竜胆の花達
美しく咲き乱れる濃紫の花々。鳥の囀りと風のせせらぎだけが響き渡る、遠くに霊峰の見える森のある開けた一角。下界のしがらみの一切から解放された、自然の楽園の様な花畑だ。
竜胆の花が咲き乱れる花畑の中心、少し小高い丘の上に一人の少女が座り込んでいる。
虹色の髪を春風に撫でさせ、神が作り給うた様にしか思えない絶世の美貌を穏やかに綻ばせながら、虹色に輝く瞳を、膝へ落としている。
「<ね~んね~よ~、ころ~り~よ~>」
この世界にはない言葉で、この世界には無い子守唄を慈しみの満ちた声で揺蕩う様に謡う。まるで母が我が子を腕に抱き抱えながら、健やかに眠り育って欲しいと願うように顔を綻ばせながら謡い続ける。
膝の上に乗せた頭を、優しく撫でる。蒼銀の髪を。
「ふふ……ここは良い所でしょ? 愛衣。もし貴女と再会して、障害があって、一緒に居られない時の為に用意したんだ。大変だったんだよ? 帝国に足を運んで、人里離れた場所を探すのは」
愛衣。と愛情深く紡ぐオフィーリア。愛衣と呼ばれたセシリアはオフィーリアの膝を枕にしたまま、穏やかな寝息を立てている。
そんな寝姿すら愛おしいのか、オフィーリアは綻ぶように笑うと髪を梳くように撫でながら囁き続ける。
「やっと一緒に居られるね。長かったよ、ここに来るまでこの世界で15年。日本で5年。うん、日本で愛衣を失ってからの5年は地獄だった。溺れる事も出来ない深海で、出口も分からず藻掻き続けるような苦しさだった。救いなんて無い、掛けられる言葉は空虚で虚しい」
オフィーリア。虹色の姫は元は日本人。セシリアと同じようにこの世界に転生してきた存在。そして、前世のセシリアの唯一無二の親友。
セシリアの前世は悲しい物だった。父親は仕事人間で数えられるほどにしか会わず、母親は育児放棄に不倫。友人は居なかった。
ただ一人、オフィーリアの前世である千夏が話しかけるまでは。
劇的な出会いでは無かった。高校入学時に気になった千夏が話しかけ、交友を深め想いを寄せた。良くある話と言えばそれだけ。
ただ唯一普通ではないのは、千夏の愛衣へ対する恋慕の深さだった。
「愛衣はもっと辛かったよね。初めて会うまで、家族に愛される事も……いや、中途半端に愛されていたからこそ苦しかったんだよね? 笑っちゃうよ。愛衣を失って初めて、その辛さを知ったんだから」
死んだ。初恋を殺されてから、死んだような日々を過ごした後に。
だが奇跡が起こって二度目の、初恋の人と同じ世界に生まれ変わる事が出来た。果たして神の気まぐれか、狂う程の想いが故か。
一度はその恋を掴むことが出来なかった。怖気づいて、覚悟が足りなくて。その結果が初恋の人の死。死の後に知った、初恋の人がどんな境遇だったか。何故、自分が惹かれたのか。どんな気持ちだったのかを。
「でも今度は大丈夫だよ。覚悟は出来たから。二度と愛衣を手放さない、二度と躊躇わない、二度と悲しませない。愛衣が愛情を望むなら、溺れる位愛してあげる。愛衣が望む物は全てあげる、例え世界を敵に回しても私は愛衣の為なら構わないから」
蒼銀の髪を撫でていた手を滑らせ、黒い鱗がまばらに張り付く頬を撫でる。
彼女の身体中には、黒い鱗が張り付いている。黒曜石の様に光沢を持つ龍の鱗。まるでセシリアの故郷を襲った、あの黒龍ファフニールの様な鱗が。
魔王である父親の血を半分引き継いだが故か、セシリアは黒い龍騎士の姿に変身する事が出来る。自らの理性と自我と引き換えに。その代償か、はたまた彼女の最も大切な人を自らの手で傷つけた後悔か、セシリアの心は殻に閉じこもってしまったのだ。
危険が及ばない限り、彼女はただ眠り続ける。
そんなセシリアを、オフィーリアはただ優しく受け入れ待ち続けた。
「こっちの愛衣はお寝坊さんだね、前の愛衣は朝は強かったのにね。でもいいよ、愛衣が起きるまでずっと私が見守っていてあげるから。好きなだけ、自由にしてね」
眠るセシリアの髪に柔らかいキスを落とす。
次いで額、閉じた瞼、鼻先。やや躊躇って首と鎖骨にも落とした。触れるだけの柔らかなキスを、無上の愛情を以って捧げる。
ただ唯一、その薄く開いた唇だけには落とせない。
眠り姫を目覚めさせる王子様のキスは、唇に落とすもの。そこだけは、唇ではなく指でなぞるだけ。
初めてのキスは、好きな人からして欲しいという乙女心か。
それでも、唇にキスを落とそうと近づけたオフィーリアの身体が硬直し、躊躇いの後血が滲むほどに唇を噛みしめると彼女は身体を起こした。
「っ……ふぅ、寒くなって来たね。そろそろ中に戻ろう?」
霊峰から降る風に吹かれたからか、はたまた心の問題か。
寂し気に呟くと、セシリアをお姫様だっこし立ち上がる。落ちない様に、しっかりと抱き上げたオフィーリアは一歩一歩地面を踏みしめながら、竜胆の花畑の傍にある趣のある一軒家へ入った。
「ただいま。ほら、今日からはここが私達の家だよ」
広くは無いが、狭くも無い。王族のオフィーリアからすれば物置小屋だが、日本人的感性からすればごく普通の一軒家。寧ろこれ位の大きさの方が丁度良い。
厚みのある木造建築。暖炉の前の揺り椅子、キッチンも広く掃除が行き届いている。埃一つ無く、家具や内装はシンプルながら実用性に優れ目に優しい。
全て、オフィーリア手ずから今日の日の為に用意した物だ。
「それじゃあご飯に……って言いたいけど、まずはお風呂にしよっか。もう出来てるし」
日本人らしく靴を脱ぐと、まずは浴室へ向かった。
向かった浴室も日本人気質にあった浴室だ。趣のある五右衛門風呂、ただ人二人がゆっくり入られる大きさで、既に湯気立っていた。
「愛衣、ちょっと服を脱ぐから待っててね」
セシリアに断りを入れて立たせると、彼女は薄らと真紅の瞳を覗かせて人形の様に立ち尽くした。
人形の様に、魂がそこに無いのかぼんやりとつま先を眺めている。ずっとこうだ、彼女は心ここにあらずな様子。
そんな彼女を尻目に、オフィーリアは服を脱いだ。
虹色の宝石が擬人化したような、美しさ。オフィーリアは宝石人と言う種族を先祖に持つ先祖返りの亜人だ。人間の血が混じっているとはいえ、まさに宝石が人になったとしか思えない神秘的な美しさを誇る。
「見てよ愛衣、私前世よりプロポーション良くない? 宝石人って亜人の血のお陰で体型変わらないんだよねー」
無駄な肉は一切ない、しかし女性的な肉付きと程よく引き締まった筋肉。大きすぎず小さすぎないプロポーションは、世の女性の理想と言えるだろう。
最後にワインレッドの下着を脱ぐと、一糸まとわぬ姿となりセシリアの手を取って浴室へと誘った。
「ほら座って? まずはその綺麗な髪から洗うから」
誘われるまま、セシリアは椅子に座った。
少し熱いお湯で丁寧に髪を洗われても反応せず、されるがままに泡立てられる。だがマッサージする様に髪を洗われると、僅かに目を細めた。
それを鏡越しに見たオフィーリアは、表情を綻ばせる。
「気持ちいい? これでも王女だからね、いつもやられてるんだ。意外と私にも才能があるみたい?」
気を良くしたオフィーリアは、鼻歌を奏でながらセシリアの全身を磨き上げる。丁寧に、愛撫する様に。
全身余す所なく洗い終えると、自分の身体も洗い出す。セシリアの身体が冷えない様に手早く、洗い残しない様に洗い終えると、セシリアの手を引いて湯船に浸かった。
「ふー……やっぱ日本人は湯船に浸からないとねー。スペルディア王国では湯船に浸かる習慣が無いんだよ? 信じられる?」
ぼんやりとしたセシリアを後ろから抱きしめる様に、膝の間に納まらせてオフィーリアは気持ちよさそうな声を上げた。
桜色に上気した肌を密着させ、セシリアの腹筋の浮き上がるお腹に手を這わせながらオフィーリアは官能的に目を細めながら頬をすり合わせる。
「愛衣は随分鍛えてるね~、柔道部の女の子より筋肉あるじゃん。頑張ったんだね~、偉いね~。でももう頑張らなくて良いんだよ~」
セシリアの鍛え上げられた、しかし女性的な柔らかさを持つ肢体を堪能しながらオフィーリアは囁く。
もう大丈夫だよ、もう怖くないよ。甘い毒を優しく、親切に丁寧に愛情として注いだ。
セシリアのこめかみを伝った汗が、首筋を伝う。
「ん……」
首筋を伝う汗を、オフィーリアは吸いつくように舐め取った。ちろりと唇に舌を這わせ、美味しそうに含み笑いを零す。
ただそれだけでは満足できなかったのか、再びセシリアの首にキスの嵐を落とした。
「ふふ……ちゃんと塩分補給しないと」
ぼんやりとした表情のまま、反応の一切を見せないセシリアの首や鎖骨にキスを、嘗め尽くす。
お熱い恋人が高ぶって愛撫する様に、愛情深く執着的に。最後に一つ首筋に自分の物だと言いたげにキスマークを付けると、漸く満足したのか恍惚とした様子で熱いため息を吐いた。
「はぁ、すごい……本当に愛衣が私の元に……ふふっふふふ!」
熱に浮かされた虚ろな目を見開き、必死で抑えようとしても抑えられない笑い声を上げる。浴室に木霊する笑い声は、良く反響する。
笑うのを止めようとしても、腹の底からこみ上げる笑い声は止められない。涙が出てしまう程に笑い続けたオフィーリアは、息も絶え絶えに漸く笑い止むと目尻の涙を指で掬いながらセシリアの肩に頭を乗せた。
「嬉しいな~……ふふっ、それじゃそろそろ出よっか? ご飯冷めちゃう」
物足りなさそうではあるが、どうせこれからずっと一緒に居られるんだ。オフィーリアはセシリアの手を掴むと浴室を出る。
セシリアの身体を丁寧に拭き上げ、髪もドライヤーでしっかりと乾かす。服もちゃんと用意している、セシリアのイメージに合わせた黒い下着に白いシンプルな寝巻。
最後に化粧台の前に座らせると、オフィーリアは乳白色の粘性のある液体を手に馴染ませる。
「ドライヤーで髪は乾かしたし、次は化粧水だよ。見てよこれ、私が作ったんだよ? と言っても、金に物言わせてアイデアを錬金術師に放り投げただけだけど」
自分の功績を照れながらしゃべりつつ、セシリアの肌に馴染ませる。勿論、ドライヤーも化粧水もセシリアの為に作った物だ。
そんな風にこの世界に来てから行った事を話しながら、てきぱきと元女子高生らしく保湿を終える。
「凄いでしょ~、服飾美容健康、色んな事に手を出してお金や人脈を集めたんだよ? 愛衣を探す為、愛衣の為に頑張ったんだ」
つやつやになったセシリアの肌に満足そうに頷くと、今度は夕食の時間。
ほかほかと湯気を立たせた二人は居間に移り、セシリアを炬燵に座らせてオフィーリアはバスローブの上からエプロンを着けるとキッチンに立った。
夕食の殆どは出来上がっている、後は温めて最後に少し手を加えるだけ。手早く調理を済ませると、お盆を手にセシリアの隣に座った。
「お待たせー。お腹減ったよね、ご飯にしよっか。今日は肉じゃがだよ」
セシリアの前に並べられる、見るだけで美味しいと分かる肉じゃが。日本人の記憶を擽るみりんの良い匂いと、純白の白米に芳醇な味噌汁。最後に漬物。
完璧な日本風の愛妻料理だ。
だがそれを前にしても、セシリアの虚ろな表情はピクリともしない。
「ふー、ふー。はい、どうぞ」
オフィーリアは気にした素振りは見せず、お箸で肉じゃがをつまむとセシリアの口に運んだ。食べないのかと思われたが、我慢強く口元に置いておくとセシリアの口が開かれ食べさせられた。
黙々とセシリアは食す。心ここにあらずでも、身体は生きようとしているのか食むのは止めない。
15年ぶりの日本食。懐かしい記憶が刺激されたのか、セシリアは次を望むように口を開いた。
「ふふ、美味しい? まだまだあるから好きなだけ食べて良いよ」
親鳥が雛鳥に餌をあげる様に、丁寧に一つ一つ心を籠めてセシリアの口に食事を運ぶ。セシリアの食む速度は遅い、だが決してオフィーリアは不満を零す事無く、寧ろ嬉しそうにお世話をし続ける。
「あれ? もう眠たい? それじゃもう寝る準備しよっか」
食事が終わったのは、料理が冷めきってしまってからだった。こくりこくりと船を漕ぎだしたセシリアを見て、オフィーリアは片付けも後回しにセシリアを抱き上げ、寝室へ運ぶ。
寝室には、オフィーリアとセシリアが共に寝てもまだ余裕がある程の大きさのベットが一つ。それ以外は取り分け目立った家具も無い。
本当に、寝る為だけの部屋と言った様相だ。その部屋に立ち入り、セシリアをゆっくりと大きくふかふかのベットに寝かせた。
直ぐに穏やかな寝息を立てるセシリアに毛布を被せ、頭を撫でる。
「先に寝てて。片付けしたら直ぐに一緒に寝てあげるからね」
額にキスを一つ落とし、オフィーリアは後ろ髪を引かれながら部屋を出た。
そのまま手早く炬燵の上の食べ差しの食器を手にキッチンへ向かい、残飯は捨てて皿洗い。冷たい水に手を浸しながら洗う。
春とはいえ、地下水を引いた水道は凍てつくように冷たい。刺さるような痛みで手が赤らんでも、オフィーリアは何の表情も浮かべていない。
セシリアの前とは大違いだ。
(今日来たあの褐色の女、見た事がある。最重要指名手配されている元傭兵だ。厄介な奴に目を付けられた、どうする? 移動すべきか、でも今の愛衣にあんまり負担は掛けられない……なら)
「殺すか」
無機質な声を呟くと同時に、手元から皿が滑って耳障りな音を立てて床に落ちた。
まだ一度しか使っていない皿が、粉々に砕けて散らばったのオフィーリアはただじっと見下ろした。
だがややあって肩の力を抜くと、残骸に指を掛けた。
「っ!?」
だが運が悪いのか注意散漫だったか、破片はオフィーリアの白い指を傷つけ血を流させた。
血はまるで涙の様に丸みを帯び、ゆっくりと床に滴り落ちる。流れる血を、血が付着して粉々になった皿の残骸を見たオフィーリアの目が見開かれた。
「はっはっ……はっ!」
突然息を荒くし、苦しそうに胸を抑える。大量の脂汗を滲ませ、明らかに平常ではなくなった。
割れた残骸、血が流れる嫌な感覚。全てが、あの日を蘇らせる。
あの夕日に包まれた日本での記憶。大切な人を殺された、助けられなかった、全てを失った日が。
「違う……違う!! 愛衣は死んでない! 愛衣はここに居る! 愛衣は私が守るんだ!!」
まるで幻聴に苛まれているかのように、耳を抑えて喉が裂けんばかりに叫ぶ。
ずっと耳元で聞こえる、自分を責める声。お前が悪い、お前があの時公園に向かったから。お前があの時告白を躊躇ったから、お前があの時引き留められなかったから。
セシリアが愛衣ではないと否定する声。セシリアは確かに前世の愛衣の記憶を持っている、しかし同じ人ではない。愛衣の人生は終わり、セシリアの人生として再び歩みだしている。セシリアを愛衣として見ているオフィーリアはそれを受け入れるべきなんだ。
「うるさい!! 私はオフィーリアじゃない、齊森千夏、あの子は高牧愛衣なんだ……変わらない、身体が変わっても私達の絆は変わらないんだ……否定するなっ! うるさいうるさい!!」
たった一人で金切り声を上げるオフィーリアの姿は、狂気に満ちている。
完全に開いた瞳孔、指から滴った血が涙の様に頬を伝う。前世の思い出にしがみつき、現実を見ようとしないオフィーリアの心の危うさはセシリアを手にしても、寧ろ悪化の一途を辿っている。
しかし寝室の方から、何かが壊れる激しい音が響くとオフィーリアは跳ねる様に顔を上げた。セシリアが寝ている部屋からは、激しい戦闘音の様な音が響き続ける。
「愛衣!? 愛衣っ!!」
一も二も無く飛び出し、寝室へ走り込む。
またセシリアに危機が迫っているのかも知れない、またセシリアが死んでしまうかもしれない。そう思うオフィーリアは顔面蒼白のまま、叩き破る様に寝室へ飛び込んだ。
「愛衣!? ……愛衣?」
だが予想に反し、寝室に不審者が入り込んでいる事もセシリアが戦っている事も無かった。
半端に手足などを黒い龍騎士化させたセシリアが、一人で暴れまわっている。虚ろな表情のまま、異形とも取れる腕で窓をたたき割り、テーブルも粉々になっている。
侵入者の気配が無い代わりに、夢遊病の様に暴れまわるセシリアを見てオフィーリアは一瞬呆けるが、すぐさま正気に戻るとセシリアの腰に抱き着いた。
「大丈夫! 大丈夫だよ愛衣!! 怖い物は無いよ! もう戦わなくて良いよ!!」
ガラスが散らばる床に素足のまま膝を着いた所為で血だらけになり、暴れるセシリアの肘が顔に当たり続け血が口から溢れる。
セシリアの力は、素の状態でも軽く腕が当たるだけで骨から嫌な音が出る。それでも、耐え難い痛みに晒されてもオフィーリアは懇願と拘束を止めない。ただひたすらに懇願の様な説得を、血を吐き出しながら続けた。
「はぁっ、はぁ……」
その甲斐あってか、セシリアは暴れるのを止め手足の異形化を解いた。しかし相変わらず虚ろな表情のまま、じっとその場で佇み斜め下を向き続ける。
それでも、オフィーリアは安堵の息を零すと唯一無事だったベットにセシリアを寝かせ、痛みに顔を顰めながら足に刺さったガラス片を抜いて簡易的に治療を施す。
「いつっ……ねぇ愛衣、まだ辛い? それとも、まだ戦ってるの? もう……戦わなくて良いんだよ?」
自分の傷すら適当に、オフィーリアはセシリアの額を撫でた。
不甲斐なさに唇を噛み、痛ましく涙ぐむ。どうして最愛の人が苦しまなければいけなのか、どうして自分ではその苦しみを取り除いてあげられないのか。
身体の傷より、胸の奥を刺す痛みの方が辛い。
ぽたりと、セシリアの頬に涙が落ちる。
「わ……私じゃ、ダメ? やっぱり……あの時守れなかったから……ダメなのかな……」
ベットに端に座ったまま、セシリアの胸に縋りついて弱音を零す。尽くしてもセシリアの心は帰ってこない、安らげて上げる事も出来ない。その事実が、オフィーリアの心を弱らせていく。
「っ……」
「!? 愛衣!! 苦しいの!? 起きるの!?」
そんなオフィーリアは、苦しそうに呻き声を上げたセシリアに期待と不安の声をあげて跳び起きる。
今まで散々反応の一つ見せなかったセシリアが、初めて反応を見せた。魘されるような呻き声だが。
一言一句聞き逃さない様に、耳を傾ける。
「ま……ま」
「…………はぁ」
だが望んだ反応ではなく、呟かれた言葉にオフィーリアは落胆のため息をついた。セシリアが呟いたのは、オフィーリアでも前世の名前でもなく、今世の母。
無意識の内に呟かれたという事は、無意識に染み付いているという事。オフィーリアよりも、千夏よりも強く、固く。
その事実が、オフィーリアの不安定だった心に張り付いていた、最後の蜘蛛の糸を断ち切った。
「はは……あははははははは!!! ははははは!! あーっはっはっはー!!!」
思いっきり上体を仰け反らせ、狂ったように笑いだす。腹の底から笑い続け、止む兆しも無い。涙を溢れさせながら笑い続けていたオフィーリアも、流石に疲れたのかゆっくりと笑い止んだ。
「くはっ……はぁ、はぁー。そっか、そうだよね。うん、簡単な事だったんだ」
何度も何度も頷き、分かった、簡単な事なんだと囀るオフィーリアは両手で顔を覆った。足の治療を施した時に着いた血を纏わせたまま、何のためらいも無く。
「そうだよね。愛衣はママが欲しかったんだよね。うん、なら簡単じゃん。ていうかそうじゃん、愛衣は私にママになってって告白してきたんじゃん。そうだよね、うん、そうだよ。私がママなんだよ」
最後の記憶。愛衣が死ぬ直前、あの夕日に包まれる公園で好きの一言が言えなかった千夏に言ってくれた、愛衣のとんちんかんなお願い。
好きだと告白してくれるのかと思ったら、まさかのママになってと言われた大切な記憶。それを思い返したオフィーリアは、慈しむような声を零しながら手をだらりと落とす。
だが慈しむ声に反し、べったりと血化粧が施されたその顔には狂的な笑みが浮かんでいた。
「母親は二人も要らない。愛衣の母親に相応しいのは、私だけなんだ。私だけが、愛衣を守れる、救える。そうだよ、愛衣に守られる母親なんて、愛衣の心を縛る母親なんて要らないじゃん。うん、決めた」
にっこりとほほ笑むと、オフィーリアはセシリアの隣に寝転がった。
セシリアの腕に恋人の様に抱き着き、頬を擦り付ける。猫の様に甘えながら、喉から可愛らしい声を鳴らした。
「今度は言える。好きだよ、愛衣」
前世で言えなかった唯一の告白を、滑らかに告げたオフィーリアは縋りつきながら眠る。
もう二度と、もう一生離さない様に。歪んだ愛情に、心が悲鳴を上げているのを無視し続けて。




