夢を落として困るの誰だよ
乱暴な衝撃が頭を襲い、彼は落ちたのだと気づいた。痛みから解放されようと奥歯を噛みしめながら必死に両手頭を抑えつける。
最初は軽い気持ちだった。少しだけ、そのつもりだったが気付けば夢を見ていたようだ。こんなにも時間がたっているとは、と過去を振り返り彼は驚かずにはいられない。
こうなったのは誰が悪いのかと言われれば、やはり彼しかいないのだろう。
ベッドに行くのすら面倒だからと横着してソファで横になった自分が悪いのはわかっている。頭では理解はしているのだが、寝返りを打っても落ちないように設計しとけよと、痛みからくる見当違いの怒り。それをぶつけるける相手を無理やり作り出す。
まだ痛みの残る頭を押さえながら、ベランダへと続く窓、テレビの横に置かれたアナログ時計の順番に目を向ける。外はまだ暗く人の気配はしない。そして暗い部屋の中、薄緑の蛍光色で光る短針は5時を少し過ぎた頃をさしている。いつもとは違う時間に起きたせいで混乱しているが、服装は下着だけと薄着で寝ても風邪をひくようなで季節ではない。さすがに夕方のってことはないだろう。
徐々に目が暗さに慣れても輪郭が判然とせず暗さの違い程度しかわからない。だが見慣れた部屋の配置くらい彼にとってぼんやりとした輪郭だけで十分だった。
痛みで目が冴えてしまった彼は映画のゾンビのように手を前に出し、そこにあるであろう物へと手を伸ばした。硬い感触が指に当たりそのまま縁をなぞるようにして一番下のボタンを押す。連動して寝起きには眩しすぎるパソコンの画面に思わず目を伏せた。
白い背景に黒い文字列が並ぶ、未完の小説。
どうにも納得のいく物語のオチが決まらず、それで……。そう、それでたしか夢オチにすると決めた。しかし書き始めようとした瞬間瞼が重くなり、普段ならもう少し遅くまで起きているが、どうしても耐え切れない眠気に少しだけと横になってしまい眠ってしまったのか。
比較的最近に購入した電気ポットに蒸留水をカップいっぱい流し込み、スイッチを入れる。
お湯が沸くまでの少しの時間、胸の内にわだかまる思いの元を探ろうと、机に肘をついた彼はどこか一点を焦点を合わせず見つめた。
痛みに目が覚めたからと言って起きてる必要はなく、自室に戻ってベットで横になればすぐに眠れることが出来ただろう。なのにそうせずパソコンの電源を点け、全く眠る気が起きないのは痛みのせいだけではない。
脳裏によぎるのは聞き覚えのある、身近な人物からの忠告。「考え直して」そう言葉をかけられた、そこまでは思い出せた。
上手く思い出せないが何か大事な事を忘れていることはわかる。
カチッと音がしたのは幻聴ではなく、セットされた電気ポットからだ。冷めてしまう前にカップとコーヒー粉を用意し、粉の箱に書かれていた『美味しい召し上がり方』よりも気持ち少なめにお湯を入れる。
あまり気乗りはしないが、時間も限られている。続きを書き上げてしまおうと少々やっつけ気味に決断を下した。
キーボードに手を置いたが胸がざわつく感覚は余計に強くなってくる。
何か思い出せそうな感覚と同時に、その矢先から欠けていくのが分かる。
とりあえずこれ以上思い出せそうにない記憶よりも優先して、忠告自体を忘れる前に自分の書いた推理小説の結末を読み直し始めた。
悲鳴を上げる腰をほぐそうと大きく伸びをしながら一息をつく。彼が書いた小説のように腰が叫ぶなんてことはないが、それでも表現として間違っていないと思わせるくらいだ。
思うところは数多く、しかし本当に直さなければいけない箇所はどうしても自分の中で補完説明されてしまい気付けていない。文章力に関しては特に言うことはない。それは強請っても手に入れられるようなものじゃないのは分かっている。
出来るだけ客観視して読もうと努力はしているが、そもそも自分を客観的に見るというのはとんでもない矛盾を含んでいる。なにせ自分で見ているのだからそれを主観視というのじゃないのか。
もう湯気も出ていないコーヒーを手に取り口に触れただけで止める。
冷めたいではなく、冷めてしまった、コールドコーヒーと呼ぶべきそれはなんとなく飲む気が起きない。なんとなくは、なんとなく。理由を文字に起こせないわけではないが、曖昧な表現で留めていることを理解するべきだ。
事実を事実として伝える正直さは美点なのかもしれない。
ただ「あいつは嫌いだ」「これはやりたくない」「お前は間違っている」正直者が正しいとは限らない。だがそれはそれとして、美味しくないことを分からせないのもまた違う。
残念ながら頭の悪い彼がパッと思いついた選択肢は二つ。
1「おいしさ控えめですね」2「まずい」。さてどちらを選ぶべきか。
1は新手の煽りにしかならないので却下。消去法として2になるが、どう考えても失礼だ。ならば第3の
選択肢としてぴったりな言葉を、彼はもう一度だけコーヒーを口に近づけ
「くっそまじぃ」
正直な感想は往々にして間違っている。間違いなく、間違っている。
だから彼は、自分の書いた小説を全て消してしまいたいという衝動をなんとか抑えつけ、寝ていたソファに体重をかける。気持ちが乗らない中で書いても完成に近づくことはない。が、そもそも彼が気持ちに乗ったときなど精々悪乗りくらいのものだ。
それでも今はそんな気分じゃないと振り切り、身をよじってまだ少し温かみの残るソファに体をうずめて目を閉じる。
思い出すのはさっきまで見ていた夢の内容、彼はその夢の続きを求めて。
「二度寝しますか」
もし夢オチという言葉にもう一つの意味をつけるなら、夢に落ちるというのはどうだろう。
普段より早めに起きたせいで十分な睡眠がとれていなかった体は、横になってからそれほど時間もかかることなく、一人分の寝息が静かな部屋の雑音に紛れ込んだ。
目が覚めた、目が覚めたのか?
西に大きく影を伸ばす自宅マンションの一階部分。住人専用の駐車場の真ん中に一人で突っ立っている彼はふと、夢を見ているのだと漠然とだが理解した。だからといって何か意識的に行動を移すわけでもなく、夢だからかなのかそんな気すらわかない。
もし起きていた時に覚えていたら誰かに話してみようか、と考えたが他人の夢の話は聞いていて面白いと感じた経験は少なかった。それは内容が滅茶苦茶でオチも何もなく大事な部分が抜けているから、なのかもしれない。ただ一番はその人が感じたその人にとって最高の感動を言葉にすることが出来ないからだろう。
自然と歩きだした足は、見覚えのある道を進んでいく。歩くのにだって思考から行動の順番で起こるはずが、どうも移動してからそのことに気が付いた。自分の意志で進んでいる感じがせず、どちらかというと景色の方が動いているような感覚だ。
家のすぐ前の道のはずだが随分と殺風景で、視界の端に移る部分はぼんやりとして目を向けてはいけない気がする。
何が起きるのかという期待感や、勝手に進む場面。舞台裏の横道に触れてはいけないのを含め、なんとなくだがジェットコースターと似ているなと彼は思った。
彼の遥か上空、自宅のマンションを超す高さを生身で飛行する人を見かけ、あれは『飛んでいく』だろうなとすぐに予想がつく。
脇腹に矢が刺さり血が滲むスーツを着た女性。背中かから羽が生えた男性。頭に猫をのっけた女の子。
スーツの女性から順番に『白羽の矢が立つ』、『羽を伸ばす』、『猫を被る』。
それらすべてが彼の書いた小説の中で一度は思いついたアイディアであり、目の前の光景には好きな小説が映像化したくらいの感動はある。だが一番は「あぁなるほど、こんな感じか」という納得の気持ちが強い。
まだ朝の時間帯、普段なら通学路になっているこの道を一見では数え切れないくらいの人が行きかっているはずが、あまりの人の省きように目算だけでわかるくらいしかいない。
そのうちの二人。眠たそうな目に細い体。口をへの字に曲げ年老いた猫をおもわせる青年。その青年に少し遅れて追いついてきた茶髪にくせ毛の小柄な二人目の青年。
おもむろに財布を取り出したくせ毛の青年は、どうみてもわざととしか見えないくらいに財布ひっくり返した。そのうちの一枚、五百円玉が彼の足元近くまで転がってくる。なんとなく手に取った彼の耳に、くせ毛の青年がもう一人の青年に後ろから軽くチョップするようにして頭をはたきながら交わされる声がやけにはっきりと聞こえてきた。
彼の横を通りかかる青年の一人。
凝っているのとはまた違う回らない首筋をほぐすようにさすり、手ぶらの状態でどこかかへと向かって歩く眠たげな目の青年、ヒロ。
その背後から走る足音と共に近づい来る人物に気がついてはいたが、なぜか避けられないチョップを頭に受け、顔を歪めて目線だけで確認する。
へらへらと笑みを浮かべ馴れ馴れしい態度でヒロを叩いたくせ毛の青年は高いテンションで
「よーっすヒロー。今日もねむたそぉーな目しやがって、もっと強く叩いて起こしてやろーか?ま、さすが
にこれ以上強く叩いたら俺の手の方がつぶれそうだけどよ」
いつもいつも。と、ヒロは嫌悪感で顔を歪ませていたが、それを受けたくせ毛の青年。タクは全く意に介さずポケットに手を突っ込み当たり前のように付いてくる。
自分がどんな人間かと説明するのはなかなか難しいけど、俺を叩いたこいつに関しては簡単に説明出来る。どうせ大した奴じゃないし。
付き合いの長さで言えば一番長いが、付き合いの深さは一番浅い同級生。日本の国民性といえば必ず上がるであろう謙虚。それが全く似合わない男。
きっとこいつの辞書に謙虚という文字はないんだろうな。というかそもそもこいつは辞書を手にしたことがあるのかって疑問に思うくらい。
前に一度皮肉を込めて聞いたことがある「なぁ、お前謙虚って言葉を知ってる?」と。
それに人差し指を太陽に掲げながら帰ってきた言葉が、「何言ってんだよお前、俺は世界一謙虚な男だぜ」謙虚な奴は自分が一番なんて絶対に言わないしと返したような気がする。
もしこれが大喜利とかで狙って答えたのなら、返しとしては中々面白いし瞬時に考えていったのならこいつ以外と賢いんじゃないの?と思ったりするけど、もちろん素で答えてこれだから馬鹿一択だ。そう馬鹿に決まってる。
タクのペースを無視して足早に目的地へと行くヒロは、タクのうざいからみにいつもどおりの返答をする。
「俺の方はもう十分痛いし。髪型も崩れるしさ、汚れるだろ」
首に回していた手で、たいして崩れてはいない髪を嫌がっているというアピールのためだけに形を直す。
「ホント潔癖だよなお前、んなこと一々気にしてたら生きてけねぇよ」
ヒロの分かりづらい抗議にも気付いてはいるタクだが、一々気にするような性質ではない。
「生きていくとかそういうのじゃなくてさ。普通に汚いよりきれいな方が好きってだけだから。それよりさ、もうちょっと何とかならない?そのだらしない恰好」
揶揄される形となったヒロはタクの服装に指摘するが、どこかはっきりと言えない自分に思わずため息が漏れる。
微かにチョップされた感触の残る頭を撫でつけていた手を止め、ふと思い出す。
タクとの付き合いは長いが、この手癖の悪さは出会った頃からだ。もういくら殴られたか覚えていないが痛いものは痛いし、馴れるなんてことはない。
こいつのくせ毛は曲がった性根や根性や性格やらのせいじゃないのかとつくずく思う。
「あぁ?てか少しくらいこっち見て喋れよ。くっそ真面目なお前のことだ、『頭が固く』なりすぎて頭が動
かなくなったんじゃねぇのか?」
そして人の気持ちを理解しようとすらしないくせに、察する力だけは人一倍高い。どうせなら叩かれたのを嫌がってることの方に気が付いてほしいが。そんなヒロの思いとは裏腹に
とっくに気付いるタクは、首が回らないことにも目ざとく気が付いた。
物心ついてからずっとこの性格と付き合てきたヒロだからわかるが、原因はおそらく『頭が固い』せいじゃない。
『頭が固い』と初めて言われたときは落ち込み、鏡の前で頭を軽く叩いてみたりもしたが、少々硬質な音がして響くだけで、さすがに頭が回らなくなったりしたことは一度もない。そんな子供ながらに傷ついた過去と今までタク以外にも言われてきたのを思い出し、普段なら溜息が漏れ出るところだが、なぜか今日に限っては少々頭に来た。
「別に頭が固くても首は回るし」
気持ち強く言ったヒロの言葉に、ふ~んん?と疑問形のように語尾を高音に上げ、何か引っかかりを覚えたタク。
「首が、回んねぇーの?頭じゃなくて?……あぁぁ、なるほどな。り、したぜ!」
ヒロのちょっとした言い回しの違いを流すことなく捉え、理解したを短縮したタク限定の言葉を理解できてしまう自分が嫌だ。
得意然とした表情のタクは口元を吊り上げて笑みを浮かべ、何度か頷きながら「つまり」はと続ける。
「忙しすぎて首が回んないんだろ?」
「違うし」
「なんでだよ!」
即座に否定したヒロに言葉尻をかぶせるようにして疑問を出す。しかしそもそもが違うのだ。成績の悪いタクを下に見ているヒロは優越感に浸っていることに気が付かず、そんなこともしらないのかよという思いと共に説明するようにして
「いやだってさ、忙しすぎるときのは『手が回んないとか』『目が回る』で、『首が回んない』ってのは……あー……知らね」
「借金だな」
思い上がり律儀に説明しすぎて、正解を口にしそうになったのを無理やりごまかそうとするが、案の定バレてしまう。さっきから自滅してばっかりだ。たとえ知られたとしても問題ないようなことなのに、細かいことがやけに気になる。
胸の内に渦巻く思いは強く、それが苛立ちとして表に出ないよう必死にコントロールするが、消そうとすればするほど高まっていく感情は自分に対して訴えかけ続けてきた。
何をやっているんだ、いつもならもっと違う言い方をしているはずなのに。
異物のようなものが喉の奥からせりあがってくる感覚が、口元を過ぎて吐き出すことなくそのままこめかみあたりまでやってくる。
頭が脈打ち顔が熱くなるのを感じ、目元あたりをひんやりとする手で冷ますように押さえるける。なぜこんなにまで余裕がないんだろうか。隣でペラペラと喋っているタクの声もうっとうしくて、開口一番「うるさいんだよ」と声を荒げてしまいそうだ。
そんなヒロの不具合さを気付いてはいるタク。
だが、何かそれっぽい事。
「どうしたんだよ?具合悪いんじゃねぇの?最近新しくできた動物病院があるんだけど、今度一緒に健診しにいこーぜ?」的なお茶を誘うくらいの気軽さで心優しき気遣いアピールするのもいいが、心配しすぎたりすると意固地になるタイプなのは長いだけの付き合いである程度把握している。
だからあくまで話の成り行きとして、不自然にならないくらいにはと考え
「っと、その前に借金いくらなんだよ。しょうがねーから俺が何とかしてやるって。今の俺ならなんかこう、ふぁ!っといい案が思いつくかも知んねーしな」
かなり直接的な物言いになったことには気づいておらず、それ自体よく考えれば普段のタクらしくない誰かのためにを何かするという提案。それがらしくないのは日頃の行いというより性格の方に問題があった。
気遣いがバレるのに耐え切れない羞恥心を覚えたタクは、余計に口を早め頭の横で花開くように指をはじく。だがあらぬ方向に頭を悩ますヒロには判断がつかない。
「……」
だんまりを決め込むヒロに煽りも交えながら反応を待ち続ける。しかし感情を押さえつけているヒロに対して、あまり有効的ではない手しか取れないタクは思うようにいかず、少し怒りをまぜ余分に煽る。
「おい、無視すんなって聞いてんのかよ!そんな顔真っ赤にして。なに、そんな俺に正解されたのが悔しいの?まぁでも仕方ねぇって、自己評価IQ200ある俺だからさ。今日はしっかりと働いてくれてる脳みそくんに甘いものでもあげないとな」
「……」
周りからこいつ絶対B型だろと思われているタクだが察しはいいのだ。そのあとに勘は悪いし、空気も読めないがと続く。
いつもとは違うヒロの放つ不穏な空気にとっくに気付いていながら、こうまで馬鹿みたいに話し続けているのにもタクなりに理由があった。
馬鹿みたいに、それは馬鹿のように見えるだけであって馬鹿ではない。ただ行動が馬鹿と同じってだけだ。
今だって気まずい雰囲気を感じ、それでも必死に喋り続けているのは何か裏に特別な事情やら友達のためだからー、なんてらしくない理由ではない。ただここで引いたら負けだなというどうしようもない性格のためだ。
「あー何?無視?いっつも本読んでばっかの本の虫さんは、とうとう無視の虫になったてか?なら見た目はきっとげじげじだな。人間は考える『足』っていうだろ?なら無視のお前は脚が増えて虫のげじげじ……あぁ、まったく!」
「……」
「こんだけボケてやってんだから、感謝でもしながらツッコめよ。ほら、『足』じゃなくて植物の『葦』だとかさ、無視の虫って両方発音一緒でどっちかわかんねぇとかあるだろ?」
「……」
その面倒な性格もさすがにこうまで反応がないと、一人で騒ぐ惨めさをつまらないと変換し、鼻から息を吐き出してやれやれと首を振る。
さすがに無理そうだな、仕方ない諦めてまた出直すか。そう判断し別れの挨拶をするため、ヒロの五歩ほど前をステップするように進み振り返った。ここで「じゃあまたな」的なことを言って立ち去るのは簡単だ。
瞬き三回、いや待て。しかしこれは逃げだろ、とここでもどうしようもない性格がすぐに考えを改めさせる。
意見をころころと変え、すぐさま返す手のひらは穴掘り用にでもできているのかもしれない。人は日々成長するものだからなと誰に対する言い訳を考えをながら
「つぁー!金をばらまいちまったよ。財布から脱走ってマジでこいつら生きてんじゃねーの。ちょ、わりぃが拾うの手伝ってくんね?」
大仰な身振りと発言とは裏腹に、その過程に焦りや戸惑いと言ったものは一切なかった。特に用もなくカバンから財布を取り出したかと思えば,流れるようにチャックを開けて躊躇なくひっくり返す姿は手を滑らしたという弁護もできないほど。
しかしうつむき加減で歩いていたヒロは、硬貨が地面をはねる音と独り言にしてはうるさいタクの悔やむ声でようやく隣にいないことに気づいたくらいだが。
頭に来ていても拾うの真面目さが、「頭が固い」と言われる原因でありヒロの美点。だからこそ、その点も踏まえた策略とまではいかないが、思惑に嵌まってしまっているんだろう。
どれだけ財布にため込んでいたのか、落ちている紙幣の中には五千円札や一万円札も含まれている。窃盗を疑われてはかなわないと、少額の小銭を優先的に拾っていくヒロ。意識してかなりゆったりと拾っているにも関わらず、タクは一緒に落ちたレシートやポイントカードばかりを手に取り、しかもつまらないことに一喜一憂して遅々として進まない。
結局ヒロがほとんどを拾いタクに突き出すことになった。しかしごみみたいなものばかり財布にしまいカバンに戻したタクは、なぜかヒロから渡されるお金を危険物でも押し付けられるのを拒むように後ろに下がり
「まぁ待てって」
待てと言っているが手を前に出し、明らかに受け取りを拒否する姿勢を見せる。
「俺思ったんだけどさ、「捨てる神あれば、拾う神あり」ってまさに今の事じゃね?」
普段からおかしな行動が目立つ奴だったが、どういう理由でその言葉が出てきたのか意味が分からず、だ
がもう理解することも諦め聞く姿勢に入る。
「goodの短縮形、godの神を紙幣の紙に変えて「捨てる紙あれば、拾う紙あり」。なんてどうよ?」
口内で強く噛みしめていた奥歯のエナメル質が削れ、ギリッと不快な音を立ててかみ合わせが少しずれる。ちょっとしたことで怒るような性格ではないし、それに達するまでの器も大きいほうだと自負している。悪口を言われようと傷心するのが先で、怒りに還元される量は少なかった。少ないが、ゼロではない。いくら少なかろうと一滴ずつしずくが落ちていけば、いつかは岩にも穴があくし、大きな器にも満たされる。
それが今日、心に余裕がなかったヒロに溢れ返ってしまった。
どうなろうと構わない、その勢いでへらへら笑うタクに手加減なしに拳を引き上げ……。
「死ぃいねぇえ!」
日頃の恨みを乗せ声を荒げながら繰り出された一撃は……空を切り届くことはなかった。
その代わりと船をこぐように揺れる頭の奥を、グワーンと薄い金属が地面に叩きつけられて振動するような音が耳に残る。
何が起こっているのかを理解するよりも先に、冷たい水が頭上から降り注ぎ前髪から雫がしたたり落ちる。
フラッシュバックする記憶には殴りかかろうとした自分に、手刀を作り振り上げてチョップするようにふり降ろすタクの姿が見えた気がした。決して馬鹿ではないヒロはすぐに答えに辿り着く。
『冷や水を浴びせられた』のか……。
「ちょちょちょちょ!お前、待て待て待て!今ガチで殴ろうとしただろ!落ち着けって、な?な?いや確かに煽った俺も少しはわりぃけどさ、さすがに殴ることはないだろ。それあれだぞ、最近有名なあのなんとか探偵くらいだぞ、すんのは」
焦って声が大きくなり同じ言葉を繰り返すタクだがすぐに反撃して来れたのは、ヒロの運動能力の悪さとタクの手癖の悪さが重なった結果。割合的にはヒロの運動音痴の方が高い。
冷や水を全身に浴び『頭が冷えた』ヒロはすぐに冷静さを取り戻していた。
何やってんだと頭が固くなった理由がバレた時と同じ言葉が再び脳内で繰り返される。そこに含まれた思いがさっきまでは苛立ちや怒りといった責め立てるような攻撃的な物だったが、今は後悔や自らを呆れるよような落胆といった気持ちでため息が漏れる。
怒りに身を任せてしまった事に対して御託を並べ、大層な理由をつけたが本当はそんな立派なものじゃない。冷静な判断やら常識に身を纏っても、結局は大人ぶっただけの自分の感情すら制御できない子供の1人だ。
きっと普段のヒロなら自分の間違っていた、勘違いしていた、悪かった点を説明し責任を認め、「もう絶対にしません」「次はこうして気をつけます」。そうして具体的に分かりやすく説明し対策を講じて、相手の言うことを全面的に肯定する。そんな薄っぺらで心の中では何を考えているのか分からないような、形だけの反省とは違う。泣けばいいんでしょ?頭を30秒下げ続ければいいんでしょ?丸坊主にして誠意を示せばいいんでしょ?あぁ、誠に遺憾です。きっとその程度だったはずだ。
目に水が入らないようにと反射的に目を閉じたヒロは、慣れた仕草でズボンのポケットに手をやった。きれい好きと言うだけにハンカチを常備しているが、冷たく濡れた感覚とベルトから腰にかかる水分を含んだズボンの重みを感じてすぐにダメそうだなと悟る。仕方なく手で顔を覆いそのまま顔を洗うようにしてぼやけていた視界を確保する。真っすぐ下に降り注ぐ日の光で、すでにぬるく感じてきた前髪を後ろにかきあげヒロは空を仰ぐ。
見上げた青すぎる天井は上から自分のダメさ加減を見下ろしているようだ。
その様子を見ていたタクは「かっくぅいい、さっすが水も滴るいい男!」とちゃかしてくる。水を被ったおかげでスッキリしたヒロの頭には、もう苛立ちの欠片もなく謝罪のために頭を下げ。
「悪かった……や違う。ごめん。ほんとに、ごめん」
いまだに自分を取り繕おうする上から目線の謝罪を口にしてしまいすぐに言い直す。
「そんで『頭は冷えた』のかよ?借金に追われるのが耐えられないってやつが世の中にはいるらしいが、お前は絶対それだぜ。慣れないことなんてするからそうやって、あっぷあっぷになるんだよ。俺の笑い死にさせてやろうって計画ももぜーんぶ無視するし、こっちもドキドキだったんだぜ?これが恋かって感じでな!」
肩をすくめ相変わらずペラペラと重量感のない、ヘリウムガスでも足りず水素水でも愛用してんのかってくらいに軽口を叩く。
ヒロの全力に軽くチョップでいなせたのは、こうなることすらも計算づくで予想していたからか、それともいつもの癖で咄嗟に手が出たのがここまで上手く嵌まったのか。それに関しては会うたびに叩いてくる事と馬鹿なのを考えれば答えはすぐだ。
反対の手と比べればハッキリとわかるほどに赤く腫れた右手をさすり、泣き笑いのような表情を浮かべたタクは
「しっかし、いっつぁー!『頭が固い』って分かってはいたが、それあれだろ。石頭的な意味での硬さだろ。見ろよもう手真っ赤!折れてはないと思うが、これで骨折り損とか嫌だぜ。なぁ?ほんっとっ、どう落とし前つけてくれるんだ。あぁん?」
まだ当分痛みが引きそうにない手を抑えながらも、顎を引いてすごんでみせる。白い高級そうなスーツでも着てグラサンをかけていたら、まぁ少しは様になるかもしれない。絶対に下っ端だろうけど。
「それどっちかというと俺のセリフじゃない?」
頭は冷えたかという問いにまだ答えていない。けれど口には出さず自分の中だけで少しばかりの感謝をタクが求めていたツッコミするというわかりづらい方法で示した。
さすがにここまで隠されれば察しの良いタクでも、『心を読まない』限り無理な話だ。
死んでいて効果をなさない言葉。死語に含まれるそれは誰にも使えないが。
上から下まで全身ずぶ濡れ、地面には大きな水たまりを作り出し、靴の中で体重移動すると下底に吸い込まれた水がずぶずぶ滲みだしてくる。大概脅しのそのセリフの後には、慰謝料かクリーニング代の二通りある。痛みの原因がヒロを止めようとしてくれた結果。それに対して少し申し訳ないなとは思うが、自分で殴っておいて慰謝料はないだろう。
ヒロの主張に腕を組み顎を押さえ、考える素振りを見せるタク。
「まっ、確かにな。んじゃ落とし前つけますか。ってなわけでほら下見てみ」
下を指さしてジェスチャーを繰り返す。落ちているのは水に浮いた紙幣と小銭の数々。いつの間にかヒロの手から零れ落ちていたようだ。落とし前ってのはこれ以外にないだろう。
だが『頭の固い』ヒロという人間は、ここにきても好意を素直に受け取るという選択肢が出てこない。
「まぁ、待てって。言いたいことはわかるぜ」
否定の言葉を出そうと口を開いたが、それよりも先にタクから2度目のまったが入る。どうも自分は後手に回りやすいというか、行動が遅いようだ。殴り返されたのも無理はない。
「あれだろ?1円を笑う奴は的なことで金は大事にしろって言いたいんだろ?」
「いや、全く全然……」
「俺は世界一勘のいい男だぜ、それくらい言われなくたってな……ってあれ違うっぽい?」
おっかしいなとタクは思わずにはいられなかった。十年来の付き合いだ、ヒロがなんて反論してくるか考えていたし、その返しまで用意していた。
本来ならば「俺は1円を笑うが100円だと百倍笑うんだぜ」といったのをおそらくヒロは「それ逆数じゃない?それだと百分の一しか笑えなくないか?だって一人の友達に使っていた時間を百人で割ったら百分の一しか遊べないだろ?」
と言ってきて、
「俺の友達はお前ひとりだぜ」とキメ顔でいったら「気持ちわる」という一連の流れがタクの頭の中にあったのだが。
ちなみにヒロの方は「金は天下の回り物っていうだろ。ってことは足元で金を回してる俺は天下人ってことか」と言ってくるんじゃないかと考えていた。
「まぁ、何にしてもだ。俺が言いたかったことは、今日のお前はホンっトっおかしいぜ?」
いつものタクならたとえ気づいていてもからかいはするだろうが、心配や説教といった人に対する優しさをそのまま形にすることを毛嫌いしているようなふしがある。
まさかタクに忠告されるとは。そう思わずにいられなかった。
「そんな焦っていつもみたいに冗談を受け流す余裕もないしよ、お前が俺に殴りにかかる?マジであり得ないぜ。って言ってやってる俺もなんか変な気もするしよ。普段ならこんなこと絶対いわねぇぜ?」
「……」
タク自身自分がおかしいことに気が付いていただけ、ヒロよりも一枚上手な気もするがどちらにしてもお互いおかしいのだ。
異常な中での正しさはきっと何も正しくないのだろう、正しさすら異常なのだから。正しくあろうとするヒロだって、普段通りであろうとすること自体が普段と違う。
「だからなんだって思うかも知んねーけどよ。普段なら絶対やんないことだって今なら間違えるかもしんないぜ?たとえば『頭の固い』お前なら絶対この金は受け取らねーけど、おかしい今なら間違って受け取ってもいいんじゃねーの?」
タクの進言にヒロは素直に受け取ったのか、それともやはり受け取ることはなかったのか。一部始終しか見ていなかった彼には知る由もない。これは彼が通り過ぎる束の間に交わされた脈絡ない会話であり、自然と耳に入ってきた会話の一つでしかないのだ。ただ言わせてもらえればヒロの『頭の回転は悪くない』。
二人の青年の会話をよそにただ真っすぐ道を進んでいた彼は、最寄りの駅へとやってきていた。財布も持ってきていないのにどうするんだよと自分の行動を揶揄するが、手の中に握られた硬貨を見つめそういうことかと納得する。くせ毛の青年が落としたお金をなんとなく拾っていたが、あれも行動の一部だったんだろう。申し訳ないなと感じながらも、返しに行く気は出てこない。なにせ彼の体は意志とは無関係に動き、すでに手は投入口に硬貨を落としていた。
切符を買いホームへの階段を上り切ったのとちょうど重なるように、電車が参りますとアナウンスが聞こえてきた。他の路線に乗り換えができるような主要な駅ではなく、線路が二車線しかない快速だと大概飛ばされるような駅だ。駅中に食事処があるわけもなく、立ち売りの売店が精々。県名をそのまま駅名にした駅に挟まれた位置にある、人気のない駅は彼の記憶していた以上に人気がなかった。
むき出しのコンクリートに書かれた停止位置に並ぶ人は、左右見渡しても数人しかおらずもちろん彼の後ろに並ぶ人は誰もいない。
必要な情報以外を削っているのか、また別の理由があるのか。夢に詳しくない彼には誰かを納得させられるようなそれらしい理由が何も浮かばなかった。
点字ブロックぎりぎりで待つ彼はカーブした線路の奥、電車が現れる方向を眺めているとアナウンス通りすぐに車体をカーブの内側に傾けながら速度を落とす電車が現れた。
通り過ぎていく窓の殆どブラインドが降ろされ中は見えなかったが、一瞬映るドアから乗客は殆ど見えない。
落ちていくスピードーから乗り込むドアに見切りをつけ目で追っていく。停止位置とドアとの誤差は数センチ単位と原付で毎度二段階右折しなけれ曲がれない友人とは比べるべくもないんだろう。
そろそろ昼時になろうかという時間帯、少ないが降りてきた丸眼鏡に眉毛までかかった韓国人観光客にありがちの集団とすれ違うようにして乗り込む。
二人用の座席が縦並びに設置された車内は、冷房が効きすぎるくらいで外との差から思わず寒いと感じるほどだ。日の光でも浴びて寒さをしのごうと、窓に設置されたブラインドを上げた彼の耳に、やけに生々しい女性の悲鳴が届いた。ブレーキ音と勘違いするほどに耳障りで高い声は快適といえなかった電車を舞台にして次なる幕が上がる。
彼と同じ車両に乗り合わせていた乗客のまた一人。
周りにいた乗客1歩引き30近い男を中心として隙間なく出来上がった人だかり。『絹を裂く』悲鳴が聞こえ、痴漢という卑劣極まりない最低男を逃がさないと意志を一つに結託して集団で囲んでいる。
それは半分正解で半分間違い。正しくは意志が自然と一つに集約し、『関わりたくはないけど面白そうだし近くで見物でもしていくか』経験上その程度だろうとなと円の真ん中にいる男。マサシはそう感じていた。
おそらく声を枯らして全力で叫び狂ったように突っ込めば逃げ出せる可能性は高いと踏んでいる。がしかし、それをやるにはいろいろと問題がありすぎる。もちろん勇気や決心がつかないといった気持ち云々の話ではなく……。いや、気持ちという部分は正直あっているのかもしれない。要は自分を形作る根源的何かがそれを決して許さないのだ。その抗えなさは言葉が作用する結果と似たものがある。
こんな状況でも淀みなく働くマサシの思考は現実を直視出来ていないからではない。逆に理解が及んでいるからこそ、ここまで落ち着いて判断出来ているのだ。冷房の効いた涼しい電車内で何十人もの視線を浴び、体中の毛穴から汗を吹き出し鼓動の音だけで頭の血管をはじけさせようとする心臓を除けば、至って冷静だ。
最初の頃は視界が外側から真っ白に染まっていき、目の前に見える焦点のあっていたものすら光を残すだけで消えてしまった。瞼を閉じて見える世界と白黒逆転した光景だったが今はハッキリとしている。この状況も一体何度目か、忘れたりはしない5回目だ。
最初というのは誰かが叫んだ瞬間ではなく、初めて痴漢容疑をかけられた時という意味で。
顔の汗をぬぐおうとするが両手ともふさがっており、仕方なく肩に顎を近づけてほっぺたをなぞるようにしてカッターシャツで拭う。
もしマサシが思う『女性にわいせつ目的で触れる』という痴漢の定義と世間一般の見解があっているのなら、結論から言うと痴漢をしていない。
どの箇所も絶対に触れないよう体は縮こまらせ、右手は外の暑さで脱いだスーツを親指と人差し指で摘み、固定されたつり革がピンと張るほどに残る指で強く体重をかけて掴んでいる。左手には『手を貸す』の貸された手とカバンを指3本と2本で分けるようにして何とか持っていた。
こんな手一杯の男を捕まえて痴漢だなんてホントに最っ高だな全く!
欧米風の皮肉をこめ、中指立てながら暴言を吐いてやりたい気分だった。
周りにいたおばさんやらお友達が、めそめそ泣く制服を着た女子生徒の肩をさすり、心配したように慰め続ける。その声かけに少女はかすれて震えてはいるがマサシにまで聞こえる声で「気にしないでください」
「大丈夫だから」「ほっといてください」「もういいから」
「そんな訳ないでしょ」
全く白々しい、何を見せられているんだ。
恥ずかしさからか強がりを言う少女だが、その強がりが逆に傷心さを直に伝え罪悪感にさいなまれる。
しかしこれがもし立場が逆で男側が痴漢に襲われ泣いていたらという想定は、この立場になったら誰しも一度は考える議題だろう。
少女の年齢は若く大人から見ればまだガキとしか見れないのが一層庇護欲を掻き立てるのだろうな。
大学生なんてそれっぽく振舞っただけで中身も外面も高校生と変わらない。高校生もダサい制服着てませた中学生と大差ない。その後も同じく、全部ひとくくりに子供だ。赤子に欲情する大人がどこにいる。一人いる。もちろんマサシ本人のことではない。
集団心理が働く狭く息苦しい電車内、味方といえる人物は限りなく0に近く、0でないのが事の真相だったりもした。
汗の分だけのどが渇き仕込んでいたペットボトルを手に取ろうとし、五百グラムの重みが感じられず焦って周りを確認するが近くには見当たらない。その様子を見ていた周りは不審な動作に目の鋭さが増す。もはや次の駅に着くなり駅員に連れられ、穏当な結果にはならないのは予想がつく。だがそれもマサシにとってそこまでの痛手ではなくなってしまったが。それよりも今は近くの自販機で買った、量産品のペットボトルの方が重要なのだ。
もうこいつが犯人で間違いない、という確信を持ち始めた見物人の1人が「何やってんだよ」とマサシの行動を見とがめる。
聞こえていないのかそれとも聞く気がないのか、何も答えない事に更なる非難が人を増やして襲い掛かるがやはり止まらない。我慢ならず声を荒げ介入が入る一歩手前、「ちょっとすいません」と声を上げながら集団から抜け出してくる1人の人物。
人受けのいい顔に高い身長、身だしなみを整えるのも仕事の一つと服装にも気を使い、捲くった袖から延びる細く引き締まったその手に持つのは、探していたペットボトル。
「とにかく皆さん、落ち着いてください」
怒りから埋まってきていた空間を再度広げるようにして、ゆっくりと手で沈めるような動作を繰り返し、探偵は笑顔を振りまきながら観客に自分の顔を見せていく。すぐに気づいた人から「もしかして」と上がり「あの……なんとか探偵」どうも名前は覚えてもらえないが、有名人という特権を使いその場での発言権を勝ち取る。本来であれば言葉の探偵という意味でつけられた言乃葉探偵という恥ずかしい名称は、結局一度も呼ばれることなくそれと同時に消え去った名前のもう一つの意味も知られることはない。
「いきなり『横入り』して申し訳ありません。しかしこのままだと上手く解決できそうになかったので。私も偶然、えぇたまたまこの車両に乗り合わせていたのでおおよその事情は理解しているつもりです」
マサシも探偵のことは知っていたのか息をのみ、ペットボトルと探偵の顔を交互に見る。見覚えのあるラベルと浮かぶ気泡の少なさ、カバンに入らず股の間に挟んでいたペットボトルだと確信した。
「さて」と切り出した探偵は、「それでは、私なりに考えた事件の推論を説明させてもらいますね」と断りを入れ語りだした。
「そもそもこの男性の両手は荷物を持ち開いている手がありません。犯行に至るとき荷物を下に置くなども考えられますが、その様子を見たという方はいられますか?もしくは足元に置いていた荷物を持ち直したというのでも構いませんが」
それほど混んではいなかったが駅へ降りる人でそれなりに密集していたドア前。そのなかで非常識に荷物を置いていたりすれば、誰かしら邪魔だとは感じたはず。
その姿を見た記憶がなく、誰か手を挙げてくれないかと周りを見渡す人が多数。もう一度いませんか?と
声をかけ、上がらない声に探偵はなるほどと何度か頷き
「誰も床に置かれた荷物に気付いていないとなると、その時も手に持っていたということになりますね。っと、次に直接体で触りに行ったという可能性ですが……」
一端言葉を切り被害者の少女に目線をやる。目尻に涙をため潤んだ瞳で訴えかける意味をすぐに気付き考えを改めた。これ以上生々しい話をしてしまうのは結局探偵の自己満足にしかならない。全てを知っているからと得意気に話し結果事件は解決したとしても、それでは少女の中にある問題は何も解決してくれないだろう。少女の心が傷を負うことなく、そしてここにいる人達が全員納得してくれるだけの推論を探偵という役に誓って瞬時に作り上げなければいけない。
今ここで自分がすべきは事件の解決ではなく問題の解消、つまりはなかったことに……。
そのために今必要なのは、『先を読んだ』結果知っている真実ではなく、事実を捻じ曲げて生み出された空想。
仕切りなおすように手を叩いた探偵は指を一本立て
「それよりも、一つ簡単にこの事件を解決する方法があります」
どよめきは小さく、だが期待するようなまなざしは強く、指先の奥にある探偵に集まる。
言った本人以外でその方法を知っていたマサシは内心ほくそ笑まずにはいられなかった。こうまで都合の良い展開になるとは、吊り上がりそうな口元を何とか抑え出てくるであろう言葉を待つ。
「少し皆さん離れていてくださいね。方法というのはこの男性にこういってもらうのです。『これは濡れ衣です、私は痴漢をしていません。』痴漢をしていた場合、濡れ衣は振ってこないです。そして仮に勘違いだった時は、申し訳ありませんが濡れ衣を被ってもらうことになります。少女の為だけではなくあなたの疑いを晴らすためにも協力してくれませんか?」
ガッツポーズを作りながら、声を張り上げ喜びを表現することをぎりぎりで踏みとどまり、拳を握るだけで留めたマサシは心の中で自分をべた褒めした。
もし心の声を代弁するならば、「よし、おし、よおぉーしゃっ!」といったところだろう。
今回を除き過去4回の痴漢騒動のうち濡れ衣を被り事をなした回数は3回だ。初めて痴漢を訴えられた時、焦りからまともに喋れず最終的には無罪となったがマサシはそれで職をなくしていた。
言葉に詳しいわけでもなく特殊な技能があるわけでもない。賢くもなければ、体力にも自信がなく緊張しやすい体質。不愛想で無表情気味の顔もいい印象を持たれない。
他人に責任の追及を求めたマサシは痴漢の疑いをかけられたせいでと周りにいたすべての人を恨んだ。だからといって結論を急いではいけない。
確かにこの事件が退職のきっかけとなったが、それだけで辞めさせられるような職場ではない。注意されても直す気のない遅刻や無断欠勤、仕事に対する姿勢の甘さが積み重なった結果。職場で浮いていた人物に痴漢疑いが掛かれば、周りの影響を考え特別扱いできるわけもなくリスクリターンを考えればやむなし。そういう判断で会社から切られた。
普段ならムッとした顔が悩みの種だったが、今だけは喜びを映し出さないその無表情な顔に心から感謝した。
いつ濡れ衣を言おうかと迷っていたが、周りから殆ど犯人だと決めつけられた状況でなかなか言うに言い出せず、しかもあの探偵が来た時はついに終わったと感じたが。
まだ自分は運に見放されていなかったのか。高鳴る心臓は先ほどとは違い、心地いいくらいだ。震える口をゆっくりと開き浅く息を吸い込み
「これは、これは濡れ衣です。私は痴漢をしていません」
緊張したせいで声の音量が分からずすぐに言い直す形となったが、その言葉は一言一句逃さないと沈み切っていた車両にたしかに響き渡った。
1、2、3……。探偵とマサシは心の中で数える。かたや四回目となれば経験から落ちてくるタイミングも分かってきて声に出したいのを我慢して口の中だけでカウントを刻み、かたやその提案をした探偵は何度かこの手は使ったことがあり、手っ取り早く解決させるためのいわば定石や常套句の一つといったところだ。
濡れ衣の発言からきっかり3秒、フッと現れたジャケットはマサシの頭から覆いかぶさりだらりと垂れ下がった袖から雫をこぼす。
服はなんだっていい、近くにいた人が濡れ衣といえばと判断したものになるからだ。この手の有機物が現れる系統の言葉はいくら高いものを生み出しても数十分で消えるため金儲けには使えない。
それよりも今は言葉が働いたということだ。この世界で何よりも信用できる証明方法は、たとえ女々しく泣く少女に心を打たれ、痴漢があるなしに限らず泣かせたというただ一点だけで決めてかかっていた観衆達。その心情など知ったこっちゃないとばかりに、暗黙知として刷り込まれた常識はこの状況を容易に覆した。
濡れ衣の結果に満足した探偵は何度か頷き、手に持っていた物をマサシに差し出す。
「おそらく、彼女が触られたと感じた正体はこのペットボトルじゃないでしょうか?この男性の太ももの間が湿っていたのは『濡れ衣』の前に確認していました。きっと入れる場所がなく仕方なしに股の間に挟んでいたのが勘違いさせてしまったのでしょう」
「そのおっさんが股の間にペットボトル挟んでいたの見たかも」と乗客の隙間から男の声が漏れ出る。見てる人は見てる……といったことではなく、マサシにとってその声は仕事を辞めてからよく聞く声だ。
「それでも、です。確かに無実でしたが、次からは気を付けてくださいね。彼女がつらい思いをしたのは事実なんですから、お互いの為にもぜひ」
ポンポンと肩をたたきマサシに忠告をする探偵の言葉でようやく詰めた空気が解放される。それは言葉だけの意味ではなく、生ぬるい空気を伴って開くドアが次の駅に到着したことを告げた。
圧縮した空気が噴き出し県名のままの駅に乗客の大半が降りていく。その中には少女の逃げるような後ろ姿もあったが、わざわざ呼び止め感謝を求めるのはあまりに酷だ。それにまだ終わっていない事件よりも優先すべきことではない。そう判断した探偵は流れに紛れて挨拶もそこそこに降りようとした男を捕まえ
「なに逃げようとしているんですか。痴漢しましたよね?逃がすわけないでしょ」
つい数秒前の前の意見とは全く正反対の言葉を口にする。優し気な笑みを振りまき、見当違いな推理を披露した馬鹿な探偵はそこにいない。
ドア上につけられたランプが赤く点滅し、電話の着信音に近い警告音を立てながらマサシの目の前で閉まりきる。掴まれた手と反対側を伸ばし、自分が逃げるチャンスを逃してしまったことを悟った。
「こちらに来てください」
そのまま引っ張られ車両と車両の細い間、横幅人1人分が限界の狭い連結部分に移動しドアが閉められる。分厚い布のようなもので覆われた車両間は車輪のこすれる音が大音量で響き、腰ほどの高さからある窓から二人が見えはするが声が届くことは絶対ないだろう。しかもかなりの人が手前の駅で降りてしまい、見える位置にいる人の数も少なく関心も持たれていない。
何のためにしかも自分が痴漢だと分かっていて黙っていたのか。人の気持ちをいまいち汲み切れないマサシが必死に頭を働かせ出た答えが「金なんだろ。金を要求してくるんだろうどうせ。こんなんばっかりだ」それ以外ないとさえ思っていた。
解決したかったのなら「痴漢していたのを見た」。あの状況ならそれだけで痴漢者として『袋叩き』にでもなっていただろう。それをわざわざ言葉を使って証明し勘違いという結果に持っていて何の得があるのか。
黙認する代わりに口止め料として金を強請る以外ないだろう。
「いくらだ、いくらなんだ。スーツなんて着ているがこう見えて就職活動中なんだ」
バレた時に金を強請られる展開を事前に予想出来ていたマサシは「色は付けれない、悪いが無色だからな」無色と無職をかけた冗談を告げて気持ちの揺らぎを取り繕おうとする。
その言葉に気落ちしたように探偵は溜息を吐き捨てた。
「お金、ですか。あまり興味ないですね。それよりもどうして私がこうしているのか分かっていますか?」
その質問にたった今わからなくなったところだ。金がいらないっていうならこちらも願ったりだが、理由に関しては残念ながら俺は『心の読み方』を知らない。
理解してないことをまるで咎めるように言うが、お前だってこっちの気持ちも現状だって何も知らないだろう、お互い様だ。
「そんな事分かるわけないだろ」
それに……あまり興味ないですね。それより私がいまこうしている間もずぶ濡れで風邪ひきそうなのをわかっていますか?探偵の言った言葉をまねて、意趣返しするのも悪くはなさそうだが。
さっさと会話を終わらせてここから立ち去りたいマサシは、透かした探偵にそういってやりたくなる気持ちを抑えこむ。
「そうですか。では知らなければいけません」
「はぁ?意味がわからん」
それも探偵の横暴な物言いに突っかかるような態度で応じてしまう。
「大丈夫ですよ、分からせますから」
心の中なら何を言ってもいいとすら考えているマサシは分からせるってなんだよと反論する。だがその意味はすぐに知ることとなった。
「うえっ……」
胸ぐらをつかまれ喉ぼとけを勢いのまま太い腕で押さえつけられる。息が詰まり舌を出したマサシから苦悶の声が漏れ出した。体が無理やり空気を送ろうとゲホッゲホッと大きく咳をする。手に持っていた物がその場で落ちるのも気にしていられず、息を整えようと探偵の腕の上から喉に手をやる。
「あなたがやったことに大した仕掛けもありませんよ。その『借りた手』の持ち主が痴漢をしてあなたはその犯人の共犯仲間。それでお金でも貰っていましたか?ペットボトルだって言い訳の口実を作るためにわざわざ用意していたんでしょ」
首を後ろにそらし、力を強め押される腕に指を差し込みなんとか気道を確保する。息が出来るぎりぎりで調整されて言葉を発することもできない。
「考えたことあります?あなたのその軽はずみな行動でどれだけ人が傷つくか」
お前だって俺を傷つけているじゃないかとも、香水くさい専用車両にでも乗れば痴漢されないだろ、そんな言い訳を口にする事も許されない。だから『目に物言わす』。
「ふざけんなよ、こっちだってそれなりに苦労してきたんだ。その程度で一々言わなくたって……」
「なんです?反論ですか?そうやって無駄に高い自尊心、気が昂っているのか知りませんが『地に足ついてない』と『痛い目にあいますよ』。例えばここから『地に落ちる』とか」
そう言って胸ぐらをつかんだ片腕だけで、車両間の落下防止の布が張った溝の方にマサシを押しやった。つま先が浮き、踵だけが車両の床についた状態で殆ど浮くように立たされる。
言葉の知識差が大きすぎると、そう思わざる負えない。目には目で返され言葉でも力でも圧倒され、覆せない不公平さが如実に表れる。
ドアの取っ手に手を伸ばすが届かず、言乃葉の手にしがみつくが重心が安定せずプルプルと足が震えだす。
耐え切れず片足を厚手の布の方に乗せると、聞こえてはいけない布の破ける音。破けるわけが、破けていいはずがない。だが少なからず心当たりがないわけでもない。
痴漢をしてすぐにどこからか聞こえた生々しい女性の悲鳴。絹を裂くような悲鳴ってのは確かにその通りだった。しかし数ある布製品の中でマサシの立つ場所だけが破ける、こんな上手い話があっていいはずがない。それに加え予期せず起こった事件に対し数秒も経たないうちにここまで対処仕切る人物など、『先を読む』なんて死語でも使えない限り不可能だ。
だが真実がどれだろうと今は気にしていられない。
『死の淵に立たされる』マサシは、考えることを一端止めるというよりも放棄してしまう。元から頭のいい方ではなかったのは自覚していたが、この場で思考を止めるのは生きるのを捨てたも同然。
慌てて元の位置へ足を戻したが、履いていた革靴が破けた隙間に吸い込まれ線路の後方へ置き去りにされる。
『地に落ちる』という言葉が実際に行われ、落下防止の布は無残に破け速度を出した車両から放り出される。そんな想像が脳裏に浮かんでしまった。まさかという気持ちと、もしかしたらという気持ちがせめぎあい、恐怖が勝り足元がすくむ。
「分かった。もう分かった。すまない、ほんとにそう思ってる。だからもう許してくれ、頼むから」
口から命乞いのような言葉が漏れだしてくる。必死に冗談や斜に構えて現実を見ないように繰り返してきたが、それももう持たない。
その言葉を信じ手を離した探偵は、まだ油断ならないと目を離すことなく出方を伺う。
予想できる行動は二つ、逃げるか反撃してくるか。マサシにとって最悪の選択肢は反撃することだ。ここでもし自棄になって襲い掛かろうものなら、濡れ衣と合わさって『破れかぶれ』という状況で本当に『地に落ちて』しまう。
だが探偵の予想は外れ、その二つのどちらでもない選択肢を選んだ。
働いている人の大半がある程度のストレス状態で苦しい中、我慢してやってきている。誰しもが味わう苦労だが、マサシは仕事を失いそれと同時に簡単でかつ金になることを見つけてしまった。それが甘く優しい生活を繰り返してきた者の『心が折れた』瞬間だった。
ぺたりとその場で座り込み、髪の根元から真っ白に染まっていく姿を見て、さすがの心の弱さに呆気に取られた言乃葉は気抜けしてしまう。
「『頭が真っ白』ですか。だからって終わりな訳ないですから。まぁそれなら、『釘を刺す』必要はなさそうですが、そこを絶対に動かないで下ださいね。それと、この手は私が借りていきます」
又貸しとなるが沈黙を肯定と決めつけその場から離れた探偵。
痴漢をしたということは『借りた手』に触覚がつながっている。それはつまり痛覚もあるということだ。元いた車両に戻ってきた探偵は通路をゆっくりと歩き、乗客を確認していく。数少ない乗客の中で片手がないのは一人だけ。絶対に事件が起こった場所の近くにいると思っていた。痴漢をする女性の顔を確認するため、『借りた手』の有効範囲の狭さ、「ペットボトルを持っているのを見た」と言ったのも含め、いざという時に備えて近くにいなければいけない理由はいくらでもある。
一度ポケットから『先が読める』赤い革製の手帳を取り出した。『三本の矢と手の教え』と書かれた題名にボールペンで丸を付け解決の印をつける。音を立て元あった場所にしまった探偵は手のない男性の前方の座席に座り表情を見定める。
窓側に身を寄せ寝たふりでだろう。持たない右腕を丸めこむようにして寝息も立てず微動だにしない男性。この男性が真犯人か、それともまた別の人なのかそれはこの『借りた手』に反応するかどうかですぐに分かるだろう。
しっかりと手のひらで小指を握りこむとピクリと反応し抗うように手を握りこもうとする。寝たふりの男性も目を閉じたままだが、嫌そうに眉を寄せ寝返りを打った。
その反応に半ば確信したが手を緩めることなく握った手に力を込め躊躇なく、曲がるはずのない、曲がってはいけない方向へ音を立て……。
乗客に流されるようにして隣駅に降りた彼だが、電車が発車し流れていく窓になんとか探偵と痴漢の疑いをかけられた男が何やら話しているのを最後に見た。
探偵と男が裏がつながっていたという可能性は、男の顔と物々しい雰囲気から察するに間違っているとは思うが……それにしてもどうするか。
電車から降りたはいいが目的もなく、どこかへ行くには遅すぎる時間帯。
マンションの下で立っていた時は西に大きく影を伸ばしていたから朝方だったはず。最寄りの小さな駅についたのが昼時。そして今はどこからか下校時刻のチャイムが聞こえる。
一番近い駅はあの閑散とした乗り始めの駅だが、二つの駅に挟まれた位置にある自宅はここからそう遠くはない。家に帰るという選択肢しか、というよりすでに両足は自宅のマンションが次に行くべき道だというように歩き出していた。こうやって意味もなく歩くのも悪くないなと思っていたのも、早々に打ち切られてしまい感傷に浸る余裕もなく次なる場面へ。
コツコツと、一人分の足音を立て静かな階段を上る彼はそっと壁に手を触れる。マンションの屋上へと続く階段の壁は、ひんやりと冷たく手の水分を奪っていく。
風にさらされた前髪が目元をかすり、帰り道の知らない子供の声が遠くで聞こえた。
ただ一人だけに求められた感動は誰に伝える必要もなく、夕暮れの美しさを胸の中に秘める。影を伸ばし車道の半分を斜陽と分ける道路は明日も晴れていてくれるだろうか。
彼が今日歩いていた街並みが見える通り、外に作られた非常用の階段は雨水に晒され土足で汚れ、誰にも掃除されることなく黒ずんで汚れてしまっている。
彼の部屋がある階をとっくに過ぎ、一度屋内を経由したあとは屋上への分厚い扉を残すだけとなった。本来なら開くはずのない扉の取っ手に手を伸ばし軽くひねった。確かな手ごたえに金属が擦れる音を響かせながら開く扉は、隙間から光が溢れ出てくる。
巨大な換気扇と貯水タンクが端に設置され、そこから漏れ出た水がむき出しのコンクリートを黒く湿らせていた。それなりの高さなのは知っていたが、街を一望できる高さは何か沸き立つものがある。それはもう一人いる先客にも共有出来る感覚だった。ただどちらかというと『高みの見物』に浸っている感じではあったが。
後ろ手で閉めるやいなや、来ることが分かっていたように振り向くこともなく声が届いた。
「『胡蝶の夢』って知ってますよね?」
ある人が蝶になり空を飛ぶ夢を見た。もちろんそれ自体に予言やお告げのような何か特別な意味が含まれてるってわけじゃないです。ただその夢を見た人が目覚めた時にふと思ったわけです。
「人間の自分が蝶の夢を見て、こうして目覚めたのか。それとも蝶の自分が人間の夢を見ているのか」
今この場にいるあなたはどっちだと思います?
言葉が実際に起こるこの世界が現実で、自分は目覚めているのか。言葉に言葉以上の意味がない世界が現実で、自分は眠っているのか。
肩をすくめそう問うた探偵に、頭の中ではいろいろと渦巻いているが何も意見が口から出てこない。そもそもマンションの駐車場に立っていてから一言だって。出そうとする意志がなかったのもそうだが、声を上げようとすると出し方を忘れたように勝手にのど元が閉じてしまう。それに抗いたいがやはり何も意見することはできない。口の中で舌を回し何かを形にしようとする彼の視界の端から、ひらひらと現れ二人の間を彷徨うように飛び込んできた白いチョウ。
混じり気のない真っ白の羽には他の蝶なら必ずあるはずの斑紋や筋がなく、羽を広げ丸く見える真ん中には黄色を帯び赤味がかった輝点を背負った体。羽だけではきっとチョウとも分からなかったが、やはり体を含めても白い花のようにしか見えない。
夢が記憶から形成されているから、屋上から見た景色も色づきすれ違った人だって、見たことがあるような容姿をしている。決してチョウに詳しいとはいえない彼だが、だかららこそ記憶にないこのチョウはひどく現実味がなかった。
惑わせるような美しい存在に見とれ、周りの存在が薄れかけていた彼に思い出させるのはやはりもう一人の声。
「この指とーまれ」
昼の様相が薄れ夜に染まってきた空に左手を突き上げ、うすっら笑みを浮かべた探偵はピクリとも動かさずじっと待ち続ける。指の周りを迷うように飛んだチョウは、大きな羽に似合わない細い足を探偵の言葉どおり指の先端に落ち着けた。
「夢か現実か、一つ占いでもして決めましょうか。ちょうど花も見つかりましたので。花占い、分かりますよね?」
何を始めるのかを察した彼は胸元まで上げた手を見つめ、汗ばんだのをごまかすように握りなおす。
花びらを一枚ずつちぎり、好き嫌いと交互に言っていき最後の一枚で決める占い。
自分はどうしたいのか。やめさせたいという気持ちは建前だけではない。ただ同時にどうなるのかという期待感もある。
止めたいのなら声が出せば、それが出来ないなら動く手を出せばいいんじゃないのか。暴力的な意味ではなく、チョウが飛ぶきっかけ程度に。数歩近づいてチョウの側で手を振ればきっとそれだけで、探偵の魔の手というべき場所から飛び立ってくれるだろう。
苦悩する彼が出す答えを待つ言乃葉だが、一見落ち着て見えるが内心かなり焦っていた。
電車での事件を即座に解決してから、彼よりも先にここに着いていなければならなく、急いで『飛んで行った』くらいだ。
空が赤く染まり遠くに見える山に日が差し掛かろうとしている。相変わらず彼にもなんとか探偵としてしか認識されていない探偵は、彼の答えが煮詰まりきるまでにまだ時間が掛かりそうなのを感じ、刻限が迫っている焦りから速めの決断を下した。
彼が目覚めた時ここでの記憶が少しでも残るようにと、ニヒィっと不快に笑った探偵はその指を蝶に近づけ羽をつまみ上げる。
生命の危機を本能で感じ取り、逃れようと必死に足を動かすがその足も反対の手で抑えつけられた。
蝶の体から一枚の羽根をより分けると、作業をするように躊躇なくむしる。
白い羽がひらひらと落ちて行くのを彼は目で追い、どんな顔をしてそんなひどい事が出来るのかと探偵を見やる。
笑みでも浮かべてという彼の予想に反して、その顔は真剣な表情そのもの。
「現実」
もしかしたら今見ているのは現実で、言葉が実際に起きるのは当たり前。その中で影響されない彼は唯一の異常者。それをごまかすために夢だと思い込んでいる。
すき、きらいと占っていく代わりに発された最初の言葉。
そんなわけがない、すぐに否定をしたいが何も口出しできないことに思わず歯噛みする。が、それすら言葉に従って行ったのか、言乃葉の言う通りただ歯を食いしばっているのか判断できない。
また一枚の羽が地面に落ちる。コロッと表情を変え今度は笑顔で語る。
「空想」
言ったことが本当に起きる?そんな馬鹿なことありえませんよね?もちろん夢に決まってますよ。人が少ないのも景色が固定なのも、あなたの想像以上にはできていませんから。
こぼれるような笑みは探偵の内面の優しさを表すようでいて、全く底が見えない。頻繁に変わる度、本当にその表情で合っているのかわからなくなってきた。
片側すべての羽をむしられた蝶は、時折片羽を動かすだけで明らかに弱っている。
見るに堪えない。目を背けたい。自分のいない所で、自分以外の誰かに。そう切実に彼は願った。その願いは一つだって叶うことはない。真っ白に輝く満月がコンクリートの上を舞い、地に着くことなく砂埃へ変わるようにその途中で昇華した。
「事実」
おかしいからこそ事実。この世界の原拠となった言葉は、『事実は小説より奇なり』。つまり奇である事こそが事実の証。
他のどの答えよりも、言葉の世界らしいそれらしい考え方、だがそれは違う。奇だと思っているのは、結局彼だけでヒロとタクや他の誰もそのこと自体にはおかしいと感じていなかた。奇の状態が通常の状態ならなにもおかしくない。それがいかに狂っていようと異常だと感じていなければそれは常識の範疇に含まれる。
そして一番の理由にその言葉自体が法則に沿っていない。最終的に言葉通りになったのも合ったかもしれないが、それは言葉が起こした結果ではなく付け足されたもの。だからにていてもことわざは違う、慣用句だけだ。
たった四枚しかなかった最後の羽根がかろうじてその面影を残すだけとなった。もう逃げる力も羽もないチョウをゆっくりと手で包み込む。すこし戸惑った後人差し指から一本ずつ開かれた手の上には残骸も羽の欠片も何もなかった。
「夢、ですよ」
狂気じみたことをしていた人物と同じとは思えないほど柔らかな表情を見せる。肩の力が抜けたようにマンションの縁に設置された鉄柵に肘をつき、うつむくようにして体重を預けた。彼から背を向けその方向を見もしないでふらりと指を上げ、
「えぇ、あなたの夢で合っていますよ。それももう終わりですが」
向けられた先をつられるようにして目で追っていく。
日も随分と落ち赤く錆びつていた街並みの奥、一色でべた塗された山並みに沈んで行く赤い月。もっと近くで、少しでも側で見ようと足が動き出し探偵の一歩分ほど隣に立った。
今更夢だと言われなくても初めから分かっていた。雲の切れ目に光が分散したことで目に入れても痛くない赤い月を眺める。
「それでこの夢ももう終わりですが何か見出せました?夢を見るのは楽しかったですか?」
睡眠の中で見る夢か、それとも将来としての夢か、おそらく現実にならない方の夢だろう。
世間話といった軽い感じで尋ねられたがすぐに答えはまとまらなかった。深く考えたこともなかったが、楽しいと即答できないということは、出すべき答えがすぐに出てこないのは、つまりそういうことなのだろう。しかし言わせてもらえれば、何から何まですべて楽しいというものに彼は出会ったことがない。言葉の使い方としては違うが十中八九、大変できつかったりまたはつまらなかったり面白くなかったり。それを越えた残りの一、二割が決め手となる。
それを踏まえたうえで彼は本心から楽しかったと言う意志をこめて頷いた。反射的にではなく、熟考したうえで出した答えはそう間違っているとは思えなかった。
ただこの質問も本題に対する前振りだったのか、疑わし気に横目で確認した探偵は
「本当ですか?しなければいけないことから逃げるための口実として夢を追っているだけでしょ?楽しいと
思っているのすら自分にそう言い聞かせているだけでは?」
逃げる口実としては……あったかもしれない。何かを目指して努力しているという前向きな目標は、大それたことでなければ頭ごなしに否定はされない。少なからず、どこかでそれを免罪符にして逃げていた自分がいたのはそうかもしれない。しかし、楽しいと思っている事に関しては理由がどうであれ間違っていない。
次から次へ出される質問の合間にはつながりがなく、一人で会話するように質問を繰り出しそして分かったような口を利く。
頷いたり、ちょっとした表情の機微だったり、ましてや心の中だけで出した答えだけで何がわかるというのか。これが夢じゃなかったのならそうだろう。
みんなが犬を見て可愛いとはしゃいでいるときに、どうせ牛や豚とたいして味変わんねぇのにと、年相応に曲がった彼の心中など気付けるものなどいるわけない。
だがここは彼の、彼だけの、彼しかいない夢の中だ。
この言葉が彼自身考えそう言わせているのなら。まるで鏡にむかって話しかけているくらいの馬鹿らしさだ。
「そもそも夢を追いながらでも他の事だってできますし……なんてことは言われなくても分かっていますよね」
されたくない質問を理解して選んでいるあたりから、性格の悪さが見える探偵は次なる質問への繋ぎとして、「そういえば」と何かを思い出したようにつぶやき
「年は、いくつでしたか?主人公のいえ、私の?それともあなたの?彼の?そういう設定は何一つ書かれていませんでしたよね?」
年齢なんて聞かれなくても分かるだろ。自分が書いた小説に出てくるキャラに関しては、自分以上に知っているはずだ。彼が思うに登場人物というのは生き写し、だからあまり年の離れた人物は書いてこなかった。それと同じ理由で女性の発言や思考も知らないことは書けないと全て切った。
それが果たしてよかったのか悪かったのか。登場人物が似たり寄ったりしたのも本当の気持ちを知っているのが彼自身以外にいないからだ。本当のあなたのことは彼にはわからないだろうし、本当の彼のこともあなたにはわからない。
「そう、ですか。それで一体いつまでこの夢を追いかけるつもりで?ずっと立ち止まって進んでないような気もしますが」
山影に落ちそうなぎりぎりでまだ光を放ち続ける往生際の悪さは、彼の決心の悪さともいえるだろう。いつまでたっても未完成の小説は可能性という言葉に縋りつき、完成してしまわないように大事な言葉を隠してしまった。
全てが夢だったならば、あとは目が覚め気持ちが冷めて夢から醒める。だから彼はやっつけ気味に夢オチという結末にすると決めていた。
「夢に悩んで悩んで悩み切ったあなたが頼ったのは結局自分。他力本願じゃなく自力本願ってわけですか」
起きたらちゃんとこの夢を終わらせてしまう。完成度も面白さももうなんだっていい、ただ夢の終わりにぴったりな結末を
「考え直して」
今まで思っていたことのすべてをたった一言に。頭の中でどれだけたくさんのことを考えていても、いざ口に出したら一言で精一杯。
考え抜いて出した答えは0からのスタートだったものが一つ増え、また1からやり直すに変わっただけだ。もしかしたら0にすら届いてすらいない、マイナスだった彼はやっと0に向かって一歩踏み出せたのかもしれない。
それに合わせてゆっくりとだが、目に見えて落ちていく日を眺め最後の光が力を失うまでを彼は一人で見届ける。
「さて、今日の夜明けは随分と早いですね。おそらくまだ日が昇ってないでしょうね」
夢の内容を都度覚えていない彼には分らない時間間隔。どこからその情報を得て来ているのか、自分の事ですら結局彼にはわからなかった。
鉄柵にもたれかかっていた体を起こした探偵は少し伸びをして息を吐き出し
「夢の終わりっていつも、ある事を思うんですよ」
一つの物語が終わるような少ししんみりとした心落ち着く時間。悩んでいた問題が一つ解決し清々しいともいえる彼は、いったいどのタイミングで終わるのだろうかと隣に立つ探偵の次なる言葉を待つ。
それは前方から探偵へ目を離した瞬間だった。ガタンと支えにしていた鉄柵が折れ、暗闇で段差を踏み外した時のような、急な体重移動をもたらしながら一段階下へ体が沈む。すぐに鉄柵から手を放し何とか落ちずに堪えた彼は、落ちていたらという想像に心臓が跳ねた。
飛び降り自殺一歩手前の状況、落ちていく鉄柵を眺めながらもう少しでも信じ切っていたならと安堵感に胸をなでおろすのも束の間。
後押しを、いやダメ押しとして力強く背中を押される。
だれにというのは、一人しかいない。
浮遊感に襲われ間抜けな表情を見せた彼は、無意識的に首を横に向け
「夢の終わりは夢から落ちて、つまり夢落ちですよ」
重力に引っ張られていく間際、探偵の嘲るような声を聴いた彼は探偵の名前を思い出した。
言乃葉のもう一つの意味、言の刃探偵というべき残忍性は必ず最後に正体を現す。
落ちていく最中走馬燈も見えず、脳が処理し切れない速さのせいでコマ送りで動いているようにしかみえない。
「…………っ!」
風圧を顔に受け衣服をはためかせながら息をのんだ彼は、予想以上に長い落下時間の間に一つの疑問が浮かんだ。上った階数など明らかに過ぎ、地上何百階から地下まで落ちていっているような錯覚の中。彼自身も忘れてかけていたが、これは彼の一度は思いついたアイディアだけで作られている夢の世界。ならば、結末を書いていないこの夢に果たして終わりはあるのだろうか。もしかしたらこのまま終わりのない夢から落ち続けるだけでは。
その答えはすでに、一番初めから明かされていた。落ちていく彼とは別に話は最初に戻っていく。最初というのは探偵との話でも時間が戻るという意味でもなく、物語として話の最初という意味でだ。
差し当たり、こんな書き出しでこの物語をはじめてみるとしよう。
乱暴な衝撃が頭を襲い、彼は落ちたのだと気づいた。痛みから解放されようと奥歯を噛みしめながら両手で頭を抑えつける。
最初は軽い気持ちだった。少しだけ、そのつもりだったが気付けば夢を見ていたようだ。こんなにも時間が経っているとはと、過去を振り返り彼は驚かずにはいられない。
こうなったのは誰が悪いのかと言われれば、やはりここには彼しかいなかった。
日の目を見ない真っ暗な部屋にインスタントコーヒーの軽く、浅いながらも親しみやすい単調な匂いはまだ満たされてはいなかった。