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それは愛という名の呪い

 




 クリスティーヌの元から去ったナターシャとヤヤは、言葉なく外を歩いていた。今居るのはスペルディア王国の城内ではなく、惨劇夥しい城下の貧民区の一角だ。

 右を向けば街を襲った化け物の死体、左を見れば食い散らかされた人間だと辛うじて分かる死体。血を踏んだ所為で赤い足跡が地面に出来ている。

 化け物の死体も、人の死体も同じように乱雑に運ばれて向こうで火にかけられる。数が多すぎる上、死体は糞の詰まった肉袋となっていて身元の判別も難しいのが殆どだから。

 生き残った人々は、みな涙を流し切ったのだろう。黙々と、何の感情も浮かべずに淡々と作業している。何処かで一々泣いていちゃ作業が終わらない、病気になりたくなきゃさっさと運べと低い声が聞こえた。

 死者を弔う事も、想って泣く事も出来ない。


「ナターシャさん、戦争ってどんな物デスか……」

「……似たような物よぉ。善も悪も無い、怒りをぶつける先も無い、死にたくないってぇ泣き叫ぶ敵を殺し続けるのぉ」


 平和なこのご時世、大きな戦争は起こっていなかった。当然、ヤヤも戦争の恐ろしさなんて欠片も知らない。

 でも今この光景を目の当たりにして、自然と納得する。これ以上の地獄が戦場にあるというなら、ここは一体何なんだろうか。地獄の入り口だろうか。

 暗い顔で歩いていたヤヤの足が、視線がある一点を捉えて止まる。

 そこには剣を握った男の死体があった。全身食い散らかされ、蠅が集っている。


「知り合ぁい?」

「名前も知らないデス。でも、ヤヤはこの人に助けてもらったデス」

「そぉ。なぁら運んで……タイミングが良いわねぇ」


 ナターシャが一歩踏み出した所で、邪魔だなと眉を潜めながら男達が死体を運んで行った。布に包まれ、荷物を持つように雑に。

 それを二人は黙って見送る。あっという間にその姿は遠くなってしまった。


「ヤヤ、セシリアちゃんには返しきれない恩があるデス。仲間だから助けたいって気持ちもあるデス……でも、もう二度とこんな光景は見たくないデス」


 一度地獄を味わった。無力感と敗北感を、救えなかったという後悔が。今でも苦悶の表情で絶命した死体の顔は鮮明に思い出せる。

 二度地獄に遭遇した。助けを求める人を無視したという、自分を許せない気持ちが。ふとした時に聞こえる、助けを求める怨嗟の声が。

 もう見たくない、聞きたくない。こんな事が許されて良いはずがない。


 でも、セシリアを探しに今すぐ飛び出したい。だって仲間だから、ヤヤにとって仲間とは第二の家族だから。

 それだけは絶対に変わらない。


「分かるわぁ、やらなくちゃいけない事と、やりたい事が違う時ってジレンマよねぇ」

「デス……セシリアちゃんより、エリザベスさんを止めるのが先なのは分かってるデス。でも、ヤヤはいっつも間違ってばっかりで、だから本当に後悔しないかが分からないデス」


 エリザベスの企てを阻み多くの人を救ったとしても、そこにセシリアが居なければ悲しいと思う。ましてや、死んでしまったなら『あの時こうしとけば良かった』だなんて思うだろう。

 逆に、セシリアを優先して大勢の人が死んだなら、もっと後悔して悲しむだろう。

 結局、どっちを選ぶのが正しいのかが分からない。どっちを選んでも間違っている気がするから。


 悩むヤヤの頭を、ナターシャは優しく撫でる。


「それで良いわぁ、若いんだからぁいっぱい悩みなさぁい」

「でも、ヤヤが間違ったら人が死ぬデス。死ぬってのが、どんな事なのか位分かってるデッ!?」


 若干無責任な言葉にムッとしたヤヤが唇を尖らせながら口答えすれば、その言葉を遮って軽い拳骨が落ちた。

 拳骨を落とした張本人は、小バカにしたような薄ら笑いを浮かべている。


「自惚れるんじゃぁないわよぉ? 子供一人の間違いでぇどうにかなる訳ないわよぉ。それにぃ、大人ってのは子供の責任を取るものなのよぉ」

「でも……」

「でもじゃないわぁ、子供は何も難しい事なんて考えずにぃ思うがままにすれば良いのよぉ。まぁ、本当は戦う必要も無いんだけどねぇ。ほらぁ着いたわよぉ」


 大人として、ナターシャは良い意味で無責任に背中を押す。やりたい事をやりたいようにすればいい、後ろには大人がいるから心配するなと。

 胸に手を当てたヤヤは、その言葉を口の中で反芻して飲み込む。ナターシャの事なんて何も知らないが、その言葉は清水の様に心に染み広がった。


 顔つきの変わったヤヤに笑みを浮かべつつ、ナターシャは自分たちの拠点にしている廃屋の戸に手を掛ける。ここに居るマリアに会うために。


「マリアさんは無事デスか?」

「命に別状はないわぁ、朝の時点では眠ってたわねぇ」


 無事と聞いて安堵しながら、二人は中を進む。雨風を凌げるだけの古い底板を軋ませて、黙々と。

 既にエロメロイによって荷物は回収されているのか、何もない。

 目的の部屋にたどり着いたのか、ナターシャは丁寧にノックする。


「マリア様ぁ、ナターシャとヤヤよぉ。入っても良いかしらぁ?」

「……返事が無いデス、寝てるデス?」

「んん~? でも気配はするのよねぇ」


 だが返事は無い。しかし寝ている訳ではないだろう、中から音や気配は漏れ聞こえる。仕方ないとナターシャが戸を開いて中を覗いた瞬間、彼女は目を見開いて戸を叩き開くと駆けだす。


「マリア様ぁ!」

「デデ!?」


 突然の事に驚くヤヤを放って駆けだすナターシャに続いて、ヤヤも部屋の中を覗けばその荒れた惨状に立ち止まった。

 古い壁は所々殴られたように壊れ、幾つか残っていた家具もひっくり返って散らかっている。ベットのシーツだろうか、千切れた布切れがまだ舞っていた。

 この惨状を作った張本人、ベットの上で苦し気に蹲るマリアにナターシャは駆け寄り視線を合わせる。


「どうしたのぉマリア様ぁ」

「ふっふっふぅっ……すみ、ませっん……」

「傷が開いたのぉ? ってあつっ! すごい熱じゃぁない。ヤヤちゃん、そこにある水と手ぬぐいをちょうだぁい」

「デスデス!」

「ぃあぁっ!?」


 息も絶え絶えに蹲るマリアの顔は赤く、身体も焼ける様に熱持っていた。呼吸のするだけでも全身を襲う激痛に堪えがたいとマリアは悲鳴を上げる。

 尋常ならざる様子で、ヤヤが手渡した水を何とか飲もうとするも口に含んだ瞬間激しく咳込んで水を飲む事も叶わない。

 明らかに深刻な容態のマリアに、ヤヤは不安そうな顔で真剣な表情で観察するナターシャを見上げる。


「マ、マリアさんはどうしちゃったデスか……」

「……多分、セシリアに噛まれた傷が原因ねぇ。見なさぁい」

「傷が……蠢いてるデス?」


 ナターシャが肩を抑えるマリアの手を退かし、ヤヤに見せればその怪我は異常な状態だった。

 大きく肩は抉れ、噛み傷なのだと分かる。だがその傷口は肉が蠢き、失った肩の肉を新しく作っている様に見え、ヤヤにはその状態に見覚えがあった。

 セシリアが傷を治す為に魔法を使った時にそっくりだ。失った部分が正しい状態に戻るように再生されるあの魔法に。


 だがあれはセシリアの魔法であって、今ここにはセシリアは居ない。ましてやマリアは魔法も魔力も持たない普通の人間の筈だ。

 だが事実として、今まさにマリアの傷はセシリアの魔法の様に再生されている。

 マリア自身を苦しめながら。


「はぁっはぁっ、な、ナターシャさん……だい、丈夫ですから……」

「なぁにバカな事言ってるのよぉ、こんな状態見た事ないんだけどぉ?」

「た、多分……いっ……あの子の……魔法が……天使の魔力と……混じっぅっ!?」


 マリアが苦し紛れに語ったのは、自分の身体をセシリアの魔力が、魔法が混じり合って反発しあっているという。本来ならあり得る事ではない、魔力という不可視の力が他者の魔力と混じり合うなんて、ましてや魔法が独自に動く事なんて。

 だが事実として、今マリアの身体はセシリアの魔法によって再生されながら、マリア本来の魔力が異物を排除しようと抵抗している。


「ぃぎっ!? あ“あ“ぁ”ぁっ!!」


 身体の中から食い破られる様な激痛に、マリアは悲鳴を上げてのた打ち回る。再生しようとしている肩口から血を撒き散らしても、その痛みを超える全身の痛みに苦しむ様は目を背けたくなるほどに酷い。


「マリアさん! マリアさん! ナターシャさん! どうすればいいデス!? このままじゃマリアさんが!」

「……」

「ナターシャさん! どうすれば良いデスか!?」


 取り乱しながら、なんとかマリアの苦しみを紛らわせようとヤヤは思いつく限りの介抱をするが欠片もマリアの表情が柔らぐ事は無い。

 泣きそうな顔でナターシャへ助けを求めるが、当の彼女は胸を強調する様に腕を組みながら、何かを考えこむように気難しい表情をして返事もしてくれない。


「ヤヤ……ちゃん」


 ヤヤの悲鳴にマリアが反応し、脂汗を浮かべ苦し気に荒い息を吐きながらマリアはヤヤの頭に手を乗せた。

 違う、そんな事をして欲しいんじゃないんだとヤヤはその手を両手で握る。


「マリアさん! ヤヤ、ヤヤどうすれば良いデス!」

「はぁっ……だ、だい、じょうぶです、よ……」

「でも!」

「落ち着きなさぁい。マリア様、どうして欲しぃ?」

「それ、はっ……!? あ“ァ”ァ“ァ”!?」

「ひっ!?」


 ナターシャに答えようとマリアが一瞬表情を柔らげた瞬間、耳をつんざくような悲鳴を上げてまた激痛にのた打ち回った。

 マリアが苦しんでいるのを見ていることしか出来なくて、ヤヤはどうしたら良いか分からず不安そうな顔でナターシャとマリアを交互に見る。

 ヤヤの視線を感じながらも、ナターシャは取り乱すことも何とかしようとする様子もなく、ただ黙ってマリアを観察していた。

 暫くマリアの苦悶の声だけが室内に響いていたが、ふと何かに気づいたのか、ナターシャはマリアの服を脱がそうと手を掛ける。


「手伝ってぇ!」

「はいデス!」

「ぅう……ぁあ!」


 てっきり、楽にするために汗を吸って張り付く服を脱がしているんだと思った。少しでも楽になるなら、服が肌を擦る度に、身じろぐたびに苦し気に呻くのを無視してヤヤは服を脱がした。

 ナターシャの目的が違うのだと、服を脱がして理解する。


「こ、これなんデス……」

「やっぱりぃ」


 露わになったマリアの身体を見て、ヤヤは慄き、ナターシャは納得を浮かべる。

 マリアの身体に纏わりつく、否、マリアの身体の変化に。人にあってはならないモノが。マリアの身体は作り替えられていた、人を超え、人を辞めた物に。


「い“っ……!? っあああああぁぁぁ!!」


 清らかで、白い天使は産声の如き悲鳴を上げて今、罪の証である黒い翼を血潮と共に生み出した。

 それは禍々しく、されど夜空の如き美しい羽根。悪魔と愛し合った天使の、成れの果てとなって今、マリアは人を辞める。


 血濡れた黒き羽から、真紅が覗いた。爛々と輝く、血の様に濃い真紅が。



 ◇◇◇◇



「ふんふふーん♪ おと~さん、おと~さん。ま~お~お~が~くるぅ~よ~」


 薄暗い森の中を、ダキナは上機嫌に歩む。歌いながら、義手である両腕の武装を弄びつつ、これから恋人に会うかのように機嫌よく。

 木々の向こうには険しい山々が見える。今ダキナがいる場所も、標高が高い所為か吐く息は白い。薄着も薄着のダキナがこんな装備で居るのは明らかにおかしい。


 だけれど、彼女の足取りは目的地が定まっているのか確かで、時折スキップやターンを挟んで着実に進んでいく。

 ダキナの目的は一つしかない、ご執心なあの子の事だけを考えて常に動いているから。頭の中はあの子の事だけ、しがらみが無くなった今、ダキナは思うがままに行動できた。


 軽佻な足取りが、突然止まる。


「……ねぇ? あたしに見惚れるのは嬉しいんだけど、あんまり熱心に見られると照れちゃうな~」


 虚空に向かって喋りかける。今周りにはダキナ以外の人影は無い。突然喋りだしたダキナは傍から見れば気が狂ったように見えるが。ダキナは自分を見つめる視線に気づいていた。

 しかしダキナの語り掛けに返事が返ってくる事は無く、哀れに思ったのか葉擦れの音だけが響く。


「数は……1、2。5人って所?」


 そう呟いた瞬間、森の中からダキナに向かって四方八方から矢が飛来する。今呟いた通り、計5本の矢が、ダキナの急所に向かって確実に迫った。


「ゴーストガール」


 回避行動をとる事も無く、呪文を呟くとその姿は朧に消え。必殺の矢は物寂しく茂みの中に吸い込まれていった。

 突然姿も気配も消えたダキナに、森の中からは狼狽える気配が伝わる。茂みから困惑しつつ顔を出したのは、灰色の狼耳を生やす狩人達だった。

 彼らは突然の侵入者に、警告も無く殺意を込めて確実に死角から矢を放ったにもかかわらず、仕留める所か目の前で忽然と姿を消したダキナにただただ困惑している。


「みーつけた」

「!!」

「まずは一人」


 姿を現した灰狼の狩人の背後に突如ダキナが現れ、声を上げる事も許さず背後から心臓にパイルバンカーをぶち込む。

 他の面々が気付いた時には、仲間の一人が心臓を突き破られ胸に大きな穴が開いている姿しかなかった。

 慌てて身構えた瞬間、全く違う場所で今度は消え入る悲鳴が上がった。

 一人、また一人と闇夜の中で狼に翻弄される獲物の様に、一方的に蹂躙されている。


 とうとう、最後の一人になった所で、ダキナは負傷した最後の灰狼の狩人の前に現れる。


「あはー、最後になっちゃった」

「このっ……化け物が!」

「先に殺そうとしてきたのはそっちだし? ていうか何でいきなり攻撃してきたの?」


 憎たらしいチシャ猫の様な笑顔を浮かべながら問えば、灰狼の狩人は怒りに目を見開く。歯を砕かんばかりに食いしばり、パイルバンカーに貫かれた脇腹の傷も忘れてナイフを取り立ち上がった。


「覚えてもいないかっ……! お前の顔は忘れもしない! 10年前に同胞がお前に無残にっ!?」


 恨み節を言い切る事も出来ず、狩人の頭蓋にパイルバンカーがぶち込まれ汚い脳漿を撒き散らす。

 何やら根深い恨みを買っていたダキナは、思い出そうと顔を上げながら興味なさげに首を傾げている。


「う~ん、昔はヤンチャしてたからな~。ま、どうでもいっか」


 色んな所で好き勝手していた為、一々興味のない相手の事なんて欠片も覚えていない。なのに10年経っても忘れなかったあの母子の事を覚えている辺り、ダキナにとって本当にお気に入りなんだろう。

 死体に一瞥くれる事も無く、軽快な足取りを再開する。

 目指すはお気に入りのあの子の居る場所へ向けて。


 だがその足が、また止まる。

 今度は目の前に立ちはだかる人がいる。虹色の髪をたなびかせる少女が。


「これも未来を見る魔法?」

「……あの子は渡さない」

「つれない事言わないでよ~、一目見るだけだから、さきっちょだけ!」


 立ちはだかる虹色の髪と瞳を持つ、宝石人という亜人の先祖帰りの少女——オフィーリア(千夏)——に向けて手を合わせてウインクする。しかしオフィーリアは能面の如き無表情のまま、言葉を発さない。

 つれないな~と言いたげに頭の後ろで腕を組んで、ダキナは足元の死体を小突く。


 だが確信に近い予感は、オフィーリアの登場で確信に変わった。オフィーリアが居るなら、あの子も居る。


「ねぇ何でこんな所なの? あたし凄い寒いんだけど」

「逆に何故ここが分かった」

「ん~愛故に、かな?」

「ふざけるな」


 ふざけてないんだけどな~と不貞腐れるダキナだが、実際ここが分かったのは本当に勘だった。

 今居るのは帝国領内にある、険しい山間部だ。近くに灰狼の村があるくらいで、他には何もない。ここにオフィーリアが居るのは、エリザベスだって知らない。


「それよりさ、お互い不毛な会話は止めにしない?」

「そうね。今ここで死ぬか、尻尾まくって帰るか位は選ばせてあげる」


 オフィーリアは後ろ腰に手を回しながら、殺気をぶつけてくる。粘々とした、何年も熟成された様な感じだ。だけど幼い、経験の無さが如実に現れている。

 ダキナからすれば心地よいと思う程度の殺気だ。チシャ猫の様な小憎らしい笑みは崩れない。

 お返しにとさび色の瞳に愉悦と苛立ちを込めて、殺気を返す。オフィーリアの物とは段違いに濃く、脳が勝手に血の匂いと自分が殺される光景を幻視する程に、経験の違いが肌で分かるレベルの殺気を。


「っ……!」

「あはー、処女にはキツイかな? でも惜しいよ、がんばれ♡がんばれ♡」


 殺気に当てられ息を詰まらせたオフィーリアは、腹が立つ手拍子を送るダキナを睨みつけながら息を整える。

 その身体は小さく震えていて、今彼女が隠し持つ武器を出せずにいた。

 その姿に、些かの物足りなさを潜ませて笑いながらダキナは一歩踏み出す。


「何か近い物を感じるから仲よくしたいけど、セシリアちゃんに会うのを優先させてもらうね」

「っ! ダメ!!」


 ダキナに答えるかの様にオフィーリアは叫んだが、その視線は空へ向けられていて、決してダキナに対して叫んだ訳ではないのだと一目で分かった。

 つられてダキナが顔を上げようとした瞬間、彼女の生存本能が一瞬で悲鳴を上げ、顔を上げる事よりも優先して大きく後方へ飛んだ。


 ダキナのつま先が地面から離れたその僅かな瞬間に、空から落ちてきた人影は地面を激しく叩いて爆発の如き衝撃を生み出す。


「あはー♡」


 土埃が邪魔して何が落ちてきたのか見えない。だけれども、ダキナは頬を赤らめ嬉しそうに笑った。

 そんな顔を浮かべるのはたった一人しかいない、ダキナが求めたあの子が自分から来てくれたのだ。


「そんなに情熱的に会いに来てくれるなんて嬉しー♡ そんなに殺したいの? 憎んでくれているの? 愛してくれてるの?」


 自分の身体を抱きながら歓声を上げるダキナに、返事の代わりに土埃の中からその子が飛び出す。

 蒼銀の髪をたなびかせ、真紅の瞳が怨敵を捉える。拳で戦う少女。


「セシリアちゃァん!!」


 目を見開いて叫ぶダキナに、セシリアは無言で蹴りを放つ。顎を狙った一撃をダキナは身を逸らして避け、下から見上げるダキナの顔面にセシリアは踵落としを決め込んだ。

 それをダキナは背骨を軋ませながら、更に仰け反ってサマーソルトの要領で避けた。頬に出来たかすり傷を舐めとりながら、ダキナはセシリアの姿を見て片眉を上げる。


「……なんで裸? ていうかずいぶん無口だね、キャラ変わった?」

「……」


 セシリアは衣服を纏っていなかった、靴の一つも履いていない。荒い地面に踵を血だらけにしながらも、痛みを我慢している様子もダキナを前に怒りを浮かべる様子も無い。

 ただなんの感情も無く、意識が定かなのかすら分からない様子で心ここにあらずと言った様子だ。

  その美しく整った相貌も相まって、出来の良すぎる人形のように見えるが、呼吸するたびに上下する薄い胸が生きている証拠。


 しかし目下、セシリアの異常はそれだけでは無かった。


「そっかそっか、戻れなかったんだ。いや、戻らなかったって言った方が良いかな? ねぇお姫様」

「愛衣、下がってて」


 オフィーリアに肩を引かれ、セシリアは虚ろな表情のままされるがままに後ろに下がる。

 オフィーリアが今触れた肩には、黒い鱗が纏っている。肩だけではない、両腕、両足、人体の急所。首から頬。至る所に、まるで質の悪い寄生虫の様に生え茂っていた。

 それはまさしく、騎士の如く、また龍の如き悪魔の姿に転身したセシリアが纏っていた物であり、一度目はその痕跡無く消えていたのに、二度目の今は歪に残っている。

 まるで、意識の無いセシリアの身体を乗っ取ろうとしているかの様に。


「ダメだよ、あたしはセシリアちゃんに用があるの」

「っ!」


 【認識を阻害する魔法】を使い、目の前で姿を消したダキナを追うために、オフィーリアは【未来を見る魔法】を使うと、虹色の瞳を淡く光らせたまま目を見開き腰から純白の、セシリアが使っていた50口径五連装リボルバーを勢いよく背後に向けた。

 しかしその指が引き金を引かれる事は無く、セシリアを盾にするダキナを銃口越しに睨みつけるだけで終わった。

 そんなオフィーリアに笑みを深めながら、ダキナは無抵抗どころか反応一つしないセシリアの首に指を這わせて口を開く。


「ねぇセシリアちゃん、良いの? このままだと皆死んじゃうよ。大好きなお母さんも、大切なお友達も……またあの後悔を味わいたい?」

「……っ」

「黙って! 愛衣! 大丈夫だよ、そんな事ないよ!」


 耳元で、囁くように、空虚な心に染み込ませるようにダキナは泥を落とす。セシリアがこうなった、そうならざるを得なかった元凶が落とす泥は、セシリアの虚ろな真紅の瞳に一瞬の怒りの炎を浮かべさせた。

 しかしその炎をかき消すオフィーリアの怒声が、次いで響いた重たい銃声が響いた。

 人に向かって使うには、過剰すぎる威力の50口径炸薬徹甲弾はセシリアの左腕を吹き飛ばし、地面に人と変わらない赤い血を噴き出させた。


「……普通、撃つ?」

「あ、ちが……ごめん愛衣……」


 何も、狙ってセシリアを撃ったわけではないのだろう。それはオフィーリアの怯えたような表情と、震える銃口を見れば分かる。

 セシリアの陰から覗くダキナを撃とうとしたのだろう、しかし満足な訓練を重ねたわけでもなく、銃の反動を身体強化で無理やり抑えるオフィーリアにそんな芸当が出来る筈も無い。

 呆れた表情で無傷のダキナのため息と共に、セシリアの唇が小さく動くと吹き飛ばされた左腕の断面が蠢き、新たな腕を形成した。

 【正しい状態に戻す魔法】の筈が、その腕には黒い鱗が纏わりついている。これが今の正しい姿と言うのか。


 頬に飛び散ったセシリアの血を舐めて、ダキナは艶めかしい手つきでセシリアの身体をまさぐりつつ、視線は怒りに目を見開くオフィーリアを捉えたままセシリアの耳に口づけする。

 蛇の様に纏わりつきながら、ダキナは引き締まったその身体に満足そうにチシャ猫の笑みを浮かべた。


「ほら、ぼうっとしてるとまた痛い目に遭っちゃうよ? 今度は何処が壊れるかな? 細くてすらっとした足かな? えっちなお尻かな? 引き締まったお腹かな? 控えめな胸かな? それとも、この綺麗な顔?」

「お前ッッ!! 私の愛衣から離れろォッッ!!」


 言葉と共に、ダキナは指でなぞりつつ最後はセシリアの唇を舐めとる。まだ誰も交わった事ない、たった一人しか触れる事を許されていないそこにダキナが触れた。

 それを見たオフィーリアが激情に駆られ、引き金にかかる指が滑りそうになったが、それでも二度目だからか引き金は引かれなかった。

 怒りと、悔しさで悪鬼の様な歪んだ顔のオフィーリアへ嘲笑を向けて、ダキナは注射器を懐から取り出す。


「流石お師匠様、楔はもう打たれてるみたいだね。じゃあ、そのお手伝いっと」

「それ以上愛衣に触れるなァッ!!」


 オフィーリアがこれ以上は許さないと、慎重に狙いすましてダキナだけを狙って引き金を引いた。だが僅かに吹いた風か、はたまたダキナが避けたのか、弾はダキナにかすり傷だけを与え、その手の注射器がセシリアの首に注入される。

 次いで弾かれた二発目の弾丸は今度はダキナに直撃するコースをたどり、しかし避けたダキナに当たる事は無く、代わりに注射器が割れると共に糸が切れた様にセシリアが倒れた。


 ダキナが傍を離れたことで、オフィーリアは飛びつくように地面に倒れる前に抱きしめて、木の上に着地したダキナを睨み上げる。


「何をした!!」

「あたしからの愛情っていうプレゼント。お姫様と違って、お人形ごっこする趣味は無いから。やっぱりコミュニケーションって大事じゃない?」


 飄々と笑いながら、ダキナの姿が霞に溶けた。もう気配の欠片もつかめない。オフィーリアが【未来を見る魔法】を使っても、次に姿を現す未来は見えない。

 山が泣くように、葉摺りの音に混じってダキナの声が響く。


 ——貴女のそれは本当に愛情? 全然楽しそうじゃないわね。


「……お前にだけは言われたくない。私は……」


 一方通行の会話は、しかしそれ以上続く事は無く。ダキナがもう去った事を確信すると、オフィーリアはセシリアを丁寧にお姫様だっこして帰路を辿る。


「帰りましょ、愛衣。もう危ないことしちゃだめだからね?」

「……」

「せめて服だけは着てね? 愛衣の身体を人に見せたくないもん」

「…………」

「……大丈夫だよ、愛衣。もう絶対離さないからね。私は、愛衣が……好きだから」


 お人形ごっこ。本当に愛情?

 ダキナの最後の言葉が、オフィーリアの中でいやに響いていた。その所為だろう、オフィーリアのセシリアへ向ける濁った愛情の深い笑みが、僅かに綻んだのを。

 それを、セシリアの空っぽの瞳がじっと見ていたのを。


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