マリアが戦うべき場所はここではない、こんな薄暗い穴の中で虫風情と戦っている場合では無かった。


「はぁっ、はぁっ……! そうだ、私は何があってもあの子を愛すると決めたんです」


 走り続けていたマリアの足が止まる。というより、止まらざるを得なかった。もうそれ以上先に地面は続いていなかったから。


「キュルル!」


 背後から黒い虫が迫っても、走る事は不可能。物理的な問題で。

 崖とも穴とも表現するのが相応しいとは思えない、巨大な空間が目の前に広がっている。ぽっかりと空いた空間は巨大な化け物が大口を開けている様な、そんな闇が途方も無く広がっている。

 底も天井も端も見えない、まさに行き止まり。バットエンドだ。


「覚悟……覚悟を決めなさい、マリア」


 荒く肩で息しながら、マリアは背後をみる。数えるのは不可能な数の黒い虫が大挙してマリアを見ている。

 もう彼女に逃げる場所は無い、それが分かっているから今か今かと飛び出すのを窺っているのが。まるでそれが、慈悲深くマリアに死ぬ覚悟を決める時間を与えているかの様だ。

 マリアに残された道は二つに一つ。

 闇の中に飛び込むか、死ぬのが分かっていて生き汚く抗うか。


「セシリア、少しだけで良いです。勇気を下さい」


 覚悟を決めた女は、もう弱い女の姿では無かった。

 一人の母親として、女として、最も愛する我が子を守る為なら何でもする。悲壮とも取れる程に力強い意志をその真紅の瞳に籠めて。

 彼女は闇の中に身を投げ出した。

 その姿が闇に呑まれるまで、彼女は目を閉じなかった。


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