エンドロールはお静かに
音が、無くなった。
世界が白と黒に二分され、決して交わる事無く支配される。それが暴力による拮抗でさえなければ、美しいとさえ表現が出来てしまうだろう。
漆黒の巨大な龍が生み出す極光のブレスと、一人の少女の生み出す白亜とも虹色とも取れる半透明の城。城を破壊しようと大気が揺らぐほどの熱を孕む極光と、その場の全員を守ろうと堅牢に聳え立つクリスティーヌの城。
「っはぁぁぁっっっ!!!」
「GAAAAAAAAAAAA!!!」
視界は黒と白で覆われ、耳は静寂の中で轟音を聞く。極光の衝撃は凄まじく、城の術者であるクリスティーヌを除いて立ち上がる事も出来ない。
だがクリスティーヌは小石一つ城の中に通さない。絶対の守護を誓う城主となり一切の侵入を許さずに守りぬく。
「クリスティーヌぅ!!」
「っ! そのっままっ! 座してなさい!」
少し、少しずつクリスティーヌの身体が後ろに下がった。持てる力を振り絞って守り抜くクリスティーヌの身体が押され、焦燥が浮き上がる。
突き出した右手が、宝杖を掴む右手が負荷に耐えきれずに激しく裂き血が噴き出す。たった一人で守るには、重たすぎる。
「宝杖……だがその力の真価を引き出してないなら、これは防げないな」
アダムが、その宝杖の力を前に眉を潜めるも吐き捨てて魔法を放つ。
次元を裂いた一撃は、クリスティーヌの城に強烈な一撃を加え、更にクリスティーヌが押される。
「っぐぅ!? 不味い……ですわ!」
どれだけ力を籠めて踏み出そうとしても、魔力を更に込めて裂傷が広がろうと、前へ出れない。歯を食いしばって耐え続ける。さっさと終われと願っても、一秒が長い。黒龍の極光のブレスが止んでくれない。
あと少し、後一秒を耐えて凌ごうと堪えるクリスティーヌの身体が揺れた。
「かはっ!?」
(しまったですわ! 王国での傷が……!)
クリスティーヌの身体は万全ですらなかった。治療する時間すら惜しんで、丸一日騎竜で帝国へ行って帰って来たのだ。その傷口が、度重なる無理に耐えきれず最悪のタイミングで開いてしまった。
黒龍の極光のブレスを防ぐ城が明滅する、城主であるクリスティーヌの身体がゆっくりと倒れるのに比例し、守りの城が堕ち出す。
(情けありませんわ……この程度で、果ててしまうなど)
ナターシャの叫ぶ声が、空虚な音となってクリスティーヌの鼓膜を抜ける。力の入らなくなった身体が、倒れていくのを傾く視界から漸く悟る。
意識したわけでは無かった。ただ不思議と視線が、傷つき眠るヴィオレットに向けられた。
(ヴィー。あんなボロボロになって……頑張ったのですわね)
傷ついて、死にかけて。きっと必死で戦ったのだろう、誰かの為、クリスティーヌの為。
従者が、自らで選び幼き頃から共に居た半身が、必死で戦ってくれたのだ。
そう思ったら。
「っ! 主がっ諦めるなど……美しくありませんわ」
「まだ耐えるか」
倒れる訳にはいかなかった。
力が無いなら絞りつくせ、かき集めろ。
敗北がダメなのではない、諦めてしまう事がダメなのだ。諦める事は許されない、神が許しても、クリスティーヌの矜持が許さない。
「ワタクシの名はクリスティーヌ・フィーリウス・ローテリア!!」
虚栄で良いから胸を張れ。そうすれば少し遠くを見ることが出来る、遠くに居る大切な人を見つけられる。
「誉れあるフィーリウス家が義次女! 生まれた家名は名乗れずとも! この身、この矜持は帝国貴族の元なり!」
虚飾で良い。自らをそうあれかしとたらしめる事で、心が出来上がる。例えそれがいばらの道、苦難に呑まれようと心に消えない炎を滾らせれば暗闇を歩ける。
「誇りに賭けて誓った! 故にワタクシは諦めませんわ! 全ての民は、ワタクシが守りますわ! それが貴族の流儀!!」
明滅していた、崩れそうだった城が再び強固なきらめきを放ちだす。
身体が割かれようと、倒れそうとも、心が折れない限りは守り抜く。それがクリスティーヌの美しさ。
「……人間が、だから嫌いなんだ。全てを出し切れ、黒龍ファフニール」
「GAAAAAAAA!!!!!」
更なる極光が、まるで怨嗟と怒号を交えたように注がれる。完膚なきまでに消し去ろうと力を籠められ、クリスティーヌの矜持を打ち壊そうする。
虚勢を張ったクリスティーヌの身体が、今度は後ろに下がらなかった。
腰に添えられた、弱弱しい手が止めてくれた。
「なぁに一人でカッコつけちゃってるのぉ?」
「ミスナターシャ……」
ニヒルにナターシャが笑う。背負わせて申し訳ないと言う気持ちは伝わるが、それを極力見せない。
支える手は、一つでは無い。
「ぅおおォォォ!! 押せぇぇぇ!!!」
「ベルナデッタ様の努力をむだにするなぁぁぁ!! 守られるばっかりじゃねぇぞぉぉぉ!!」
「そうよ! 守られて、頼って、縮こまってるだけじゃ主に見放されるわ!! 私達は人よ! 人は自分の手で未来を守るの!!」
「うわぁぁぁん!! 怖いよぉぉぉ!! 嫌だよぉぉぉ!! 助けて神様ぁ!!」
「皆様……」
戦う力を持たず、ただ縮こまって怯えていた聖職者達がなけなしの勇気を振り絞ってクリスティーヌの背中を押した。
もみくちゃになって、恐怖の涙を流して、それでも必死に格好悪くも立ち上がった。皆優美とはかけ離れている、固く目を瞑ってしがみついている者もいる。
だが誰一人、クリスティーヌへ縋る目を向けない。皆一人一人が自分で守ると、力になると強い意志で背中を押す。
「ま……ったく、年は取りたくないねぇ。ガキを戦わせちまうんだから」
「確かに……子供に武器を取らせるのは胸が痛みます。ですが、きっとそれも悪ではありません」
アイアスとベルナデッタも、這う這うの体で背中を押す。武器を持つことも出来ず、まだ年若い少女を戦わせる事に、背負わせてしまう事に申し訳なさを覚えながら。
それでも託した、ここに居る人たちを守ってくれと。
「ふふっ」
背中に感じる力強い想いと、余りのもみくちゃ具合にクリスティーヌは思わず笑ってしまった。
「ごめんなさいねぇ、任せちゃってぇ」
「構いませんわ。美しき物を守るのは貴族の嗜みですもの」
相変わらず状況はひっ迫している。身体も辛い、立っているのすら精いっぱいだ。顔色も最悪、化粧が落ちて気分も最悪。
しかし一度瞑目して浮かべたクリスティーヌの笑顔は、力強い物となった。それに釣られ、ナターシャも綻んで笑う。
「ここまでお膳立てされては、負けられませんわ!!」
一歩を、踏み出した。
「ふざけるなっ! その程度で何が変わる!」
「変わりますわ!」
極光は弱まっていない。寧ろ激しく城を攻撃し続けている。
魔力が増えた訳でも、体力が回復したわけでもない。ただ、クリスティーヌの強い意志と、彼女を支える多くの手が前へ進ませた。
「人の人生は苦難に満ちていますわ! 誰もが苦しみ、悩み、喘ぐ。時には自らの手で未来を掴まなければいけませんわ! ですが人は一人ではないっ支え合い、託し、信じる事で逆境を打ち勝つ事出来る!」
「妄言を吐くな! そんな物、奇跡という名の妄想だ!!」
白と黒の境目が、揺れた。
白が、黒を押す。飲み込む。
更に強い黒が口を開けても、絶対の白が頑強な強さで更に大きくなって阻む。
「妄言? 妄想? 結構ですわ!! 理想を語らずして何が人ですの! 奇跡は神の特権ではありませんわ! 奇跡を願うのは何時だって人! だからこそ! 奇跡を叶えるのも人でなくてはなりませんの!!」
奇跡が起こった。
黒を埋めつくす程の白が、眩い光が世界を埋め尽くす。
崩れ落ちそうだった城が、強固な意思で頑強に補強されそこに建つ。けっして折れない城が、決して負けない力となって黒い極光を払い世界に静寂を作り出した。
「GURR……」
「馬鹿な……ありえない!!」
全てを出し尽くし苦し気に呻く黒龍ファフニールと、守り抜いたクリスティーヌに対して驚愕し理解を拒むアダム。
人間の意思の強さが、彼の理解を超えた。それを奇跡と呼ぶには、そこに積み上げられた人々の覚悟を穢してしまう事になる。
だが目の当たりにする、人が生み出し掴み取った奇跡を信じがたいとアダムは否定する。
その罰とでも言いたいのか、土ぼこりの中から一条の光がアダムの肩を貫いた。
「なぁっ!? 俺の結界を貫通して!!」
「はぁっ、はぁ……! 戦に於いて、貴族の仕事をご存じですの?」
更なる光線がアダムを攻撃し、彼の身体に傷をつける。あり得ない筈だ、アダムの身体は不可視で不可侵の結界が張られている。魔力を消滅させあらゆる現象を阻む絶対の結界が。
にも関わらず、満身創痍のクリスティーヌが宝杖から撃ちだす光線は結界を貫通してアダムを攻撃したのだ。
たまらず空間を歪める事で光線を弾くアダムに、クリスティーヌは指揮棒の様に宝杖を振るい更なる手数で攻撃する。
「いの一番に剣を手に兵を鼓舞する旗印となる。戦いが終われば遺族に頭を下げ、生き残った人の為に身を粉にして復興に努めなければなりませんの」
「くっ! 何が言いたい!!」
降り注ぐ光線は一つ、また一つと夜空を流れる星の様に数を増し一方的な攻撃を加える。
防戦一方のアダムに対し、クリスティーヌは一歩踏み出しながら攻撃の手を緩めずに語り掛ける。自らの尊ぶ貴族としての在り方を、子供に言い聞かせる様に言葉を噛みしめて。
「つまり、常に先を見据えなくてはいけませんの。目の前の戦が終わったから勝利に酔いしれる事無く、二度と戦を起こさぬように、二度と死者を出さぬように。つまり……次はワタクシの番ですわ。愚弄者」
クリスティーヌがどこまで知っているのか。聞いたのはナターシャ、エロメロイから齎された情報だけ。アダムが魔王ファウストの身体を奪う前は、祖国ローテリア帝国の皇子の身体を使っていたことは知らない筈。
しかし今彼女の目は、怨敵を前にした怒りが滲んでいる。
それが果たして自国の皇子を無為に弄んだ事への怒りか、仲間を傷つけられた事への悔いか、自己満足の為に戦争を起こそうとする事への義憤か。そればかりは彼女の胸の内に仕舞われるべきだろう。
「くそっ! 定着率さえ安定すればこの程度!」
「終わりですわ。祈りは冥府で捧げなさい」
光線の雨に晒され息も絶え絶えに喘ぐアダムへ、クリスティーヌは終わりだと宝杖を高く掲げる。
クリスティーヌの残った全ての魔力が頭上に、第二の太陽を形成する。一切の穢れ無い純白の太陽。あらゆる悪を許さない正義の太陽が、味方である筈の聖職者達ですら生唾を呑んだ。
肌で感じられる。アレを食らったら確実に死ぬ。そういう直感。それはアダムにも感じられた。
「身体がっ!」
だがアダムの身体が安定性を欠き、さび付いた人形の様にぎこちなく膝を突いた。アダムは他者の肉体を奪い、それに寄生する事で動いている。しかしながらエリザベスに打ち込まれたその定着を乱す薬が、アダムに動く余裕を与えない。
絶対的な死を前にし、アダムは歯噛みした。
「黒龍! 俺を守れ!」
「Gruuu……」
「愚図が!」
代わりに黒龍に向かって怒鳴るが、その黒龍ファフニールは辛そうな声を上げてへ垂れてしまっている。一度死に、無理やり生き返らせられて全てを出し尽くすブレスを放ったのだ、黒龍も動ける状態ではないのだろう。
「落ちなさい粛正の星。願わくば、かの罪諸共消し去ってあげなさい」
クリスティーヌが手心を加える筈も無く、純白の太陽が振り下ろされた宝杖に従い落される。
ゆっくりと落ちるそれは、せめて最後の祈りを捧げるだけの時間を与えているつもりなのか。
アダムは祈りを捧げる事も、後悔を滲ませる事も無くただ憎々し気に太陽を見上げていた。
「アダム!!」
だがそんなアダムの身体に、ティアが飛び掛かる。守るというよりは、死ぬなら一緒に死にたいと願う恋人の様に胸に縋りついて。
しかしティアは固く目を瞑りながら、機能を発動した。
「機能開放申請! 固有機能開放【原初の母——ティアマト】。ごめんなさいアダム!」
眩くティアの身体が光を放つ。迫る純白の太陽に負けず劣らずの白い光が放たれた。
思わずクリスティーヌは顔を覆ってしまう。だがしかし純白の太陽は既に制御を離れており、ティアの放った光に向かって落ちる。
衝撃を受けた純白の太陽は世界の音も色も吸収しながら凝縮すると、一拍の間を置いて業大な爆発を生み出した。
膨大な熱と衝撃を放った爆発は、どんな防御を講じようとその爆心地に居るアダム達を藻屑と化した筈だろう。
「……やったのぉ?」
実際、衝撃が納まり目を開けた皆々は壮絶なクレーター跡しかない爆心地を見てそう思った。
深く、広い爆発の後のクレーターには黒龍どころかアダムやティアの欠片一つない。
黒龍の蘇生という大番狂わせがあっただけに誰も終わりの確証を持てない所に、クリスティーヌの脱力交じりのため息が通る。
「逃げられましたわ。最後に飛び込んだ拘束衣の少女、彼女が魔法らしきものを使った時に姿形が揺らいで消えましたもの。きっと空間魔法の類でしょうね」
術者であるクリスティーヌだけが、爆発の瞬間を捉えたのか逃げられたと口にする。
爆発の瞬間、アダムに飛び込んだティアは機能を使って空間跳躍したのを見た。しかしティアに空間に干渉する力は無い筈、あるのはアダムだ。あるいはティアにも他者の魔法を使う能力があるというのか。
しかし今はその事を考えても答えは出ない。一先ずと、振り返った。
「とはいえ、何とか撃退出来ましたわ。喜びましょう、この勝利を喜びましょう」
その言葉にドッと雄たけびの様な歓声と、安堵の泣き声が響いた。
「終わったぁぁぁ!!! やったぁぁぁ!!!」
「おいこら! いい年して抱き着くな! 少しは年寄りを労りな!!」
黒龍を倒したと思った。だがその希望は瞬く間に理外の魔法によって覆され、一瞬にして絶望に踏みにじられた。
だが今度は違う、確実に勝った。生き残った。勝利を掴めたのだ。
「うわぁぁぁん!!! 良かったよぉぉぉ!! 怖かったよぉぉぉ!! ベルナデッタ様ぁぁぁ!!」
「よしよし、怖かったですね。でも良く立ち上がってくれました、嬉しかったですよ」
「びぇぇぇ!!」
皆が涙を流した。誰もそれを止める事は出来ない、誰も止められない。
勝利に吠え、歓喜し、乱舞する。もみくちゃになって喜び悶えた。恥も外聞も無い、ただ喜んだ。
「ふふっ」
「あーあ、結局良いとこ全部持ってかれちゃったわぁ」
その光景を少し離れた所でクリスティーヌとナターシャは、指一本動かす事すら億劫な倦怠感に包まれながらも穏やかな微笑みを浮かべて見守る。
互いにだらしなくも地面に座り込み、肩を預け合いながら守りぬいた喜びに浸った。
必死で守り抜いた結果だ。死力を尽くし、魂を燃やして守り抜いた。
「っ……」
「どこ行くのぉ?」
徐に、膝に手を置きながら重たくクリスティーヌが立ち上がる。ナターシャの問いに苦笑を浮かべて目的地へ歩みだす。
それはすぐそこだから、ナターシャも気づくと自分でも笑ってしまうが「あぁ」と間抜けな声を出した後、同じように重たい身体に鞭打ってクリスティーヌの後を追った。
今だ傷つき眠る四人。ヤヤ、フラン、ヴィオレット、エロメロイの元へ。
クリスティーヌが辿り着くのは、当然自らの従者であるヴィオレットの元。彼女の傍につい普段の癖でスカートを巻き込むように座るクリスティーヌ。今はズボンなのに。
「ヴィー。よく頑張りましたわね、美しいですわよ。雄姿を見れなかった事だけが心残りですわ」
右手で頭を撫でようとして、血だらけで傷だらけなのに気付くと左手で優しく頭を撫でた。髪を梳くように撫で、頬に流してほほ笑みのまま見下ろす。
頑張った子にはご褒美を上げようと思ったのか、はたまた離れた時間の寂しさを埋めたくなったのか、眠れる姫に愛情と労いのたっぷりと籠った柔らかいキスを落とした。
周りの目など一切気にしない、自分達だけの世界に浸ってしまう。
「熱いわねぇ……お姉さんもやった方が良いかしらぁ?」
「ほんと……勘弁……」
「……むぅ、寝言で否定するとかぁホント可愛げのない弟よねぇ」
それを横目に見ていたナターシャは冗談めかして言うと、まるで起きているようなタイミングの良さでエロメロイが魘されながら寝言で拒否した。
別に本気でやろうと思ったわけではないが、無性に腹が立ったナターシャはエロメロイの額を小突く。普段ならぶん殴る所だが、今ばかりは流石にそんな事をするつもりも無い。
とはいえ、ふっと表情を柔らげるとエロメロイの頭を撫でて上げた。
「でもありがとねぇ、アンタが居たからここまでこれたわぁ。馬鹿弟からぁおバカな弟に昇進してあげるねぇ」
ちゃんとお姉ちゃんの顔で優しく労った。親愛のたっぷり籠った手は血と汗で絡まった髪の毛をゆっくりと解き、エロメロイの顔が気持ちよさげに綻ぶ。
そんなエロメロイに嫉妬したのか、ゆらりと影が女の形を作って現れた。
「嫉妬しちゃったぁ? でも今は見逃してねぇ、頑張った弟を労うのはぁ姉のご褒美だからさぁ」
「————」
「ありがとぉ」
影の女——ヘルベリア——に気づきながら、優し気な目はエロメロイへ向けたままナターシャは謝罪する。ヘルベリアの表情は分からないが、文句は言いたいが分別はあるらしい。
エロメロイの頭を膝の上に置くと、顔はそっぽを向いた。これが妥協らしい。
可愛い嫉妬に苦笑して撫でる手を再開したナターシャは、他の功労者へ視線を向けるが、立ち上がる気を無くしてしまう。
「ヤヤ……ヤヤ」
「ふらんひゃぁん……」
ヤヤとフランは互いに固く抱きしめ合って眠っていた。絶対に離さないと言いたげに互いの名前を呼びながら。ここに来るときも似たような態勢で眠っていたが、あれはフランがヤヤに。な体だった。しかし今はヤヤが尻尾も巻き付けて抱きしめ返して眠っている。
あの戦いでお互いより仲良くなった様だ。
これではお邪魔虫になってしまう、仕方なく深い目礼で感謝を送った。
歓喜乱舞する声を背に、ザっと足音と共にエリザベスが近づいてきた。
「……」
彼女はただ静かに戦って傷ついた四人を見下ろす。ナターシャはエロメロイを撫でたまま黙って様子を観察し、クリスティーヌは目の前の女性が祖国の皇帝であり敵であると認めると僅かに腰を浮かした。
だがすぐさまその翠の猫目が見開かれる事になった。
「すまなかった」
エリザベスが深く腰を折って、謝罪を口にしたのだ。絶対に謝罪などを口にしなさそうなエリザベスが。クリスティーヌはそれがどれだけ意味があるのかを知っている、貴族たる者謝罪するなど、ましてや頭を下げるなどおいそれとする物ではないと教育されていたから。
頭を下げていいのは、心から謝罪する時にしか許されない。
「……」
「ふぅん」
肩を竦めるナターシャと驚いたまま硬直するクリスティーヌの反応を待たずに、エリザベスは頭を上げた。だがその表情は申し訳なさを既に消し去り、普段の怜悧なすまし顔に戻っている。
「今のは助けられた事への感謝と、それに伴う謝罪だ。だが、我はここまでの行いを何一つ謝罪するつもりはない」
「っ!」
その言葉にクリスティーヌの顔が怒りに歪み、勢いよく立ち上がる。
エリザベスの視線を受けながら、彼女は目の前まで歩くと帝国式の礼を送った。
「お久しぶりですわ、エリザベス皇帝陛下」
「あぁ、顔を合わせるのは5年ぶりか。知っているぞ、今はフィーリウス家の養子だったな」
クリスティーヌは知っている。目の前の彼女が、皇帝が全ての原因だと。だが帝国貴族としての誇りを何よりとするクリスティーヌは、腹の底で燃え盛る激情に駆られようと貴族として接するのを変えられなかった。
とはいえ、その翠の目はとても皇帝に向ける物ではない。エリザベスも、それを分かっていて僅かに目を伏せただけでごく普通に答える。
「はい、良縁に恵まれましたわ。しかしながら陛下、此度の騒動について謝罪しないとはどういう事でしょうか、勇成国の辺境都市での黒龍の強襲、及びスペルディア王国での化け物の騒乱。まさか預かり知らぬ所だと言うつもりではありませんわよね」
クリスティーヌは確かに怒っている。クリスティーヌの信ずる貴族としての矜持は、民を守り国を繁栄に導く。己を殺し、他に奉仕する。究極的な自己犠牲の精神を最も尊いと信じている。
故に、エリザベスの行いは許されるものではないと怒った。何より、その行いに対し何の罪悪感も後悔も抱いてない様な顔で居られては、微笑みと言う仮面を被れなかった。
「……謝罪して何になる」
「何ですって?」
クリスティーヌの怒りを静かに見下ろし、深く瞑目したエリザベスは無駄な事と言い放った。それがクリスティーヌのこめかみに青筋を浮かべさせ、一歩を踏み出させる。
「我が行った事は確かに悪だ、多くの民が死んだ。だがここで我が謝罪して誰が得をする、死者が生き返るか? 貴様の自慰の種が一つ増えるだけだろう」
「っ!」
つまり、クリスティーヌの自己満足でしかないと嘲られ、思わず彼女はエリザベスが皇帝である事も忘れて胸倉をつかみ上げていた。
詫びれる様子の無さに、愚弄されたことにクリスティーヌは唸り声の様な声を漏らして険しく睨み上げた。
胸倉を掴まれても、エリザベスは眉一つ動かさずに手を降ろしたまま見下ろし続ける。それがまたクリスティーヌを苛立たせた。
「それが貴族の言葉ですの!? 他国とはいえ守るべく民を悪戯に殺め、多くの不幸を振りまき戦争の引き金を引いて! 陛下が行っている事が謝罪するに当たらないと!?」
クリスティーヌの吠えた声は大きく、気づけば歓声が止んでいた。折角の勝利の余韻に水を刺してしまったようだが、それを気遣う余裕は無かった。
「謝罪とは、己の行いを悔いて許しを請う行いだ」
「後悔していないと? 許しを求めないと?」
「そうだ」
「ふざっ……! 訳を……何故ですの、貴女は帝国を憂いて謀反を起こし玉座を得た筈。ならばお判りでしょう、争いによって生み出される悲劇が、奪われる苦しみを」
僅かに残った理性がギリギリでブレーキを掛けた。エリザベスが男であったら、激情のまま手を上げていただろう。だがエリザベスは女だ、ローテリア帝国で女がどういう目に合うのかを、クリスティーヌはよく知っている。エリザベスだって身を以って知っている筈だ。
「噂でお聞きしましたわ。陛下は既にお子を望めぬ身体だと、夫を前陛下に殺されたと……ならばお判りでしょう! それとも復讐ですの! ただただ帝国と世界を憎むが故の復讐ですの!? もしそうなら……ワタクシは帝国貴族として、国の為務めを果たしましょう」
だから謝罪してくれ、違うと言ってくれ。怒りに歪む顔の中に、どこか懇願する様な声音を混ぜていた。襟を掴む手が震え、指輪が弱弱しく光る。
「理解を求めるつもりはない、共感も要らん。我は自らの信じる正義を貫くだけだ、悪と断ざれると知っていても。殺すなら殺せ、貴様にはその権利がある」
弁明も、謝罪も無くエリザベスは無抵抗のまま許可を出した。本当に殺されても良いのだろう、クリスティーヌの指輪が強く光っても、エリザベスの両手は脱力したままだ。
クリスティーヌは本当に殺すつもりなのだろう、殺意に目を鋭くさせて深く息を吐いた。
剣呑な雰囲気と確かな殺意に、誰かが止めるべきかと動き出す気配が伝わる。
本当にクリスティーヌは手を出してしまうのか、誰もが固唾を呑んで見守った。
「……やめときますわ」
だがふぅっとため息を吐くとクリスティーヌは手を離し、エリザベスから距離を取った。憤然やるせないと言う表情だが、少なくとももう怒っている気配は伝わらない。拗ねた様子ではあるが。
「今ここで陛下を殺めた所で、余計な混乱を招くだけですもの。何より、罰を望むなら法の元正しく裁かれなさい」
「そうか……そうだな」
裁くなら私刑ではなく法に従って。状況と矜持に基づいての判断、今ここでエリザベスを殺めた所で、彼女が言った通り自己満足にしかならない。
クリスティーヌはそんなつまらない事をしない。それは彼女の『美しさ』とは程遠い。
「言いたい事は言ったから満足ですわ。それより今はあの男達を追う事が先決ですもの。さて、どうやって探し出した物かしら」
既に気持ちを切り替え、豪奢な立て巻きツインテールを払いながらクリスティーヌはもう次の事を考えていた。エリザベスはここに居るが、本当の敵はアダム達だ。アレを逃がしてしまった以上、その足取りを追わなければ。
必死こいて戦った意味が無くなってしまう。
「それよねぇ、魔王城は取り返したけどぉ魔王様の遺体奪われちゃったしねぇ。流石に空間跳躍されたらぁ足取りを追えないわぁ」
殺意が散った事に安堵した面々と同じように、ナターシャも天を仰いでため息をついた。
そう、今はどうしようもないんだ。あれで飛んで逃げたとかだったらまだ終えたかもしれないが、空間を飛んで逃げられては追うのも難しい。直ぐに追いたくても流石に無謀。
万策尽くし。お手上げ万歳。
「それなら問題は無い」
だがエリザベスは相変わらず怜悧な無表情のまま、傲岸に言い放つ。皆の視線を集めて、彼女は黒くほくそ笑んだ。
「こうなってしまった場合を想定し、奴が向かうであろう場所に帝国軍を配置させている。今頃、手負いの身で我の帝国軍と邂逅しているだろう」
エリザベスとてただ座して出し抜かれた訳ではない。人間を舐めるな、その言葉の本当の意味を今まさにアダム達は身をもって知るだろう。