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魔術探偵 立川楓の怪奇事件簿

 急いでバスに乗り、楓は急いで学校へ向かった。校門前に着いた時は既に三時半を少し回っていたため、理香がオドオドと時計を気にしながら楓の到着を待っていた。

 楓はその姿を見るなり、一目散に駆け寄って行く。

「ゴメン、ゴメン。ちょっと遅れた」

 理香は安堵したようであった。

「ううん、あたしの方こそ、突然ゴメンね。いきなり学校に呼ばれたものだから、驚いちゃって」

「あたしのことなら気にしないでよ。じゃあ行こうか。あ、そうだ、どこへ呼ばれたの? 職員室?」

「うん。長沼のところ」

「分かった。じゃあ行こう」

 二人は校門をくぐり、ひっそり静まり返った校舎の中へ入っていった。グラウンドからは部活動の声が聞こえない。今回の事件で皆帰らされたようである。文字どおり、本当に静まり返っている。

 職員室へ向かうと、直ぐに長沼が現れた。

「おお、急にすまなかったな。お、立川も来たのか。まぁ良い、とにかく隣の進路指導室を暖めてあるからそこで話を聞かせてもらおうか。何、心配するな。私は鶴見を疑っているわけじゃないから」

 そう言い、長沼は二人を進路指導室まで連れて行き、腰を掛けた。

 室内は先日楓が連れて来られた部屋と同じであるが、今日は暖房で暖められており、窓ガラスは白くスプレーを拭いたように霞がかっていた。

 長沼はテーブルに両肘をつき、祈りを捧げるかのように手を握りながら尋ねる。

「電話でも話したとおりなんだが、実に不思議なことが起きた。私はもうすぐ四十歳で、教員を始めて十年以上経つが、こんな不可思議なことは初めてだよ。今日のお昼過ぎ、君たちの元へ行ったから分かると思うが、校内にいる鶴見以外の生徒・職員すべての人間の財布だけが消えた。本来なら警察沙汰になるが、こんなことを警察に告げたとしても信じてはくれないだろう。故に、事前にこちらできちんと調査をしてから通報することに決まったんだ。さっきも言ったように、私は決して鶴見を疑っているわけじゃない。ただ、君だけが唯一、盗難を免れることができたということで話を聞きたいんだ。それと、もう一つ理由がある」

 理香は真っ青になっている。それを見た楓が代わりに答える。

「もう一つですか?」

「ああ。少し前の盗難騒ぎの後、ホームルームで知っていることを書いてほしいというアンケートを取ったことがあっただろう? その時、鶴見は国立が犯人かも知れないと書かなかったか? 字の感じで鶴見だと思ったんだがな。なぜそう思ったんだね?」

 楓ではどう答えるか迷った。あの国立大を見たのは理香ではなく武蔵だからだ。すると、理香が重い口を開いた。

「せ、先生。あれは別に確信があったわけじゃないんです。ただ、理科の時間にトイレに抜けたような気がしたから、怪しいかなって思っただけで」

「そうか。なら良いんだ。こっちも知っている情報を書いてほしいって言って書かせたわけだからな。でも、国立は教室には忍び込んでいない」

 楓は驚き答える。

「え、どうしてそんなことが言えるんですか?」

「うん。実はな。盗難が相次いでから、各クラス授業によって教室が空く時は、その時間、授業のない教職員で見回りをすることになっているんだ。そして、国立が教室に忍び込んだとされる日、見回りをする担当教員は私だったんだ。

そしてあの日、あの時間には誰も教室には来なかったんだよ。だから、彼は犯人ではないと思うんだ。でも、その話は後回しだ。今、こうして校内にいた全員の財布が盗まれたんだからな」

(そんなバカな。武蔵が確かに国立大を見たと言っているのに……、そうしたらあいつの見た国立大はなんなのよ)

 と、楓は考えを巡らしたが、直ぐに理香の顔を見て、一旦考えるのを止めた。確かに、今はそっちの話より、長沼の言うとおり、今回起きた不可解な事件を考えるほうが大事だと感じたのである。

「せ、先生。鶴見さんはずっと私と一緒にいたんですよ。それに、校内にいた全員の財布を盗むことなんて、普通に考えてできるわけないじゃないですか」

「ああ。立川の言うとおりだ。こんなことは単独犯であっても、例え何人かのグループになったって不可能だろう。だが、事実、事件はこうして起きてしまった。だから、ただ話を聞きたいだけなんだよ。なぁ鶴見、何か知らないか?」

 理香の顔は真っ青になっている。楓は始め、自分が疑われていることに対する恐怖で、青い顔をしているのだと思っていたが、次第にそうでないということが分かった。理香の顔は何かを知っている顔だ。それを言うまいかで迷っているのだ。それくらい彼女の顔色は尋常ではないくらいに青かった。


          *


 一方、矢向宅では矢向と武蔵が事務所内で口論していた。事の発端は矢向のこんな一言から始まった。

「武蔵君、理香という女の子が犯人という可能性はないのかね?」

 武蔵はあからさまに顔を歪めた。

「理香の姉御はそんなことをする人じゃないっすよ。矢向さん。なんでそんなこと言うんすか?」

「うむ。一つ気になっておってな。それは彼女の財布だけが盗まれていないということだ」

「だから、それは理香の姉御がずっと肌身離さず持ち歩いていたから盗まれなかったんじゃないんですかね?」

「いや、その考えはおかしいんじゃ。先程のお嬢ちゃんの電話では、校内にいたすべての人間の財布だけが消えたと言っていた。すべてじゃよ。何百人もいる校内の中でたった一人、理香という女の子だけが助かっている。この場合、唯一、助かった彼女に何かあると考えるのは必然だと思うんじゃが」

「たまたまっすよ。だって、考えても見てくださいよ。もし、理香の姉御が犯人だとしたら、こんな自分が疑われるような犯行をわざわざ行うでしょうか? 俺は違うと思います。校内全員の財布を奪っておいて自分だけが助かる。なんていうことは行わないと思うんですが……」

 矢向は頷き、持論を展開する。

「そのとおりじゃな。武蔵君の言うとおり、理香ちゃんが犯人だと仮定すると、彼女の犯行はあまりに稚拙。というより、自らを捕まえてくださいと言っているようなものじゃが、わしは彼女が魔力を持っているのではないかと仮定している」

「魔力……、ですか?」

「そう。お嬢ちゃんや、君、そして、わしが持っている異能の力のこと。つまり、魔術じゃ」

「魔術! そんなバカな。それはないっすよ。だって、さっき姉御も言っていたじゃないですか。自分で触れて確かめたと。姉御はそういう魔術を使えるんですよね?」

「ああ。確かに、お嬢ちゃんには魔術や霊的な現象を元の状態に戻すという高い魔力と技術を要する魔術が扱える。とても巨大な魔力だ。その高い魔力ゆえ、霊や怪異を引き寄せてしまうんじゃな。魔力が高い人間の下には無意識にも霊や魔力が引き寄せられるんじゃよ」

「引き寄せられる?」

「そうじゃ。お嬢ちゃんも言っておったじゃろう。君は間違いなくお嬢ちゃんに引き寄せられたんじゃよ。確か、君は言っておったな、自分には生前の記憶がないと。そのような場合、強い魔力に引き寄せられることが多いんじゃよ。まぁ、今はそのことを言っている場合ではないんじゃがね。

 話しを戻そう。お嬢ちゃんはここを出て行く前に、全員の財布だけを盗む魔術があるか否かをわしらに考えて欲しいと言っておったな。わしらはそれを考えようとしよう」

「でも、そんな魔術ないって、矢向さん言っていませんでしたっけ?」

「うむ。言った。そんな都合の良い魔術はないだろうと。じゃが、可能性がないわけじゃない。成功率は天文学的な確立じゃがね」

「どういうことっすか?」

 矢向は腕を組み、武蔵の目を見つめながら答える。

「財布は盗まれたのではない。消えたんじゃ」

「消えた? だから、そう言っているじゃないですか?」

「まぁ、落ち着いて聞きなさい。『消えた』と『盗まれた』ということは、一見同じような意味にとることができるのじゃが、そうではないんじゃ。『盗まれた』という場合は、盗んだ犯人が、盗んだものを所持しているだろう。『消した』という場合は、文字どおり、誰もその消えたモノを持っていないんじゃ。本当に消えたんじゃ。こうなると、魔術で説明することができる」

「説明っすか?」

 武蔵がそう問うと、矢向はゆっくりと右腕をあげ、掌を銃のように形作り、それを真上に向けた。そして、目を閉じて何やら念じはじめた。

「良いかね。わしの人差し指の先を見ていなさい」

 言われるがままに、武蔵は矢向の指を見つめた。すると、指の先がライターにでも変わったかのように、小さな炎が湧き出るではないか。

「そ、そんな、これは一体?」

「念力放火能力。言わば、魔術の初歩中の初歩という術じゃな。魔術というのは、念じた意志を顕現させることにある。わしのこの炎はその意志に、赤く色を付けただけなんじゃ」

「それと、財布が消えるってことの何が関係しているんすか?」

「うむ」

 そう言うと、矢向は立ち上がり、書斎机に向かい、引き出しから、古びたボールペンを何本か取り出し、それを、ローテーブルの上に並べた。

「こ、これは?」

「いいから見ていなさい」

 矢向は再び、先程と同じように念じはじめた。すると、今度は火がつくわけではなく、ボールペンの先端が少しずつ、輪郭が曖昧になり溶けていくではないか。否、消えているのだ。

 しばらくその現象を眺めていると、ボールペンは完全に消えた。

「き、消えた!」

 武蔵は驚き叫んだ。そして、矢向の方を見つめ尋ねる。

「や、矢向さん。これも魔術なんすか?」

「うむ。そのとおりじゃよ。先ほどは何かを顕現させた。慣れてくると、消すことができるようになるんじゃ。つまり、魔術は意志によって無いものを顕現させ、あるものを消滅させることもができるということじゃ。この場合の消滅『消す』ということは、盗むということじゃない。文字どおり、消えるんじゃ。だから、この世にはあのボールペンはどこにもない」

「どこへ行ったんすか?」

「いや、どこへ行ったとかそう言う問題ではないんじゃよ。ただ、消えたというだけなんじゃ」

「ただ、消えた……。矢向さん。もしかしてその消えたって言う現象が、今回の事件と大きく関わってくるってことっすね」

「ほっほっほっ。君は鋭く知的な頭脳を持っているのぅ。まさにそのとおり。今回の事件も盗まれたのではなく消えたと考えると、説明できなくもない。じゃが、問題がある」

「問題ですか?」

「そうじゃ。消すという行為を行うためには、予め消し去る対象物を把握しておかないと成功しないんじゃ。つまり、校内にいた全員の財布を位置や形状を把握しないと、この魔術は成功しない」

「で、でもちょっと待ってください。確かに財布を消したとすれば、今回の事件を説明できるのかもしれませんが、そんな消し去る対象物を予め全部把握するなんて誰にもできないですよ。百歩譲ってその難題をクリアできたとしても、一体誰がこんなことをしたんすか? あの学校には、俺と姉御くらいしか魔力を使える人間はいないんですよ。少なくとも、俺と姉御は犯人じゃないんすよ。だったら、誰が?」

 矢向は遠い目をし答えた。

「君の言うとおりじゃ。わしが今言ったことはとてもじゃないが成就できる類のものではない。だが、過去にそういう天文学的な確立を超えることに成功した例もあるんじゃよ。故にあらゆる可能性を考えておく必要があるんじゃ。

 武蔵君。確か事件が起きる前に学校の屋上から強大な魔力を感じたと言っておったな?」

「はい。確かに、例の魔力は屋上から降り注ぎましたけど……」

「確か、あの時お嬢ちゃんは言っておった。魔力に気が付き、廊下に飛び出すと、階段を下ってくる理香ちゃんの姿を見たと。話ではお嬢ちゃん達が勉学に励んでいるのは四階であり、その上は屋上しかないとのことじゃった」

「矢向さん。同じことを何回も言わせないでくださいよ。確かに、理香の姉御は屋上から降りてきたのかもしれないんすけど、理香の姉御は魔術なんても代物は使えないんすよ。だって、俺の姿すら見えない人なんすよ。そんな人がこんなに強大な魔力を持っているわけがないっすよ」

「武蔵君。君は知っておるかな?」

「何をっすか?」

「お嬢ちゃんも最初は、あの強い魔力を無意識に放出させていたのじゃよ」

「え、姉御が……」

「そう。最初は自身に宿っている強大な魔力をコントロールできなかったんじゃ。それがもとでお嬢ちゃんは色々苦しい思いをしてきたんじゃよ」

「そ、そう言えば、そんなことを言っていたような気がするっす。だから、俺にもあんなに親身になって魔力のコントロール方法を教えてくれたんすね」

「うむ。だが、この場合わしが言いたのは、魔術や霊的現象は何も意識的にだけ行われることはないんじゃ。むしろ、この世にある多くの怪異現象などは無意識によって発生しているものが多い。この世にはわしらのように自身の魔力を自覚し、コントロールできている人間は少ないんじゃよ。まぁ、といっても先天的に魔力を持っている人間は多くはないのだがね」

「あ、ちょっと待ってくださいよ。姉御は確か魔術を使って、理香の姉御に触れたって言っていましたよ。その場合、理香の姉御の魔力は無くなっちゃうんじゃないんすかね?」

「そこが、今回の一番のミソじゃよ」

「ミソ……、っすか?」

「そう。確かにお嬢ちゃんは理香ちゃんに触れたのじゃろう。そうなれば、仮に理香ちゃんが魔力を持っていたとしても、その魔力を消し去ることができるんじゃ。だがね、もしもお嬢ちゃんが触れた後に、特殊な力が芽生えたとしたらどうだろう?」

「で、でも、姉御が触れたのは比較的最近なんじゃないんですか?」

「触れた時期は別にいつだって良いんじゃよ。要はお嬢ちゃんが触れた後に、魔力が芽生えるのだから」

「ん、どういう意味ですか?」

「不思議なデータがある。何の魔力も持たない人間が、最も多く魔力を得る原因となっているのは、身近に存在する怪異、すなわち、魔術に触れるということなんじゃ。そうすると、今まで発現していなかった自身の奥の方で眠っていた魔力が、魔力を感じ取ったことで、眠りから覚める場合があるんじゃよ」

「つまり、理香の姉御は、姉御に触れられたことで、本来持っていた魔力が呼び覚まされたってことなんすかね?」

「……かもしれん。それだけお嬢ちゃんが使うあらゆる魔術を元に戻すという魔術は解明できていない点が多いんじゃよ。武蔵君、君は理香ちゃんの背景を知っていないかな?」

「背景っすか?」

「そう、お嬢ちゃんと理香ちゃんは小学校から一緒なのかい? 彼女たちはどこでであったのだろうか?」

「確か、中学に上がってからじゃないですか? なんとなく聞いたのは、理香の姉御は中学に上がってから、こっちへ引っ越してきたとかで、姉御自身も引っ越しを繰り返してきたから、それが縁で仲良くなったとか、そんな話を聞いたことがありますけど」

 矢向は頷くように首を上下させながら呟く。

「なるほど……な」

 首を傾げ、怪訝そうに武蔵は尋ねた。

「何か分かったんすか?」

「いや、まだじゃな。まだ半分じゃよ」

「どういうことっすか? 半分分かったって、俺にはなんにも分かんないっすよ」

「もしかすると、この事件は誰も悪くないのかもしれない。力が力を呼ぶ。類は友を呼ぶ。あの諺と同じように……」


          *


 場面は変わって、とある喫茶店内――。

 そこには、校内での長沼教諭からの取り調べを終えた、楓と理香の二人が、奥の席でややうつむき加減で座っていた。

 時刻は午後四時半 ――。

 校内での尋問は直ぐに終わった。流石の長沼教諭も本気で理香を犯人とは疑ってはおらず、ただ、唯一財布を盗まれたかった人間として、今日一日をどのようにしていたのかを細かく聞いただけであったのだ。

 理香は終始青い顔をしており、それ必死に楓が隠すように、長沼の質問に答えていた。

 なぜ、理香がこんなにまで青い顔をしているのか? その理由を今さっき、楓は理香から聞いたのであった。

 事の発端は、尋問を終えた帰り道のことであった。

 コートを着ていても真冬の冷たい風が肌を刺すように襲い、乾燥した空気の中、二人はトボトボと歩いていた。

 犯人だと疑われているわけではないが、理香にとっては、自分だけが財布を盗まれなかったので、何処か居心地が悪かった。

 楓も楓で、得体の知れない怪異に頭を悩ませていた。

(もしかしたら、今回の事件もあたしが引き寄せてしまった現象なのかもしれない)

と、考えていたのだ。

 事実、楓は持っている強大な魔力によって今までずっと異様な現象に悩まされていた。家族全員で苦しんだのだ。それが中学上がり、矢向に出逢ったことで解決したように思えていた。

 楓は矢向との特訓により、自身の魔力をコントロールすることができるようになったが、霊を引き寄せてしまう体質が変わったわけではない。それでも魔力を使い、自在に霊を成仏させたり、消し去ったりできるようになったので、魔術現象を引き寄せている事実が薄められているようになったが、本質はあまり変わっていない。

 魔力をコントロールできるようになった今でも、楓は霊や魔術を引き寄せているのだ。

 あらためてその事実に気が付くと、楓はしょんぼりと肩を落とした。そんな様子と瓜二つの理香は、楓に向かったこう言った。

「ねぇ、楓。これから少し時間ある?」

 その、消え入りそうな小さな声に、楓はなんとか反応した。

「え、うん。時間ならあるよ。何かあるの?」

 理香は話しづらそうに、もじもじとしながら答えた。

「う、うん。じ、実はまだ言っていなかったことがあるの……」

「言っていなかったこと?」

「うん。で、でもここじゃあれだし、ちょっとどこかお店に入らない? あたしが払うからさ」

「で、でも悪いよ。払ってもらうなんて」

「お、お願い。どうしても聞いてほしいことがあるの、払ってもらうのに抵抗があるなら、今度返してくれても良いから。ね、だからお願い、楓!」

 理香は強くそう言った。流石にそこまで言われると、楓も断りきれなくなった。そして、二人は駅前にある少し小綺麗な喫茶店へ足を運んだ。

 店内はそれ程混雑しておらず、ポツポツと空席が目立った。クリスマスが近いため、小さなクリスマスツリーが飾られている。

 二人は奥の方にある空いた二人掛けの席を選び、そこへ座った。

 天井からつりさげられている小さなライトが、ウォールナット調の年季の入った机を照らしている。椅子のクッションもベージュのベルベット生地に花柄プリントされたオシャレな代物であった。中学生が来るには少し大人びた空間であったが、二人はそんなことを気にはしなかった。別のことに気を取られていたためだ。

 もちろん、別のこととは今回の事件のことである。

 メイド調の衣装を着たウエイトレスが注文を取りにやってきた。ウエイトレスは中学生の二人をじっと眺めたが、機械のようにグラスに水を注ぎ、メニューの案内をした。二人が適当に紅茶を頼むと、ササッとメモを取り、直ぐに奥の方へ消えていった。

 それを確認した後に、理香が静かに口を開いた。

「ねぇ、楓。幽霊っているんだよね?」

 いきなりのオカルトな質問に楓は驚いたが、冷静さを保つように、静かに答えた。

「うん。いるよ。だって、武蔵のこと見たでしょ?」

「この世には知らないことや不思議なことが、実はたくさん溢れているんだね」

「うん。でも知らないことの方がたくさんあるよ。知らないことを知りたいと思っている時が一番良いのかもしれないし」

「でも、もうあたしは知ってしまったよ。楓のことも。武蔵君のことも。そして今回の事件のことも……」

「今回の事件って。あれはまだ犯人が見つかっていないし。どう考えたって理香が犯人なわけないよ。ただ、参考人として呼ばれただけだし、あんまり気にしない方が良いよ」

 理香は深く溜息を付き、

「ううん。違うの。あれね。あたしが犯人なのかもしれないの。というよりも、例の盗難事件全部」

 その発言はすべてが異様だった。ありえないことをさらりと言う理香の言動も異様であるし、第一、理香が犯人なわけはないのだ。その理香が自分は犯人だと自白している。こんな異様なことがあるのだろうか?

 楓は咄嗟に言葉が出てこなかった。頭の中で先ほどの理香の言葉を巻き戻し、再生し、また巻き戻し、再生する。そんなことを繰り返した。

「楓。あたし、どうしたら良いのかな?」

 ようやく楓は一言絞り出す。

「なんで?」

「え?」

「なんで?」

「だから、なんで? って何?」

「なんでよ? なんで、自分が犯人だなんて言うの」

「あたしの中で心当たりがあるの。いえ、違う。なんて言うのかな……、思い当たりって言うのかなぁ」

「思い当たり?」

「笑わない?」

「うん。笑わないよ。っていうより、話しが断片的すぎて良く分からない。一から教えてよ。絶対に笑ったり、けなしたりしないから」

「分かった。実はね。あたし、楓と同じように魔力を持った人間かもしれないの」

「え……」

(そんなはず、あるわけがない)

 と、楓が思っていると、直ぐに理香が話しを続けた。

「あたしね。楓のように力をコントロールすることはできないの。ただ、念じているだけなの。そうなったら良いのになって……」

「念じる?」

「うん。最初はね全く自覚なんてなかった。っていうより、ホント最近まで自覚なかったの。自覚し始めたのは、楓が武蔵君っていう幽霊を紹介してくれた時、あの時、あたしの中で、幻想と現実が少しずつ融合していったの。今まではこの世に怪異なんて、幽霊なんて、魔法なんて、そんなものはすべて存在しないって思ってた。この科学万世の時代に、オカルトなんてないでしょって、普通なら考えるでしょ。だから、自分の力もただの偶然だって思っていたの。でも、それは違うみたい。あたしには、なんか良く分かんない得体の知れない力があるの……」

 楓は驚き、慌てて答えた。

「ちょ、ちょっとどういうこと? 得体の知れない力って何?」

「あたしにも良く分かんないんだ。これが本当なのか嘘なのか。それさえも良く分かんない。ただ、今回の事件もその前に起きた盗難事件も、その前も、その前も、例の国立大が犯人だって言われている事件も、紐解いて元を辿っていくと、すべてあたしが願ったことなのよ」

「願ったこと?」

 理香は鞄の中から一冊のノートを取り出した。どこかで見たことのあるノートだ。

 楓は直ぐに思い出した。盗難騒ぎを調査した時、理香が持ってきた日記だ。

「これって、理香の日記でしょ? なんでこんな所に持ってきたの?」

「中身を見ると分かるんだけど、これは日記というより予言の書みたいなものなのよ」

「え、どういうこと?」

 理香は日記をぱらぱらとめくりあるページを見せた。

「このページを見てよ」

 楓は開かれたページを見つめた。

『○月〇日

 また盗難事件が起きた。しかも犯人はまだ捕まらない。事件が起きたとされる時間、私たちは移動教室で理科の実験を行っていた。その時、教室から出て行ったのは国立大だけだった。多分、あいつが犯人かもしれない。頭が良いから、今まで見つからなかっただけあのかもしれない……』

 日付は武蔵が国立大を見たという日の前日である。

 楓が訝しそうにノートを見つめていると、理香が再び話し始める。

「予言が当たっているのはこれだけじゃないの。あたしは中学に上がってからこっちへ引っ越してきたでしょ。だから、最初は全然友達がいなかったし、毎日につまらなかったのよ。つまらなかったから、いつしか空想ばかりするようになってた。学校で何かドラマみたいな事件が起きたら面白いだろうとか、愉快だろうと、それを自分が名探偵みたいにして謎を解くことができたら面白いだろうなって……。そういう空想を日記に書いていたのよ。読み返せば読み返す程、恐ろしくなるよ」

 理香がそう言うと、紅茶を持ったメイド風ウエイトレスが楓等の机までやってきた。そして、その場で空のカップに紅茶を注いでくれた。辺りに温かな湯気と、仄かな茶葉の甘い香りが漂い始めた。

 注がれた紅茶をふぅふぅと覚ましながら、理香は一口飲み、一息ついた後、再び話し始めた。

「なんであたしたち仲良くなったのか分かる?」

「え、理由なんてあるの? あたしは理香と友達になれて良かったって思ってるよ」

「それはもちろんよ。ほら、あたしたちってゴールデンウィーク明けくらいから仲良くなったでしょ。あたし、前から楓のことは気になっていた。クラスでいつも一人だったし、あたしと同じ様な境遇なのかなって思っていたの。でも、それ以上に楓に強く引き付けられたの」

「あたしに?」

「うん。理由は良く分からない。でもあたしは楓と友達になれて凄く嬉しかったし、その気持ちは今でも全く変わっていないよ。ただ、日記を見るとその頃から空想が少しずつ当たり始めたの。ちょうど盗難事件が始まった時期と重なるのよ」

「盗難が始まったのは、ゴールデンウィーク前だったよね。最初の頃は継続して事件は起きなかったよね」

「うん。今考えると、あたしはあの時、盗難でも起きないのかなって考えたことがあったの。あたしね、小学校の時は不登校だったから、毎日家でテレビばかり見ていたの。午前中って教育テレビで学園物のドラマがやってるでしょ。その中でちょうど盗難事件の回があって、クラスのちょっと引っ込み思案な男子生徒が探偵役となって犯人を見つけるのよ。ちょうど、武蔵君みたいなタイプな男子。その犯人が国立大みたいな頭の良い学級委員の男子なのよ。それを見て、探偵って凄いなって、あたしもそういうことをしてみたいなって思ってた。中学に上がってもそういう空想ばかりしていた。

それで、ある日盗難事件を空想したことがあったの。そしたら次の日、本当に盗難事件が起きた。しかも盗難に遭った財布は、結局今まで見つかっていない、消えてしまったの。もちろんあたしは一人で事件を解決してやろうと思っていたけど、そんなことは無理だった。だって全然分かんないだもの。盗まれた子の話だと、いつ盗まれたのかさえ分からないんだって」

「ちょっと待ってよ。いくらなんでも偶然でしょ。念じるだけで願いが叶うなんてことが、この世にあるわけないじゃない」

「でも、この世には幽霊がいて魔術が本当にあるんでしょ。だったら、念じるだけで願いが叶うなんてこともあるんじゃないの?」

そんなことがあるわけがないと楓は思っていた。魔術は確かに念じることが根底にあるが、願いを叶えるとは少し違う。思ったことを外側に出すとでも言えば良いのだろうか。

 炎を出す場合、出したい炎を頭の中に思い浮かべる。そのために、本物の炎をよく観察しても良いし、頭の中だけで考えても良い。それを外側に出すイメージだ。

 先天的に魔術的な力を扱うことのできる人間は、これを頭に思い浮かべるだけで、自分の顕現化させたい現象を外に出す、押し出す力のようなものを感じることができる。

 それを訓練によって押し出すイメージをしっかりと自分の意志でコントロールできるようになった時、初めて半分この魔術は成功する。

 その次に、それに色を付けたり、温度を与えたり、匂いを与えたりしなければならない。そうでもしないと、ただ、炎の形をした何かが目の前で蜃気楼のように揺ら揺らとするだけで意味がないからである。

 これも鍛錬によって、色、温度、質感、臭い、などを本物の炎を観察することで本物のように顕現することができるのだ。魔術師が行う魔術の多くは、呪文を唱え、あっさりと不思議を起こしているように見えるが、実はその裏で多大な汗と涙を流しながら、魔術を習得しているのである。その結晶の結果が、こうしてあっさりと魔術を行っているように魅せるのである。

 この世には多くの分野に天才が存在するが、彼らは全く何もせず、ただ天才になったわけではない、その裏が見えていないだけで、天才は努力をしているのだ。

 魔術も同じである。如何に人類最高の魔術の才能がある人間であっても何もしなければ、何一つ顕現化させることはできないだろう。第一、魔術を行うためには頭の中でのイメージが重要である。

 今回の事件の場合、財布だけが消えた。魔術を行い、財布を消し去るということは、先述で矢向が述べたように可能である。しかし、その際に消し去る財布のイメージや位置ををしっかりと把握しておかなければ、消し去ることはできない。

 にもかかわらず、理香という少女は大したイメージも持たず、空想し楽しむような体で、簡単に財布を消し去ることに成功したというのである。これが真実だとしたらなんという天才的な資質だろうか。

(そんなことは……絶対にあるはずがない……)

と、楓は考えていた。目の前にいる理香という大切な友達のことがよく分からなくなっていた。

 それでも楓は冷静さを保ち、理香に尋ねる。

「仮に……、理香が言っていることが魔術で説明できたとしても、国立大のことはどうなの? 確か、国立大も事件に加担しているわよね?」

「ううん、多分。国立大は事件に関わっていないわ。あたしも最初は事件に関わっていると思っていたんだけど、多分違う」

「どうして? だって、財布を盗んだところを武蔵が見ているのよ」

「うん。でもさぁ。武蔵君って何者なの? あたし、何処かで彼を見たことがあるような気がするんだけど……」

 楓には理香が言っている意味が分からなかった――。

(否、理香にも分からないのかもしれない。だけど、心の底で何かを感じ取っている)


          *


場面は再び矢向邸――。

 時刻は午後四時半を回っている。外は少しずつ暗くなり、部屋の中が薄暗くなってきたため矢向は電気を付けた。

 室内には、矢向と武蔵の二人がいた。だが、窓ガラスに写るのは矢向の姿だけであった。矢向はそのことを特に気にすることもなく、カーテンを閉めた。

 すると、それを見ていた武蔵が言った。

「姉御、遅いっすね……」

「うむ。話が長引いているのかもしれんな」

「理香の姉御も大丈夫っすかね?」

「分からん。心配なのは、お嬢ちゃんの方であるが……」

「え? なんでっすか?」

「武蔵君には厳しいかもしれない。何度も言うが、わしは今回の犯人を理香ちゃんじゃろうと考えておる」

 武蔵は驚き、矢向の方を鋭く見つめた。

「えええ。なんで、なんでなんすか? そんなわけあるわけないじゃないですか。だって、理香の姉御は姉御と違って魔術なんて全くできないんですよ」

「実はそうでないとしたら」

「そうではない? つまり、理香の姉御にも魔力があって、魔術が使えるということですか?」

「ああ。そういうことじゃ」

「でも、そんな校内にいる全員の財布を消すなんてことは可能なんでしょうか?」

「恐らく、理香ちゃんはお嬢ちゃんが使った魔術に触れたことで魔力が目覚めたのは間違いないであろう。その後、意識的か無意識なのか分からないが、魔術を引き起こすようになったのではないか? そして自分に芽生えた魔力に気が付き、今回の事件を起こした」

「仮に理香の姉御が犯人だとしても、どうやって校内に残っている生徒の財布の位置や形状を把握するんですか?」

「彼女が如何なる魔術を覚えたのか分からん限り、知ることはできないじゃろう」

「あ、でも待ってください。確か、別に犯人がいるんですよ。国立大っていう姉御たちのクラスメイトがいるんすけど、こいつが財布を盗むところを俺は見たんすよ。この目で確かに見ました。あれは間違いないっす」

「なんじゃって!」

 矢向はやや大き目のトーンで答えた。

 彼が声を大きくしたのは、自らの推理に欠陥があったからではなく、別のことに気が付いたからだった。矢向は独り言のように話を続けた。

「もしかしたら、鶴見 理香ちゃんという人間は、意識的か無意識的か分からないが、何かを消し去るという魔術ではなく、何かを生み出す魔術を心得ているのかもしれんな」

 その言葉に武蔵も反応する。

「……生み出す」

 それはまるで、楓と対をなす魔術であった。楓が魔術や幽霊を元の状態に戻す魔術が存在しているのだから、理香の持つ、新たに生み出すという魔術が存在してもおかしくはない。

(もしかしたら、今回の事件は消えたのじゃなく、消えたという幻想を生み出されたのではないのだろうか?)

 と、矢向が考えていると、さらに大きな問題にぶつかった。それは……、小杉 武蔵はどこからやってきたという問題である。一見したところ、彼は呪縛霊であるが、自身の記憶が全くない。

 生前の記憶が衝撃的すぎるため、記憶喪失になっている呪縛霊は、極稀にいるが、基本的には皆、生前の記憶を覚えているものである。というより記憶が強いからこそ、死んでも尚この世に魂だけが生き残ることを可能にしているのだ。だが、武蔵は何一つ覚えてはいない。これは明らかにおかしい。なぜ、武蔵は何も覚えていないのだろうか。そんなことがあり得るのだろうか。

 矢向はそこで一つの結論に辿り着く。

(武蔵君は何も覚えていないのではない。元から何もなかったとしたら……)

 つまり、今回の事件で理香がクラスメイトである、国立大という少年の幻覚を生み出しかも知れないように、小杉 武蔵もまた、理香が生み出した幻の存在ではないのだろうか?

 矢向があまりに真剣に考えるものだから、室内はしんと静まり返っていた。武蔵自身も完全に声をかけるタイミングを失い、どうして良いのか分からなかった。

 時刻はもうすぐ午後六時を迎えようとしている。すると玄関の方からゴソゴソと音が聞こえ始めた。

 どうやら、楓が帰ってきたらしい。さらに、物音は楓のモノだけではなく、もうひとつ聞こえた。

 そう、鶴見 理香も一緒に矢向邸に来たのであった。

 楓は自分の家のように、慣れた手つきで玄関の電気を点けドアの鍵を閉めた。

「矢向さん。ゴメン、ちょっと時間かかっちゃった」

 その声を聞き、矢向と武蔵は玄関まで向かう。事務所を出ると、廊下は肌を刺すような冷たい空気が流れていた。

 楓と見慣れぬ一人の少女を見るなり、矢向は部屋に案内する。

「お帰り。外は寒かったじゃろう? ささぁ早く部屋にお入り」

 それを聞いた楓が言う。

「ただいま矢向さん。あのね、実は友達を連れて来たのよ。良いでしょう?」

 と楓が言うと、隣にいた理香が答える。

「は、初めまして。鶴見 理香です。立川さんの友達です。宜しくお願いします」

 と深々とお辞儀をした。

 そう言われ、矢向は見慣れぬ少女を見つめた。楓と同じくらいの背丈の少女で、紺色のコートを羽織っている。そして、この少女が一連の事件の真犯人の可能性が高いとは、到底思えなかった。

「ああ。構わんよ。だが、良いのかい? もう六時になろうとしておるじゃろう。そろそろお家に帰らないと、親御さんが心配するんじゃないのかい?」

「それは大丈夫。さっき今日は友達の家に行って遅くなるからって連絡しておいたから、それでも八時位には帰ろうと思うけど」

「よろしい。ではこんな所で立ち話もなんじゃから、部屋へ向かおうか」

 四人は事務所内へ向かった。

 事務所内がこんなに人で溢れたのは何十年ぶりだろうかと反芻しながら、矢向はあらためて湯を沸かし、四人分のコーヒーを淹れた。

 室内の暖かな空気と、コーヒーの良い香りが混ざっていく中で、楓が矢向に言った。

「ねぇ、矢向さん。何か分かった?」

「何かというのは事件のことじゃろう。こっちも一通り考えをまとめているが、いまいち煮え切ってはおらんよ。のぅ」

 矢向は武蔵を見つめた。武蔵もそれに気が付き、深く首を上下させる。

「はい、矢向さんの言っているとおりっすよ。姉御はなんか分かったんすか?」

 楓は理香の方をチラッと見た。理香は反応しなかったが、視線には気が付いているようだった。

「じ、実はね。今回の事件の犯人は……、理香が自分じゃないかって言うのよ」

 矢向と武蔵の目が大きく見開かれる。先程まで議論していたことと、全く同じであったためだ。

 堪らず武蔵が問う。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。どういうことなんすか。矢向さんも姉御も理香の姉御も皆どうしちゃったんすか?」

 それを聞いた楓が驚いた顔をみせ、

「矢向さんも?」

 さらに、武蔵が答えようとするが、矢向が右腕をあげ、武蔵を一旦静止させ、

「そのことなんじゃが、どうやら、わしらとお嬢ちゃんらは同じことを考えているようじゃな。どうかね、少し説明してくれんかね?」

「ええ、良いわ」

 楓がそう言うと、理香の方を再び見つめた。今度はその視線に気が付き、理香は楓を見つめ返し深く頷くと話しを始めた。

「じ、実は……。その、信じてもらえないかもしれないんですけど……、あたし何か幻覚みたいなのを作り出す力があるみたいなんです」

 その後に楓が補足する。

「要するに、今回の事件は理香が頭に思い浮かべた現象が、そのまま幻覚となってこの世に現れた。かもしれないってことなんだけど、矢向さん。そんな魔術あり得るのかしら」

 矢向は眉間にしわを寄せ、

「うむ。実はね、わしら二人も似たようなことを考えておったんじゃ」

「え、どういうこと?」

「お嬢ちゃんや武蔵君が、財布が消える前に校内で感じた強大な魔力、あれが屋上から降り注ぎ、その屋上には理香ちゃんがいたかもしれないということから、犯人はもしかしたら理香ちゃんかもしれんと考えたわけじゃ。さて、今回の事件が可能か不可能かということじゃったな。結論から言うと、可能じゃ」

「ホントに。だって、校内にいた理香以外の人間の財布が全部消えたのよ。そんなことってありえるの?」

「順に話そう。財布だけを狙い撃ち、盗むということは不可能じゃ。じゃが、単に消すというだけなら話は変わってくる」

「消す?」

「そうじゃ。財布を盗むのではなく、消すのであるのならば可能性が無いことはないが、非常に難しい。天文学的な確立を乗り越えなければならんじゃろう」

「難しい?」

「そうじゃ。いくら強大な魔力があったとしても器用に財布だけを消し去るというのは難しい。少しでもずれれば、財布以外の物も一緒に消えてしまうじゃろう。まぁ、成功するまで繰り返して魔術を使えるのならば話は変わってくるが、今回はそうではない」

 それを聞いた楓の顔がうっすらの和らぎ、安堵した表情へと変わっていく。理香が犯人ではないと証明できてうれしいのであろう。

しかし、矢向は話しを続けなければならなかった。否、ここで止めておいても何ら問題は無かったのかもしれない。だが、真実を語ることが、探偵としての責務のように思えたので仕方がなかった。

「いや、お嬢ちゃん。可能性はそれだけじゃないんじゃ」

 矢向の声に背筋をビクッと震わせながら楓は答える。

「それだけじゃないって?」

「今回の事件は、財布が『盗まれた』とか、『消えた』とかで考えるから、可能性が小さくなっていくんじゃ。全く違うように考えると、実は可能性は低くない、一つの現象が浮かび上がってくる」

「な、何? でも、盗むことも消すことも不可能なら、もう他に可能性なんてないんじゃないの?」

「いいや。ある。あるんじゃよ。もしも、今回の事件で財布なんて盗まれていないし、消されてもいないのだとしたら……」

「え、そんな! 今回は確かに財布がなくなっているのよ。あたしだって財布がなくなったんだから」

「お嬢ちゃん、もう一度鞄の中を確かめてみるんじゃ」

「そんなこと言っても、あたし何度も確認したから、絶対にないはずだけど」

 楓はブツブツと言いながら、鞄の中をゴソゴソと物色し始めた。昼間から何度も探ってはいるが財布は確実に消えたのである。今更よく探しても絶対に見つかるはずがないと思っていた。

「矢向さん、ほら、財布はやっぱりないわよ」

 楓は鞄の中に入っていた荷物をすべて取り出し一つ一つ丹念に調べ、空になった鞄の中を広げるように矢向に見せた。

「うむ。ではお嬢ちゃん。次は魔術を使って確かめてみなさい」

「え、魔術を使うってどういうこと?」

「つまり、魔術を消し去り、霊を成仏させる際に使う、あの魔術を使ってみなさい」

 楓には矢向の意図することが良く分からなかったが、とにかく魔術を使い、再び鞄の中を調べることにした。楓の両腕は光を照らされたかのようにぼんやりと光り始めた。

 その光が、鞄を包み込んでいったかと思うと、楓が驚きの声を上げた。

「え、どうして、なんでよ……」

 楓の驚きの声に理香も武蔵も反応し駆け寄ってきた。

「どうしたのよ、楓」

「理香、実は……、これを見てよ」

 楓はそう言うと、鞄の中から、さっきまで絶対になかったはずのモノを取り出した。

 それは、消えたはずの楓の財布であった。使い慣れた薄ベージュ色の長財布があり、中身も一切手を付けられずに無事であった。ずっと鞄の中に入れられて、今まで忘れ去れていたかのように冷たくなっている以外は、何一つ変わっているようには見えない。

「や、矢向さん。これって一体、どういうことなの?」

「やはりそうか……。良いかね、今回の事件は何も盗まれていないし、消えてもいないんじゃよ。ただ、屋上から降り注いだ魔術によって財布が消えたように見えているだけなんじゃ。そういった幻想を作り出されただけなんじゃよ」

「幻想?」

「そうじゃ。財布だけを狙い、消したり盗んだりすることは難しい。しかし、消したようにみせることなら比較的に楽にできるんじゃよ」

「で、でも、そんなことどうやってできるのよ?」

「恐らくじゃが、屋上から降り注いだ魔術というのは、幻覚を作り出すための粒子状の霧のようなものと考えた方が良いじゃろう。お嬢ちゃん、良く思い出してもらいたい。もう随分前の話になるが、お嬢ちゃんがまだ魔力を使いこなせなかった頃、わしらは松濤で事件を抱えておったろう。あの時の幽霊屋敷を思い出してもらいたいんじゃ」

「松濤……、幽霊屋敷……」

 あの事件は、今から半年以上も前の春のことだった。今よりもずっと暖かかったし、気候も穏やかだった。

 楓と矢向は松濤で起きた幽霊屋敷の事件で、悪魔と闘うことになったのである。あの時、悪魔は自らの魔術で幽霊屋敷となった鹿嶋田邸を普通の家として見せるため、小さな粒子状の霧を辺りに散布し、見る人を煙に巻いていたのである。

 あれと同じ現象が今も起きているのだ。

 言われてみれば楓は財布が盗まれた時、魔術を使わなかった。人前ではなるべく魔術を使わないようにと心掛けていたし、財布が盗まれたのではなく、消えたように幻覚を見せられているなんてことは思いも付かなかったからだ。

 すると、矢向が告げた。

「いいかね。幻想を生み出すだけならば、大した魔力はいらんのじゃ。それに、お嬢ちゃんは日常的に魔力を使っていたわけではなかった。故に、度々起きていた怪奇現象の発端に気が付くことができなかったんじゃ。しかし、今回のような大掛かりな幻想を生み出すとなると話は変わってくる。今までのような感じることも難しい量の魔力では土台無理な現象じゃろう。そうなって初めて、今までの怪奇現象に魔術が関係していると分かったんじゃ」

 それを聞いた楓は、

「要するに、松涛事件では魔力をコントロールできないことが逆に上手く作用し、悪魔の生み出した幻覚を打ち破ることができたけど、今回は真逆で、魔力をコントロールできるようになったが故に、その盲点を突かれてしまったってことよね」

「そういうことじゃな……」

 楓は力なくうな垂れるようにソファーに腰を掛けた。どんよりとした空気が辺りに漂い、矢向はそれを払拭するように楓に声をかけた。

「お嬢ちゃん、元気を出しなさい。この事件は誰も悪くない。すべてうまくいくじゃろう」

「矢向さん。あたしはどうすれば良いの?」

「簡単な話じゃ。お嬢ちゃんが魔術を使い、理香ちゃんに触れれば良いだけの話じゃ。そうすれば、幻想は消え去り、今までの事件の分を含めて、すべての財布は皆の元へ戻るじゃろう」

 二人の会話を聞いていた理香が、重い口を開いた。

「そ、それってやっぱりあたしのせいなんですか?」

 矢向が答える。

「そう思うのはなぜかね?」

「あ、あたしはそうなれば良いなって願っただけなんです」

「なぜ、願ったんじゃね?」

「よく、分からないんです。どうしてこんなことになったのか。ただ最初は憧れっていうか興味があったんです」

「興味?」

「はい。学校の怪奇現象、あとは探偵が活躍するような事件みたいなもに。この学校には多くの噂がありました。だから自分でも調べましたけど、最初はやっぱり噂は噂で何も起こりませんでした。だけど、少しずつ変わっていったんです」

「変わっていった?」

「その、つまらないなって思い始めたんです。何にも起きないのはつまらない。当たり前なんだけど、その当たり前の状況が酷く退屈に思えて仕方なかったんです。それで夏前くらいから、幽霊がいてなんか事件が起きてとか思い浮かべていたら、本当に幽霊の噂が出て、盗難の事件が起こり始めたんです。その時は全く自分に魔力があるなんて考えもつかなかったんですけど」

 二人の話を聞いていた楓が口を挟んだ。

「ねぇ。だったら、だったらさ、国立大。あれはなんなの、国立大が犯人だっていう証拠を武蔵は見ているのよ。ねぇそうでしょ。武蔵?」

 問われた武蔵が答える。

「は、はい。俺は確かに見ました。写真で国立大さんのことをハッキリと確認しましたし、それは間違いないんです」

「ほ、ほらぁ矢向さん。確かに武蔵は盗む人間を見ているのよ。だから、すべてがすべて、理香が作り出したってわけじゃないのよ」

「そ、そうっすね。俺あの時のことをは良く覚えているんです。国立大ってやつは慣れた手つきだったんです。特に動揺することもなく、ササッと教室内を物色し、制服のポケットに何か入れたんすよ」

 それを聞いた楓は、すぐさま武蔵に賛同できなかった。何か引っ張られるような強い違和感を得たからである。

(なんだろう……。何かおかしい気がする。それは一体何故だろう)

 突然、楓が黙り込むものだから、周りにいた三人は面を食らい、楓の方を一斉に見つめた。

「か、楓、どうしたのよ?」

 と理香が言うと、楓は何を思ったのか唐突に尋ねる。

「ね、ねぇ。理香、時間割、今さ、時間割持ってる?」

「え、時間割ってウチらのクラスので良いの?」

「うん、そう。今持ってたら貸してくれない」

 楓がそう言うと、理香は鞄の中から一冊のファイルを取り出し、その中からクリアファイルに入った時間割を楓に渡した。

「これで良いの?」

「うん。ありがとう」

「それで何が分かるの? 時間割の件ならもうとっくに調べたじゃないの」

「違うのよ。違うの」

 楓はある一点だけを見つめていた。それは国立大が犯行に及んだとされる時刻の前の授業は何なのか? ということだった。

 そして、その事実を知り、楓の目は大きく見開かれる。

「やっぱり、やっぱりそうだ……」

「え、何が? なんなの。何が分かったの?」

「武蔵が見たのは国立大じゃない」

 武蔵も、理香も驚き楓の方を見つめた。

「ちょ、ちょっとどういうこと? だって、なんでそんなことが分かるのよ?」

「これを見て」

 楓は時間割のある一点を指で差した。指先には体育の二文字がはっきりと見える。

 それを見た理香が尋ねる。

「何これ? 理科の授業の前は体育があるけど、それがどうかしたの?」

「うん。体育が三時間目にあって、四時間目は理科の授業、その後昼休みでしょ、あの時間ほとんどの男子生徒って着替えないじゃない。昼休み、体育館やグラウンドに出て遊べるように、体操着のまま理科の授業に出てるじゃない? 国立大もいつも体操着のまま授業に出てるわ。理科の先生もそれを黙認しているし。だから、理科の時間に国立大がわざわざ制服に着替えて、教室まで財布を盗みに行くなんておかしいと思わない?」

「でも、もしかしたらわざとしてるのかもよ。わざと着替えることで、自分を犯人から外そうとしているのかもしないし」

「そういう考えもあるけど、そんなの無理よ。だって、更衣室は他のクラスが使っているだろうし。別の場所で着替えるって手段もあるけど、一旦着替えて、盗んで、また着替えるなんて、手間がかかるし、見つかる可能性の方が高い。よく考えると、この事件は根本的におかしいのかもしれない」

「え? なんで?」

「国立大が盗みに入った時、校内の窃盗に対する警戒レベルはかなり高かったはずなのよ。それに、長沼が言っていたことを思い出したの。確か、空き教室になる時、誰かしら先生や関係者が見回りをしていたって言っていたわよね。だからね、そもそも、盗みに入れるわけがない。でも国立大はわざわざ制服に着替え直して、教室へ行き、警戒が高い中、スムーズに犯行を行うことができた。それはきっと、この国立大が魔力を持たない人には見ない幻の国立大だからなの」

「幻の国立大?」

「そう。つまり、ドッペルゲンガー。ねぇ理香。日記にも書いてあったじゃない? なんで国立大が浮かび上がったの?」

「前に一度言ったと思うけど、あいつ、何度か授業中にトイレに行くために教室を出て行くことが多かったし、ああいう一番事件に関係なさそうな人間が一番怪しいかなって思ったの。だからなんの証拠も無いの。ううんと、突き詰めて言うと、全部あたしの妄想なんだけど……」

 楓は頷き、

「仮に、理香が何かを生み出す魔術を扱えるのだとしたら、あれは理香によって作り出された幻の国立大ってことになる。その可能性が一番高いと思う。それを、幽霊である武蔵は見ることができたから、幻の国立大を本物の国立大と見間違えたってわけ」

 事件は少しずつ紐解かれていった。すべての元凶は理香であるが、楓が理香の作り出した幻想を解くために魔術を使えば、財布がなくなったという幻は消え、万事元通りになり、上手くいくはずであった。

 理香は、無意識とはいえ、多くの人間に迷惑をかけてしまったという罪の意識から、スファーに浅く座り、両手を祈るように組み、それを額に当てて、目をギュッと閉じうな垂れていた。

 事件はこうして解決していくように思われた。だが、楓の中にはまだ何か異物感が残っていた。その正体が一体何であるのか楓には分からなかった。その答えを、この空間で唯一矢向だけが知っていた。

 矢向は三人のやり取りと、楓の推理に概ね納得していた。怪奇現象の多くは、自身に宿っている魔力に気が付かない人間によって引き起こされることが多々あるのだ。理香には重たい事実かも知れないが、彼女には楓という存在がすぐそばにいる。

 理香が使うことの出来る魔術は一個人が持つにはあまりに強大すぎる力だ、何でも思い通りにゆくということは、決して幸福なことではない。人は思いどおりにいかないから、それを叶えるために努力をするし、そのような姿勢が成長へと繋がっていく。しかし、すべてが上手くいくと、最初は楽しくて、嬉しいかもしれない。

 だが、次第にそれは苦痛へと変わっていくだろう。何もかもうまくいくというのは、未来が見通せるということである。人はそんな予測できる未来に夢や希望を描くことができない。

 故に、理香は何れ自身の魔力に悩むだろう。見通せる未来に絶望することになるだろう。ただでさえ、この魔術は危険なのだ。理香の手に届く範囲であれば良いが、万が一これが悪用されることになれば、最後に苦しむのはいつも理香であるのだ。

 矢向はそれを分かっているからこそ、この場で楓の魔術を使い、理香の魔力を消滅させることを望んでいた。しかし、大きな問題があった。そしてそれは決して隠し通せるようなものではないだろう。

 桜神宮中学にある怪談話というものは、昔からあったものであるが、今になってやたらと校内の生徒たちで噂になっていたのにも理由がある。

 怪談話の存在を知った理香が見てみたいと思ったことにより、その怪談話の現象が無意識の内に理香の魔術によって顕現化されたのである。

 すべての怪談話はあくまで噂であり、昔の在校生が作り出した、思春期特有の学校の怪談と呼ばれる噂に過ぎない。つまり、幻であり嘘なのだ。だからこそ、楓が理香に触れ、この魔術を消し去れば、生み出された怪談話は自ずと幻想の彼方へ消えていくことになるだろう。

 ここに大いなる問題がある。

 その問題に矢向だけが気が付いていた。同時に事件を解決するにはこの問題をクリアする必要があるだろう。理香の作り出した魔術が危険であると分かっている今、理香の魔力は早急に除去しなければならないからだ。

 それ故、矢向は決断した。

「お嬢ちゃん。事件は概ね解決の兆しの見せておるというに、浮かれぬ顔じゃのぅ。どうかしたのかね?」

 楓は矢向の方を向き、眉間にしわを寄せ答えた。

「うん。そうなんだけど、なんか引っ掛かるのよ。大事なことを忘れているっていうか……、まだ何か問題があるような気がするんだけど」

「なるほど。そうかね……」

 矢向は遠い眼をし答えた。その眼を見て楓は彼が何かを知っていると悟った。だが、知っているのにあえて語らないのは一体なぜなのだろうか? 

恐る恐る楓は尋ねる。

「矢向さん……。何か知っているの?」

「ああ。その前に、お嬢ちゃん。一つ良いかね。君は理香ちゃんの作り出した魔術をどう思うかね?」

 楓が理香の方を向く、理香は楓の言いたいことを難なく察したのか頷いた。それを見た楓が答える。

「どうって、このままじゃマズイと思う。理香は今、自身の魔力に気が付いた。だけど、その魔力をコントロールすることはまだできていないし、仮にコントロールできたとしても、こんな何かを作り出してしまう魔術なんて、使えるだけで危険だと思う。良いことばかりとは思えないわ」

「そのとおりじゃ。理香ちゃんも良く聞きなさい。君が今、無意識に使っている魔術は危険なんじゃ。今の今までは無意識の中使われてきたが、魔術というものは、慣れてくるとやがて意識下でも使いこなせるようになるのじゃ。但し、その魔術はあまりに危険じゃ。

例えば、理香ちゃんとわしが喧嘩をし、理香ちゃんがわしのことを殺したいほど憎いと思ったとしよう、そうなると、わしは本当に死ぬんじゃ。その魔術の重さに耐えることはできんじゃろう。早急に消すことを推奨するが、それで良いかね」

 理香は少し悔しそうな顔を見せ答える。

「は、はい……。わ、分かりました。で、でも、あたしだって特訓すれば楓のように魔力を使いこなせるようになるんじゃないんですか?」

 矢向が優しく取り成す。

「理香ちゃん。落ち着きなさい。君が使う魔術はお嬢ちゃんとはタイプが違う。生み出すというのは持っているだけ危険なんじゃ。分かるね」

 それを聞いた楓はいつでも魔術を使えるようにと、両腕に力を込めた。

「但し、わしは最後に一つ言っておかなければならない……」

 意外な矢向の言葉に、楓は面を食らった。矢向の顔は例になく苦しそうであった。

「矢向さん、どうしたのよ?」

 矢向は意を決し、楓ではなく武蔵の方を向き、

「武蔵君。君は理香ちゃんの魔術によって作り出された幻の人間であり、幽霊ではない。君がいつまで経っても魔力をコントロールできなかった理由はまさにここにあるんじゃよ。君に芽生えていた魔力は君の力ではなく、理香ちゃん自身の魔力なんじゃ。つまり、理香ちゃんの魔力が高まれば、君の魔力も高まり、理香ちゃんの魔力が低くなると、君の魔力も低くなるというわけじゃ。つまり、理香ちゃんの魔力を消すということは、君自身を消し去るということになるじゃ!」

「武蔵が……」

 楓の額を季節外れの汗が伝っていく。

 この時、楓は先程感じた違和の正体に気が付いた。違和感は氷のように解け、一つの事実を浮かび上がらせた。

(武蔵が……、消えてしまう……)


          *


 数カ月前――。

 校内では幽霊の噂で持ちきりであった。この幽霊は他の幽霊とは少し変わっていた。

 幽霊の噂が校内に広がる前から、楓は自分の魔術よって、高い魔力に引き寄せられた幽霊や怪奇現象を一つ一つ消滅させていったのであるが、ある幽霊を最後まで消し去ることができなかった。

 理由は、歳が近いということであった。今まで引き寄せてしまってきた霊たちは、ほとんどが年輩の霊だったし、人ではなくペットとして飼われていた犬や猫の霊もあった。

 消せなかった幽霊の名は小杉 武蔵。

 武蔵と最初に出逢った時、楓は少なからず驚いていた。歳が近く異性であったからだ。

 さらに言えば、武蔵には名前以外の記憶が全くなかった。何度聞いても、良く分からないし、いつここへ来たのも分からない、の一点張りであった。

 当初、楓は武蔵と関わりを持つことを躊躇していた。

 今までの事件の全てを何一つ解決できていないと思っていたためだ。

(今回も、きっと同じ結果を辿るんだ……)

 と考えていたので、さっさと成仏させてあげるのが一番得策であると考え、両手に魔力を込め、消し去ろうと彼に近づいていった。

 さぁ成仏させようと右腕をかざした時、楓は異変に気が付いた。

 右腕をかざしながら楓は武蔵の顔を見つめた。その時、彼と目が合ったのである。そしてその瞳が濡れていた。

 小学校の時、同じクラスの男子が泣いているのを見たことがあったが、こんなに間近で見たことはなかった。

(涙の粒って、こんなに大きいんだ)

 武蔵の目に溜まった大粒の涙は、やがて重力に逆らえず床に向かって落ちていく。

 楓は掲げた右腕を下にブランと下げ、魔力を込めるのをやめた。そして、泣いている武蔵に声をかけた。

「ねぇ、どうして泣いてるの?」

 泣いている武蔵は右腕の甲で涙を拭き取りながら、

「わ、分からないんです。自分は一体何でこんな所にいるのか。一体自分は何者なのかが」

「アンタ、本当に記憶がないの?」

「はい。ないです。全くという程何もないです」

「いつからこの学校にいたとかは分かる?」

「分からないです。気が付いたらここにいました」

 不思議な霊であった。霊がこの世に残るためには強大な情念が必要だ。未練や怨念、何でも良いが、生前にこの世の何かに対し強い想いがないと、魔力を宿し、この世に残ることは難しいのだ。故に生き残った霊は呪縛霊等と呼ばれ、成仏させるのが厄介なほど魔力が強い傾向があるのだ。

 しかし、武蔵にはそういった概念が全く通用しない。規格外というか、不可解であり、同時に、別の意味で厄介であった。

 彼はこの世に残ることが可能となった幽霊のくせに、気配が恐ろしく希薄な存在であった。何もかもが矛盾した存在である武蔵に、楓は少なからず興味が湧いた。

 それは、初めてのボーイフレンドの誕生でもあった。幽霊が最初のボーイフレンドと呼べるのか分からないし、それが果たして正しいことなのか、楓には分からなかった。だけども、そんなことはどうでも良かった。

 友達になれそうな気がしていたからである。

「大丈夫、あたしに任せてよ。あたしこう見えても魔力が強いの。アンタに協力できると思う。だから、もう泣くのは止めて頂戴。見ているこっちも悲しくなるから」

 楓はそう言うと、座り込んでいる武蔵を立ち上がらせた。武蔵は驚きながら楓を見つめ答える。

「俺は……、俺はこれから、どうしたら良いんでしょうか?」

「分からないけど、それをこれから考えましょう。二人で考えれば直ぐに良い案が見つかるわよ」

「そ、そうですかね?」

「大丈夫よ。まずは自分の魔力をコントロールできた方が良いわ。幽霊って暴走すると大変なのよ」

「はぁ。俺には何がなんやら分からないんですけど、とりあえず何から始めれば良いんでしょうか?」

「そうねぇ。あたしは最初に自分の魔力を感じ取ることから始めたわ。魔力って独特の気の流れみたいなものがあって、これを感じ取れるようになった方が良いんだって」

「で、でも俺には気なんて高尚なものないですよ」

「大丈夫よ、だって幽霊なんだから、魔力があるに決まっているわ。というより、魔力が無いと幽霊としてこの世に生き残ってはいられないわよ」

「お、俺、幽霊なんですか?」

「うん」

「マ、マジですか……。なんでだろう? 俺いつから幽霊になったんだろう。はぁ、もう泣きたいっす」

「さっきまで泣いていたじゃない。くよくよしないで。きっと魔力を使いこなせるようになると、すべてを思い出すはずだから……」

「そんなものですかね」

「そんなものよ。そうだ、アンタ、名前なんて言うの? あ、そうか、まだ記憶がないんだっけ」

「こ、小杉、む、武蔵……」

「え?」

「小杉 武蔵だと思います。今パッと何か思い出しました」

「ほら、少しずつ記憶が戻ってきたじゃない。良かった良かった。ねぇ、他に何か思い出せないの? 出身地とか、何中に通っていたとか?」

 武蔵は額にしわを寄せ、腕を組み、口をへの字に曲げ答える。

「う~ん。思い出せないっす。思い出せないっていうよりも、なんにもない感じっすね。名前の時はなんていうかパッと閃いたんすけどね……」

「そう。でも、時間が経てば思い出すかもしれないし、そんなに気を落とさないでよ。大丈夫、魔力を使えるようになればすべて上手くいくはずだから」

 楓がそう言うと、武蔵は感極まったのか楓の方へ近づき、楓の両手をギュッと握りしめ、「あ、ありがとうございます。あ、姉御って呼ばせてもらいます!」と叫んだ。

(あ、姉御ぉ……)

 楓が反論しようとすると、以外にも武蔵の顔が間近にあることが分かった。霊とはいえ、同じ世代の男の子にこんなに迫られたことのない楓はサッと顔を赤らめ、ぷいと横を向き答える。

「と、とにかく、鍛錬には付き合ってあげるから……」

 悪い気はしない。これが、楓の武蔵に対する最初の気持ちだった。

 毎朝の鍛錬は朝七時から行われていた。

 この時間帯だと、校内にはほとんど人がいない。運動部の朝練を除くと、稀に生徒会や委員会に入っている生徒が来るくらいのもので、朝の校内は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。故に鍛錬には適していた。

 特に西に建っている旧校舎はその傾向が顕著であり、明け方は恐ろしく静かであった。そんな空間の中、楓と武蔵の二人は毎朝鍛錬を続けていた。

「ああ。もう、違うんだってばぁ!」

「す、すいません……」

 武蔵は幽霊であるのに、魔力をコントロールすることができなかった。最初は慣れていないだけかと思っていたが、次第にそうではなさそうだと、楓は考え始めた。

(ホントにこの子、不器用なのね……)

 それでも楓は根気強く、作業を続けた。いつか必ず魔力を使いこなせる日が来ると考えていたからだ。

 さらに言えば、楓はこの早朝特訓が嫌なわけではなかった。

 理由は武蔵が幽霊であっても、早朝の誰もいない校内で二人で過ごすというのは、何だか秘密めいた境遇であると感じ、それが少女漫画に現れる一ページのような気がして、彼女の心を満足させていたからである。

 当初、楓も武蔵もお互いがお互いを意識しあうということはなかった。

 それは当然で、武蔵は自分がなんなのか、何者なのか分からぬまま突然現れたので、気持ちが境遇についていかなかったのである。

 楓は楓で、この半年で経験してきた事件から、幽霊や魔術といった類には近寄らないようにしようと考えていた。自分の力では何一つ解決することができないという想いが、楓の心を臆病なものに変えていた。しかし、その気持ちを少しずつ変えていったのは、他でもない武蔵であった。

 武蔵は楓が救ってやらなければどうしようもない、かなり希薄な存在であるため、普通の霊媒師や魔術師では気が付かないかもしれない。如何に経験上近寄りたくはなくても、身近の困っている人を放っておくことなど、楓にはできそうになかったのである。

 きっかけなんていうものは、そのくらい単純なものだった。後は時の流れや、鍛錬によって芽生えた友情や愛情が、二人の仲をより強固なものへと変えていったのである。

 楓は決して武蔵に対し、恋愛的な感情があるとは考えてはいなかった。武蔵のことは好きであるが、その気持ちは友達に対してのそれであり、異性に対してのドキドキ感ではないと思い込んでいたのである。

 対する武蔵も同じ心境であった。ただ、名前以外の記憶が何一つない状態で出逢った楓に対し湧きあがった恋愛感情を、助けられた際に生じる感謝の心であると勘違いしていた。

「う~ん。ダメね。魔力がほとんど放出されていない。もっとこう、外側に押し出すようなイメージなのよ」

「そうは言うんですけど、その押し出すとか、放出するっていう感覚が、いまいち理解できないんすよ」

「最初は難しいの。だから、慣れるまで何度も反復してやらなきゃダメよ」

 武蔵は溜息を付き答える。

「はぁでも、もう結構な時間が経ってますよ。姉御には毎朝付き合ってもらって申し訳ないと思っています。あ、あの、迷惑だったらその、毎朝じゃなくても良いんすよ」

「何言ってんのよ。朝っていっても、四時とか五時に集まってるわけじゃないんだから、あたしは全く気にはしてないわよ。ただ、アンタにはしっかりしていてもらいたいの。あたしは幽霊の事件で痛い思いをたくさんしてきたから」

「そうなんすか。やっぱり、幽霊の事件って、知られていないだけで多いんすね。俺は生きている時どんな人間だったんでしょうかね?」

「分かんない。でも、魔力をコントロールできるようになって、ある程度この環境に慣れていけば、次第に記憶は蘇っていくと思うの。だから、それまでの辛抱よ。あたし、手伝うから」

「あ、姉御はどうして見ず知らずの俺にそんなに優しくしてくれるんすか。確かに俺は幽霊かもしれません。そして、姉御は昔、幽霊で痛い思いや悲しい思いをしてきたのかもしません。でも、それだけでこんな面倒事に付き合ってもらうなんて、俺、嬉しくてしょうがないっすよ」

「バカなこと言わないでよ。だって、と、と、友達でしょ」

 友達という響きに、二人の空間は一瞬時が止まったかのように静まり返った。

「と、友達……っすか」

「そ、そう。友達。普通、友達が困っていた理由がなんであっても助けてあげたいって思うもんでしょ」

「で、でも、俺……、幽霊なんすよ。実際の人じゃないんすよ」

「そんなの関係ないでしょ。幽霊は幽霊でも友達は友達よ。だ、第一、そんなことを気にしている暇があったら、早く魔力をコントロールできるようになりなさいよ」

 それを聞いた武蔵の顔がやがて笑顔に変わっていく。

「そ、そうっすね。あ、ありがとうございます」

 武蔵はそう言い、楓の両腕をギュッと握りしめた。その両腕は氷のように冷たくもなく、炎をように熱くもなく、何も感じなかった。

 でも、その行為自体が楓の心に温かい何かを灯していった。

 ある日の早朝訓練――。

 既に訓練を初めて一カ月が経過していたが、武蔵は全く魔力を使いこなせる兆しが見えなかった。ただ、不思議なことに魔力だけは徐々に上がっていった。

 原因は楓には分からない。ただ、楓は自分が矢向と違い、経験が浅いため教えるのが下手なのかもしれないと考えていた。というよりも、この時期になると、鍛錬もほどほどに二人で喋ることの割合の方が増えていった。

「あ、姉御、なんか俺全然成長していないっすね」

 武蔵の顔はどんよりと暗い、それを見た楓は励ますように、

「ううん。そんなことないわよ。初めに比べれば少しは成長しているし、こういう第六感みたいな感覚って明確な定義みたいなものがないから、分かり辛いのよ。それに、あたしの教え方が悪いのかもしれないし」

 武蔵は慌てて答える。

「そ、そんなことないっすよ。お、俺、ホントに姉御には感謝しているんすからそんなこと言わないでください」

 楓は鞄の中から、おにぎりを取り出した。朝は大抵ここで食べるのだ。学校で食べると昼までお腹が鳴ることがないので便利だった。

 楓がおにぎりを頬張っていると武蔵が尋ねる。

「姉御。もしも、俺が魔力を使いこなせるようになったら、そ、その、な、なんて言うんすか……、あ、朝の訓練も終わりなんすかね?」

 問われた楓はおにぎりを食べる手を休めた。言われていれば、そんなことを考えたこともなかった。いつまでもこの状況が続くんだと勝手に考えていたのである。

「な、なんで?」

「へ、い、いや、せっかく出逢えて、そ、その、と、友達になれたのに、魔力を使いこなせるようになったら、それでお別れなのかなって思いまして……、ハハハ……」

 武蔵は苦笑いをしながら、そう答えた。それを聞き、楓は答えた。

「ア、アンタはあたしと別れたいってこと……、あ、いや別れるって、その、付き合うとか別れるとかそういう意味じゃないけど」

「俺は別れたくないっすよ。俺にとっては、姉御この世界で唯一の人間なんすから」

 楓ははにかみ、その笑顔を隠すように、わざと下を向き、

「だ、だったら、こ、答えは決まってるじゃない。友達って出逢うきっかけはいろいろあるけど、一度友達になったら、ずっと友達ってものよ。だから、朝の特訓はなくなるけど、友達でもなくなるなんてことは絶対にないわよ」

「ホ、ホントっすか? お、俺、嬉しいっす」

「で、でも、とにかく今は魔力を使いこなせるようにならないと。その後のことは、しっかりと魔力が使いこなせはじめたら考えましょう」

「はい! 分かったっす!」

 武蔵はそう言い、立ち上がり、楓に教えてもらったように、魔力を外に放出させようと意気込み、力を込めはじめた。

 相変わらず魔力は全く放出されていない。それは明らかだった。だが、やる気と情熱だけは凄まじく、全然できなくても見るものを不快にはさせない。

 同時に、楓はそれでも良いと思っていた。武蔵の手前、行く末を曖昧に答えたが、魔力をコントロールできれば、記憶もきっと元に戻るであろうし、そうなれば成仏するためのきっかけになるに違いないと考えていたからだ。

 そうなれば、友達ではいられない。いつか武蔵とはお別れの時が来るのかもしれない。

 それは寂しかった。いつまでもこの時間が続いてほしいという気持ちと、武蔵には記憶を取り戻し、安心して成仏してほしいという気持ちの狭間で、楓の心は激しく揺れていた。

 一つ確かなのは、その時までは武蔵と一緒にいたかったということだろう。


          *


「お嬢ちゃん」という聞き慣れた呼び声が聞こえる。声を発したのはもちろん矢向である。その声に楓は回想を止め、ようやく我に返った。

 周りを見渡すと、矢向の他にも、武蔵、理香の二人が不安そうに楓のことを見つめていることに気が付いた。

「ご、ごめん……」

 それを聞くと武蔵が静かに口を開いた。

「姉御。俺のことなら気にしないで消し去ってください」

 その声は固い決意が現れ、芯のある強いものであったが、同時に哀愁漂う不思議な声であった。

「む、武蔵……」

「俺は幽霊っていうよりも、幻覚の一種みたいなものなんですよね。だから、ずっと記憶が無かったし、姉御に特訓してもらったのに全く効果が無かった。申し訳なかったっす」

「そ、そんな。あ、あたしはそんなこと微塵も思ってないよ。ただ、ただ、もっと早く正体に気が付いてあげていれば……」

 お互いこんな複雑な気持ちになることはなかったのかもしれない。

 それは、この場にいる誰しもが思っていた。理香も、矢向も楓も、どんよりした顔つきになり、天井の明かりが静かに室内を照らし、それぞれの顔に影を作っている。

 その中で、武蔵だけが落ち着いている。覚悟を決めているのだ。

「姉御、そんなこと言わないでくださいよ。俺は幻覚の存在であったけど、あ、姉御と一緒にいられて良かったですよ。そりゃ、もっと早く俺の存在が幽霊ではなく、ただの幻覚だってことに気が付いていれば、こんな気持ちにならなかったかもしれないし、姉御はそんな表情をしなかったもしれない。泣かなかったのかもしれない。でも、気が付かなかったから、今の今まで一緒に事件を探り、解決まで導くことができたんじゃないんですか。お、俺はそれだけで満足なんすよ」

 楓の両目からは涙がとめどなく溢れている。手で拭っても、拭っても、溢れ出るものだから、いつしか楓は手で拭うことを止めた。

「ア、アンタ、悲しくないの? この世にいたいとか思わないの?」

「そりゃ、全くそんな気がないってわけはないっす。けど、俺はこの世の人間じゃないんすよ。なら、いつしか消えなければならないわけじゃないですか。だったら、そんなに悲しくはないです。少しだけ寂しいだけっすよ」

 それを聞いていた理香が口を挟む。

「じゃ、じゃあさ、良いじゃん。別に武蔵君はそのままでも、要はあたしが楓みたいに魔力を使いこなせるようになれば良いんでしょ? そうなれば、すべて上手くいくんじゃないの?」

 難しい顔をした矢向が答える。

「いや、それは難しい。何かを作り出すという魔術は厄介なんじゃ。例え意識的にコントロールできるようになったとしても、そんな魔術は持たん方が良い!」

「ど、どうしてですか? か、楓はちゃんと魔力をコントロールできるようになったんでしょ。な、ならあたしだって……」

「さっきも言ったじゃろう。お嬢ちゃんと理香ちゃんの魔術では話が別じゃ。極端なことを言うと、理香ちゃんの魔術は使いようによっては、この世を滅ぼすことのできる程大きなものへ進化を遂げる可能性があるんじゃよ」

「え、そ、そんな大袈裟すぎじゃないですか?」

「いいや、決して大袈裟なものじゃないんじゃよ。作り出すことができるというのはそれだけ大きな意味を持ったことなんじゃよ。簡単に人を消し去ることができるかもしない。殺したとも分からずに、消し去ることができるんじゃ。そんな狂気の魔術に、君は耐えて行くことはできないじゃろう。人が背負うには大きすぎる魔術なんじゃよ」

「そ、そんな……」

「理香ちゃん。何も魔力を持つということは良いことばかりじゃない。持たないのであれば、持たない方が良いこともあるんじゃよ」

 矢向は諭すように言った。

 それでも理香は諦めきれないようであった。自分が恋い焦がれた異能の力をようやく手に入れたのに、それを直ぐに捨てなければならない現実に絶望し、理性を失い始めていたのだ。

「……いよ」

「なんじゃって?」

 矢向が理香に問い返した時、急激な魔力の爆発があった。もちろん、その震源地には理香本人が立っている。

 魔術を自覚し、その魔力の大きさに驚き慄いて彼女であったが、自分が作り出した武蔵が消えてしまうと知り、自身でもどうしようない感情の爆発がすべてを魔力に変えた。

 理香を中心に円状の結界がどんどん広がり辺りを包み込んでいったと思うと、今まで座っていたはずのソファーが消え、何やら得体の知れない場所へ変わっていく。それは夢幻の想いが交錯し、幾重にも折り重なったごちゃごちゃの世界であった。

 辺り一面は灰色といった褐色になったり、突然ビタミンカラーの明るい発色性のある色になったり、ネオンカラーのような妖艶な色になったり、常にめまぐるしく変化をしている。

 人の夢を何十倍に凝縮していくと、こんな感じになるのではないか? という位に奇妙奇天烈な世界が広がり始めたのだ。

 要するに理香の魔力が暴走したのである。理香は自分でも制御できないくらい感情が高まると、それを爆発させる傾向があるのだ。

 先日の校内に残っている人間の財布が一斉に消えた際の時も、この感情の爆発が大きな原因であった。

 あの日、楓にこれ以上盗難の調査を続けるのを止めようと言われた理香は、それが悔しくてたまらなかった。

 自分では推理できないことを、楓は上手く推理することができるのに、自分より確実に真実まで行きつくことのできる眼を持っているのに、楓はそれを自分から投げ捨てるのだ。

 理香にとってそれは悔しいの一言に尽きた。楓は理香の持っていないものをなんでも持っているような気がした。楓は魔力があるし、霊とも交信できるし、その高い観察眼から鋭い推理を展開することだってできるのだ。

 それなのに、それを使わない。理香がどう頑張っても届かないものを持っているのにもかかわらずそれを使おうとしないのだ。

 理香は悔しくて、たまらなくて、あの日、教室を飛び出し、トイレに行くと言い、教室に楓を残し一人屋上へ行って無人の空に向かって悔しいと呟いたのだ。

(あたしにも魔力があれば、魔力さえあれば、絶対になんだって解決してやるのに!)

 そんな強い想いが、魔術を呼び覚ました。

 理香は楓と違い、先天的に高い力を持った人間ではない。

 矢向の推理どおり、彼女は、後天的に力を得たのである。それも楓に触れられたことによって……。

「ど、どうして理香にこんな巨大な魔力が……」

 と、楓が呟くように言うと、隣にいた矢向が、

「お嬢ちゃんの使う魔術は非常に便利であるが、便利であるが故に厄介なんじゃよ」

「どういうことなの?」

「いいかね。お嬢ちゃんの魔術というものは消し去るというよりも、リセットするという表現の方が近い。魔力を持たない状態でも、魔力を持った状態でも、皆同じような状態にしてしまうんじゃ。つまり、もともと魔力の無かった理香ちゃんは魔力が無いという状況をリセットされてしまったということじゃな」

 それは何もない真っ新な器のような状態だ。魔力がないという液体が本来はその器を満たすはずであるのに、それがなくなってしまった。

 普通なら、そのまま何も変化を遂げることなく一生を遂げるハズであるが、理香は楓という非常に高い魔力を持った人間の傍にいたため、空になった器に、魔力が徐々に注ぎ込まれていったのである。

 理香はこうして、全く魔力を持たない人間から力を持った人間へと変わったのだ。そして今、堪った力を一気に放出させようとしていたのだ。

「こりゃいかん……」

 ポルターガイストを詰め合わせたような異様な空間の中、矢向はそう呟いた。

「お嬢ちゃん、あまり時間はない。理香ちゃんの魔力は彼女が制御できる範囲を既に超えておる、迷っている暇はない。もう一度魔術を使い、彼女の魔力をリセットするんじゃ。でないと、この辺り一帯がすべて幻覚に包まれて収拾がつかなくなるぞ」

 楓はギュッと両手を握りしめ、魔力を込めようとしたが、力が入らない。

 武蔵が消えてしまうしまうこと、そして、魔力を消した理香が今までのような存在でいてくれるのかということ。これら二つに対し恐れを抱いているからだった。

(また、前と同じ様な結果だったら、どうしよう……。結局、何ひとつ救えずに、傷ばかり残って、武蔵も理香との友情も消えてしまったらどうしよう……)

 楓は弱気になり、弱気になった分、力が入らなかったのだ。両手は尋常ではないくらいに震えている。

 これが魔力を持った人間の正体……。

 異能の力を持った人間。それは人と違う。人と違うだけで、この世界では生きにくいのである。

(魔力なんてやっぱりない方が良い。だって苦しんでばかりだもの……。大切なものを守れないのに、大切なものを失ってばかりなんだもん)

 楓の両腕が力なく垂れ下がりそうになった時、ポッと手が暖かくなったことに気が付いた。

 ハッと顔を上げると、数十センチ横に武蔵が立っているではないか。顔は恐ろしく近い。でも、嫌な気持ちにはならなかった。

 武蔵は無言で楓の両手を自分の両手で包み込むように、ギュッと握りしめた。

「む、武蔵……」

 辺りは荒れ狂った大嵐の中のように風景が目まぐるしく動き、地面も大地震のようにぐらぐらと揺れている。さらに、窓ガラスはギシギシと揺れ、怪しい光が点々と光り輝いている。

 もう、あまり時間はないのだ。放っておけばこの先どうなるのか分かったものではい。

 理香はここにいる全員を消し去るという幻覚を作り出すことができるのだ。あの、無くなった財布のように……。

 その事実を、この場にいる全員が知っていた。だからこそ、早く手を打たなければならない。但し、その作業には犠牲が生じる。

 武蔵である――。

 楓が理香に触れれば、理香の暴走した魔力は止まるだろう。しかし、理香の魔術を消滅させるということは、同時に理香が作り出した武蔵という存在をも消し去るということにつながるのだ。

 だからこそ、楓はこんな状態になってもまだ、覚悟を決めきれず、踏み切れないでいた。

 結局、今回も全員を救うことはできない。前もそうだったし、その前もそうだったのだ。結果的に見ると事件は解決しているが、内部では多くの人間が犠牲になっていった。

 鹿嶋田 久も。

 鹿嶋田 千代も。

 稲城 誠も。

 稲城 雅子も。

 稲城 司も。

 そして、小杉 武蔵も。

 そんな、ギリギリの精神にいる楓の背中を最後に押したのは、大先輩である魔術探偵、矢向 左千夫ではなく、幻影でありこれから消されるかもしれない武蔵本人であった。

 武蔵は楓の手を優しく握りしめた後、静かに言った。

「姉御、理香の姉御を助けてやってください」

「で、でも。そ、それじゃアンタが……、武蔵、アンタ消えちゃうのよ……」

 武蔵は目を閉じ頷きながら、

「はい。分かってるっす。でも、それでもやらなくちゃならないっすよ。俺は幻の存在でも、ここにいる姉御も矢向さんも、理香の姉御も全員現実に生きている現実の人間じゃないですか。だったら、どっちが優先されるかなんて決まりきってるじゃないっすか。やっぱり、現実の世界に生きる人間は、現実の人間でなければならないんすよ」

「武蔵……」

「俺なら大丈夫です。だから、そんな顔をしないでください。理香の姉御を助けてあげて下さいっす」

「あ、あたしは……、結局、今回も救えなかった。あたしね、最初自分の魔力の大きさで家族を巻き込み、不幸や怪異を呼んでいたの。それを救ってくれたのが矢向さんだった。それを見て、あたしのこの魔力も人の役に立てるのかなって思って、あたしのように困っている人を少しでも助けられたら良いなって思って、今まで頑張ったけど、結局、あたしは事件だけ解決して、中身を解決できなかった。今回も、アンタに最初逢った時、アンタを救ってやるって言ったのに、またあたしはその約束を破ってしまう……」

「そんなことないっすよ。本当っす。むしろ感謝してます。姉御に逢わなければ、それこそ今頃どうしていたのか分からない。永遠にこの世を彷徨い続けるっていうことだってあったかもしれないんすよ。それが、今じゃあ姉御や矢向さん、理香の姉御に囲まれて消えていけるんすから、全然マシっすよ。それに……、理香の姉御の作り出した幻影ってことならば……」

「え? な、何?」

「……………………………………」

 楓には武蔵の言葉が聞き取れなかった。理由は簡単だ。理香の暴走した魔力が頂点に到達し、辺りを包み込んでいったからだ。絹を裂いたような甲高い異様な高音が鳴り響き、先程まで色鮮やかに辺りを包み込んでいた幻覚が、遠くの方から闇へと変わり、ブラックホールに吸い込まれていくように消えていくではないか。

 それを見た矢向は、柄にもなく叫んだ。

「いかん! この部屋はまさに今、消し去られている。もう時間がないぞ!」

 矢向の叫び声に武蔵も叫ぶ。

「姉御!」

「あ、あたしは……、あたしは……」

「皆を救ってください!」

「武蔵……」

「楓!」

 武蔵はそう叫び、握っていた手を離し、楓の背中を強く押した。

 楓は押された勢いのまま、立ち止まらずに理香に突進していく、遠ざかる楓の背中から雨粒のようなものが大量に溢れ出ている。

 漆黒の闇は直ぐそこまで来ている。もう立ち止まれないし、時間はない。楓は覚悟を決め、両手にありったけの魔力を込めた。

「理香!」

 ありったけの魔力と、ありったけの声を上げ、楓は強大な魔力を発生させている理香を強く抱きしめた。

 すると、楓を中心に元の世界が反転していく。それは地面からじわじわと辺りを浸蝕していき、見慣れた矢向宅の床や壁が元の状態へ戻っていく。

 しかし、暴走した理香の魔力は強い。楓のありったけの魔力を前にしても留まることを知らずに、楓の力によって元の状態へ戻っていく景色を再度漆黒で包み込もうとしている。

(つ、強い。こんな力が理香にあったなんて……)

 楓の魔力はみるみると理香に吸い込まれ消えていき、楓の全身を包み込んでいく。

 途端、楓は宙に浮いたかのように体が軽くなった。まるで綿毛のようにふわふわ浮き、辺りを俯瞰しているような感覚が広がった。音は全く聞こえず静まり返っている。

(あ、あれ、あたし、何やってるんだろ。確か、理香を助けようと理香に突っ込んだはずなのに)

 そう思い、楓はふわふわとした感覚のまま、下を見下ろした。すると、そこには相変わらず、楓が理香を抱きしめている姿が見えた。辺り一帯は真っ黒で何もなかった。そこにいるのは、楓と理香と矢向と武蔵だけだった。だが、理香を取り巻く黒い闇が、楓の他に武蔵や矢向を覆っていき、包み込んでいくではないか。

 辺りが完全に闇に包まれると、そこにはもう何もなくなった。何も見えなくなってそれで御終いのように思えた。

 楓の体からどんどん力が抜けていく。疲れ切って横になるような感覚ではなく、血液、体液、体力、精神力。それらすべてが一つの液体となって流れ出ていくような気持ちだった。

(なんなんだろう。すごく気持ちが良い。楽だし、こんなに気持ち初めてだ。なんだろう。この気持ち、そう、これはまるで……)

 あえて、楓の心境を形容するのであれば、蒸発である。

 液体は蒸発し、気体化し、やがては……、

 消える。

(消える? 消えるってなんだ。どこかで聞いたような言葉。あれはそう、確か……)

 武蔵。

(武蔵? ああ、そうかあの幻の少年だ。あの子も消えちゃうんだ。ならあたしも消えても良いのかな。皆消えるんなら、平等だし、それが一番良いのかもしれないな)

「…………っす!」

 楓はハッと我に返った。どこか遠くで声が聞こえたような気がしたからだ。再び耳を澄ました。微かだが、声が聞こえる。

 この場で蒸発していったのは、楓だけではない矢向も、理香も武蔵も全てだった。

 彼らの肉体や精神が小さな粒子となって辺りに混在し、楓の心に強く訴えたのだ。

「楓、俺達を救ってくださいっす!」

「お嬢ちゃん。君が諦めたら、この場にいる全員が消えるし、世界もどうなるか分からない。それは誰一人救えなかったってことになるんじゃよ」

「楓、あたしを助けて……」

(皆……。あたしには、救える力があるのに……)

 ここにいる三人は楓にとって仲間あり、友達であり、大切な人間達なのだ。

(あたしは、何をやってるんだ。もう一度やらなきゃ、立ち上がらなきゃ。だって、救える力があるんだ。例え、全員を救えなくも、力があるのなら、立ち向かわなきゃ、力が無くて困り果てている人たちがいるんだ。そんな時、力のある人間が立ちあがらなくてどうするんだ!)

 楓はギュッと目を閉じ、全身の毛根を開き、そこからすべてを放出させるかのように魔力を生み出した。

 魔力の粒子が辺りに飛散し霧状に包み込んでいく。粒子の一つ一つが結びついていき、少しずつではあるが、大きくなり、固体化していく。すると、綿のように軽かった体が鉛のように重くなった。しかし、楓は負けなかった。負けずに前を見て、怪異と闘った。

 理香の暴走した以上の魔力が、楓の小さな体から放出されていく。理香の暴走した魔力がブラックホールなら、楓の魔力はホワイトホールだった。消滅していった世界をみるみると元の状態へ戻していく。

 視覚が戻り、次に音が戻った。さらに匂いが生まれ、質感が現れた。そして最後に……涙の味がした。

 気を失いかけ、目を閉じると、背中を誰かに抱きとめられた。

(武蔵?)

 と、楓は思ったが、手の質感でそれが武蔵ではないと直ぐに分かった。しわしわの手であったのだ。それは楓の魔術の道に誘い、楓に力を与えた張本人、矢向の腕だった。

(確か、いつだったかも矢向さんにこうして抱きとめられたっけ……)

 楓はそんな風に感じながら、気を失った――。


          *


 楓が目を覚ましたのは、兄の時や、鹿嶋田 千代の際にお世話になった例の総合病院の一室であり、時刻は午後十一時を迎えていた。

 家の見慣れている天井でも、矢向の家の天井でもない、病院の天井を見ても楓は特に驚かなかった。なんとなく経緯を覚えていたからである。

「楓! 気が付いたのね。良かったぁ」

 その声は、楓の母であった。楓がゆっくりと体を起こそうとすると、慌てて母が制止する。

「あなた、そんな急に起きなくて良いのよ。今先生を呼んでいるから安心しなさい」

 母はそう言うと、ベッドの横にあるナースコールのボタンを何度も押した。

 それを見て、楓は尋ねた。

「ねぇ、お母さん。あたしはなんでこんな所にいるの?」

 母は楓のベッドの脇にあるパイプ椅子に座り答える。

「あら、あなた何も覚えていないの?」

「ううん。なんとなくは覚えてる。確か矢向さんの家に行ったんだけど……」

「そうよ。矢向さんの御宅で、あなた倒れたのよ。極度の貧血だそうよ。それにしても、あなたが貧血を起こすのは初めてじゃないかしら? でも、良かったわ。何事もなくて」

「そうなんだ。それで矢向さんは? 後、理香もいたと思うんだけど……」

 楓がそう尋ねると、室内に医師が入って来て、楓の体に聴診器を当て、体を調べ始めた。

隣では、看護師の女性が血圧計を取り出し、血圧を測っている。そして医師は、楓の血圧が通常通りに戻ったことを確認し告げる。

「うん。心音も血圧も体温も問題なくなったね。お母さん、一先ずは大丈夫でしょうが、念のため、一泊するのが良いでしょう、幸い、今日はもう遅いですし、今日一日入院して、明日の午前中にもう一度検査をして、異常がなければそれで退院なさるのが良いでしょう」

 それを聞いた母は安堵した表情に変わり、何度も頭を下げた。

「分かりました。先生、ありがとうございました」

「いえ、私は何もしていませんよ。楓さんが頑張ったんです。では、また何かあれば呼んでください。直ぐに駆けつけますから」

 医師はそう告げ、最後に楓の額を撫で、部屋の外へ出て行った。その後、楓の部屋には兄と父が駆け付け、楓が何事も無かったということを聞き、安堵し、祝福しあった。

 

          *


矢向と理香が現れたのは、それから五分程してからであった。ちょうどその時、二人は病院の緊急外来のロビーにいたのだ。

 楓は理香の力を食い止めるために、体力、精神力を共に限界まで使い果たしていた。それ故に、強烈な倦怠感に襲われ、意識を失ったのである。

 薄暗いロビーで理香は矢向に尋ねた。

「矢向さん。楓、大丈夫だよね?」

 矢向は理香の髪を撫で、安心させるように答える。

「ああ。もちろんじゃよ。お嬢ちゃんは力を少し使い過ぎただけじゃ、一晩眠れば良くなるじゃろう。心配はいらないよ」

「でも、あたしのせいなんだよね」

「そんなことはない。悪いのは君じゃない。誰も悪くはないんだよ」

「そ、それでも、力を暴走させ、皆に迷惑をかけたのはあたしなのよ。む、む、武蔵君のことだって……」

 武蔵。そう、武蔵はこの場にはいない。楓によって元の何もない状態に戻された理香の体には、何かを生み出すという強い力が完全に消え去っていた。

 それは同時に理香が生み出した、幻影である武蔵の消滅を意味していた。

 理香はなんとなく、楓が武蔵に友達以上の好意を抱いていることが分かっていた。幻影であり、楓しか助けられないとはいえ、毎朝早くに学校に行って特訓に付き合うという行為に、何か特別なものを感じたからだ。

 理香はそれを口に出さなかったし、生涯口にはしないだろうと心に決めていたが、矢向が言った。

「理香ちゃん。武蔵君のことじゃが……」

 武蔵のことを聞くと、理香はどんよりとした気分になる。意外とこの矢向は空気が読めないのではないか? と、不安になりながら理香は答える。

「う、うん。消えちゃったんだよね。楓になんて言えば良いんだろう」

「うむ。確かに消えたし、お嬢ちゃんにとっても、理香ちゃんにとっても悲しいことじゃろう。じゃが、わしはある確信がある。そして、それは武蔵君が消える際に彼自身も口にしたんじゃ」

 理香には矢向の言っている言葉の意味が分からなかったが、それが悪いことではないように思えた。そして、どんよりとした気分を払拭させるに十分な言葉であった。

「え、何か分かったんですか?」

「ああ。理香ちゃん。何かを生み出すっていう行為は、イメージが必要になってくる」

「イメージですか?」

「そう、何もないところからは何も生まれない。こういうものが作りたい。それが発想を生み、結果的に何かを作りだすんじゃ。理香ちゃんの力も基本的にそれと同じじゃろう。ということは、武蔵君を生み出しすきっかけとなったイメージがあるはずなんじゃ」

「え、そ、それってどういうことですか? 武蔵君はまだ生きてるってことですか?」

「いや、あの幻覚の武蔵君は既に消えたんじゃ。じゃが、わしが言いたいのは、本当の彼はまだどこか生きているということじゃ。それほど遠くないどこかでな……」

 それを聞いた理香は驚き、立ち上がった。

「武蔵君。生きているんですか?」

 しんと静まり返った空間に理香の甲高い声が鋭くこだましていく。

「うむ。まぁ落ち着きなさい。簡単に言えば、武蔵君を生み出すためにモチーフなる人物がいたはずだということじゃ。つまり、理香ちゃん。君の近くに武蔵君のモチーフであるオリジナルの武蔵君が住んでいるということになるんじゃよ。どこか見覚えはないかい? 例えば小学校とか?

 恐らく、彼が名前しか分からなかったのは、理香ちゃんが武蔵君の名前しか知らなかったからじゃろう」

「う~ん。分かんないです。あたし、小学校に全然行っていないんです。あのぅ、不登校だったんで、だから、クラスメイトのこととかあまり知らないんです……」

「そうかね。それは残念じゃな。直ぐ近くにいると思ったんじゃが」

 矢向がそういうと、再び理香はどんよりとした気分になった。

(ああ。あたしがちゃんと学校に行っていれば、思い出せたのかもしれないのにな。あ、でもそれじゃあ、こっちの中学に引っ越さなかったから楓にも会えないのか……)

 不登校、その言葉が小学校時代の嫌な思い出を思い出させたが、同時にある記憶を思い出させた。

 武蔵のモチーフ。不登校。小学校。直ぐ近くにいるかもしれない存在――。

 理香の中で何かが弾けたように、ある事実に辿り着いた。理香の小学校には理香の他にもう一人、不登校の児童がいた。

 その人物はの場合、理香とは事情が違い病弱であったため、学校にほとんど来れなかったのである。

「矢向さん。いる。いえ、いるかもしれない。武蔵、そ、その、オリジナルの。あたし、武蔵君を最初見た時、どっかで見たことがあるような気がするなって思っていたんです」

 興奮する理香をなだめるように矢向が返事をすると、ちょうどそこに、楓が気が付いたということを告げる看護師の女性が現れた。

 二人は直ぐに立ち上がり、一目散に病室へ向かい駆け出した。


          *


 矢向と理香の二人が病室のドアをくぐった時、楓は既に起き上がっており、慌てふためく二人の顔に若干驚いたものの、直ぐに普通の顔に戻り二人を迎え入れた。

「矢向さん、理香! ゴメンナサイ。いろいろ心配かけて……」

 楓がすべてを言う前に、理香が楓に飛びついた。

「楓ぇ。良かった、ホントに良かったよぉ」

 涙交じり声で楓を抱きしめる理香の様子を見ながら矢向が答える。

「いや、そのとおりじゃ。良かったのぅ。いやわしが付いていながら面目ない」

「ううん。そんな、矢向さんも理香も気にしないでよ。良いじゃない。こうして今気が付いて何もなかったんだから……」

 それを聞いた理香が尋ねる。

「楓、今日は入院していくの?」

「あ、うん、今日一日だけ、でも明日の午前中には退院できるよ」

「良かったぁ。じゃあ明日また絶対来るからね。その時は良い話を持ってくるから楽しみにしててね」

「え、良い話って?」

 理香は涙を拭き、笑顔を見せながら言う。

「ふふん。明日までのお楽しみだよ……」

 こうして、理香と矢向は病室を後にした。夜も遅かったため、矢向は車で理香を家まで送って行った。結局、矢向が自宅へ着いたのは、既に日をまたいだ深夜一時であった。

 矢向らが消え、父も兄も消えた後、楓の室内に簡易ベッドが設置され、母と二人で眠ることになった。

 楓の脳内には、別れ際に理香が言っていた良い話の内容がチラついていたが、直ぐに疲れの方が上回り、楓を眠りへと誘った――。


          *


 翌日――。

楓は朝七時には目を覚まし、ゆっくりと体を起き上がらせた。窓から柔らかく木漏れ日が差し込み、冬だというのに春のように感じる位、すっきりとした朝だった。

 楓は無事に退院することができた。体にはほとんど異常はなく、医師は一発で退院OKのサインを出した。

 午後には家に着き、楓は自室のベッドの上で横になっていた。決して具合が悪いとか、眠たいとか、そういうことではなかったが、ただなんとなく横になっていたかった。

 思い出すのは武蔵のことだった。

 武蔵は本当に消えてしまったのだ。

 楓自身の力によって――。

 同時に、限界まで能力を使い果たしたため、彼女の自身に宿っていた異能の力も消え去ってしまっていた。

(はぁ。消えちゃうと、やっぱり寂しいな)

 溜息をつきながら、楓がそんなことを考えていると、突然、机の上に置いてあったケータイ電話が鳴り響いた。

 慌ててディスプレイを見ると、相手が理香であることが分かった。

「もしもし、理香」

「か、楓! もう退院した?」

 理香は酷く慌てている。楓にはその理由が分からなかったが、とにかく冷静を保つように答えた。

「う、うん。さっき家に帰ってきたんだ。もう、大丈夫だよ。心配かけてゴメンね」

「ううん。そんなことないよ。むしろあたしが悪かったんだから。あたしの方こそごめんなさい。そして、ありがとう。あたし楓と友達になれて良かった。楓があの時、抱きしめてくれたのを今でも覚えているの。嬉しかったし、優しかった。ホントに、心の底から助けられた気がする」

 そんなことを言われると、楓は恥ずかしくなり照れながら答えた。

「そんな、言い過ぎだよ。友達が困っていたら助けるって当たり前じゃん。あたしは当たり前のことをしただけだよ」

「困っていたら助ける?」

「うん。あたしたち友達でしょ……」

「当たり前でしょ。あ、そうだ。長沼から電話きた?」

「電話?」

「うん。なんかね、財布元に戻ったんだって。やっぱり私の力が消えちゃったからなのかな?」

「……。そう、多分、能力が消えたから、財布がなくなったっていう幻想も消えたんだと思うよ」

「そっか。楓には色々助けられたね。じゃあ、今度はあたしが楓を助ける番だよ」

「え、どういうこと?」

「昨日、あたしが言ったこと覚えてる?」

 楓は記憶を巡らす。

(理香が昨日言ったこと……?)

 そこであることを思い出した。

 理香は昨日の別れ際、明日楽しみにしていてねと、意味深な言葉を残して去っていたのだ。気にはなっていたが、いくら考えても、その意味が分からなかった。

「覚えてるよ。あれってなんだったの? あたしには未だに分かんないんだけど」

 理香は得意そうに答える。

「ふふん。それじゃ、今日の午後楓の家に行くね。それまで楽しみにしていてよ。ホントにビックリすると思うよ」

 理香の言動に気圧されながら楓は答える。

「わ、分かった。じゃあ楽しみにしてるね」

 その後、二人は当たり障りのないことを話して電話を切った。

 昼食を取り、時刻も一時半を迎えそうになった時、家のベルが鳴った。楓は理香だと思い直ぐにドアを開けた。

 ドアを開けたその先には、予想通り笑顔の理香が立っている。手には遊びに来るには大きな荷物を持っている。

(なんだろう……、あれ?)

 と、楓が考えていると理香が、

「楓、退院おめでとう、退院祝いにお菓子買って来たよ」

「あ、ありがとう」

 二人は楓の部屋に向かい、座り込んだ。しばらくすると、母がお茶やお菓子を持って部屋に現れ、二人はお茶を飲みながら話し合った。

「ねぇ、理香。それで、さっき言っていたことってなんなの? あたしいくら考えても分からなかったんだけど」

 理香はにんまりとしながら、やたらと大きなカバンから、一冊の本を取り出した。箱入りのしっかりとした装丁の書物である。箱の上には『○○小学校 平成二十二年度、卒業記念アルバム』と、書かれている。

「これって、理香の小学校のアルバム?」

「うん。まぁあたしはほとんど学校に行っていなかったからあんまり関係ないんだけど、ママが一応貰ってくれたの。だから、ほとんど見たことないし、クラスメイトのことも良く知らないんだ」

「そ、そうなの。じゃあ、どうしてそんなものをわざわざ……」

「良いから良いから。とにかく中を見てみて、あたしのクラスは二組、まぁ二組までしかないから直ぐに分かると思うけど」

 理香はそう言うと、楓にアルバムを渡した。楓はアルバムを受け取り、パラパラと眺めた。理香の言う二組の場所は直ぐに分かり、集合写真の次のページが個人写真であった。一人一人あどけない顔をして写っている。

 しかし、理香の写真は少しおかしい。どうやら他の人と別の場所で撮影したものを載せたようだ。背景の色が違うし、写真の精度も違う。

 楓はそれを見て、理香のことが不憫になった。だけれど、当の理香はそんなことを一切気にしていないのか、ニコニコしている。

「楓、分かった?」

「分かったって何が?」

「もう、あたし以外に知ってる人、載ってるでしょ?」

「え?」

 そう言われ、楓は慌ててアルバムを見渡した。その人物は直ぐに分かった。なぜなら、理香と同じように別撮りされたものだったからだ。

「え、う、嘘でしょ、な、なんで、なんでこんなことが……」

 そこには小杉 武蔵が写っているではないか。名前も小杉 武蔵となっている。。

「なんで武蔵が? これってどういうこと?」

 理香はにこにこした顔をやめ、急に真剣な顔になり答えた。

「昨日ね、矢向さんに言われたの。武蔵が私の作り出した幻の存在なら、そのモチーフとなったオリジナルの存在がどこかにいるって。それで探したのよ。あたしが知っている範囲なんて高が知れている。だからアルバムを見てみたの。そうしたら武蔵君がいたってわけ」

「理香は武蔵のことを前から知っていたってこと?」

「ううん。あんまり知らない。ただ、一度だけ逢ったことがあるんだ。ほとんど覚えていないけど、彼は校内にある別の教室に良く行っていたみたい」

「別の教室?」

「そう。あたしの小学校には不登校の人や病気がちで、ほとんど学校に行けない人のための特別教室みたいなのがあったんだ。あたしは一度だけそこに行ったことがあって、そこで武蔵君に逢った。良く覚えていないんだけど、彼はずっと入院だったかしていて学校にほとんど来れなかったら、あの特別教室で勉強しているって言ってたような気がするの。入退院ばかりしているっていうのに、なぜか小太りな変わった子だったから、なんとなく覚えていたの」

 楓は考え込んだ。

「要するに、その僅かなイメージが頭の中に残っていて、それが理香でも気が付かないところで幻の武蔵を生み出したってわけね」

「たぶん……」

「そ、そうなんだ……。武蔵、生きてたんだ」

 理香は再び、にんまりとし尋ねる。

「ねぇ、これから逢いに行ってみない?」

「え、えええ~!」

「良いじゃん。行ってみようよ」

「で、でも、そ、そんな、だ、だって向こうはあたしたちのこと知らないわけでしょ? あたしたちが知っているのは、あくまで幻の武蔵なんだから」

「分かんないよ。ほら、霊的なことって、一緒に不思議なことも起きるでしょ。もしかしたら記憶が流れ込んでいるかもしれないし」

「そ、そんな都合の良い話、あるわけないじゃない」

 楓があたふたしていると、ケータイ電話が鳴り響いた。楓が手に取り、相手を確認するとそこには矢向 左千夫の文字が刻まれている。

「もしもし、矢向さん」

「お嬢ちゃん。退院おめでとう。いやぁ、お嬢ちゃんには迷惑をかけたね。わしが付いていながらすまなかったのぅ」

「ううん、矢向さん。そんなこと言わないで。矢向さんがいたからこそ、あたしや理香は今もこうして普通に生活できるんだから」

「そう言ってもらえるのはありがたいことじゃな。わしは幸せ者じゃのぅ」

「それで、矢向さん何か用なの?」

「うむ。事件の依頼があったんじゃ」

「事件?」

「そうじゃ。内容は人探しじゃ、どうかね? お嬢ちゃん一緒に探してくれないかね?」

 楓は理香の方を向いた。理香は口元を押さえ笑顔を零している。それを見て、勘の良い楓はなんとなく言いたいことが分かった。

「矢向さん。その人探しって、もしかして小杉 武蔵って子?」

「おお。流石お嬢ちゃんじゃな。勘が良い。もう立派な名探偵。いや、魔術師と呼べるじゃろう」

 楓は溜息を付きながら答える。

「魔法少女はもう飽きたわよ……。それに、あたし力が無くなっちゃったみたいだし」

「力が無くても、お嬢ちゃんには経験があるじゃろう。どうするかね? 探してくれるかね?」

「仕方ないわね。探してあげるわ。その代り、今度はお年玉頂戴ね」

「ほっほっほっ。今回は手厳しいの。では、午後三時にわしの事務所に集合しようか。それでまず作戦を練ろう」

「分かったわ」

 楓が電話を切ると理香が尋ねる。

「楓? 誰から」

(分かってるくせに……)

と、思いながら答える。

「矢向さん。事件なんだって、人探しのね」

「楓、あたしも付いて行って良いでしょ。今度はちゃんと手伝えると思うわ。だって、一応前に住んでいたところだし」

 時刻はまだ午後二時を回ったばかりだった。今すぐに出ると、三時の待ち合わせよりも、かなり早く矢向の事務所に着くだろう。

 それでも、二人は家を出た。

 本当の武蔵に逢いに。

 そして、まだ見ぬ世界に向かって――。

〈了〉

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