クソだせぇ!!
闇夜の中を、影が走る。
音一つない丑三つ時の世界に相応しく、衣擦れの音一つ残さない。だがそこには確かに人がいる。しかしその姿を捉えることは出来ない、分かるのは影が動いている事だけ。
獣ですら、その気配の欠片を掴むだけで捉える事が出来ないでいる。
影は止まる事なく走り続ける。月明り一つない、深い森の中を全て見えているかの様な正確さで、一切速度を緩める事無くただ真っすぐに。
その影が、小枝を踏んだ瞬間勢いよく止まった。今影が見ているのは、今の今まで走っていた鬱蒼とした森の中ではなく、また森を出た筈も無かった。
小枝を境界に、鬱蒼とした森の代わりに月明りが差し込む美しい湖面が影を向か入れた。
見渡す限りの波紋一つない美しい湖面。月明りが反射し神々しく輝き、虫の囁きが心地よさを奏で、発光する小さな虫が幻想の世界を形作る。
「ヘルベリア」
影が囁くと、身体を覆っていた影は解かれ、青肌の青年が露わになる。
黒い前髪を中上げし、開けているんだか閉じているだか分からない糸目が開かれると、黒白目に浮かぶ悪魔の証である真紅の瞳が浮かぶ。その身体は緩いパーカーとズボンに覆われているが、汗を拭うために腹の裾を持ち上げれば鍛え抜かれた傷だらけの身体が覗いた。
夥しい数の傷だ。致命傷の傷跡もあれば、小さい傷は数えきれない。過酷な戦場を生き抜いた男の身体だった。
そんな彼は神々しい美しさの湖面……では無くその中心部に聳え立つ古城を前に言葉を失っていた。
「あぁ……あの時のままっしょ……」
感動、ではなく嘆きと後悔によって震える声を絞り出しながら、エロメロイは王に敬意を示すように膝を突いて頭を垂れる。
苦渋に満ちた表情で、こみ上げる怒りによって震える拳を地面に押し付けていないと耐えられないと言いたげだ。
「我が王、魔王ファウスト様。貴方の忠臣エロメロイ、ここに」
そこに、湖面の中心部に聳え立つ古城に彼の王が居ると一切の疑いなく忠臣としての挨拶を送る。
王への挨拶は、臣下の最初にすべき仕事だ。例えその王が、既に亡き者となっていようと忠義は変わらない。
エロメロイの王への忠義は、例え王が死のうが揺るがない。300年経とうが、彼の王は魔王ファウストただ一人。
「王よ、我が王よ。どうかお答えください、果たしてこの世界を守る価値があるんですか。貴方が美しいと語ったこの世界は、争いや悲しみが絶えない世界です。今争いを止めようと、人は人同時で憎しみ争う。貴方が命を賭してまで守る価値はあったんですか」
大切だからこそ、敬愛しているからこそ、許容できない。
王の想いは汲もう、その願いを阻む敵は排除しよう、全ては王の為。王が望むなら、命だって差し出すさ。
だが王の願いを周りが無碍にして、命を賭してまで成した事を全くの無駄にされて、憤らない訳が無い。
果たして守る価値が、この世界にあるのか? 例え王の言葉であろうと、王の望みだからこそ悩んでしまう。
帰ってこない答えを求めるエロメロイは、300年前の戦争で王が最後まで戦った古城を眺めて思い出に浸る。
◇◇◇◇
ナターシャとエロメロイ。この血を分けた二人はマリアに拾われ、そのままファウストの元で新しい生活を始めた。
目まぐるしい日々だった。新しい寝床、新しい環境、新しい事。目に映るものは全て真新しくて、落ち着くまでだいぶ時間がかかった。
でも不満は無かった。残飯を漁る必要も盗みを働いて殴られることも無く腹いっぱい食事できる、姉弟二人地面の上で抱き合って寒さに凍える事なんて無く柔らかいベットで眠れる、暴力を振るわれる恐怖に怯えなくて済む。
それだけで二人にとっては天国だった。
もし地獄から救い上げてくれる人がいて、その人が満足な生活を提供してくれて、このくそったれな世界を変えてくれると言ってくれたなら、敬意を抱いてしまうのも仕方ないだろう。
例えそれが刷り込みだと分かっていても、だからこそ自分の意思で忠義を捧げるのだ。貴方にはそれだけの価値があると証明するために。
「魔王様。魔王軍諜報部隊非常対策担当エロメロイ、並びに総員出撃完了です」
「魔王軍第三師団、師団長兼近衛隊長ナターシャ。並びに第三師団、王の一声で今すぐに」
意外にも、姉と弟で進む道は分かれた。ナターシャはマリアの近衛に、エロメロイはファウストを支える為に諜報部隊へ。
二人とも既に幼さは無く、心身共に成熟した大人に成長した。大きくなった二人はごく当たり前に、拾ってもらった恩義を果たす為に忠臣へと進んだ。
例え仕える主は違えど、思いは同じで国の為、主の為。
そして今、二人は膠着する戦線を前に最後の戦いへの覚悟を決めていた。
人と魔の全面戦争。どちらも数えきれないほどの死者を出し、憎み恐れ殺し合う。どうせあと数刻もすればまた血まみれになるのだから、血の汚れを落とす意味も無い。そんなクソみたいな戦争だ。
「あぁ助かる。では出撃を……と言いたい所だが、二人には話しておきたい事がある」
最後の戦いを前に、王から二人だけに何か言葉を貰えるのか。
二人は頭を垂れたまま静かに耳を傾ける。エロメロイだけは、何かそれが懺悔の様な意味に感じた。
「マリアは逃がした」
「……は?」
その言葉に強く反応したのはナターシャだった。信じられないモノを見るような目で、王を見上げる。
エロメロイは言葉を発する事は無く、だがナターシャの次の言葉を察して姉の肩を掴む。
「俺の独断だ。マリアも、最後には納得してくれた」
「納得って……この佳境で何言ってるのですか! 天使の力が無くてどうやってこの膠着した戦況を変えるって言うのですか!!」
「姉貴」
力強く止める様に肩を掴んでも、その手を振り払ってナターシャは殴りかからんばかりに王へ詰め寄る。
それでも王は咎める事をせずに、ただ黙って口を噤み、目だけはナターシャから逸らさない。
「逃げたんですか! 大勢同胞が死にました! これからも死にます!! マリア様には救う力がある! マリア様がいれば死ななくて良い同胞も大勢いるのに!」
「姉貴っ!!」
「アンタは黙ってろ!! 答えてください我が王! 何故! 何故今なんですか!!」
抑えきれない怒りが、魔法を暴発させ周囲が溶け出す。無理やりにでも止めようとエロメロイが手を出せば、それは弾かれ触れられた服が溶けた。
ナターシャは捨てられた子供の様に、受け入れたくないと泣きそうな顔で怒り狂う。それは今ここで逃げた事へ対する怒りというよりは、何故それを自分が知らないのだという憤りに見える。
「……腹に……子がいる」
「……はっ」
だから告げられた言葉に、ナターシャの身体から力が抜けた。
エロメロイもまた、王の苦渋に満ちた顔を見て納得してしまう。あぁ、存外我が王も親なんだと。
「どうしてぇ……そんな事を言われたら、怒れないじゃないのぉ」
顔を抑え、立ち続ける事も危ういふらついた身体を壁に押し付ける。ナターシャとて女だ、母になった事は無い。だけど同じ女だからこそ理解できる。
それがどれだけ自分の中で大きなものか。
だが、だけど!
「なんでぇ……友達じゃなかったのぉ。マリア様ぁ」
許せないのは、そんな事を一つも聞いていなかった事だ。
一言で良かった。それを本人の口から、報告されるだけで良かった。腹に子がいるから、これ以上は戦えないと。同胞を見捨てて逃げると。勿論困惑するだろうし怒るだろう。でも、でもナターシャがそれを止めると思うか?
戦争なんてしたくてしている訳じゃない。だけど、大事な人を守る為ならなんだって出来るさ。
マリアの分まで自分が頑張ると、大切な友とその幸せを守る為なら命なんて惜しくないと。
そう言えた。いえるのに、どうして友の口からそんな事も聞けないのか。
「っ……!」
「姉貴!」
押し黙り俯くナターシャは、何も言わずに踵を返して王の元を辞した。それを咎める者は、居ない。
「二人はマリアの事を良く慕ってくれていたのに、別れの挨拶もしてやれず済まない」
「いえ、確かにショックではありますが、王の采配に異を唱えるつもりはありません……ただ、せめて姉には挨拶の機会を設けてほしかったと恨む気持ちはあります」
「すまない。時間が無かったからな」
エロメロイは、ナターシャ程感情を荒ぶる事は無かった。ただそれでも、ただ一人の姉の気持ちが痛いほど分かるからこそ、臣下には相応しくない苦言をこぼす。
そして王もまた、申し訳なさそうにしているからこそ自分の感情は切り離す。
彼もまた、誰かの為に戦う男だから。
「お聞かせください、我が王。我が王は、死ぬつもりですか」
「……すまない」
「っ……!」
だけど、やっぱりだめだ。分かってしまうんだ、王の気持ちも、苦悩も。
目の前で死への覚悟ではなく、死ぬ事を望む王に切り離そうとした感情がこびりついて荒ぶる。
臣下としてどうすればいい? 黙って唯々諾々と王を死に場所へ向かわせる? 王を死なせては行けないと殴ってでも止める?
握りしめた拳から血が滴り落ちるのを、ただ眺めるエロメロイへ王の寂し気な声が届く。
「俺がここで死ねば望んだ平和は訪れる。人の世界は安寧を取り戻し、魔界も一度の平穏に包まれる。多くの悪魔が死んだからな、数百年は冷戦という安息を得るだろうさ」
「……何故人の平穏を願うんですか。貴方は悪魔だ、例えその身が作られた物だとしても、貴方は悪魔の王として俺たちの平穏を作り上げたではないですか……貴方のそれは……傲慢っしょ……!」
人の平和も願い、悪魔の平和も作り上げる。
何故そこまでしなければいけない、何故他所の世界の人間まで救おうとするんだ。そんな事出来るわけなんて無いのに、目の前の大切な人だけを守ってればそれで充分なのに。
どうしてこの王は、そんなに傲慢に優しくあろうとするんだ。誰も望んでいない。
自分さえ犠牲になればそれでいいと、何でそんな残酷な事が言えるんだ。
「そうだな。俺は傲慢で、我儘だ。皆に迷惑をかけてしまう」
「迷惑だなんてっ。俺達はただ貴方に生きて欲しいだけで……」
「…………だけど、美しいと思ってしまったんだ」
残酷だ。王の言葉を否定出来る筈なんてないのに、王はもう道を定めてしまっている。
最も華々しく、誰にも祝福されない死への道へもう既に歩みだして、そんな事を言うんだ。たった一人で、誰からも理解されず、恨まれながら全てを背負って遠くへ。
「人も悪魔も変わらない。どっちの世界も本当の平和なんて無いさ、だけど世界は美しい。所詮紛い物の俺が、そう思えたのは君たちのお陰だ。ありがとう」
「っ……! 俺はっ……貴方を恨みます」
最後まで笑って逝ってしまう。寂しそうに、羨ましそうに微笑んで。
だからエロメロイも覚悟を決める。王が望んだ道を阻む全てを排除する。そこにエロメロイは要らない、必要なのは王の剣と盾だけだ。
だから恨む。
だから願う。
だから決める。
「魔王ファウスト様。どうかご命令を。この身は貴方の忠実な僕、貴方の遺志を継いで願いを果たしましょう」
「あぁ。ありがとう」
その意を継ごう。大切な人が守りたいと願ったものを、この命果てるまで守ろう。
だってそれが、最後に出来る恩返しだから。
◇◇◇◇
ガサガサッ。
「っ! ヘルベリア」
思い出に耽っていたエロメロイは、人の気配と共になった葉擦れの音に意識を戻した。
動物ではない、迷い人でもない。ここは結界に包まれており、明確な意思が無いと通れない場所だから、ここに人が来るという事は同じ目的だろう。
おおよその検討をつけて、エロメロイは素早く影に包まれると息を潜めて侵入者へ意識を集中した。
息を潜め気配を消したエロメロイに気づかず、侵入者の影が二つ月明りに晒される。
その人物は、半分的中し半分予想を外れた。
(ローテリア帝国の皇子が居るのは分かる、だけどなんで勇成国の勇者までいるんだよ!!)
月明りに照らされて現れたのは、ローテリア帝国の皇子の身体を使うアダム。そしてそいつの隣に居るのは、勇成国の騎士であり、勇者としての称号を賜ったアレックス・ガルバリオだった。
しかもアレックスに拘束されている様子は無い、自分の意思でそこにいるんだと一目で分かる様子。
二人は何やら言葉を交わしており、エロメロイは会話を聞くため慎重に移動する。
足音一つ鳴らさないように、気配を完全に静謐なこの空間に潜ませてゆっくりと。
「——そうすれば、俺の望む世界が?」
「えぇ、きっと。これを預けます、種を撒いて頂ければ」
(クソっ、肝心な所が聞こえなかった。だけど何となく読めたぜ、清廉潔白な勇者様も存外俗物だった訳って事っしょ)
会話のほとんどを、風に邪魔されてエロメロイは聞き取れなかった。しかしアレックスがアダムから何かを受け取り、それを眺めた後に懐に仕舞ったのを見て確信する。
アレックスが自分の意思で、裏切ろうとしているのだと。
勇者と呼ばれ人々の希望を背負い、かつ自らの主に忠誠を誓う騎士が蛮行を行っているのだ。知らず軽蔑に睨みつけてしまった。
彼にしては珍しい失敗だ。深く過去を思い出してしまったからだろう、隠した気配が乱れた。
(っと、深入りは禁物っしょ。敵が増えただけだ、やる事は変わらねぇ。目標の確認も出来たしここは撤退っしょ)
自分が一瞬気配を漏らしてしまったのを認識し、即座に撤退の判断を取る。それ自体は間違っていない、過酷な戦場を潜り抜けてきた彼の骨身に染みた経験がそうさせ、音も無く去ろうとする彼の技術は確かな物だった。
だが相手が悪い、相手は勇者とまで呼ばれる才能の塊の戦士なのだ。今は戦乱の時代ではないから、その驕りがエロメロイの判断の誤りであった。
「動くな」
「っ!?」
(嘘っしょ!? 一瞬目を離した隙に詰められたのか!)
枝が折れる音をエロメロイが捉えたと思ったその時に、彼の首に剣先が突き付けられた。撤退しようと意識を逸らしたほんの一瞬の隙をついて、完全に間合いに入られて。
少しでも下手な動きをすれば、何の躊躇いも無く胴体と首が泣き別れするだろう。舌打ち一つ鳴らして、こちらを冷たく見下ろすアレックスを見上げる。
更に最悪な事は、アダムにエロメロイの存在がバレた事だ。
「これはこれは、随分懐かしい姿ですね」
キザったらしい口調で、アダムが近づいてくる。エロメロイの全身は影に包まれおり、見てくれは真っ黒な人影としか見えない。
それでも、アダムは知った顔を見つけたと嘲りに薄く笑っている。
それがエロメロイの癇に障る。静かに機会を狙っていたエロメロイは、アレックスの意識が僅かにアダムに移ったのを見逃さない。
「ヘルベリア!」
「っ!」
今度はエロメロイが隙を突く番だ。一瞬の隙を突いて、身体に纏う影を鎌の刃に変形して突き付けられた剣を弾く。
そのまま勢いよく後ろへ飛び、素早く影を漆黒の大鎌に変形させて戦闘態勢を整えた。しかし軽口を叩く余裕はない、今頭の中ではどうやってここから脱出するかだけを目まぐるしく考えている。
「君は……あの時の亜人の」
「彼は亜人ではありませんよ。300年前の戦争で人と争った悪魔です」
「悪魔……!」
「はっ、ペラペラ良く回る口っしょ。虎の威を借りる寄生虫やろうが」
一度目は虚を突けた。だが二度目を狙える隙は無い。
少しでも選択を間違えれば、注意をアレックスから逸らせばエロメロイの情報を持ち帰れる確率は絶望的になる。
戦う意味は無い。エロメロイの仕事は、戦う事ではなく情報を持ち帰る事なのだから。
(俺の予想だと、あの勇者サマはまだ迷いがある。なら揺さぶり掛けて逃げるチャンスを作らねえと)
「なぁ勇者サマ、あんた自分が何してるか分かってるっしょ?」
「……あぁ」
「国に忠を捧げた騎士が? 誰かを守らなくちゃいけねぇ男が? 裏切るのかよ、てめぇの王を」
揺さぶりを掛ける為とはいえ、その言葉はエロメロイの本音だった。同じ忠臣として、アレックスのしようとしている事だけは苛立つ。
何より苛立つのは、これだけ言われても何も言い返さないアレックスの姿。さも、悪いのは分かっている、だけどどうしようもない。なんて被害者面してるのが、心底エロメロイを苛立たせた。
「……お前に何が分かる」
「あ? っ!」
静かに呟かれたのを聞き逃したエロメロイに、アレックスは一足で間合いを詰めると剣を叩きつけた。
咄嗟に鎌の柄で防ぐエロメロイだが、柄ごと叩き潰そうとする力に押し込まれ、それでも歯を食いしばって何とか耐える。
「何だぁ!? 僕の気持ちなんて誰も分からない、誰も僕を理解してくれませんってかぁ? 笑わせんなっしょ!」
絶妙な体重移動で力点をずらし、剣を柄で滑らせながら足首を捻って横薙ぎの一撃をお見舞いする。
一つ、激しく火花を散らせてアレックスが反撃するが、今度は確実に刃で受け流したエロメロイは暫し幾つもの火花を散らしながら挑発する。
「てめぇがどんな悩み抱えてるのかなんて、姉貴の友達ゼロ人位どうでもいいっしょ! だけどな! てめぇは騎士だろうが! 臣下だろうが! なぁに王を裏切ろうとしてんっしょ!!」
「黙れっ!」
そうだ怒れ、怒って冷静さを失え。エロメロイはただ攻撃を耐え忍んで、逃げるチャンスが出来ればそれでいいんだ。
そんなエロメロイの狙い通り、アレックスは図星を突かれて痛いのか、どんどん荒々しく切りつける。
「何を話したかはしらねぇけど、お前にすり寄ったそいつはただの寄生虫野郎っしょ! なに言われた? あ? 惚れた女くれてやるって騙されたか!?」
「騙されてない!」
「くっ!」
荒々しい力で振り払われた剣を受け止め、衝撃にたたらを踏んで後ずさる。追撃を恐れたが、アレックスは肩で息をして二の手は来ない。予想以上にエロメロイの言葉が利いたのだろう。
しかし逃げるにはまだ弱い。エロメロイもまた、冷や汗を流して意識的に呼吸を整える。
(不味いっしょ。ここに来るまで飲まず食わずで走ったから大分消耗してる。後一つ、何か致命的な隙が無いと逃げられねぇ)
常に逃げを意識しているエロメロイは、少しずつ後ずさって距離を取る。
最悪、追ってこないならこのまま距離を取って逃げられれば御の字だ。怖いのは背を向けた瞬間に切られる事だけ。逃げ切れると判断できる距離まで離れられればそれでいいとするエロメロイに、アレックスは形容しがたい表情で剣先を地面に向けている。
「俺は……俺はただ……」
(あーあ、俯いちゃって。勇者とか言われてるけど、所詮ボンボンのちょっと才能があるお坊ちゃまか。あの勇者に比べたらまぁ情けねえっしょ)
見ているだけで、呆れてしまう程にアレックスは憔悴している。
俯き、ぶつぶつと聞き取れない声量で何かを呟き続けている。流石に心が弱すぎだとは思うが、エロメロイにとってはチャンス以外の何物でもない。
気になるのは、先ほどから何もしないで観察し続けているアダムだが。ただ静かに眺めている、まるでつまらない喜劇を見てしまったかのように。
「所詮、生中な時代か。この程度で折れるとは」
侮辱甚だしい、何もしていなかった癖に壊れた玩具を見るようなでアレックスを見下ろしながら、アダムはアレックスの背に近づく。
何をするつもりなのかと訝しむエロメロイに見せつける様に、アレックスの頭を掴んだ。
「ほら、悩む必要なんてありませんよ。全てを変えたくてここに来たんでしょう、なら余計な悩みを抱く必要はありません」
「っ……ぐっ!」
アレックスの後頭部を掴む手から、魔力が彼の脳髄を犯す。苦しそうに顔を顰めるアレックスは、さして抵抗する時間も無く静かになった。
何をしたのか理解出来ずとも、何か人の尊厳を著しく侮辱する事が為されたのだけは理解したエロメロイはいよいよもって軽蔑の目をアダムに向ける。
「そうやって洗脳して、300年前も戦争を起こしたのかよ」
「洗脳とは人聞きが悪い、少し余計な事を考えないように手伝っただけですよ」
「戯れるな三下。良いか、その仮初の身体の耳かっぽじって聞くっしょ」
逃げるなら今だ。それは分かっている。だけどこれだけは言っておかなければエロメロイの気が済まなかった。
漆黒の大鎌で狙いつけ、力強く宣言する。
「てめぇが何企んでるかなんざ興味もねぇっしょ。だがな、覚悟しろよ。てめぇのクソみてぇま野望は必ずぶっ潰す、これは確定事項だ」
「ふっ、期待してますよ」
エロメロイの宣言を、鼻で笑ったアダムが手を離せばアレックスがゆらりと剣を構える。俯いたまま、身体に力が入っていない様子で一歩踏み出した。彼が一歩踏み出す度に、紫電が走る。空気を焼く紫電が。
言葉に出来ない異様さに、いよいよエロメロイは全力で逃げるべきだと叫ぶ本能に従い武装を解いて手足に影を纏わせた。
調子に乗って喧嘩なんて売らなければ良かったと後悔が過るが、やってしまったものは仕方ない。焦りと苦笑を交えて全力で逃げる。
「俺は……俺はただっ……!」
「やべぇやべぇっ! これで死んだら鬼だせぇっしょ!!」
魔力が異常な高まりを見せ、紫電が空気を焼いて荒れ狂う。
さながら、龍のブレスや自然災害の前触れの様なプレッシャーに森が泣き喚く。
逃げるのはもう無理だ、取れるだけ距離は取った。後はもう全身に影を纏わせて、全力で防御態勢を取る。一か八か、今まで良い子ちゃんしてきた運をここで見せてくれと悪態をついてエロメロイは自分の玉に祈った。
「全力で俺を守って欲しいっしょ! ヘルベリアちゃん!」
「オレはぁぁぁ!!!」
紫電の濁流が迸り、エロメロイへ大口を開けて迫った。闇夜を照らす太陽の様に眩しく、神の怒りに相応しい無慈悲な一撃。
邪魔する物は全てを飲み込み、焼き尽くしながら走る。アレックスの激情に釣られ、紫電も荒々しい暴力の塊だ。
金玉が縮みこみそうになったエロメロイは、あっという間に紫電に飲み込まれた。
地平の彼方まで木々をなぎ倒して、圧倒的暴力の名残と藻屑だけを残して静寂が戻る。
そこに、エロメロイの姿は無い。
「全く、300年前から変わらない。害虫の様なしぶとさだ」
忌々しさを滲ませて、アダムはどうなったかを見る事も無く立ち去る。
残されたのは、追い詰められたようにぶつぶつと俯きながら呟くアレックス。その深海の如く青い目は、狂気に歪んでいた。
「俺は……俺はただ……」