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御馳走に必要なのは、恋とスパイス

 


 帝国内の霊峰の麓への入り口。遠くに果てまで見山する霊峰を背景に、目先には広大な針葉樹の森林が広がる。

 所々に雪が積もっているが、明日の朝日を浴びる頃には溶けているだろう。

 心地よい小鳥の囀りを奏でる森だが、もう少しすれば日が落ちて一転恐ろしい自然の怪物の根城となる。


「おと~さん、おと~さん。ま~お~おが来る~よ~♪」


 そんな静寂な森の中に、女の軽やかな歌声が響く。さながら木漏れ日の中で揺蕩う妖精の様な、静かな森に相応しい鼻歌交じりの上機嫌な歌だ。

 女は鼻歌を奏でながら、鋼鉄の義手を足元へ向ける。五指を広げ、銃口を狙いつける。


「バンッ♪」


 肘から伸びた杭が、鋭く火花を上げながら落ちると女の掌から太い杭が勢いよく飛び出し足元のイノシシの脳髄を破壊した。

 痙攣するイノシシの死体を眺めながら、女は褐色の頬に飛び散った血を拭うと手土産片手に上機嫌に焚火の元へ向かう。


「ただいま~、今日はお肉だよママ~」

「……やめてください、気持ち悪いです。ダキナさん」


 焚火に帰って来たダキナを出迎えたのは、静かに膝を抱えて座るマリア。しかし今の彼女は、以前の彼女とは全く違う姿と雰囲気。

 穏やかで陽だまりの様だった雰囲気は、今や暗く沈んでいる。眉根を下げるような微笑みも今は無く、錆びたナイフの様に睨みつける。

 そんな彼女の一番の変化は、その背中に生えた血濡れた様な黒翼だろう。堕ちた天使という彼女に相応しい、堕天使の証とでも言うような黒い翼。


「ごめんって~、そんなに怒んないでよ。マリアちゃん?」

「……別に怒ってません。不快なだけです」

「ご機嫌斜めだな~」


 睨まれた褐色の女——ダキナ——は悪戯を楽しむ子供の様な顔で、苦笑交じりに唇を尖らせると狩ったばかりのイノシシの処理を始めた。

 鋼鉄製の義手の両手。まだ腕を失ってから一月と経っていないのに、もう生の腕と変わらぬ滑らかさで皮を剥いで内臓を吐き出す。

 鼻歌を奏でながら晩餐の支度をするダキナを横目に、マリアは焚火に視線を落としながら膝を更に深く抱え、黒翼で身体を包む。


「……セシリア」


 消え入りそうな声で、頼りなく最愛の娘の名を呟く。握り込んでいた右手を開けば、セシリアが大切にしていた空色のネックレスが。

 あの日、スペルディア王国で異形の黒龍騎士となったセシリアの手を掴めなかった時から、セシリアに噛まれた傷から染み込んだ魔力がマリアの身体を変化させた時から大切な娘の傍に居られない。

 無力という後悔に苛まれながら、マリアはセシリアを求めてこんな人里離れた場所まで来た。怨敵を前にしても、殺したい気持ちをぐっと堪えてでも。

 でもそれもあと少しという所まで来て、マリアはただ膝を抱えてしまっている。


「本当に……ここにセシリアが居るんですか」

「え? いるいる、ちゃんと来て確認したし。おっ! やっぱ冬ごもり明けは良いね~、美味しそ~」


 落ち込むマリアに適当に返事をするダキナに、マリアは唇を噛んで俯く。

 ここまで来られたのもダキナのお陰だ。ダキナがいなければセシリアが何処に居るのかも、これだけ早く追う事も出来なかった。しかし感情がそれを赦せない。何故ってダキナはマリアとセシリアの人生を歪めた張本人なんだから。

 思えば始まりもこの女だった、ダキナがマリアを害しセシリアが戦う道を選んだ。黒龍に街を襲撃された日だって、ダキナがマリアを誘拐しセシリアと戦って、その所為でセシリアは変身する羽目になった。

 だから今ここで役にこそ立っているが、それ以上の、全てが狂った原因は目の前にある。

 殺せるなら、殺したい。だがその機会は、あの雨の日に手放した。

 今はただ、ダキナを信用するしかない。それだけが、大切な娘を取り返す手立てなのだから。


「おっ肉~、おっ肉~。きょ~おはおっ肉~、塩をかけたらはいっかんせ~」


 そんなマリアの様子を気にした素振りも無く、ダキナは晩餐というには野性的すぎる食事を出来上げると大口を開けて食らいつく。

 溢れる肉汁と取れたて出来たての肉に舌鼓を打ちながら、歓声を上げて油で艶やかな唇を舐めとる。


「ん~! 美味しい~! 食べないの?」

「……いりません」

「美味しいのになー、別に毒なんて入ってないのに」


 すげなく断られたダキナは一人不満げに食事を進める。結局、マリアは食事に手を付ける事無く、ダキナが咀嚼する音だけが鳴り続けた。

 静かな食事。穏やかとも言えない、気まずい……と感じているのはマリアだけだろう。


 くぅ~……。


「!?」


 意固地になって食事に手を着けないマリアであったが、芳醇な肉の香りには逆らえないのか可愛らしい音が鳴った。マリアのお腹から鳴った、空腹を訴える音だ。

 その張本人であるマリアは、顔を真っ赤にしてお腹を抑えた。


「あはー、やっぱお腹空いてるんじゃん。やせ我慢はよくないよくない、ほらど~ぞ」

「っ~……はい」


 顔を真っ赤にして恥じらうマリアに、ダキナは笑いながら肉を差し出す。ただ塩を振りかけただけの肉だ。

 しかし空腹に鼻先を擽られれば、咥内に唾液が満ちて我慢が出来なくなる。

 意固地を張っていたが、それでも最終的におずおずと受け取った。


「……いただきます」


 まじまじと肉を見下ろしていたマリアは、ダキナを警戒して直ぐに口を着けない。だがニヤニヤと眺めてくるダキナに、段々と苛立ってきたのか眉根を寄せると上品に小さく食らいついた。

 瑞々しい肉汁が一気に咥内になだれ込み、口端から垂れてしまう。だがそれ以上に、塩が効いただけの肉の味は何故か今までの食事より美味しく感じた。


「っ! 美味しい……」

「そりゃそうでしょ。なんせこのダキナ様お手製塩を掛けたんだから」

「ただの塩じゃないですか」


 幾分か雰囲気の柔らいだマリアは、今度は大きく口を開けてかぶりつく。普段ならしないが、空腹と野外というのがマナーを捨てさせた。

 無礼講で食べる肉のなんと美味い事か。焚火の弾ける心地よい音と共に、夜空の下で食べる肉。貪る様に食い尽くす。


「美味しーでしょ、人間どんな時も腹は減る。例えそれが憎い相手を前にしても、飯を食えば美味いと感じる。人生って不思議よねー」


 骨を咥えながらダキナがしみじみと呟く。

 確かに不思議な物だ。まさか加害者と被害者が、こうして焚火を囲み同じ飯を食らうなど。

 だがそうしなければいけない理由を分かっていて言うのだから、ダキナは意地が悪い。当然、マリアは肉を食べながら睨みつける。

 マリアの感情に比例し、黒翼がざわつきながら広がった。


「殺したい? ならさっさと殺せば? 目的地はこの先を進んだらあるし」


 殺気を浴びせられているというのに、ダキナはチシャ猫の様にニヤつきながら命乞いする所かさっさと殺せと両手を広げる。

 しかもご丁寧に、ゴールまで教えて殺さない理由も捨てた。挑発するダキナに、マリアは最後の肉を大きく呑み込むと乱雑に腕で口元を拭う。


「どうして挑発するんですか、そんなに死にたいんですか」


 解せないのが、ダキナの態度だ。

 彼女はこうやって何度も手を下させようとする、両手を広げてニヤケ面を浮かべながら何の躊躇も無く。それが嘘でも偽りでもないと一目で分かるほどに、彼女はごく自然に死を望んでいる。

 そこまでして死にたいのか、そんなに希死観念が濃厚には見えないからこそ理解に苦しむのだ。


「いや別に? 死にたいと思ってる訳じゃないし、あたしメンヘラちゃんじゃないから」

「ならどうしてですか」


 だがダキナはあっさりと否定する。きょとんとした顔で、嘘をついている気配は欠片も無く、本気で言っているんだと分かる。

 尚更理解に苦しむマリアが重ねて問えば、ダキナは唇を指で押し上げながら虚空を眺める。


「う~ん、でも意味のある死に方はしたいなとは思ってるかな。それこそ、セシリアちゃんに殺されるなら本望だし」


 セシリアの手を汚させたくないという気持ちが、マリアの表情を険しくさせたが口は挟まない。今ここで反論した所で話の腰を折るだけだから、黙ってダキナに続きを促す。

 それに気づいたダキナは、一つ目を瞑ると肩の力を抜いた。


「前も言ったけど、愛憎って言うか? 好きだからこそ憎まれたいの、そうすれば一生忘れられないから。一番辛いのが、あたしは忘れられる事だと思うんだ」


 月が雲に隠れ、焚火の灯りがダキナの顔を半端に照らす。普段の小生意気な表情を消し物憂げな表情を浮かべているからか、どこか懺悔する様な印象を受ける。

 ダキナは骨を弄びつつ、焚火を寂し気に眺めつつ儚げな声でしゃべり続けた。


「……昔々、ある所に一人の女の子が居ました。女の子はごく普通の村人の家庭に生まれ、男兄弟の中の唯一の女の子だったので、とっても大切に育てられ、愛されました」


 聞いた事ない昔話だ。その女の子と言うのが誰なのか、それは分かっている。だって語るダキナの表情が、とても幸せそうに柔らかいのだから。


「でもある日、女の子は親の言いつけを破って森の奥に行ってしまいました。友達に誘われ、無謀な冒険心でした。そんな事をすれば、どうなるかなんて火を見るより明らかです。知らず魔獣の縄張りに踏み込んでしまい、気づいた時には友達は血塗れで倒れていました」


 茂みが揺れ、魔獣の子供が顔を出した。幼い狼の子供、警戒心はあるが肉の匂いに釣られて鼻を鳴らしながらにじり寄ってくる。

 焚火の弾ける音にも驚く魔獣の子供に、ダキナは弄んでいた骨をイノシシの死体の方へ放り投げた。魔獣の子供はイノシシの死体へ駆け寄ると、貪り食らう。


「女の子は必死でした。ただ死にたくない、その一心で走り続け、気づいたら洞窟の中に居ました。でも運の悪い事に、そこは凶暴な魔獣の寝床だったのです。帰って来た魔獣に見つからない様に、女の子は蠅の集る食べ残しの中で息を潜めました。何時間も、何日も」


 死体を貪り食らう魔獣の子供を、優し気に眺めているダキナは離れた所で親の狼が見ているのに気付くと手を振った。親狼も敵意は無いのか、イノシシの死体を噛んで掴むと、子供を連れて森の中へ入って行ってしまう。

 それを寂し気に眺めるダキナに、マリアは初めて敵意以外を抱いてしまった。


「女の子は願いました。どうか誰にも気づかれない様に、このまま幽霊の様に姿が消えますように。ただ死にたくない一心で、息を殺して。でも神様は皮肉屋でした、少女の願いは叶いました。魔法が使えるようになったのです。認識をズラす、それ以上の認識されないという魔法を」


 ダキナの魔法は【認識をズラす魔法】。それがダキナの事であるなど等に分かっていたが、それでもマリアは気遣わし気な視線を送った。

 ダキナは今度はマリアの視線に気づかなかった。ただ魔獣の親子が去っていった方を、寂し気に眺め続ける。


「魔法が生まれた事で、少女は漸く家に帰る事が出来ました。何日経ったのかも分からない、空腹と渇きでフラフラの身体で家に着いた彼女を待っていたのは、女の子の事を忘れてしまった、見えなくなった家族でした」


 魔法の暴走と言うのがある。後天的に魔法に覚醒した場合、それを制御出来なくて想像しえない影響を与える事がある事を。

 セシリアの変身も、厳密には魔法の暴走に近い。ダキナの場合は、認識されないというのが記憶にまで影響しただけの話。


「声は届きません、姿を見てもらうこともありません。初めから居なかった様に振舞う家族、触れれば気味悪がられて呪いだなんだと恐れられました。結局、女の子は一人傷ついたまま村を飛び出しました……おしまい」


 最後は遠くを眺めながら話を締めた。懐かしい記憶の幻想を眺めているのか、ほんのりと眦を下げながら心ここにあらずといった様子で。

 ダキナにも人間らしい側面があったのか、今だけは置いてけぼりにされた小さな子供の様にしか見えなかった。


「その後……女の子はどうなったんですか?」

「……さぁ、魔法使いに出会って幸せになりました? 王子様を求めて旅に出ました? 歪んだ子供のまま歪んだ大人になりました。どれがお好み?」


 マリアの声に、ダキナはニヤリと笑いながら流し目を送る。哀愁を携えながらの姿は、いつものニヤケ面を目にしても不思議と苛立ちは湧かなかった。

 ダキナの過去を知って、唇を噛んで俯いてしまったマリア。どれだけ憎い相手でも、マリアは許してしまう。優しい、と言うには甘すぎる。元天使らしく、赦してしまうんだ。


「……その……」

「……あはっ」


 口ごもりながら慰めの言葉をかけようとしたマリアは、堪え切れないと言う様な噴き出す笑い声を上げるダキナに驚いて顔を上げる。

 ダキナは顔を背け、肩を震わせている。


「あはーはーはーは!! ひーっ! お腹痛い! 無理っ超無理!」


 とうとう堪え切れなくなって大声で笑いだした。思いっきり仰け反り、涙を浮かべて大爆笑。ドッキリが成功した後の様に、止めようにも止められないと足をばたつかせている。

 突然の爆笑に驚いていたマリアだが、その意味を理解すると顔を赤くして怒りを明らかにする。


「だ、騙したんですか!」

「いひっ、ひー! だまっ騙してないって……! ホントホント、あはーっはー」


 勢いよく立ち上がって詰め寄るマリアに、ダキナは腹を抱えて笑いながら手を突き出して否定する。しかしやはり笑い止む事は出来ないのか、息も絶え絶えになりながら笑い続ける。


「っ! いい加減にしてください!」


 我慢できなくなり、マリアは襟を掴むと木に叩きつけた。むせ込むダキナを睨みつけながら、黒翼の先を目先に突き付ける。

 流石に笑い止んだダキナだが、脅かされている最中でもニヤケ面を浮かべる。


「あはー、そんなに怒んないでよ。ちょっと笑っただけじゃん」

「うんざりなんです! 何なんですか貴女は! 何がしたいんですか! 私達親子を傷つけて、今度は助ける? 訳が分かりませんよ!」


 少しはダキナの事を分かったと思ったが、やっぱり理解出来ない。

 理解しかねる感情が怒りとなってダキナを脅すが、ダキナは猫の様にその殺気を躱す。


「そりゃ理解出来ないでしょ。赤の他人を理解なんて無理じゃない?」

「……そういう事を言っているんじゃありません」


 相性最悪の二人。というよりダキナは常に小ばかにした様子で、同情させたかと思えば神経を逆撫でする。殺されないと分かっているような口ぶりで、殺されても良いような気楽さで挑発するんだ。


「マリアちゃんってさー、優しいよね」

「は? それが何だって言うんですか」


 またしても、ダキナは自分のペースでしゃべりだす。口笛でも吹きそうな軽快さで、チシャ猫の様なニヤケ面を浮かべながら。


「あたし知ってるよ? マリアちゃんがスペルディア王国で、痛めつけて来たお姫様を憐れんで手を差し伸べたの」


 見ていたらしい。

 スペルディア王国で、本性を現したオフィーリアにマリアは殺されそうになった。オフィーリアは怒り狂った様相で、マリアを甚振った。お前が弱いから私の大切な人が傷つく、お前の所為で私の大切な人が苦しむ。

 そう言って傷つけられ、殺されそうになった。

 間一髪でナターシャが助けてくれたが、そんな相手にすらマリアは心から憐れんだのは事実。


「凄いよね、普通出来ないよ。自分を殺そうとしてきた相手の心を察し、本心から手を伸ばすなんて」

「……だとしても、それがなんだって言うんですか」


 とはいえど、マリアが聞きたいのはそこではない。何の目的、何の意思があってこうしているのか、狙うのか。それだけなんだ。

 鋭い羽先を喉元に狙いつけ、殺意をちらつかせる。意味が無いと分かっていても、無意識の内にそうしていた。

 だがダキナが当然の様に笑ったまま、好き勝手に喋る。


「んー? だってさ、そんな事してて本当にセシリアちゃんを助けられるの?」

「っ!」


 マリアの鳩尾に固い何かが当たる。注意深く視線を落とせば、ダキナの義手が当てられていた。掌から杭を打ち出す義手が、発射可能状態で当てられている。

 何時の間に、と悔やむことも出来ない。もしダキナがこのまま杭を打ち出せば、事も無げにマリアは殺されるだろう。

 一転してマリアの命が脅かされた状態で、喉を震わせるマリアにダキナは目を細めて顔を近づける。


「みーんな何か事情や思惑があるんだよ? 悪い奴だって、もしかしたらつらい過去を持ってるかもしれない。そんな相手に一々同情して、憐れんじゃうの? そんな甘ちゃんで本当に大切な人を守り切れるつもり?」

「っ……ふっ……」

「あはー。そうやって躊躇っていたら自分が死んじゃうよ? セシリアちゃんを奪ったあのお姫様は、情けなんて掛けてくれないよ? 言ったでしょ、世界は残酷なんだよ。誰かを愛したいなら、誰かの愛を奪わなくちゃいけないの」


 悪魔の囁きの様に、ダキナは耳元で囁く。

 優しいというのは、平時は美点となろう。だが戦うしかない時に至っては、それは自らの足かせとなるだけではなく、大切な誰かを傷つける欠点となってしまう。

 マリアはそれを知っている筈だ。その結果が、今の彼女なのだから。優しさだけでは誰も救えない。誰も守れない。


「恋は戦争なんて良い事言うよね。誰だって好きな人の一番になりたいって思う、でも最愛の座を得られるのは一人だけ。なら邪魔な相手には舞台から降りてもらわなきゃいけない、そしたらどうする? 戦う事でしか愛を掴めないこの世界で、マリアちゃんは覚悟があるの?」

「……覚、悟」


 鳩尾に当てられていたダキナの手が閉じ、伸びた人差し指がマリアの身体をなぞる。鳩尾から胸を伝い、喉、脂汗の滲む唇へ。

 冷たさと油臭さが、唇越しに伝わる。身動き一つ出来ずに狼狽えるマリアの柔らかな唇の上で、金属の指が滑る。


「殺す覚悟」


 熱い吐息交じりに、囁いた。熱に浮かされたような声なのに、そのさび色の瞳は氷の様な冷たさを放っている。まるで意識して悲劇の主役でもこなしているような、極端な二面性をマリアは初めて見た。

 意識してみれば、ダキナは常に笑顔を浮かべている。まるで仮面でも被っているかのように、そうあれかしと自分を偽っている様に。

 唇から指を離したダキナは、自分の唇に指を這わせる。


「相手は殺す気で来る。なのにこっちは殺す覚悟が無い、まさか説得して手を取り合う? セシリアちゃんを二人仲良く共有できると思う?」

「そ、れは……」

「無理だって分かってるよね? 見たでしょ、お姫様の歪みを、狂気を。獣相手に言葉が通じると思う?」


 ダキナの言葉が、事実だと理解している。ダキナはその目で見た、オフィーリアの歪みを。マリアは見た、セシリアに前世の親友の影を重ね執着している姿を。

 アレを見て、まだ言葉が通じるなんて言う勇気は無かった。

 そんな覚悟があるのか。ある訳ない、少し前まで普通の母親だったんだ、非力で無力なただの女だったんだから。

 唇を噛んで俯くと共に、手を離したマリアは一歩下がる。


「セシリアちゃんは覚悟を決めてたよ?」

「!!」


 そんなマリアへ投げかけられる、非情な言葉。嘘か真かは関係ない。今のマリアには、心臓を刺されるより鋭い痛みを与えた。

 空色の、昔は空色の瞳にちなんてプレゼントしたセシリアのネックレスを、胸に抱きしめて膝を着いてしまう。

 ダキナはマリアの顔を覗き込み、しゃがみ込んで顔を青くさせるマリアを嗤う。


「あの子は人を殺す覚悟を決めていた。きっとその時になったら、迷い無く引き金を引ける。何でだか分かる?」

「あ……あ」


 そんなの知っているさ。自分の娘の事なのだから、彼女が何を思って、どんな気持ちで戦っているのかを知っている。誰の為に、傷ついて苦しんでまで戦っていると思っているんだ。

 だがそれ以上に、そうさしてしまった後悔がマリアを襲う。今までも後悔はしていた、嘆いていた。だが本当の意味でその怖さを知りはしなかった。だが今こうして殺意を抱き、殺せる手段を得た事で、その重さを理解出来た。

 人を殺す覚悟と、その重さを。


「マリアちゃんの為なんだよね~」

「やめて下さい!!」


 血を吐くような声を上げた。


「分かっているんです! そんな事! そうさしてしまったのは、私の所為なんですから! 私が弱いから、私が逃げ続けて来たから!」


 抑えられなかった。自分を責める気持ちは常にあったから、それがダキナに刺激されて汚濁の様に溢れ出てしまう。

 300年前も、5年前も、ついこの前も。逃げて逃げて、逃げ続けてしまった責任が全てセシリアに向かってしまった。


「夫も親友も見捨てて逃げた私が! 弱さを理由に娘に頼ってしまった私が! でもどうしろって言うんですか! ただの人間になった私に、何が出来るって言うんですか!」


 己の無力を嘆いて、吠える。もしマリアが300年前の戦争から逃げなければ、もしかしたら違う結果にもなっていたかもしれない。だが現実は300年前の人魔大戦から我が子を守るために逃げ、その結果天使としての力も失いただの非力な人間となってしまった。

 力が無ければ誰も守れない。奇しくも、道筋は違えどマリアとセシリアは同じ答えを得たのだ。しかしこの二人の相違点は、諦めたか諦めなかったかの二つ。

 マリアは諦めてしまったのだ。自分はただの人間だから、弱い母親だから。と、人間らしい弱さで戦う事を諦めた。母親として失格だと理解しつつ、逃げた。


「違うでしょ? マリアちゃんが逃げた本当の理由」

「え……」


 だがマリアの本音の絶叫を聞いても、ダキナはそれが本音ではないと言う。正確に言うなら、本音の更なる本音。マリア自身ですら気付いていない心の奥底に秘められた、本当の気持ちを。

 それを、ダキナは知っている様な口ぶりでずかずかと心の中に土足で踏み込んでくる。


「マリアちゃんは~、ほんと~は~」


 ダメだ、聞いてはいけない。不安と緊張で煩いほど心臓ががなり立てる。

 震える手で、耳を塞ごうとしたらダキナに抑えられた。とことん厭らしく、人の心を刺激する。


「セシリアちゃんに~、自分の娘に~恋しちゃってるんだよね~」

「っ! ちがっ……!」


 咄嗟に出ようとした否定の言葉が、最後まで言い切れなかった。まるで理性とは別の何かが、それだけは否定してはいけない。そこからだけは逃げてはいけないと言っているのか。

 はくはくと声にならない声を出そうと口を開いては閉じて、しかし否定も肯定の言葉も出ない。

 その姿が、何よりも雄弁な証拠。


「あはっ」


 ダキナを捉える真紅の瞳。嘗ては空色だった瞳は、今は動揺に揺らいでいる。それがダキナの言葉による物か、自分自身ですら今まで気づかない様にしていた気持ちに気づいてしまったからか。

 少なくとも、マリアはダキナの言葉を否定する事は無かった。


「嘘っ正解!? あはー! マジだ、マジで娘に惚れちゃってんの!?」

「そ、そんな事は……」


 カマかけのつもりで言ったのか、まさかそれが当たってしまい大喜びではしゃぐダキナ。その喜び様と言ったら飛び上がるほどだ。


「うわー、可哀想だなセシリアちゃん。あの子はマリアちゃんを母親として慕ってるのに、その母親が娘に欲情する様な——」

「っ!」


 止まらず致命傷を与えるダキナの言葉を遮って、マリアは勢いよく駆け出した。

 夜の森の中へ、セシリアが居ると聞いた場所へ向けて一も二も無く。


「あっ、そのまま真っすぐ行ったら目的地だよー! 気を付けてねー!」


 逃げ出したマリアへ、声を張り上げながらダキナは熱を吐くとゆったりと足を組みながら地面に座る。

 焚火の火が弱まっているが、もう必要は無いだろう。

 懐から煙草を取り出すと、火をつけ夜空に紫煙のベールを掛ける。


「……まず」


 チシャ猫の様な笑みを浮かべていた彼女の相貌に、影が差す。熱した鉄が冷める様に、彼女の顔から笑みが失せた。

 ぼんやりと月を眺める彼女は、迷子の子供の様な泣きそうな微笑みを浮かべる。


「いいなぁ」


 羨ましそうな呟き声は、風に攫われて消えてしまった。


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