大切だから止められない
ガタガタと、馬車が地面を転がる音が響く。既に一夜明け、また新しく薄霧の向こうから太陽が照らしだしている。
貴族が使うような小綺麗な馬車ではなく、布を被せただけのより多く物を運ぶことを意識して作られた簡素な馬車だ。安っぽいが、頑丈性と積載量に関しては一番効率が良い。乗り心地は悪いが。
そんな馬車を引くのは、クリスティーヌの信頼できる侍従であるヴィオレット。彼女は春の早朝のまだ肌寒いが、爽やかな風に肌を撫でられつつ物静かに手綱を握る。
馬が一つ白い鼻息を吐いて、飽きたと言いたげにヴィオレットへ振り返ったのに対して申し訳ないと苦笑しつつ肩を竦めて、彼女の耳に嵌められた宝石が光っているのに気付いた。
光った宝石に、ヴィオレットは勝手を理解しきれていないたどたどしさのある手つきで、宝石に指をあてて魔力を流す。
そうすれば、対になる宝石の持ち主の声が聞こえた。
『ヴィー? 聞こえるかしら?』
「はい、問題ありません。お嬢様」
『良かった。しかしこの通信用魔道遺物? だったかしら。便利ね、遠く離れた相手と会話できるなんて』
「そうですね、お陰で私も余計に魔法を使う必要が無いので、調子が良いです」
ヴィオレットはここにはいない、自らの主であるクリスティーヌと通信機越しに会話する。こんな便利な物があったとは知らなかったが、フランからの協力を得た暁に渡された魔道歴の遺物の効果にはほくそ笑んでしまう程便利だった。
これを量産できれば戦争の在り方すら変わりかねないが、残念ながら魔道歴の遺物の一つであるこれがどういう原理で動いているのかは専門家ですらないヴィオレットにもクリスティーヌにも分からない。
耳元で主の声が聞こえるという、こそばゆさに背中を伸ばしながら答えるヴィオレットは声だけは平常を保つ。
『こっちはもう帝都入りしましたわ、マクシミリアン王が騎竜を出してくれたお陰ね。ヴィーに空の旅を見せられないのが残念でしてよ』
「それは羨ましいですね。こっちはいい加減お尻が痛くて仕方ありません」
『ふふっ、なら片が着いたら丹念にほぐしてあげますわよ。たっぷりと、時間を掛けて、愛情深く……ね?』
「っ……!」
ヴィオレットは耳元で囁くように紡がれる熱っぽい言葉に、頬を赤くして無言を貫いた。これは不味いぞ、と。途轍もなく便利なのは認めるが、常に耳元で相手の言葉が聞こえるというのは、逆に傍に居ないからこそ色々と想像が捗ってしまう。
思わず外してしまいたいという衝動を抑え、上品に笑うクリスティーヌに答える為に深呼吸する。
気軽な雑談の時間は終わったのだろう。クリスティーヌが低い声でヴィオレットの名前を呼ぶと、本題に移るという意図を察し空気を変える。
『成すべき事は分かっておりますわね』
「はい。私たちはこれより魔王の遺体が納まっているという場所へ向かい、エリザベス陛下よりも先にその遺体の確保します」
『よろしい』
今、ヴィオレット達は魔王ファウストの遺体をエリザベス達より先に手に入れる為に行動している。敵の次の目的が魔王ファウストの遺体を用いて、世界征服を企んでいるという予測からそれを阻むために行動していた。
本当にそこにあるのかは、齎された情報が信ぴょう性に足るかは疑念はある物の、これ以上敵に戦力を与えるわけにはいかない為行動を余儀なくされている。
だが、それを指示したクリスティーヌは別の目的がある為傍にはおらず、一人ローテリア帝国へ帰省していた。
『もしエリザベス陛下と会敵した場合は、敵の目標確保の妨害を優先しなさい。必要であれば全て藻屑と化してでも、敵にこれ以上力をつけさせてはいけませんわ』
「畏まりました」
『ただ……これはただの感なのだけれど、きっと戦闘になりますわ』
「えぇ、私も同意見です。ですが必ずやお嬢様に色よい報告をさせて頂きます」
『期待してますわ』
必ずや主の命を遂行するという気持ちを込めて、遠くに居るクリスティーヌへ向かって礼を捧げる。
あの最低最悪な景色を、もう二度と見ないために。
もう二度と誰も傷つかないように。
あの敗北の屈辱を、勝利という清水で濯ぐために。
『ワタクシの方も、実家で事を済ませたらそちらへ向かいますわ』
実家。その言葉を発した時のクリスティーヌの声の固さに気づかないヴィオレットではない。
それが何を指しているのかも、何を意味しているのかも知っている。
「その……大丈夫ですか?」
『……えぇ、大丈夫ではありませんわね』
正しい侍従の在り方としては、何も聞かずにいるのが素晴らしいのだろう。だけれども、ヴィオレットにそんなことは出来ず、何が出来るわけでもないの、大丈夫な訳でも無いのに聞いてしまう。
存外、素直に予想通りクリスティーヌの緊張が伝わってくる。これからクリスティーヌが赴こうとしている場所は、ある意味では戦場なのだから。
因縁深い、実の家族が居る家へ。
「態々行く必要なんて……」
『必要か否かを決めるのはワタクシですわ。例えそれが捨てられた親の元であろうと、必要にかられればワタクシは何でもしますもの』
その緊張と不安を孕んだ、しかし確かな意思に基づいて発せられた力強い言葉に、ヴィオレットは唇を噛んだ。
今主がどんな顔でそれを語っているのか、きっといつも通り澄ました表情で尊大に胸を張っているだろう。
でもヴィオレットだけは知っている。本当は弱い心を無理やり鉄仮面で隠している事を。
どれだけ強く見えても、まだ20にも満たない少女なのだから。
『大丈夫ですわ、ちょっとお願いしに行くだけですもの。まぁ、恨み言の一つくらい言ってしまうかもしれませんわね』
それでも、ヴィオレットの前でだけは素を見せてくれるその姿に、その姿をみせられてしまうからこそ何も言えなく無なってしまう。
これ以上、何かを言うのは野暮だと分からされてしまうんだ。
「……ふふ、それは良いですね。がつんと言ってやってください」
『いやですわそんな下品な事、美しくありませんもの。でもまぁ、そうね、あの鉄仮面を剥がす位の気概で望んでしまおうかしら』
「はい、ご武運を」
通信機越しに、翼がはためく音と地面を下りる音が聞こえれば、別れの時間が訪れる。
まだまだ言いたい事をぐっと堪え、ただ無事を祈って送り出す。信じているから、自らの主の強さを。
プツンと通信が切れれば、何とも言えない物寂しさを覚え、ヴィオレットは輝きを失った宝石を弄びつつ、懐から一体の熊の人形を取り出した。
それを膝の上に置いて、一つ魔法を——傀儡魔法——を掛ければその人形はまるで命を吹き込まれたかのように自然に立ち上がった。
「ねぇゴンザレス4世、もし私が侍女っていう立場じゃなかったらもっと強く止められたのかな?」
ヴィオレットの弱音に、ゴンザレス4世と呼ばれた熊の人形は首を傾げつつその可愛らしい手をヴィオレットのお腹に当てる。
当たり前だがそれはヴィオレットが操っているのだが、ヴィオレットは苦笑交じりに人形の柔らかい頭を撫でる。
こうやって人形相手にしか、ヴィオレットは弱音を吐けない。これは昔の癖の様なものだった。
「お嬢様の侍女となった事に後悔は無いんだよ? でも、もし侍女と言う立場じゃなかったらって思う時もあるの……なんてね、あの時お嬢様が拾ってくれなかったら多分あのままスラムで死んでたしね」
「ふーん、可愛い人形ねぇ」
「きゃあ!?」
背後から聞こえた眠たげな声に、ヴィオレットは激しく飛び上がって驚く。その所為で馬が驚いて、馬車が揺れた。
暴れる馬を声をかけた張本人、ナターシャがなだめつつ恥ずかしそうに顔を赤らめたヴィオレットへ振り返った。
「どうどぉう。なんか、ごめんねぇ?」
「いえ……私も気を抜きすぎました……その、忘れてください」
本当に恥ずかしいのだろう。ゴンザレス4世を顔の前に掲げ、真っ赤になった顔を隠している。それでも隠しきれず、はみ出した耳も真っ赤で声は消え入りそう。
普段は凛と澄ました出来る侍女らしいヴィオレットの、そんな姿はとても珍しく、こんな顔を見られるのはクリスティーヌだけだろう。
ヴィオレットもそんな顔を見せたくないのか暫く隠し、何度も深呼吸して漸く赤みが納まってきたところでゴンザレス4世をしまいつつ手綱を受け取った。
「お恥ずかしい所をお見せしました」
「良いわよぉ、お姉さんも急に声をかけてごめんねぇ?」
「いえ。それより、何かありましたか?」
「皆寝ちゃって暇になっちゃたねぇ」
言いつつ、御者台と中を阻む布をたくし上げれば、そこには予想通りと言うべきか、予想以上と言うべきか、何とも微笑ましい光景が広がっていた。
「すー。すー」
「ふへへ~、おりじなる~」
「だめですよ~、23ばん~だめだめですよ~」
「ふえぇ……むりですぅ……」
「ぅう……おもおもデェス……ヤヤはおっぱい出ないデェス……」
可愛らしい白髪の少女達が、ヤヤを皆で抱きしめる様に眠っている。
オリジナルと呼ばれる、白髪の少女のフランはヤヤを胸元で抱きしめながら壁に凭れ掛って穏やかな寝息を立てている。普段は感情という概念を忘れてしまったような無表情なのに、ヤヤの温もりに心地よさそうに見える。
他にも、フランのクローンであるシスターズと呼ばれる三人の少女達も、それぞれ思い思いにヤヤに抱き着いている。
一人は慎ましい胸に、一人はふさふさの尻尾に、一人は柔らかい太ももに。オリジナルのフランよりは喜怒哀楽のはっきりしている三人は、それぞれ気持ちよさそうだ。
唯一、抱き枕になっているヤヤだけは寝苦しさにうなされているが起きる気配はない。
ヤヤの清い犠牲に目を瞑れば、微笑ましい光景にナターシャもヴィオレットも頬を緩めて静かにしてあげようと布を下した。
「良いわよねぇ、こういう何でもなぁい幸せってぇ」
「はい、絶対に守りたいものです」
「えぇ……戦いなんて無くなっちゃえばいいのにねぇ」
種族は違えど、故郷は違えど思う物は同じ。
平和な時間を守りたい。ただそれだけの為に、命だって賭けれる。
二人とも、遠くを眺めつつ苦笑を浮かべた。
なんで戦争なんてものがあるんだろうか、不幸しか起こらないのに。
「ねぇメイドちゃん、メイドちゃんは主の為なら命だって捧げられるぅ?」
「当たり前です」
「即答かぁ」
ナターシャは肉付きの良い艶やかな足を組みつつ、雑談程度に聞いた質問に帰って来た即答に感心の笑みを浮かべる。
別段深い意味がある訳ではなく、お互い敬愛する主を持つ者同士のほんの雑談だ。
「お姉さんもねぇ、魔王様の為なら何だって出来るわぁ。例え300年経とうがこの忠誠に揺るぎは無いわねぇ」
「良き臣下です。魔王も誉れ高いでしょう」
「やめてよぉ、分かってるでしょぉ? 戦場で王を守れない臣下なんてぇ無能は良き臣下とは言えないわぁ」
「それは……」
今から回収に向かう先にあるのは、ナターシャの主である魔王ファウストの遺体だ。
命を盾とし守るべき臣下がこうして生き、主の遺体を300年経って漸く回収しようとする。なんとも皮肉な話だ。
ナターシャの自虐気な表情に、ヴィオレットは口を噤んでしまう。
もし自分だったら。近い立場だからこそ、余計な慰めは侮辱にしかならないと理解している。主を守れず何が臣下だ、従者だ。
ナターシャはその気遣いに感謝する様に瞑目し、顎に手を着いて感傷的に外を眺める。
「皮肉だと思わなぁい? 300年前に人間へ侵略してきた悪魔がぁ、今度は人間を守るために行動しているのよぉ。笑っちゃうわぁ」
「それも、その魔王の意思なんですよね」
「そうよぉ、魔王様の遺言。でなきゃ人間なんて知った事じゃないわぁ……あぁ勘違いしないでねぇ? 別に恨みつらみは無いわよぉ、お互い様だしねぇ」
言って、一つ息を吐く。本当に思う所は無いのだろう、ただ哀愁を浮かべるばかりで、弱弱しく見える笑みを浮かべてヴィオレットへ流し目を向けた。
当然、ヴィオレットも怨恨なんて無い。そもそも悪魔なんて存在も見たのは初めてだし、300年前の戦争だなんて言われても歴史の一つとしか思わない。しかしだからこそ、ナターシャの心情を推し量る事は出来ない。出来ないからこそ、彼女は踏み込まない。
「あ、そういえばマリアさんはその魔王の妻だったんですよね。知り合いの様でしたが、当時も今と変わらなかったんですか?」
話題を変えようと、マリアの事を話題に出して問いかける。ナターシャとマリアが顔を合わせた時の、ナターシャの怒りもマリアの罪悪感を傍で見ていたから、今は仲が良くないんだと知っている。
でも悪いわけではないんだろうとも分かっている。やるせなさとか、自己嫌悪的な感情がナターシャに当るんだろう。喧嘩した子供同士の様な、仲直りしたいけどその一言が出ない感じ。
「そうねぇ、落ち着いたは落ち着いたわねぇ」
だが現実は、もう仲直りしている。はっきりと仲直りしたわけではないが、少なくともマリア様と昔の呼び方をする位にはナターシャもマリアも蟠りは綻んでいた。
ナターシャは郷愁と、なんで頼ってくれないんだという苛立ちの混じった複雑そうな表情で答えた。
「昔のマリア様はぁ、そりゃぁこっちがびっくりする位のわんぱくっ子だったわぁ」
ヴィオレットには想像すら出来ない言葉と共に、ナターシャは思い出をぽつぽつと語りだす。
懐かしそうに、大事そうに、楽しそうに柔らかく微笑みながら。
◇◇◇◇
300年前の魔界。まだ人と悪魔の戦争が起こる所か、干渉することも無かった時代の話だ。
当時の魔界は、無法という言葉が相応しい土地だった。人間界なんかよりも多い種族の数に、長命な種族も多く、それ故に他種族同士が手を取り合う事は無く、寧ろ相容れないと争い、互いに迫害してきた。
力がある者は良い、大人は良い、男は良い。だけどその割を食うのは、何時だって力無き者なんだ。子供は、女は無慈悲に振るわれる暴力にただ震えて耐えることしか出来なかった。
それはナターシャも、エロメロイも同じだった。
「ねぇちゃん……」
「なによぉ、馬鹿弟ぉ……」
「俺、もういやだよ。こんな生活……」
「……っさいわねぇ」
まだ子供だった二人に、守ってくれる大人は居なかった。愛をくれる親は、時代に理不尽に殺された。目の前で、まるで羽虫を潰すように殺された。
それを二人は息を殺して、隠れて、目を逸らすことも出来ずに必死で耐えた。親が死んでも、救いの手は指し伸ばされずにごみを漁って泥を啜って殴られながら必死で生きた。
固い地面で、ぼろ布に包まって姉弟の温もりだけが寒さと飢えを誤魔化してくれた。
「私だっていやよぉ、でもだからってどうするってのぉ? パン一つ手に入れるのにぃ死に掛ける位殴られる子供にぃ」
「……俺、悔しい。姉ちゃんに頼ってばっかで……」
「だから馬鹿なのよぉ、姉が弟を守るのは当たり前でしょぉ」
こんな生活なんて嫌だ。また家族みんなで慎ましくとも温かい生活に戻りたい。
でもそんな未来は永劫訪れない。親は死んだ、頼れるのは自分だけで姉と弟二人で必死に生きていかなくちゃいけない。
未来の事をナターシャは語りたがらない。それは惨めになってしまうから。奇跡が起こらないのを知っている、奇跡があるなら親は死ななかっただろう。
中途半端に希望を持って心が折れる位なら、何も考えずに明日の飯の事だけ考えた方がマシだ。
そんな姉の冷たい態度にエロメロイは口を噤んで、せめて湯たんぽ位にはなろうと身を寄せる。
弟の気持ちも理解できるナターシャは、それを受け入れて抱きしめながら、二人は身を小さくして浅い眠りにつく。たった二人だけの幼い家族が生きるには、辛すぎる世界だった。
だが転機はあった。奇跡と呼ぶにはまだ小さすぎるが、二人にチャンスの女神がほほ笑んだ瞬間だった。
ナターシャがパンを盗んで、他の種族の男に袋叩きにあっている時の事。
「この劣等種族が!! 薄汚ねぇ手で商品に触るんじゃねぇ!!」
「げふっ!? うっ! やめっ……!」
(あぁ……不味いわねぇ、これは流石に死んだかもしれないわぁ)
大人の本気で殴る蹴るの暴力に晒され、まだ子供だったナターシャは碌な抵抗も出来ず死期を悟った。
誰も助けてくれない、皆見て見ぬふりをしている。
(あぁでもぉ、私が死んだらぁ弟は生きてけるかなぁ……)
死にたくないと歯を食いしばる。でも強い生存への渇望に反して、身体は言う事を聞かずどんどん眠くなっていった。
死にたくない、まだ死にたくない。たった一人の弟を残して死にたくない。こんなクソみたいな世界で死にたくない。
何でこんな目にあわなくちゃ行けないんだ!
「はぁっ……はぁっ……へっ、劣等種族が。お前らはぼろ雑巾がお似合いだぜ」
「っ……! ぅう……」
「あぁ? まだ生きてんのかよ、さっさと死ねよ。お前らみたいな種族は死んだ方がマシだよ」
「姉ちゃん!」
「ば……っかぁ……!」
駆け寄るエロメロイへ、来るなと怒鳴ることも出来ない。エロメロイはぼろ雑巾の様に血まみれで倒れるナターシャを庇うように立ちはだかるが、その身体は震えていて何の意味もなさない。
ただ死体が一つ増えるだけだ。
ガタガタと震えながら手を広げて立ちふさがるエロメロイを、今までナターシャを嬲っていた男は醜悪に笑いながら見下ろす。
「そうかそうか、自分から殺されに来たか。良い心がけだ、優性種族様が殺してやるよ」
「ひっ……! ね、姉ちゃんは俺が守るんだ!」
「ぉとうとぉ……」
逃げろと叫びたくても、ナターシャは声を上げることも出来ない。血反吐を吐いて身じろぐだけで、無力感が支配する。
逃げればいいのに、エロメロイは何が出来るわけでもない癖に、怖くて震えているくせに一歩も動こうとしない。真っすぐに男を見据えて、絶対に姉を守るという意思だけで睨みつけている。
とうとう男が拳を振りかぶって、エロメロイが衝撃に備えて目を瞑った。必死で止めようとナターシャが歯を食いしばるが、身体が動いてくれない。
(ダメ!! お願い! 誰でもいいから弟を助けて!!)
神様がいるならさっさと助けろ! ふんぞり返って見ている傲慢なくそったれが!
そんな願いに答えたのか、遠くから何かが高速で突っ込んでくる音に、男の動きが止まる。
「きゃあああぁぁ!! どいてくださぁぁい!!」
そんな情けない声と共に飛んできた人影が、エロメロイを殴ろうとしていた男を巻き込んで墜落した。激しい土埃と騒音を立てて落ちてきた衝撃に、辺りは喧騒に包まれる。
一体何が起こった? 慌てる人々に反し、ナターシャとエロメロイは呆然としていた。ただそれでも、助かったのか? と淡い期待が疼く。
「いつつ……はっ! ご、ごめんなさい。ケガはありませんか?」
「ってぇ~! なんだてめ……え……」
ものの見事に直撃し、クッションになった男が怒鳴り散らそうとしたが、自分の上に乗る女性の姿に声を失った。
「良かった、怪我はなさそうですね。魔界の皆さんは頑丈なんですね」
「天使ぃ……」
美しい、純白の翼を持った女性だった。
太陽の光を反射し、神々しさすら思わせる姿に誰もが生唾を呑む。それは本来、彼らの住むこの魔界に居ては可笑しい種族だ。決して交わる事は無い、水と油の様な存在。
それが神の遣い、天使。
「てっ、天使が何でここに……クソがっ」
「あっ! あのぉー!」
天使の姿に狼狽えた男は、逃げる様に走り去ってしまった。
これでナターシャとエロメロイは一命を取り留めただろう。だが二人とも、安堵を浮かべる事は無く、ただ真っすぐに純白の天使に見惚れている。
自分を助けてくれたのが、神でも無くその僕の天使だった。目を逸らすことも出来ない、芸術的な美しさの天使が。
何とも格好のつかないやり方で目の前に現れた。
「あら? あわわ、こんな傷だらけで。ごめんなさい、まだ飛ぶのが慣れてなくて巻き込んじゃいましたね」
「はっ! 姉ちゃん!!」
情けない顔をした天使に抱きしめられて、身体の感覚も無いはずなのにナターシャは温もりを感じる。
久しく味わう事の無かった、両親の温もりを。誰かに抱きしめてもらう愛おしさを。
(あぁヤバいなぁ、泣いちゃそぉ)
温もりの中に希望を見た気がした。ただ生きるんじゃない、人として生きていける未来を。
それがナターシャと、マリアの出会いだった。
◇◇◇◇
「馴れ初めはそんな感じねぇ。そりゃびっくりしたわぁ、突然天使が飛び込んで来たんだもん」
懐かしそうに、嬉しそうに語るナターシャの言葉をヴィオレットはただ静かに聞いていた。
その静かさが心地よくて、ついついナターシャの口が軽くなってしまう。もしかしたら、ナターシャ自身誰かに聞いて欲しいのかもしれない。自分達の事を。
「そこからは目まぐるしい毎日だったわぁ、お姉さんとエロメはマリア様に拾われてぇ、魔王様と出会った。魔王様はすごい人よぉ、虐げられた種族を集めて国を興してぇ、今じゃ魔界一の大国にしちゃったんだもん」
「それは羨ましいです。こっちじゃ絶対に出来ませんから、そんな事」
「魔界も同じよぉ、今でも差別と迫害は根強いはぁ。でもだからこそぉ、それを成した魔王様に忠誠を誓う者は多いわぁ」
全ての思い出を語るには時間が足りない。一昼夜掛けても満足はしないだろう。
それでも、ナターシャは独白の様に思い出を語り、ヴィオレットが耳を傾け続ける。
「当時のマリア様はねぇ、なんていうかぁ……子供みたいな人だったわぁ。いっつも目を輝かせて、あっちにうろちょろこっちにうろちょろぉ。一緒に宰相や戦士長にいたずらを仕掛けた事もあったわぁ、母親ってよりはぁ、年の離れたお姉ちゃんって感じだったわねぇ」
「エロメロイさんもですか?」
「エロメはお父さんっ子だったからねぇ、魔王様に良く懐いたわぁ。でも大人になってからはぁお姉さんは兵士にぃ、エロメは諜報部隊に入っちゃってねぇ、エロメはマリア様とあんまり交流は無かった筈だわ」
弟の事を語るときは、姉の顔で嬉しそうに語っている。
血を分けたたった一人の弟が、自分で自分の生きる道を見つけられたんだ。祝福しない姉なんて居ない。
「でも、マリアさんと最初に顔を合わせた時はずいぶん怒りをぶつけてましたね」
痛い所を突くなぁと、ナターシャは複雑そうに顔を歪めた。
「そりゃぁねぇ? もし貴女の主が何も言わずにどっか行ったらぁ、捨てられたって怒るでしょぉ?」
「……まぁ」
自分から聞いておいて、それを想像したのかヴィオレットは不満そうに眉間に皺を寄せた。
それを見たナターシャは、予想通り過ぎて笑ってしまう。とは言えど、それだけ大切だからこそ怒るんだ。一言だけでもあればまた違うのに。
残された者の気持ちは、残された者しか解らない。
「今はもうそこまで怒ってないわぁ。お姉さんは子供を産んだ事は無いけどぉ、母親っていうのも分かってるしぃ」
「母は強し、ですね」
「ねぇ。それが分かっちゃたら嫌いになれないわよぉ」
最初の邂逅でのやり取りは知らない。あれは必要な事なんだ、あそこで蟠りを吐き出したから気持ちの整理もついたんだ。
知らないったら知らない。
馬が一つ嘶き、馬車が止まった。どうやら、今日はここまでの様だ。
「おっとぉ、長話につき合わせてごめんねぇ?」
「いえ、大変面白かったです」
馬車から降り立ち、ナターシャは凝った身体を解す。思い出を話してすっきりしたのか、晴れやかな顔が夕日に照らされる。
肌の色が、目の色が違っても、人と変わらない幼さを覚える笑みだけは人間と変わらない。
「守れると良いわねぇ、平和」
「守ります。お嬢様が守ろうとするものは全て」
固く意思を表明するヴィオレットに、ナターシャは薄く微笑み沈みゆく夕日を眺める。
憂いと、羨望を潜ませて。
「魔王様は責任を持って取り返すわぁ、だから絶対取り返しなさぁい……マリア様ぁ」
一人戦う友へ、願いを送る。
力になる事は出来ない。やらなくちゃいけない事と、やりたい事は別だから。
だからせめて願う。望む結果になる様に。




